外世界では争いが始まっていた。
人が人を撃ち殺し、焼き払い、血を流し合っている。

その中で、一人の女が遥か地底の赤い水の上に漂っていた。
地上では爆音や銃声が鳴り響いていた。

でも、ここはとても静かで穏やかだ。

彼女の胸元からは鮮血が流れ続けている。
それが地底湖に湛えられている朱色の水面に滑らかに筋を描いて揺らめいていた。

女はまだ生きていた。
血を流し、意識を点滅させながら、朱色の水の上をひたすら漂う。

彼女の薄らいだ意識の中に浮かぶもの。
一人の男。その後ろに寄り添うように立つ、作り物ような表情の無い少女。

少女は本当に作り物だった。
男のかつての伴侶だった者の模造品。
人のなりはしていたが、人間として欠けていたものが幾つもあった。
それを幾つも製造しては保管し、傷つけば新たな物に取り替えていたのは自分だ。

そんなまがい物の少女に、自分は負けた。

男は彼女を捨て、少女を伴って、己の念願を果たそうとしている。

いや、捨てられたのでは無い。
最初から自分の事など眼中に無かった。
かつての伴侶を、まがい物の少女を通して見ていたのだ。
そして、男の願望が何なのか知っていた。
全てを知った上で彼女は男の為に手を貸し続けた。
自分は道具。顧みられないのに奉仕し続けていた女。

彼女はこれから始まる事を知っている。

作り物の少女が太母に還り、一人の女が女神になる。

そして自分は、ただの女。

血を流したまま、漂っている。

ArcheType -Der Plan ist Tod-
"Petals on the Wind"

地下の巨大な空洞であるジオフロントは、天井となっていた土やコンクリート、そして何重にも張られていた装甲が度重なる爆撃に蒸発し、巨大なクレーターとなってその全貌を現した。地の奥底にピラミッド型に建設されていたネルフ本部は、初めてその姿を日の下に曝した。
その上を翼を広げて舞う、九体の白い巨人。エヴァ量産機、エヴァシリーズ。
ピラミッドの前には赤い巨人。エヴァ弐号機。
赤い巨人の中では少女が一人、自分の頭上を舞う化け物達を冷たい目で見ていた。
白い巨人達は滑るように高度を落とし、ジオフロントへ地響きと共に次々と降り立っていく。翼を畳み、背の中へと収束させ、深海魚のような頭を上げる。巨大な赤い唇に嫌な嘲笑いの様なものを浮かべ、赤い巨人に向かって醜悪な顔を向ける。

『アスカ、エヴァシリーズは全て殲滅よ。』

ミサトが赤い巨人の中にいる少女に向かって最後の伝達をする。
使徒との攻防において戦いを取り仕切っていた者からの、作戦にもなってない一言。
赤い巨人の中の少女は、彼女の言葉を聞いては無かった。
ただ、白い化け物達の顔を視線のみで追う。

相手は人間じゃない。バケモノ、敵。

少女は冷めきった目を狂気と凶悪さに滲ませた目つきへと変えていく。
手元のレバーを引っ張り上げる。少しうな垂れた姿勢をしていた赤い巨人は、ゆっくりと顔を上げる。
心の中に爛れるような狂喜に満ちた想いが過ぎる。
何の呵責も無く潰せる相手。身震いすらする。こんなに戦う前が嬉しかった事はない。

少女は目を細める。

そして、少女と赤い巨人は、一気に駆け出した。

アスカは近場に居た量産機の懐に入り、一気に手を腹に捻り込む。
中の内臓と思える器官を弄って抉り、握り潰す。手には柔らかく、べたつく感触が伝わる。量産機は、嘲笑いを浮かべたままで喘ぐ。こんな状態でも哂っている化け物に、生理的な悪寒が走る。アスカはそのまま中の腸(はらわた)を引っ張り出し、千切る。周りに大粒の血飛沫が散る。悍ましい光景なのに、一瞬それが赤い花弁のように見えた。アスカはそれを恍惚として見惚れた。

少女はそのまま周りを振り向く。
白い化け物達が諸刃の刃を手に、一斉に彼女の乗っている弐号機に向かって突進してきた。本能の赴くままに目の前に居る獲物に群がって来るような動き。二本足で立っているが、人間の動きには程遠い。

あいつら、考えて戦ってない。

アスカは相手の動きを見極める。
まるでケダモノのように迫ってくる量産機。あいつらは人間なんかじゃない。
口元がほころび、笑いが漏れ出そうになる。

近くまで差し迫った量産機の一機がそのまま剣を大振りに上げて、弐号機に襲い掛かる。
隙だらけだ。即座に横に逸れ、ガラ空きになった脇の装甲の弱い部分に深々と手と腕を食い込ませた。肋骨の何本かを掴む。中の筋や臓物の指にまとわりついたような感触がした。それらを一緒くたに握り潰しながら、まっすぐ内蔵を突き破る。量産機は諸刃の剣を落とし、口から血の泡と共に耳を劈く獣の卑しい悲鳴を上げた。
アスカの身体に高揚感から来る血の湧く、痺れるような感覚が走る。

ぐるりと振り向く。横から二体、迫って来たのが見えた。
量産機の脇から手を引き抜き、そのままそいつを掴んで迫ってくる二機に投げつけた。
二機の化け物は、そのまま投げ付けられた物をかわせずにまともに受け、地面に倒れ込む。先程の奴が落とした剣を拾い上げ、立ち上がろうとする二機の量産機に向かって横から大振りに、真一文字に切り裂く。量産機二機の上半身が飛び、下半身が立ち上がりかけた体勢のまま、真っ赤な血を吹き出す。

アスカはそれに見下ろすような視線を向けた。

「…下衆!」

呟くように、アスカは吐き捨てた。

暗く冷たい、忘れられた区画。
先程、この辺りに爆撃でもされたかのような大きな衝撃があった。時々地響きがして、頭上から埃や砂がバラバラと落ちてくる。シンジは時々来る震動に、頭を抱え込むようにしながら、座り込んでいた場所で身を小さくしていた。
何かが起きている。じっとしている場合では無い。それは判っているが、恐怖が先立つ。腰が砕け、足に錘がついたようにこの場からなかなか動けない。何度も響いてくる地響きに、恐れ戦きながら暗がりの中で震える自分が情けなく思う。こんな時、アスカなら鼻で笑うか、馬鹿だと煽って自分を引っ張り上げていた事だろう。
ふと、シンジは彼女が腰に両手を当てて自分を嘲笑ってる姿を想い起こす。そんな姿はもう既にありえないとすら思えてくる。自分が最後に見たのはやつれて睨みつけてる姿。
後悔が再び過ぎるのと同じく、急速に不安が心の中に広がっていく。
今、アスカはどうしているのだろうか?
時折、小石や砂埃が落ちてくる天井をシンジは見上げた。

弐号機の戦いぶりを、ミサトは巨大ディスプレイを凝視しながら見守っていた。
正直、アスカに指示する事など何も無かった。
一対九。分が悪い上に、指示をする暇も無いし、パイロット側も聞いている余裕は無いだろう。指示するだけ無駄だ。支援設備がある程度機能していれば、なんらかの指示が出来ただろうが、既にエヴァの支援設備は、度重なる使徒との攻防での損害や、侵入してきた戦自の無分別な攻撃で破壊され、全滅に近かった。
戦自は、エヴァシリーズがやってきた途端に撤退。周到な事だ。ある程度の予測はついていたが、その通りになるのは胸が悪い。まだ施設内に若干の侵入者は残っていたが、発令所まで来る様子はない。もっとも、今のネルフにエヴァ以外は何も無かったが。
そんな頼りにしていたエヴァニ機の内、初号機の方はまだ発進してない。準備は出来ているが、パイロットであるサード・チルドレンが掴まらないでいたのだ。居場所の見当はついたが、まだ捕捉していない。こんな時に限っての子供の身勝手は腹が立つ。何より、途中で見失った諜報部への憤りは大きかった。余裕が無かったとはいえ、ツメが甘過ぎる。

弐号機は戦いの最中に電源ケーブルを切断した。
途中で電源供給が途絶えていた弐号機に、ケーブルは障害以外の何物でもない。妥当な判断だ。アスカの戦いの勘は鈍っていないようだ。起動の時の不安は今だ拭えないが、動いて戦える分だけまだいい。
マヤの方は、パイロットの接続状況が気になって仕方が無いのか、戦いぶりと自分の前のディスプレーにモニターされた数字を落ち着かない様子で見比べていた。

弐号機は量産機を一体、首をへし折って沈黙させた。
善戦している。しかし、時間がそんなに無い。
苛立ちながら、ミサトは諜報部からの連絡を待ち続けた。

一体の頭を引きちぎった。
頭をもがれた量産機は、身体をびくびくと痙攣させる。肩からは噴出す血と一緒に脊髄や筋や血管がうねるように動いた。既に六体潰した。先ほどの高揚感は続いているが、敵を叩き潰し、飛び散る血や肉片を見る度に何かが失われていく。
まるで、自分にあった筈の物を失くしていくような感覚。
ずっと必死になって何かを築き上げてきた。それを奪われ、踏みにじられてきた。
断片的に過ぎるあいつの顔。奪われただけじゃない、汚された。
目が熱い。頬に何かが伝う。
自分は飛び立てない。
飛ぶ力を奪われ、羽根を散して堕ちていくだけ…。

アスカはよぎった思いを振り切るように、頭を振り、目に浮かぶ熱いものを振り払う。
少女の周りに銀色の雫が散る。
アスカは掴んでいた量産機の頭部をその場に捨てた。

振り返って二体の奴らを睨む。プログナイフを肩から取り出し、迎え撃つように低く構えた。先に来た一体の膝下を長く伸ばしたナイフの刃で叩き切る。片足の半分を切断された量産機はそのままバランスを崩し、横向きに倒れ込んだ。
もう一体の奴を切り裂こうと、アスカは再び構えを取ろうとする。そこへ突然、頭部を抑え付けられるような強い衝撃を感じた。迫ってきた量産機は構えるより先に、弐号機の頭部を掴んだのだ。虚をつかれたアスカはプログナイフを取り落とす。量産機が弐号機を掴んだまま、片手に持っていた剣を軽々と持ち上げた。切られまいとアスカは量産機の横腹へ強烈な蹴りを入れた。量産機がそのまま横へと吹き飛ばされる。しかし、弐号機を掴んでいた手は依然、放そうとせず、そのままつられて量産機ごとネルフ本部の施設へとぶつかっていった。

突然、轟音と共に全身に強い衝撃が走った。
瓦礫と一緒に爆風が身体全体を押しつぶすように襲う。身を縮めていたシンジは、そのままの姿勢で壁まで吹き飛ばされ、叩きつけられた。一瞬、身体を襲ったショックで目が回り、意識が飛びそうになる。
全身が痺れ、痛みが走る。呻き声を上げながらもなんとか起き上がた。
何が起ったのか確認する為に彼は顔を上げた。
壁は崩れ、ぽっかりと開いた穴からは地下にあるはずだったジオフロントではありえない本物の日差しが入り込んでいた。一瞬、それに目が眩んだが、瞼を瞬かせて目の前のものを凝視した。自分の前に高く、深々と突き刺さっていたものに驚く。彼の身長の何十倍もあるような巨大な剣。
再び強い衝撃が走り、シンジは咄嗟に対ショックの姿勢をとって耐える。
壁に押し付けられはしたが、先ほどよりまだマシだった。彼は身を丸めたまま、恐る恐る顔を上げた。
シンジは瓦礫の山に巨大な赤い何かがめり込んでいるのを見た。あれは…。

「アスカ?」

『こんちくしょぉぉぉっ!!!!』

量産機に頭を鷲掴みにされ、ネルフ本部の施設の一部へとめり込んでいる弐号機。
それと同時に量産機も半身が建物へと食い込んでいる。
今だに自分の顔を放さない量産機の腕を逆に掴んで力いっぱい握る。骨の砕ける音が響く。ダラリと脱力し、顔から手が離れるのを感じた。そのまま奴の首を両手で締め上げ、容赦なく潰す。量産機の首が在らぬ方向へと傾いた。
アスカは息の根を止めた事を確認すると、そいつを片足で思いっきり蹴り上げた。
力無くぶら下がる首と腕が振り回されながら、量産機は前方に吹き飛んだ。

次の奴を迎え撃とうと、アスカは立ち上がる。弐号機に影が差す。
見上げると、量産機が一体、自分の上から刺し貫くような形で剣を振り降ろし、襲い掛かって来るのが見えた。
反射的に右手をかざし、A.T.フィールドを全開にした。
赤く輝く障壁の前にほんの僅かの間、量産機が宙で剣を降ろしたまま固まった。
障壁が僅かにたわむ。量産機が微かに放っているA.T.フィールドが干渉しているようだ。
だが、侵入までは至らない。
擬似の意思で動く量産機のA.T.フィールドは脆い。人の心の壁そのものを象徴し、具現化しているA.T.フィールド。
ダミープラグでは本能的な部分の真似が精一杯で完全に再現する事が出来なかったようだ。
今の弐号機にはアスカの意思が宿っている。彼女の絶対領域の中に入る事は出来ない。

「…う…!」

突然、アスカの中に抉られるような感覚が過ぎった。
彼女の心に何かが干渉してくる。
目の前に展開される弐号機のA.T.フィールドに、剣が食い込みはじめた。
諸刃の刃は少しずつ捻るように変色し、変形し始めた。螺旋のような形。

 …ロンギヌスの…槍?

アスカが何なのか認識するより先に、槍の形になったものは彼女のフィールドを突き破り、右手を裂くように貫く。

『…ひっ…ぎっ…!ああああああああああああああっ!!!!!』

蒼い体液が散るのと同時に、弐号機の右腕は裂かれ、アスカに感じた事も無い痛みをもたらす。
貫かれた勢いで弐号機は後ろへ倒れ込んだ。

エントリー・プラグの中でアスカが自分の右腕を掴む。プラグスーツの中が血でぬらつく。
しかし、アスカはあまりにもの激痛に、それを感じる事が出来ない。
首を掴まれる感触がした。だが、彼女は何をされているのか把握出来ない。
何かが心の中に膨れ上がる。それが痛みと共に彼女を混乱させ、侵食し、身動きさせまいとする。

シンジは目の前で起った事に、目を見開いた。
腕を貫かれ、裂かれた弐号機。
酷く衝撃を受けたが、何より直後に聞こえたアスカの悲鳴が彼の心を打ちのめす。
鋭く耳に響く少女の叫び。今だかつて聞いた事が無いような声だった。
耳を塞ぎ、今目の前で起っている事から目を逸らしそうになった。でも、出来なかった。
病院のベッドで横たわっていた彼女はやつれはしてたが、自分を睨みつけた。
終わりに近づいているにも関わらず、覇気を失わずにいたように感じた。
それが、断末魔のような叫びを上げていた。
心が引き裂きそうになる。爪を食い込ませ、血が出る程に拳を握り締めた。

彼女を槍で貫いた量産機が弐号機の首を掴むのが目に映る。
もう居ても立っても居られない。何かに駆られ、突き動かされた。

シンジはその場を駆け出した。

彼女を貫いた槍は、痛みと共に彼女に忘れていたものを呼び起こさせた。
弐号機の内部電源は残っていた。だが、動くことが出来ない。
アスカは痛みと何かに振るえていた。
腹部にざらつきと滑った柔らかい感触がする。何かに舐め回されているような感じだった。
突然、その感触は、捻り切られるような痛みに変った。
エヴァシリーズが弐号機の腹に喰らい付き、中のものを引きずり出そうとする。
何かが激痛と共に明確に形を成し、彼女に悲鳴を上げさせた。

『うっ…ひぐっ…!ひっ…ああああああ!!』

アスカの中に形を成してきた物、それは恐怖だった。
抑圧させていた憤りを解放し、衝動に全てを任せていた。それは、もっと奥深くに潜んでいる物を庇い、護る為。それが槍によって貫かれ、白日の下に曝された。
攻撃性の下に潜んでいたもの。怯えて震える弱い自分。
エントリープラグの中でアスカは弓なりに反り返った。
激痛と共に、死と陵辱される恐怖にアスカの弱い心は一層、震えた。
心に広がる恐れは完全に彼女を押し潰し、痛みは動く力を奪う。
痛んでいた右手などお構いなしにアスカはそれから逃れる為に暴れ、反り返り、のたうつ。

現在の戦況に、発令所の中が騒然となった。
ロンギヌスの槍。この複製が造られていたのは予想外だった。
モニターされる神経接続の数値は、今まで計測した事もないような数値を表していた。それはパイロットの危険を意味していた。既に右腕と腹部に大きなダメージを受け、明らかに弐号機での戦闘は出来ない状態だった。
マヤはミサトの命令を待たずに、エントリープラグの強制排出の信号を送ったが、弐号機は受け入れない。先ほど見せたパイロット側からのエヴァへの干渉、異常なシンクロ数値が発令所からの命令を阻害し、外部からのコントロールを不能にしていた。

「アスカ!接続を切りなさいっ! プラグを排出!撤退するのよっ!早くっ!」

ミサトは叫んだ。
モニターされた結果を見ないまでも、既に戦闘不能なのは目に見えていた。
しかし、アスカは痛みと恐怖で混乱し、ミサトの声が聞こえない。
必要以上の機体とのシンクロは、エヴァと彼女を強く結びつけ、逆に自らの意思で切り離す事を出来なくしていた。

そんな中、活動不能の状態になっていた筈の量産機達が、首を擡げ、起き上がる。
S2機関は、彼らに永劫に動く無限のエネルギーを与えていた。不死であり、作り物である彼らは、本来生き物が生きていく為に備えている筈の、痛みや恐怖など持ち合わせていなかった。死ぬことの無い彼らは、危険を回避する為の恐怖も、それを知らせる為の痛みも、必要無い。偽の魂の中に篭められた半ば本能のようになっている命令と意思のみ。それは目の前のものを喰らい、潰す事。
次々と起き上がり、彼女にとどめを刺す為に弐号機の周りに集ってこようと翼を広げ、動き出す。

弐号機の腹部に深々と食らい付くていた一機が、機体の装甲と素体の一部を引き千切った。
アスカは耐え切れない痛みに腹を抱えこみ、身を護るように体を小さく丸めた。

「はぁっ!はぁっ!」

随分走ってきた。今自分が何処に居るのか正確に把握出来ない。
シンジは息を切らしながら、周りを見渡す。自分でも良く分からない道筋を辿っていたようだ。何処の区画か分からない。人の居ない場所を求めて奥へ奥へとふらふらと歩いていた自分が今になって恨めしい。
時折、地響きのような音が聞こえる。それが聞こえる度に焦りが増す。アスカが弐号機で戦っている。こんな所で迷っている場合じゃない。
区画の案内表示が無いかと再び周りを見渡す。英語と日本語表記の注意書きはあるが案内表示らしき物は特に無く、ただ光源の分からない冷たい明かりが廊下を照らしていた。先を進むにつれ、火器類を使用した後の嫌な匂いがたちこめ、弾丸の食い込んだ跡を幾つも見た。それは、ここで戦闘が行われていた証拠だが、シンジにとって気になる事ではなかった。周りを見ながら、自分の向かうべき先を目指す。

耳に残って離れない彼女の悲鳴。
自分の知っていたアスカは何者にも臆さない、勇敢な少女だった。たとえ破滅を招く事になっても潰れるまで走り続ける。きっと彼女なら、散り際も美しく鮮やかに消えるのだろう。そんな風に思っていた。

彼女の悲鳴が何度も頭の奥で響く。
まるで血のように体液を流していた弐号機。
あの中で、苦しみに喘いでいるアスカが、居る。

角を曲がり、打ち破られたドアを乗り越え、ようやく見知った区画に来た。
息が上がりそうになっていたが、あともう少しで初号機の元へと行ける。

一瞬、何かが語りかけてきたように感じた。
それと同時に、何かの留め金が外れるような音が聞こえた。
音のした方を振り返る。突然、何か乾いた破裂音が響き、自分の真横を通り過ぎる。

「サード・チルドレンだな?」

黒い戦闘用の服を身に纏った数人の男達。
今だ施設内に潜伏していた戦略自衛隊の隊員達だった。全員、シンジに向かって銃口を向けていた。
先ほどの警告の無い発砲。当てはしなかったが、彼らは子供を殺す事を躊躇してない。
皆、一斉に引き金を引こうとする。シンジは姿勢を低くし、身構えた。
爆音と共に、弾丸が放たれた。
一瞬にして周りに赤いものが散るのが見えた。

痛みは無かった。
散った赤い血は、自分のものではない。

 還りましょう。

その時、シンジの耳に母に似た声が聞こえたような気がした。

オペレーター達は、それぞれのディスプレイに映し出される表示を見ていなかった。
結果は見えていた。もう見る必要も無い。
音声モニターからは何も聞こえない。誰か、接続を切ったらしい。しかし、それを咎める者は居なかった。
十四歳の少女の人生の終焉など、誰一人として見たいと思う者はいない。
この期に及んで、彼らは少年少女を犠牲に戦いを勝ち抜いてきた事に対し、事の残酷さを思い知った。綾波レイが自らの意思で果てた時すら、そこまでの面持ちになれなかった。余力があったからかもしれないが、悲鳴を上げ、苦しむ姿を見ながらでは、多少なりの良心を持ち合わせている者なら、呵責に苦しむ。
発令所の中は既に覚悟を決めて凛とした表情で目を瞑っている者や、俯いた表情をした者など、既に彼らは諦観の境地に至っていた。

ミサトは最終決断をする為に、発令所の上部に立っている冬月を見る。
今のネルフの最高司令官は、冬月だった。しかし、彼はディスプレイの中の出来事をただ傍観するのみで、特に何か指示しようという様子は無かった。
ミサトは向き直り、日向に声をかけようとした。しかし、誰も見なくなっていたディスプレイの表示を一人、黙々とモニターしていた日向が、ミサトよりも先に声を張り上げた。

「初号機、起動!」

職員全員が顔を上げた。
発令所の中が俄かにざわめく。

シンジは初号機のエントリープラグの中で、押し黙ったまま、目の前の光景を見ていた。
初号機は、自分が撃たれる寸前に突然起動し、通路の横の壁を突き破り、彼の前に手を差し伸べてきた。目の前には押しつぶされた人の塊があったが、シンジは目を逸らしただけで、それらを気にするわけでなく、ただ壁を突き破ってきた巨大な初号機の手を見ていた。
誰かが自分を初号機に乗せたがっている。
それが誰なのかは何となく判っていたが、今の彼にとってはどうでも良かった。

射出口を無視し、本部の幾つもの壁を突き破って外に出た。
轟音と共に初号機がジオフロントの外に凶悪な顔を出す。
一箇所に固まっていた量産機達が一斉に顔を上げ、初号機を見た。
半分潰れた量産機達の足元には、蒼い体液が血溜まりのようになって広がっていた。

通信で何か聞こえてきたが、彼は聞いていなかった。
ただ、目の前の光景を見ていた。
蒼い血溜まりの中に、丸く身を抱え込んだままの弐号機があった。
弐号機は装甲を剥がされ、素体はおろか、内部の人間の器官らしいものを外に曝していた。

「アスカ?」

もう一度声をかける。

「…アスカ?」

返事は無かった。

シンジは俯き、操縦レバーを握る手に力を篭めた。
量産機達が嫌らしい笑みを浮かべて、初号機を舐め回すように見る。
初号機の周りの物が振動し、足元にある爆撃の後の焼け焦げて露出した地肌が砂埃を上げ始める。

シンジが顔を上げた。

「…うっ…ああああぁぁぁぁぁぁ!」

初号機が咆哮を上げた。
全てを圧しようとするような声が周りに響き渡った。

量産機達が何かに気が付いたかのように一斉に羽根を広げ始めた。
初号機の周りの物が発生したA.T.フィールドで吹き飛んだ。

「…殺して…やるっっ!」

それは、始まりの合図だった。

初出: 2005/12/24
Author: AzusaYumi