アスカが居なくなった。
シンジは慌てた。
彼女はここの所、食事もロクに取ろうとしなかった。そして、かつての戦友の綾波レイよりも虚無感のある表情と態度…それがシンジを焦らせた。
彼女は以前、心を壊した事がある。
その時シンジは何もせず、ただ彼女が壊れていくのをただ見ていただけだった。
そしてその後、何も分からない彼女に対し、浅ましい行為に走った。
それか彼の中で尾を引いていた。
親友を傷つけた事と、戦友の少女を自分の行為の為の道具にした事…。彼らの世話を必死でするのもそれらの負い目があったからだ。
彼女はあの戦いで、悲惨な傷を負った。
全ては何もせずにただ、うずくまっていただけの自分が起こした結果だ。
彼女は今、彼の元から消えようとしている。
もう、逃げる事は許されない。
「…どこにも行かないでよ…アスカ!!」
シンジは走り出した。
アスカは呆然と浜辺に立ち尽くしていた。
彼女の眼前に広がるのは青い海。そして頭上に広がる空には太陽の光が強く照り輝いていた。
そして、足元には白い砂浜。
彼女が過去に知っていた砂浜よりも白く、太陽の光をそのまま反射しているかのように、目に痛い。
そう、あの戦いの後で自分が横たわっていた砂浜の砂に似ている。
でも、青い海と真夏の太陽、そして青い空は、あの戦いの後で見た暗い夜空と赤い海とは対照的な風景だった。
彼女の右手には白い貝殻が握られていた。
ここまで来る道の途中で拾ったものだ。
その貝殻は、朽ち果てた生き物の残骸のようにカサカサに乾ききっていた。
この海には生き物の気配がない。この砂浜の砂が塩で出来ている為だ。
サードインパクトの起こった第3新東京市の周辺の浜辺は全て白い砂浜、塩で出来ていた。南極ほどではないが、やはり白い砂浜の周りは、弱く、小さな生き物が生きるには適してない。
そして、彼女の右手に握られた貝殻は、そんな白い塩の砂浜になる以前の名残のものだった。
「アスカっ!」
自分の名を呼ぶ声が聞こえる。
アスカはゆっくりと、後ろを振り返った。
そこには肩で息をして、膝に両手を付いているシンジがいた。
アスカはまるでかつての綾波レイを思わせるような、無表情で無感動な顔をしていた。
シンジはそんな彼女の様子に一瞬たじろいだが、被りを振って彼女に話しかけた。
「アスカ、病院抜け出して、こんな所に何しに…。」
「何しにって…何もよ。」
尋ねるシンジに、アスカは表情もなく、そして抑揚もなく、まるで何事も無かったかのような声で答えた。
シンジはそんな彼女から何かに圧されそうな物を感じたが、このままにしておくわけにもいかないと、彼女にそのまま話し続けた。
「じゃあ、もう帰ろうよ?
外はこんなに暑いし、アスカはそんなに体力が…」
「そうね、何も無いわね」
アスカは淡々と答えた。
シンジは一瞬なんなのかわからず、聞き返した。
「え? 何も無いって…。アスカ、何言ってるの?」
「何も無くなってくわ。
私の手から、力も、気力も、何もかも。」
無表情にそう答えるアスカに、ただならぬものを感じたシンジは顔色を変えて怒鳴った。
「何言ってるんだよ!? アスカにはまだ残ってるじゃないか!その命だって、何だって…。」
「もう、いらないの。」
叱咤するように言うシンジに対して、アスカは先ほどと同じように、無表情に、抑揚もなく答えた。
シンジはこの言葉に危機感を感じた。
もういらないって…自分の命?
アスカは…、まさかアスカは…。
「…アスカ…死ぬつもり?」
「…どうでもいいじゃない。そんな事。」
アスカの言葉に驚き、焦るシンジにアスカはやはり、無気力に、無表情に答える。
それを聞いたシンジは憤慨したようにアスカに詰め寄った。
「ダメだよ!!そんなの!! お願いだよ!!そんなこと考えないでよ!!」
シンジのこの言葉を聞いたアスカは、うっすらと微笑みを浮かべた。
シンジはアスカのこの表情に、一瞬安堵感を持ったが、彼女の眼帯のされていない片方の目は、笑ってはおらず、淀んだ水のように濁っていて、シンジを見ずに遠くを見ているような感じである事に気付き、身を強張らせた。
「…そう、優しいのね。 そうして、私を壊す。」
「えっ?」
シンジは一瞬何のことだか分からなくなった。
壊すって…何を?
シンジが困惑しているのも構わずに、アスカは淡々と続けた。
「ヒカリ、綺麗だったわね。」
「えっ…?」
「私と大違い。」
嫉妬…?
シンジは一瞬そう思った。
アスカは体中に傷を負った事にトラウマを持っていて、今日、かつての凡庸さとはうって変わって、女性らしく、そして煌びやかになってやって来たヒカリに嫉妬していると。
そんなアスカにシンジは叱咤するように強い語調で言った。
「何言ってるんだよ?! アスカは怪我をしたんだから仕方ないじゃないか!?」
そんなシンジにアスカはまるで動じず、淡々とした口調もまったく変えずに言った。
「そう、怪我したから仕方ないわね。 どうしようもない事だもんね。」
そしてアスカの淀んだ目に一瞬だけだが光が宿った。
その目は夢見心地に、遥か遠くを見るようにして、そして言った。
「シンジから服貰った時、嬉しかった…。」
そう言ったアスカの顔は穏やかな笑みを浮かべている。
しかし、その笑みもすぐに消えて苦痛に歪む顔に変ってゆく。
「でも、悲しかった。どうしようもなく悲しかった。」
そう言ってアスカは再び表情を変えた。
口の端が歪んだ、薄ら笑いを浮かべたような、とてもいやらしい顔。
シンジは彼女のその表情にゾッとした。
そんなシンジの様子を悟ったのか分からないが、アスカは歪んだ笑みを浮かべながら先ほどから続いている抑揚のない言い方とはうって変った、何か厭みを含んだような、そんな感じで言った。
「知ってる? アンタの優しさは、私を壊すの。
籠の鳥を可愛がるみたいに、アンタは私に優しくしてくれる。
でも、もう、我慢できない…」
アスカの薄ら笑いが、怒りと憤りの宿った表情に変った。
表情の変ったアスカの顔に、シンジの体がビクっと震えた。
アスカのした表情は、かつてサードインパクトの最中、夢とも幻とも思えないような光景…。その中で助けを求めるシンジに詰め寄り、煽り、そして拒絶したその時の顔だった。
あの時僕は…
シンジは拒絶するアスカに、言いようのない憤りを感じ、そして首を絞めた。
アスカはそんなシンジの様子を見逃さず、あの戦いで残った右側の目を細めて言った。
「もう我慢できない…アンタのわざとらしい優しさが…
いつかアンタ自身の為に、私を切り捨てるかもしれないのを…」
アスカはここで言葉を詰まらせた。
彼女の脳裏に、量産機に勾引されて、天高く昇って行く初号機の姿が浮かんだ。
あの瞬間、アスカが痛みに喘ぎながら、残された片方の目で見たその初号機の背には、大空一杯に広がる"羽根"があった。
彼女は何かを掴もうとした。しかし、伸ばしたその手は既に裂かれ、何も掴めない。
そして、彼は羽根を広げ、大空に飛び立った。
「…だから、何もしないで、もう側に来ないで。 アンタ私を傷つけるだけだもの。」
嫌悪感の篭った、静かで、それでいてひどく疲れたような様子でアスカは言った。
この言葉は、シンジには何故だか聞き覚えがあった。
ただ、曖昧にしか覚えていない事だったので、そんな事よりも、目の前のアスカをどうにかしなければいないという焦りに、やや慌てるような感じで言った。
「違うよ!!わざとらしくなんて、そんなつもりじゃあ…!!
それに僕はアスカを傷つけるつもりなんて…!!」
シンジのこの言葉にアスカの憤りの宿った表情が緩み、ひどく疲れた、失望にも似た表情に変ってゆく。それは悲しみに満ち満ちた表情にも見えた。
そしてそれらは悲痛な叫びのように、アスカの口から洩れ出た。
「じゃあ私に触れられる? この目に、この傷跡に、…私の心に?」
シンジは黙り込んだ。
アスカのこの言葉にどう答えていいのか分からなかったのだ。
そんなシンジの様子を見ていたアスカから、表情がなくなり、とても冷め切った顔つきになった。
そして、アスカは静かに一言、言った。
「…私のこと、好き?」
「え?」
「…好き?」
「…す…好きだよ…」
尋ね返すアスカにシンジはどもりながら答えた。
それを聞いたアスカは、穏やかな笑顔を湛えながら言った。
「…うそばっかり。」
アスカはその場から駆け出した。
アスカの向かっている先は海。空の色を映した海。
シンジは咄嗟の事で一瞬何が何だか分からなかった。
ただ、アスカが何かに駆られるように、自分の目の前に広がる海に向かって駆け出しているのは分かった。
シンジは一瞬出遅れてアスカの後を追った。
アスカがずぶずぶと海の中に入っていこうとする。
シンジはアスカに追いつき、彼女の腕を掴んだ。
アスカは叫び声のようなものを上げながら、右手に持った貝殻をシンジに切りつけ、自分自身にも切りつけた。
海面に二人の血が滲む。
ほんの少しの間、二人はもみ合ったが、長い間の入院生活の為にひどく弱っていたアスカは、そのまま力尽き、シンジにもたれるように、気を失った。
「アスカ。ほら、見て。来る途中に咲いてたんだ。」
シンジはかなり前に自分が持ち込んだ花瓶に持ってきた花を生けた。
「捻花っていうんだって。
この辺りってサードインパクトの後は、土に塩分が多くて花とか咲きにくくなったって聞いてたけど、
咲いてたんだ。すごいよね。」
そう言って、シンジはベッドのすぐ側のテーブルの上に花瓶を置いた。
「だからさ、アスカも元気になって。」
シンジはベッドの上に横たわっている少女に話しかける。
「元気になったらさ、一緒に何処かに出かけようよ。
アスカの好きな場所に連れてってあげるからさ。」
ベッドの上に横たわっている少女はただ呆然と天井を眺めている。
その目は濁っていて、何も映っていない。
「…ねぇ、アスカ…。」
シンジは少女の頬に触れた。
一瞬、少女の目に光が宿ったように見えた。しかし、濁った目はシンジの姿を見るわけでなく、ひたすらじっと宙を見ている。
「アスカ…好きだよ?本当に好きなんだ。
…だから返事して…。」
何も答えない。
「アスカ…、お願いだよ、返事してよ…。」
無言。
「ねぇ、アスカ…
アスカ…アスカ…アスカ、アスカ、アスカ、アスカぁぁっ!!!!」
シンジはそのままベッドの上に横たわる少女の上に俯して、泣いた。
END