外は午後の強い日が照り返していた。
シンジは、病室から居なくなったアスカを、まず院内の彼女の居そうな場所を探した。
しかし、彼女の姿は院内にはなかった。
ふと思い立って病院の入り口の受付でクォーターの少女を見なかったかと聞いた。
受付嬢は間の抜けたような顔をして見てないと返して来た。
シンジは一瞬、ヒカリや院内の人に事の次第を説明して探すのを手伝ってもらおうと思った。
しかし、アスカがヒカリが来ても、再会を喜んでいるように見えず…むしろ、逆に嫌厭すらしていたように見えたのを思い出し、思いとどまった。
なにより最近、シンジすら避けるようになっている。
アスカはシンジに、はっきり"嫌われた"と取れるような事を言ったり、したりはしなかった。
ただ、シンジに対して遠慮勝ちになって、彼が何かをしようとする度に、理由を付けて断っていた。
そんな彼女に、シンジは言い様のない寂しさを感じた。
シンジはかつての戦いで、使徒から精神汚染を受けながらも、決して引く事をしなかったアスカを思い出した。
あの頃のアスカは、失速してもなお走り続けようとしていた。
そして、シンジに対して、はっきりと、嫌悪と怨憎の篭った表情と態度で接していた。
それが今は、怒りも憎しみも、感情すら篭っていない表情をしている。
シンジはアスカの食事の手伝いをしていて、彼の前ではその手を借りようとせずに、後に一人になってから自分で必死になって食べようとする姿を何度も見た。
しかし、彼女は自分で上手く食べられないと分かると、そのままうなだれて、その後はそれ以上あがくことを止めてしまっていた。
シンジはそれを見る度に彼女が虚脱して、何もかも諦めてしまっている事を思い知った。
緩やかに、力尽きて、消えて行こうとする彼女。
シンジはどうしようもない焦りを感じた。
「…どこにも行かないでよ…アスカ!!」
そうしてシンジ走り出した。
アスカは夏の陽光の照り返す砂浜に来ていた。
目の前には夏の空の色を映した海が広がり、波が緩やかに浜辺に打ち寄せていた。
アスカはしばらくそれを呆然と見ていたが、ふと見た自分の足もとの白い砂を見て、急にシンジの事を思い出し、その場を逃げるように走り出した。
白い砂…あの日と同じ…イヤ…。あの日と同じ…!
しかし、短い距離だったのにも関わらずアスカは、激しい動悸とめまいに襲われ、急に力尽きるようにその場に膝をついて、へたりこんだ。
長い入院生活と、ほとんど動かずに、食事も食べたり食べなかったりしたツケは、彼女を突き動かし続ける力を奪っていた。
「…ふ…ふふふ…。あはは…はは…。」
アスカはその場に手をついて渇いた笑い声を上げた。
彼女がうなだれ、膝をついた砂の上に、雫が落ちて沁み、吸い込まれる。
アスカはそれに気が付き、自分の眼帯のされていない右の目に触れた。
「泣いてる…私、泣いてる…。」
「アスカっ!」
突然、自分の前でする声に気が付いて、アスカは顔を上げた。
彼女が顔を上げた先には、シンジが肩で息をしながら、立っていた。
アスカは一瞬誰が声をかけて、何がどうなったのか分からずに、シンジの姿を見ていたが、それが誰かと分かると、急に立ち上がり、その場から走り去ろうとした。
アスカのそんな様子に気が付いたシンジは、咄嗟にアスカの側にまで来て、砂の上に膝をついて、アスカの両肩を掴んだ。
肩を掴まれたアスカは、自分の髪で顔を隠すように俯いた。
そんなアスカの様子にシンジは絞り出すような声を出して言った。
「どこに行くつもりだったんだよ…!こんな…」
「もうやめて!」
アスカが俯いたまま、大声を出して叫んだ。
「何もしないで!!側に来ないで!!アンタ、私を傷つけるのよ!!」
自分の顔を見せずに叫ぶアスカに、シンジは静かに言った。
「…判ってるよ、僕がアスカを傷つけたのは…」
「判ってないわよ!バカッ!!」
アスカが顔を上げ、シンジに叫んだ。
シンジは自分の間近にあるアスカの顔の…その、表情に一瞬たじろいだ。
…あの時と同じ顔だ…
シンジがサードインパクトの中で見た、あの顔。
シンジをなじり、拒絶した顔。
あれが本当にアスカだったのか判らない。もしかしたら自分が"そう、思っていたアスカ"だったかもしれない。
周囲の人間に、何の救いの手も差し向けてもらえず、ただひたすらアスカに縋るシンジに対して、彼女が怒りを込めた目をしていた。
それに対してシンジは、自分を抑えきれず、暴れた。
そして、暴れながらアスカに助けを求めた。
しかし、そんな彼にアスカは軽蔑の目を向けながら冷ややかに拒絶の言葉を吐いた。
「…イヤ。」
その時シンジは、持て余した心とその手で、彼女の首を絞めた。
ほんの少しの間、二人の間に沈黙が流れた。
しかし、アスカはこの沈黙を破るように自分を掴んでいるシンジの手をそっと振りほどくと、ゆっくりと立ち上がり、少し後ずさるようにシンジから離れた。
アスカは自分の左目の眼帯に手を当てた。
そして、彼女はその眼帯を取り去り、自分の右腕に巻かれた包帯の結び目を軽く引っ張った。
巻かれた右腕の包帯は、微かな衣擦れのような音を立てながら滑るように垂れ下がった彼女の右腕から抜け落ちた。
「見て。これが"アタシ"なの。」
垂れ下がっていた右腕を真横に向けて見せた。
そこには手の甲から肩口まで一直線に続いた肉の盛り上がっている酷い傷跡と、変色して、濁った赤い色をした瞳があった。
「"ヒト"を殺した手…。
何かを掴もうとして何も掴めなかった手…。
今は何かをしようとしてもロクに出来ない手…。」
シンジはそんなアスカの姿を目をそらさずに見つめ続けた。
自分の姿を見ても目を剃らさないシンジに対して、アスカはそのまま言葉を続けた。
「この顔、見ていられる?
私はあの後、初めて鏡を見た時に、見ていられなかった。
この手も、自分で触れられなかった…!」
ここでアスカは言葉を切った。そしてシンジの目を右の目でじっと見て言った。
「…自分でも触れられないモノなのに、他人のアンタじゃ、触れられないでしょ?
お願いだから、もう、優しくしないで。私、同情や哀れみはいらないの。」
アスカはそう言うと、強張った表情を一気に崩して、哀しげに言った。
「…これ以上、私を惨じめにさせないで。」
シンジは、これを聞いた途端に立ち上がった。
突然立ち上がったシンジに、アスカは一瞬あっけに捕われたが、シンジは構わず彼女を掴むと、そのままそっと抱きしめ、そのまま後ろに回した右腕を腰の辺りに回して、ゆっくりと半ば抱き上げるような感じで、そのまま砂浜の上にアスカを横たえさせた。
非常にゆっくりとした動作だったが、あっけに捕われていたアスカには一瞬何をされているのか解らず、シンジがアスカの右腕を撫でながら、顔の左側に口付けをされて、自分が悲鳴のような艶声を上げたことで、ようやく気が付いた。
「…アンタ…! 何すんのよ…! 」
一応の抗議の声を出すアスカに、シンジが苦しそうな表情をして言った。
「…もうイヤなんだ。」
アスカはシンジが何を言いたいのか、よく解らなかった。
そんなアスカに、シンジは、辛そうな顔をして言った。
「……恐いんだよ…アスカを失うのが…!
アスカがあいつらにやられた時の事を、僕は忘れられない…!
あんな思い、もうしたくない…!!」
そう言うと、シンジはアスカの首筋に顔を埋めた。
アスカの口から喘ぐような声がもれ出す。
シンジはその声に構わずに、アスカの上着を捲し上げた。
曝されたアスカの白い腹部。
そこには腕や左目よりも酷い傷跡があった。
アスカが弐号機で量産機に食い荒らされた部分。
シンジはアスカのその腹部に唇を押し当てた。
アスカは触れられた瞬間、量産機に腑を食い散らかされた事を思い出した。
「あっ…うっ…!や…やめて…!」
「いやだ…。アスカが生きてココにいるのを、確かめたいんだ…。」
そう言ってシンジはそのまま構わずアスカの腹部に唇を這わせた。
「私、ヒカリより奇麗じゃない…!」
唇を這わせるシンジに、アスカが呻くように本音を漏らした。
シンジはこの言葉に、優しい笑顔を向けながら言った。
「…アスカの方が奇麗だよ…」
その一言で強張っていたアスカの体の力が一気に抜けた。
シンジはそんな彼女の傷跡に優しく唇を這わせ続けた。触れられる度にアスカの体に、甘い感覚が背筋を伝って体中を痺れさせた。
しばらくシンジはアスカの体に唇を這わせていたが、急に触れるのを止めて顔を上げた。
アスカは急に止められたので、不満の声を上げたくなったが、なんとか思いとどまって、シンジの顔を怪訝そうに見た。
「ごめん、アスカ。背中大丈夫?」
突然のシンジのこの言葉で、アスカはあっけにとらわれた。
「は?背中??」
「うん。やけどしてない?砂浜、すごく熱いから…。」
これを聞いたアスカは、これでもかというほど目を見開いて、大声を張り上げて怒鳴った。
「あ…アンタバカァ!?アンタが押し倒したんでしょうがっ!!」
「うん…。だから、すごく悪いんじゃないかなって思って…。」
真摯に謝るシンジに、アスカは激しい脱力感を感じた。
「も、もういい…。」
「そう。じゃあ、そろそろ行こうか?」
無性に虚しくなったアスカは、既に立ち上がっていたシンジに左腕を引っ張られて立ち上がらせられた。
そして、そのままヨロヨロとシンジに引っ張られるがままに歩き出した。
ああ…コイツはバカだったんだ…。忘れてた…。
アスカはシンジに引っ張られながら、すっかり盛り下がった気分に浸りつつ、そう思った。
そして砂浜を病院に向かってシンジに引っ張られながらトボトボと歩いていると、急にシンジが立ち止まって言った。
「アスカ…。」
「な…何よ?」
再び怪訝そうな顔をしたアスカに、シンジは穏やかな笑顔をして言った。
「明日、退院したら、僕の部屋に一緒に帰ろう? 」
「え? 」
アスカが何の事なのか聞き返そうとした瞬間、シンジはアスカを背負い上げた。
「わっ!?えっ?!えっ?!」
「あはは。アスカ、隙だらけだね。」
「な…なんなのよ?!アンタは?!」
抗議しつつ、アスカはシンジの背中に背負われた。
シンジはちゃんとアスカが負ぶさったのが分かると、そのまま彼女を背負って早足で歩き始めた。
「アスカ軽いね。帰ったらいっぱい食べさせてあげるよ。」
「私を太らす気?!」
「いいじゃないか。だって生きてるんだから。」
アスカはこの一言に一瞬、言葉がつまった。
そんなアスカにシンジは穏やかな口調で言った。
「幸せになるチャンスはどこにでもあるよ…。」
シンジの言葉にアスカはそのまま押し黙った。
シンジも彼女を背負ったまま、砂浜をしっかりとした足取りで歩く。
アスカはしばらくシンジの背中で揺られていたが、シンジの背に顔を埋めながら言った。
「…ごめん。ありがとう。」
そう言ったアスカは、それで自分の心が満たされていくのを感じた。
傾きかけた日の光の下で、この日、この瞬間、欠けた彼女の心に、何か大切なものが芽生え始めた。
…幸せがどこにあるのかわからないわ…。でも、あなたと一緒に居れば…。
END