正午の明るい日差しが部屋の中を暖かく照らす。
白い部屋の中に、和やかな時が流れる。

ベッドの上からぼんやりと外を眺める。
時計の音と、遠くの場所から何かを解体したり修理したりする音が、規則正しく響いている。
ある意味、とても心の和む音だ。嵐の過ぎ去った後にやってくる平穏なひと時のように。

少女の傍らで、椅子に坐りながらベッドにうつ伏せて眠っている少年が居る。

…しつこい。コイツ、まだ居る。

もう何日目だろう?口も聞かなければ、見向きもしない。ひたすら無視してやっている。
なのに、ずっとこの病室に通い詰めている。どれだけここへ来ようと、無駄だというのに。
いい加減、諦めをつければいいものを、そんな兆しは見せない。
贖罪のつもりなのか、頼んでも無い世話を一生懸命する。見苦しいほどだ。

彼は目が合うと優しく微笑み、顔を合わせていないと真摯な表情をする。
何故、こんなに真面目にここへ通うのか、何故、こんなに真剣に面倒を見ようとするのか、判らない。

少年は少女の横になっている傍らで、安らかそうに眠っている。
何故、こんな顔をして眠っていられるのだろう?
自分は少年が手を差し伸べる度に、嫌な顔をして見せるのに。
でも、彼は一瞬困った顔をするだけで、手を引こうとしない。
何でそんなに構うのだろう?

側に居られるのは不快だ。
もう、こいつに期待もして無いし、未練も無い。

ただ、気持ち悪い。側に居られるのは、気持ちが悪い。

ArcheType -Der Plan ist Tod-
"Think Blue, Count Two"

 アスカはベッドの上からぼんやりと窓の外を見ていた。
 後ろの方で人の居る気配がした。

 今日もまた来てる…。

 アスカが入院してから一ヶ月経った。シンジは毎日のように彼女の元に通い詰めていた。
 そんな彼をアスカは無視していた。何かを話しかけてきても一切返答せず、反応すらしない。視野などにはまったく入れず、完全に居ないものと決め込んでいた。
 それでもシンジは懲りずにやってくる。いい加減、見切りをつけて早々に見捨ててしまえばいいものを、まったくそんな様子を見せない。彼の世話などは一切受けない。ただひたすら黙って無視する。それを入院してからずっと続けているのに、相変わらずやってくる彼に、アスカは吐き気すら催していた。

 シンジとアスカはサード・インパクト直後にネルフ本部付近に新たに出来た浜辺から発見された。
 芦ノ湖とネルフ本部のあった場所は海まで続く入り江のような地形に変わり、その沿岸に新たに形成された浜辺の砂は、実に三分の一近くが塩で出来ていた。残りの三分の二の砂も、余計な汚れが洗い落とされたように白く晒され、サード・インパクト直後は真っ白い砂浜と赤い海とでシュールレアリスムのような光景をあらわしていた。

 そこに、少年と少女がたたずんでいた。
少年は哀切を湛えた目で、少女は憎悪を剥き出しにした目で、互いを見ていた。

 他の者達は、何事も無かったかのようにそれぞれ元居た場所に舞い戻っていた。サード・インパクトの起こった日中から夜半にかけての空白。何が起きたのか、ほとんどの人々が気付かない間に全てが終わっていた。

 二人が発見された時、シンジの方は何処にも異常は無かったのだが、アスカの方は見た目が酷い有様だった。左目は矯正視力がほとんど出ないような弱視になり、目の周りにはみみず腫れのような筋が走っていた。右手には裂傷のような傷。腹部を中心に、全身にわたって内出血の跡、ケロイド状の瘢痕が血管のように浮き出て広がっていた。いずれも外傷によるものではなく、不可解極まりない傷だった。
 医師達は彼女を精密検査にかけて、肉体的に色々調べたりしたが、内出血と瘢痕(はんこん)のようなものというだけで、それが何故出来たのか、まったく不明のままだった。どちらにしろ、エヴァのフィード・バック機構などが彼ら一般の医者達に判るはずもない。ネルフ所属の医師達も時々診察に来るが、アスカの治療の為というよりも、データの収集の為、という感じだった。つまり今だ、研究機関としての因習が続いているようだった。
 結局、彼女の傷は現在の医学では重傷というわけでもなかったのだが、時々痛みを感じるのか、アスカは顔を顰める事があった。右腕は、神経の一部が切断されたかのように動きがぎこちない。
 入院したばかりの当初は大人しくしていたアスカだが、傷の痛みや思うように動かない右腕や見えない左目など、不自由が重なった為か、かなりの苛立ちを募らせるようになっていた。それを紛らわそうとしたのか、点滴の管を引き抜いて薬液を病室に据え付けられた便器の中に流し込んでしまったり、与えられた薬をごみ箱の中に放り込んだりなどして、看護師達を困らせていた。

「アスカ、これ好きだったでしょ?買って来たんだ」

 そういってシンジは彼女の好きだった店のケーキなどを差し出す。
 ケーキなど最近では珍しくなっていた。こういったものは売ってはいても数が作れない。物流が悪いので材料そのものがすぐに無くなるのだ。しかし、そういったものを持ってきたシンジに対して、アスカは眉一つ動かさない。シンジは買ってきたケーキを据え付けの小さな冷蔵庫の中に入れたが、アスカはまるで無関心だった。
 シンジはそれから暫く、病室に置かれたパイプ椅子に坐って、鞄の中から文庫本を取り出して読み始めたが、それに目をくれるわけでもなく、アスカは彼とは逆方向に向いたまま、黙ってじっとしていた。

 正午、配給の者がトレーに乗った昼食を届けに来た。シンジはそれを受け取ってベッドのテーブルの上に乗せようとしたが、アスカはそれを押しのけて奪い取り、自分でテーブルの上に乗せた。彼女はスプーンを左手に握ると餓鬼のようにガツガツと食べ始める。
 そんな彼女の様子をシンジはただ黙って見ていた。アスカは彼を直視してないが、彼女を見るシンジの目が、微かに笑っているのを感じた。それが、酷く彼女を苛立たせていたが、表情には決して出さないよう、アスカは必死になって堪えた。
 シンジが帰った後、アスカは彼が買ってきたケーキを冷蔵庫から取り出すと、それを据え付けの便器の中に放り込んで水と一緒に流した。
 シンジはそんな事を知ってか知らずか、花やお菓子、何かの置物など、手土産の一つや二つ持って、彼女の元にやって来る。しかし、彼が持ってくるもの全てに対してアスカは一切の興味を示さず、本人が帰っていってしまった後には必ずそれらをゴミ箱に放り込んだり、叩き壊したりしていた。

「なんて酷い事…」

 甲斐甲斐しく見舞いにやってくる少年に対する、少女の度の過ぎた仕打ちに、遠目で見ていた看護師達は口々にそう言い、顔をしかめた。
 一度、シンジの居ない間に責任感の強い看護師の一人がアスカに対してやんわりと諌める言葉を発したが、アスカは眼帯のなされていない目で不快なものでも見るような眼差しを返しただけだった。看護師は彼女の形相に負けじと何かを言おうとしたが、アスカはそんな暇も与えずに看護師に対し、病室から出て行くようにと言った。少女の身体に残る不可解な傷跡を見れば尋常ならない事があったのは確かだが、それ以前にシンジとアスカの身分と立場を考えるとこれ以上何か口出し出来る立場でもなかった。
 看護師はそれ以上何も言う事なく、大人しく引き下がった。

 それ以降もアスカの仕打ちは止まなかった。
 彼女の行動は、それまで受けた自分の苦渋を、シンジに辛く当たる事によって拭い去ろうとしているようだった。病室のベッドの上で汚らしいものを吐き散らしたシンジは、アスカにとって自分の中に鬱積したものを発散するのにはおあつらえむきだと考えていた。汚された側、被害に遭った側、より苦痛を味わった側。なら、自分は彼に多くの苦痛に遭わせても構わないと、そう思っていた。
 それに対し、シンジはまったく動じなかった。
 "無視"される辛さは、アスカ自身よく知っていたし、シンジだってそうだろうと確信していた。一緒に暮らしていた時の彼の行動は、人に取りすがって必死に自分の存在を認めてもらおうとしているものにしか見えなかった。ならば、自分の行っている事を全て無に帰するアスカの行動に、いずれ堪え切れなくなるはず。シンジの存在を認めない。これなら、シンジがそろそろ逃げ出してもおかしくない。そのはずなのに…。

 何で、アンタはまだそこに居るのよ!

 ひたすら側にいる彼が自分の事を哀れんでいるようで苛立った。彼女は払拭しようと必死になったが、苛立ちは積もり積もっていく。シンジを苦しめようとするのが余計にそうさせた。まるでどうにもならない気持ちだけが彼女の中にどんどん膨れ上がり、弾けるのを待っているようだった。
 結局、シンジを潰そうとする事で自分を癒しているつもりが、自分自身を潰していた。そんな事にも気付かず、彼女はシンジを無視し、彼の持ってくるもの全てを打ち壊す、そんな日々を続けた。

 そして、その日はやってきた。
 シンジが紙袋一杯のリンゴを持ってきた時の事だ。最近あちらこちらで物不足になってきていて、これだけのものを沢山手に入れる機会は滅多になくなっていた。シンジは持ってきたリンゴをアスカにその場で食べさせてやろうと、皮を剥き始めた。

「はい。剥いたよ」

 彼は持ってきた紙製の皿に乗せて、皮を剥いたリンゴをアスカに差し出した。入院してからシンジが直接、自分の持ってきたものを彼女に差し出したのは初めてだった。その時、アスカは彼の顔をまともに見てしまった。正面切って顔を見るのは実に一ヶ月半ぶり。あの赤い海以来だ。
 優しく穏やかな微笑みを浮かべたシンジの顔。それを見た瞬間、何かが込み上げてきた。
 アスカは頭を振って自分の中に沸き起こったものを振り払おうとしたが、消えない。
 シンジは様子の変わったアスカに一瞬戸惑ったが、すぐに心配げな顔をして手を差し伸べた。
 シンジの手が頬に触れた時、アスカの中で何かが弾けた。

「…あんたっ!」

 アスカは血相を変え、シンジの手を払いのけた。
 彼は少し驚いた顔をしたが、すぐに落ち着きを払って真剣な面持ちになる。
 そんな彼の様子に、自分の中で弾けたものが衝動的にアスカの口から飛び出した。

「何なのよ? その顔? そのすました顔は何?! それに、何で私の所に来るのよ?!」

 一気に噴出したアスカの叫び。
 それでもシンジは動じず、黙ったままでいる。それが、アスカをよりたきつけた。

「こんだけ無視してやってるのに、あんたは何でも無かったように私の所に来て!!
慰めのつもり? 贖罪のつもり? それとも、哀れみでもかけてるつもり?!」

 アスカは残された目に怒りを宿してシンジを睨みつける。
 それでも彼は眉一つ動かさないで黙って聞いている。

「あんた、何にもしないで、のうのうと生き残って!能天気もいい所ね!
それで今は暇つぶしに私のお守り? 笑わせんじゃないわよ! そんなんで…」

 怒りに燃えていた片目を細めた。

「あんたが私にした事、許されると思ってんの?」

 シンジがアスカの言葉に、眉をひそめた。自分が前にしでかした事を、思い出したようだ。
 まったく動揺の色一つ見せなかった彼の態度が僅かながらにも変わったのを、アスカは見逃さなかった。それを突破口にするかのように、アスカは今まで溜まっていた鬱屈としたものを吐き出す。

「…あんた、寝ている私の裸見て興奮してたもんね。無抵抗な奴相手に自分でしか出来ないなんて、最っ低…」

 アスカは蔑んであざ笑うようかのような口調で言った。
 人を見下したような言葉。エヴァのパイロットとして自信のあった頃には散々色々な人達に言ってきたが、今では言って気持ちの良い言葉ではなかった。それでも、つい口に出てしまった。
 シンジは自分がした事を指摘されたせいか、硬い表情になり、目を伏せて少し俯き加減になった。しかし、すぐに顔を上げて自分をあざけるような弱々しい微笑みを浮かべながら言った。

「…うん。何もしなかったし、何もしようとしなかった。最低だよ‥‥僕は」

 シンジの自嘲的な言葉に、一瞬アスカは胸の詰まるような思いをした。吐きたい事を吐いたはずなのに、どうしようもなく悔いる気持ちが沸いて出る。それは今のアスカにとっては認めたくない事だった。どうしてこんな思いをしなければいけないのか、アスカはやり場の無い怒りに駆られる。

 こんな思いをするのも、周りにいる皆が、シンジが…!

 その時、剥いたリンゴの皮と一緒にテーブルに置かれたナイフがアスカの目に入った。
 衝動的にベッドから身を乗り出し、包帯の巻かれた右手でそのナイフを持つと、シンジの左目に向かって突き付けた。
 突然の事でシンジは呆気に捕われたが、すぐに真っ直ぐな視線でアスカを見る。

「あんたがっ、あんたがそこに居るから悪いのよっ! みんな、みんなあんたが…!」

 アスカはシンジの左目に、ナイフを突き立てようとした。
 シンジはアスカを真っ直ぐ見つめたまま、じっとしている。
 ナイフを持った右手が振るえて熱を帯び、裂かれるような痛さを訴える。
 彼女の右目に映る、シンジの姿が水面に映るもののように揺らぐ。

「アスカ…」

 優しく哀しげなシンジの声に、アスカの手の動きが止まる。
 同時に、アスカの中で張り詰め、昂ぶりきっていた感情の糸が、解れて失われていく。
 アスカはうな垂れ、右手を力無く降ろす。右手の掌から、滑るようにナイフが床に落ちた。
 彼らは暫くの間そのまま黙り込んでじっとしていたが、アスカが顔をうつむかせたまま小さな声を上げた。

「…出てって」

「…アスカ?」

「出てって! 二度と来るなっ!! あんたの顔なんか見たくない!!」

 半ば悲鳴のような声を上げてアスカが叫んだ。
 シンジは黙って立ち上がり、床に落ちているナイフを拾ってテーブルの上に置かれたナフキンに包むと、自分の鞄の中へ入れた。病室のドアの方へ向かって歩き出そうとした時、俯くアスカを少し寂しげな視線で見た。そして、シンジは一呼吸してから、病室を出て行った。

 シンジが病室から出て行った後、アスカはベッドに身を投げるようにうつ伏せた。
 体が震える。目が熱い。呼吸が乱れ、行き場の無い感情が胸の奥でひしめいて彼女の心をかき乱そうとする。
 落ち着く為に大きく息を吸おうとしたが、突然起こった嗚咽に、それが阻まれた。
 苦しいのを何とか抑えて息をしようとした途端、何かの留め金が外れたかのように、涙がボロボロと零れた。

「‥‥っひぐっ!‥うっ、うっ、‥ううう‥‥」

 枕に顔を埋めて、声を上げないよう堪えながら、むせび泣く。
 自分の中に込み上げてくるものが何なのか判らず、ただアスカは泣いていた。

 それからシンジはアスカの病室に来なくなった。

 真白いベッドの上に横たわったまま、アスカは窓際を呆然と眺めていた。
 今日は天気が悪い。分厚い雲が空を覆い、日の光を幾分か遮ってしまっている。そのせいか、今だ夏の日は続いているのにとても寒い。アスカは体を丸め、被っていた布団を懐にたぐり寄せた。
 別にシンジを待っていたわけではないが、何か物足り無い。やたらと胸の中に隙き間風でも吹いているみたいに、何もかも空っぽになってしまったような気分だった。いつかみたいに、堪えきれない精神的苦痛から逃れる為に心を無にして何処か遠くへ行ってしまいたいとか、このまま何もせずにずっと眠っていたいとか、そういう事は不思議と考えられなかったが、何かが、本当に何かが足らなかった。

 顔でも洗えば、すっきりした気分になって気が晴れるんじゃないかと、アスカは起き上がってベッドの下に置いてある室内履き用のサンダルを取り出して履いた。そして、据え付けの棚からタオルを取り出すと、病室のドアを開け、斜め向かいにある入院患者達が使う洗い場の方へと向かった。

 洗い場の洗面の前で左目に掛けられた眼帯を取り外す。正直、この眼帯に意味は無かった。左目は傷になっているというわけでもなく、ただほとんど見えていないというだけだ。
 アスカは蛇口をひねり、勢いよく出る水を掬って顔をざぶざぶと洗った。タオルを手に取って拭いた時、ふと、目の前に取り付けてある鏡に自分の顔が映っているのに気が付いた。鏡など、ここ最近まともに見たことの無かったアスカは、そこに映る自分の姿を思わず凝視した。
 目の下は少しだけしか落ち窪んでないが、目の下に隈を作るには十分だった。顔色は悪く、頬はややこけていて、顎の下はエラが張ったように削げている。しかし、アスカの目をもっとも引いたのは、左目の周りに広がっているみみず腫れに似た傷跡のようなものだ。
 自分の顔の左側を上から下へ、ゆっくりと撫で擦る。
 この顔、少しばかり自信があった頃とまるで違う。餓鬼か何かのような、薄汚く醜い顔…。
 そして、この鏡に映っている自分の姿は"他者から見た自分の姿"だ。

 こんな顔を他の連中に、シンジに晒していたなんで!

 気持ちが乱れる。無性にみじめったらしい気分に陥る。
 でも、本当はどんな顔をしていたのか判っていた。ただ、怖くて見ようとしなかった。
 見ないでいたから、シンジに対しても強気でいられた。

 アスカははっとなり、何かに気が付いた。突然、自分の病衣のボタンを弾き飛ばすように乱暴に胸元を広げ、改めて鏡を見た。胸元に広がる血管の浮き出たような傷跡のようなもの。何度か検査や着替えの度に見下ろしたりしたことがあるし、この傷跡のようなものは、身体中そこかしこにあるのは知っている。でも、鏡に映して見たのは初めてだ。

「くっ…!」

 アスカは思わず鏡に向かって包帯の巻かれた右腕を振り上げた。
 その時、鏡に映った自分の顔がより醜悪になったのに気が付いた。
 振り上げた右腕を降ろし、その場にずるずると崩れ落ちる。

「…最低…」

 自分自身に対する言葉だったかもしれない。
 アスカはその場にうずくまり、膝に顔を埋めた。

 嫌な雨…。

 分厚い雲が垂れ込めていると思っていたら、日も傾き始めた頃になって雨が降り出した。
 湿り気を帯びた生温い風と共に、コンクリートやアスファルトから雨の時特有のかび臭いような匂いが立ち込める。
 窓際の机の椅子に腰を掛けていた女は、けだるそうに窓から外の様子を眺める。窓際に居さえすれば暖かい日の光で胸元にある傷跡の痛みが和らぐと思っていたのにこの雨。湿気が辺りの熱を奪って寒くさせている為なのか、傷が鈍く痛んだ。実際には銃創の痕しか残っていないのに、酷く痛む。何より傷跡が右胸の方にあるせいか、報告書の筆が進まない。何よりこの傷の痛みは、嫌な事を思い出させる。女は握っていたペンを置き、ノートパソコンの蓋を勢いよく閉め、広げていた報告書を乱暴にフォルダの中に放り込んだ。
 椅子から立ち上がり、雨水の降りかかる窓ガラスに寄りかかりながら、左手で自分の胸の傷をそっと押さえる。

 サード・インパクトから一ヵ月半。
 暫くは海の赤い色が褪めなかったが、人が戻り始めてから少しずつ赤い色が褪め始めた。三日ほど後には海は以前と変わらない姿に戻っていた。結局、その赤い水がどんな成分で、どのような変化があったのかを調べる暇も無く、全ては元通りになってしまった。正確には元に戻ったのは自然界の状態であって、人の集団としての世界が元に戻ったわけではなかった。表向きは比較的平静さを保っている人の社会も、世界の裏側で情勢を操っていた組織の幹部が半分近く行方知れずとなって、混沌としていた。
 ゼーレ、世界の裏で暗躍してきた組織。その存在自体、一部の者にしか知られていなかったが、その中でも彼らが所持していた人の起源と未来の預言書と彼らの掲げていた理念などをもっともよく知っていた者達が居なくなった。全てはサード・インパクト時に行方不明になったのだが、多分、彼らは赤い水、L.C.Lに還元されたまま元に戻れなかったのだろう。
 彼らが推し進めていた計画の一部しか知らなかったメンバーが乱れた世界の、特に裏側の均衡を取りまとめようとしたが、かつてほどの覇権も意欲も無いのか、日々その権力は衰えるばかりだった。彼らが意欲や権力を弱めていっているのも、選ばれた者のみが神となり、永遠を手に入れられるはずだった『人類補完計画』が失敗に終わった事によるのがほとんどだった。
 神に近しい太母と、そこから造り出した神であるエヴァは、彼らの意図通りには動かず、ほとんど全ての者達を元の人の形に帰した。神への道を夢見ていた者達のほとんどは赤い水へ還元されたまま人の形には戻れなかったようだが、元の形に戻った者達はただの人としての限られた人生を送る事になってしまった。もっとも、人の形に戻った者達のほとんどが、『人類補完計画』が永遠の命を得る為の計画だということを知らなかったのだが。
 組織は率先して物事を推し進める者が居なくなり、計画を把握してなかった者が生き残ったせいか、以来、何事にも以前程の積極さや強引さは無くなった。彼らはひたすら平穏な余生を求めるだけで、自らの保身の為に働いても、世界の安定に貢献する事はなく、ただ与えられた職務をこなす程度の役割しか果たさなかった。

 結局、後始末は私たちの仕事になるのね…。

 女は机の上に置かれた資料を手に取り、順に目を通す。

 『第一使徒アダム、使徒の始祖。第二使徒リリス、人類の始祖。それらから作られた人間、エヴァ。』
 『恒久的に力を生み出す生命の実、S2機関。A.T.フィールド、ヒトをヒトとして形作る心の壁。』

 これらの一切は、今のゼーレ幹部では判らない。
 ゼーレは国連の下部組織として特務機関ネルフを設立し、エヴァ建造と使徒迎撃を担わせていたが、それらの役割が終わった途端に反逆組織として日本政府をけしかけて戦略自衛隊発動、同時に量産機を用いて鎮圧しようとした。しかし、本当の目的がネルフを制圧する事ではなく、人が神になる道、人類補完計画の実行、すなわちサード・インパクトの誘発だったのは、ゼーレの中でも居なくなったメンバーのみが知っていた事だった。それを、現ゼーレメンバーは知らない。彼らにとって使徒の襲来理由もS2機関の事もろくに判らず、ネルフを制圧しようとした事実も、不可解なことこの上なかった。

 『セカンド・インパクト及びサード・インパクトについての調査結果中間報告』

 手に取った資料ファイルの下に、そんな見出しの書類が重ねられていた。
 世間では巨大質量の隕石の落下が原因とされてきたセカンド・インパクト。それに続く、日本で起きたサード・インパクト。どちらも人為的に起こされた事なのだが、ほとんどの者がその完全な事実を知らない。
 ゼーレの現メンバーや国際的な機関などは世界中に漏洩した情報や、ネルフに現在残っている情報などを照らし合わせたりしたが、何もかも謎が多く、荒唐無稽で到底「有り得ないような事」ばかりだった。これらを一まとめにし、相当な機関へ報告するのも、今のゼーレや部外の組織には出来ない。
 結局は、実際にエヴァを製造、運用し、使徒迎撃などを行っていたネルフがしなければならなかった。

 女は自分の古傷を撫で擦りながら、別の報告書をフォルダから取り出した。

『ネルフ総司令、碇ゲンドウについての報告書』

 そんなタイトルの紙の束を見ながら、女は顔を顰める。正直、書く事など無い。名前も出したくないのだ。彼女にとってこの名は忌むべきものとなっていた。碇ゲンドウは、戦略自衛隊のネルフ本部侵攻時の混乱で、行方不明になったとされていた。死体すら発見されていない。彼は死んだ。この事実は彼女しか知らない。サード・インパクトの折、碇ゲンドウはリリスのアンチA.T.フィールドの洗礼により、赤い水に還元される事は無かった。今は彼の下半身のみが塩の塊になって旧本部施設の最下層で立ったままでいる。それを知っているのは、サード・インパクトの際に彼と居合わせ、最初にそれを発見した者、赤木リツコ博士。そう、自分だ。

「死んだ人間の事なんて、生きている者が如何様にも語れるわね」

 "彼"に撃たれた古傷を撫でながら、リツコは冷たく言い放つ。
 ゲンドウについての報告書は書きかけだが、中にはいくらかの偽装が織り交ぜられ、事実と異なる事が書かれている。真実を慎み隠さず公開するほど愚かではない。総司令であったゲンドウ自身もこのネルフを維持・運用する為に、かなりの工作やダミーの情報などを用いてきた。まさか、自分が率先してそういう事をするようになるとは思わなかったが、現状、今のネルフはサード・インパクト及び使徒襲来の原因究明などを行う研究機関としての色が濃い。今の最高責任者は名義上、旧ネルフ副司令の冬月だが、事実上は研究開発担当だったリツコだ。ネルフは引き続き、人造人間エヴァンゲリオンの研究なども行う予定だが、今はとにかく、サード・インパクトの事後処理をする方が先決だ。

「休む暇も無し…か。」

 まだやらなくてはいけない仕事が山ほどある。感傷に浸っている場合ではない。
 古傷を撫でるのを止め、リツコは再び机に腰を下ろした。
 机の前に立てかけてあるファインダーの資料を手に取り、先ほどフォルダに入れた報告書を取り出す。

『特務機関ネルフ甲種報告第1096号(様式第3号)
 汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオン弐号機(EVA-02)の破損状況について』

 量産機が朽ち、初号機が消えた今、この世界にたった一体残されたエヴァ。
 リツコは資料を広げ、その報告書の続きを書き始めた。

修正: 2006/04/15
初出: 2006/04/13
Author: AzusaYumi