いつの間にか日は暮れた。
それほど患者が居るわけではないネルフ施設内の病院は何処よりも静かだ。
真新しい医療機器だけが暗い院内で静かに機会音を響かせている。
規則正しい機械の音と静寂。
それらが何か忌まわしい事が起きる前触れのように続く。
そんな中、彼女は暗い病室のベッドの上でひたすら天井を睨み続けていた。
途絶える事無く投薬され続けていた薬は自らの意思で引き抜いた。
身体の中心に不愉快な異物感と少しの痛みを感じた。
そこは自分が一番大切にし、忌まわしく思っていた場所。
その場所の痛みが少年の事を思い出させる。
自分の身体を見て欲望の丈をぶつけてきた少年。
思い出す度に彼女の目に生気が宿る。
それは生きる為のものではない。
まるで死へ一直線に突き進んでいくような、そんな力。
彼女の心は何かに向かって行こうとしている。
コンフォート17マンションの一室。
元々が物置なだけに照明を付けても暗く、湿気とかび臭さを含んでいた。
シンジは今だ、その場所を自分の部屋にして使っていた。
ミサトには何度もアスカが使っていた部屋に移るように言われていたが、彼はどうしても移る気になれなかった。彼女がもし、戻ってきた時に自分の居場所が無くなっているのを見たら、そう思うと躊躇した。ミサトはもうアスカが戻ってこないと踏んでいるようだったが、シンジにとってそれはあまり認めたくないことだった。
いつか戻って来る、そう信じている部分と信じたい部分が彼の中にあったからだ。
ただ、そう思っていても、今日彼女にした事を思い出すと居た堪れなくなる。
いくら追い詰められていたとはいえ、していい事としていなけい事がある。そのくらい分からなくなる程に自分はおかしくなっていたのか?
自分の放った精液で胸元を汚しながら目覚めた彼女のあの顔。
憎悪に似たその顔が彼にとっては忘れられない。
思い出す度に、彼はこの場にもこの世界にも、もう居たくないという気分に陥る。
彼はベッドの上で丸く横になりながら、今の気持ちと置かれている状況に堪えようとシーツを握り締めた。
「現在の状況はどうかしら?」
ミサトが不味いインスタントコーヒーを口にしながら日向に聞く。
発令所にあったコーヒーポットは大分前から壊れていたが、それを総務に回して新しい物を購入するように手配する者は居ない。職員、そして組織全体に余裕が無くなってきている。その為か、ここで何か飲み物を求める時は職員が個人的に購入したインスタントコーヒーになる。
味覚異常と他の者から思われかねないようなものを食べている彼女でも、コーヒーの上手い不味いは分かる。彼女自身、別にそういった嗜好になりたくてなったわけではない。単純に食事を作る機会も時間も無く、何でもまとめて食べる癖がついただけだ。
それが他人から見ると異常な味覚に見えるらしい。
「今の所は目立った動きは無いようです。
ただ、こちら側に情報やデータが届きにくくなっていますね。
多分、水面下では既に情報寸断や孤立化は進めているんではないんでしょうか?」
すぐ側でデータを解析していた日向が答えた。
兵糧攻めか…。ふと、そんな言葉が過ぎる。
多分、こちらの予測以上に事は進んでいる。そのくらいの事は今更分かりきっていたが、何度も状況を確認せざる終えない。軍人肌になると変らない状況下でも、同じ情報を何度も分析しては、ほんの少しでも違った報告が得られるものなら得る、という癖がつく。
「パイロットの状況は?」
ミサトが日向の隣に居たマヤに聞く。
過去のデータの分析を行っていたマヤがキーを操作してウィンドウを切り替える。入院中のアスカの身体モニターが映し出される。各種身体状況が数値化されてディスプレイに映し出された。
「脈拍増加、血圧上昇、発汗してます。若干興奮状態ですが、許容範囲です。」
マヤはチラリと隣の青葉を見る。
青葉が第3新東京市全域のマップをモニターに映し出す。青く点滅している部分を確認し、キーボードの横に備え付けられていたヘッドセットを耳に寄せ、保安諜報部に問い合わせる。諜報部からは即返答があったらしく、青葉はすぐさまミサトの方へ向く。
「サード・チルドレンの現在の所在、葛城三佐のご自宅だそうです。
諜報部からの連絡によると、特に変った行動などは起こしてない模様です。」
「そう…。」
ミサトが冷めた語調で呟く。
状況はやや閉塞的。パイロットは使えるか使えないか微妙なライン。
何より危惧すべきは、セカンド・チルドレンと弐号機とのシンクロ。
ミサトは冷め始めたコーヒーを啜る。
…不味い…。
こんな状況下で無ければこんなコーヒーでも、少しはマシだったかもしれない。
そう思いながらもミサトは使い古されて色が付いたカップからコーヒーを啜り続けた。
翌朝、ネルフ本部は戦略自衛隊の基地で動きがあったとの情報を得た。
他にも、ネルフ各支部でも何らかの活動があるという報告も入った。
いずれも詳細は不明。かなり遠回りなルートからの情報で不鮮明な部分が多く、通常体勢なら確認なり検証なりしている所だが、今のネルフにそんな余裕はない。
刻む時が孤城に取り残されたような状況になったネルフ職員達を焦らせる。
太陽が東の低い空からやや高い位置に差し掛かった時、発令所内で警告音が鳴り響いた。
ネルフ本部内のメインサーバーへの大規模な不正アクセスを知らせる音だ。
発令所内の巨大モニターにはエラーと侵入された事を示す警告画面が映し出される。侵入者は次から次へと内部を目指して侵攻しつつ、通過ルート上の重要なデータを洗いざらい拾いながら壊す。そして更にコンピューターの最深部を目指して突き進む。
それはすなわち、MAGIへ侵入しようとしている事を意味していた。
オペレーター達が事態収拾の為に躍起になる。
ミサトはそんな彼らの焦りや緊張を何処と無く醒めた顔つきで見ていた。
MAGIへのハッキング、それは前哨戦に過ぎない。
間違えなく"敵"はここへ直接乗り込んでくるだろう。ミサトはそう踏んで、先手を取って職員に指示を出しす。
「多分、戦自はここに直接攻めて来るわ。非戦闘員はセントラル・ドグマまで退避。
戦闘員はそのまま侵入者の足止めの為に指定の場所に配置。
セカンド、サード・チルドレンはエヴァにエントリーさせて!」
「サード・チルドレン、ロスト!駄目です!見失いました!」
「何ですって?!」
青葉の報告にミサトの顔色が変る。
ちっ…!こんな時に…!
ミサトは唇を噛んだ。
「では、セカンド・チルドレンを優先してエヴァにエントリー。
サード・チルドレンはそのまま捜索を続けて!」
まるで吐き捨てるようにミサトは言い放った。
アスカは夕べから一睡もしてなかった。
窓から射してくる午前の明るい日の光を見つめながらただじっと横たわっていた。
前は自分ではどうにもならない現実にただひたすら苛々していたのに、今は心が静まりかえり、とても落ち着いているように感じる。それなのに目の方は冴え、身体は血が巡って休まろうという意思が働かない。
アスカは自分の中に何か強固な意志があることを感じた。
それが何なのかは判らない。
ただ、その意思が気力を失っていた彼女に再び活力を取り戻していたのは確かだ。
「セカンド・チルドレンが入っている病室は?!」
「右に曲がった突き当たり、一番奥の部屋です。」
「本人はちゃんと在室しているのか?」
「ナースセンターで監視してましたが、病室から出た形跡はありません。」
外が騒がしい。
自分を探しているみたいだ。
アスカは横たえていた身体を起こす。
ドアノブを荒々しく開ける音が聞こえた。
アスカは冷めた目つきで荒々しく病室へ侵入してきた者達を見る。
「セカンド・チルドレンだね?」
「…出撃命令だ。今から弐号機ケージへ同行してもらう。」
アスカは目を細めた。
侵入者達は有無を言わせず彼女を立ち上がらせようとベッドの周りに群がってきた。
アスカはそんな必要など無いとばかりに侵入者達を睨んだ。
彼らを無視して自らの意思でベッドから立ち上がろうとする。
動いた拍子に足の付け根が不快に痛んで思わず顔をしかめたが、死ぬような事でもない。
少しめまいがする。でも許容範囲だ。身体はまだ動く。
体中に先程よりもずっと血が巡っている。
高揚して浮かれている時と似た感情が沸き上がって来るのを感じた。
狂喜にも似たこの感情、いつの頃からか忘れていたものだ。それが今還ってきている。
それと同時に、失ってしまっていた筈の戦意がじわじわと蘇ってくる。
この気分、そんなに悪く無い。
今なら"何か"が出来そうだ。
今なら多分、弐号機に、乗れる。
アスカはゆっくりと歩き出した。
寒い…。
地上から何キロも地下にあるネルフ本部は、冷房を付けなくても寒い。元々巨大な空洞の中に作られた上に、設備は常に最新の物ばかりを備えていた為か、無駄なエネルギーの流出など無く、そこから発生する熱気は殆ど無い。本部施設の中は常に冷え冷えとしていた。それが冷気にも似ていて、身体を底冷えさせた。
シンジはコンフォート・マンションから夜明け前に抜け出していた。
彼にとってマンションの中は落ち着かない。何処もかしこも、アスカの匂いや気配が満ちているようで、彼女が殆ど訪れる事も無かった自分の部屋でさえまったく落ち着かなかった。結局その場から逃げ出すようにネルフ本部までやって来た。彼を尾行していた諜報部は、何らかの事情があったのか、ネルフ本部内に来てまもなく、撒く事が出来た。
彼はそのまま本部施設の中で誰も居なさそうな場所を探すようにひたすら歩き続けた。
ネルフ本部は元々あった巨大な縦穴を中心に必要な設備を付け足していっただけの施設で、設計そのものはそんなに緻密に作られていない。限られた時間までに"補完計画"を遂行する為に作られた結果なのか、区画整理などほとんどされていなかった。放置されてそのままの場所が幾つもあり、施設の下方部分は半ば迷路のようになっていた。彼は廃棄されたような場所の狭い通路や隙間を通り抜け、行き止まりの空間へと出てきた。忘れられた区画なのかもしれない。鉄筋や要らなくなった機材がそのまま放置され、何年もかけて積もった埃の上には足跡一つ無かった。見捨てられた空間の冷たい静寂の中、非常用の淡い光だけがかろうじてまわりを照らし出していた。
彼は埃や細かい砂が散らばった合成樹脂の床に腰を降ろした。
頭を項垂れ、深いため息をつく。
自分を振り回してきた大人達。何も出来ないでいた自分。汚してしまった彼女。
色々な想いが頭の中を過っていた。
こんな所に来ても何もならないのは判っていたが、今は全てを振払いたかった。
暗く寒い地下の冷気と、一人で居る事の孤独。心の底が底冷えするように寂しい。
それでも今は、一人で居た方がずっと良かった。
自分を追いつめるものから耳を塞ぎ、心を閉じる。
彼は身を丸くして膝を抱え込んだ。
『プラグ固定完了。』
『各部、問題無し。』
『L.C.L.注水。』
『基礎言語をドイツ語にフィックス。』
『シンクロ、スタート。』
うるさい…。
エヴァの操縦席であるエントリー・プラグの中に響くオペレーター達の声。
彼らはパイロットとエヴァの起動と接続状況をひたすらモニタリングしていた。
その通信の声がやたらとアスカに耳障りに響いた。
そんなにいちいち解説しなくとも、感覚でエヴァと繋がるのは判っている。
彼女が病院から本部まで来た時、施設内の職員達は騒然としていた。
アスカは作戦室などを通さず、直接弐号機の格納庫へと連れていかされた。格納庫内の整備員や職員達は少女の姿を見るなり、彼女の周りに群がってきた。病院で入院していた事など忘れてしまったかのように、彼女にプラグスーツやヘッドセットなどを渡し、格納庫の横にある整備室の一室に彼女を放り込んで、すぐさま着替えを済ませてエヴァへ搭乗出来るようにと急かした。
職員達は皆、非常時の際はどのような行動を取るかというマニュアルは徹底されていた筈なのに、随分とぞんざいな出撃準備だった。使徒が何度も攻めて来たが、ここまで粗略な扱いは初めてだ。つまり今、余裕が無いという事だ。
オペレーター達のモニターする声は今だにエントリー・プラグ内に響き渡る。
搭乗するまでは滅茶苦茶だったのに、こういう儀式みたいなものだけはしっかりと行なう。
そうかと思えば、切羽詰れば仕方がないと無理難題を押し付けてくる。
その場の都合や成り行きでいい加減な要求をしてくる彼ら。
そんなものに応える事がどのくらい無駄な事なのか、嫌という程思い知らされてきた。
今し方まで病院のベッドの上で転がっていた自分。
あれは彼らのくだらない要望に応え続けた結果だ。
『シンクロ率、0.5、0.7、13.5、25…。』
どんどんエヴァと繋がっている感覚が大きくなっていく。
それと共に、哀れみや慈しむような感覚が心の中にそっと触れようとしてくる。
それが自分に問い掛けてくる。
"生きていなさい" という声が聞こえる。
認められたい一心で戦ってきた。
敵を倒し、大勢の人達が祝福する中で凱旋するはずだった。
なのに、いつも負けていた。負かされながら、あいつに助けられた。
彼女を潰しながら生かしたがったあいつ。
そして、今、この心に触れるものが自分を生かしたがっている。
うるさい…。
あんたたちの言う事なんか、聞くもんか。
"まだ、死んではダメよ" と、自分に言い聞かせてくる。
彼女一人を取り残して、自分達の思うがままにしてきたやつら。
まだ死ぬなと言って来る。
何をいまさら?
黙れ…。
あんたたちの言う事なんか、聞くもんか。
"一緒に死んでちょうだい" と、懇願してくる。
勝手な事…!
自分達の要求と欲望を突きつけてくる奴ら…。
殺して、蹂躙してやりたい…!
「うるさい! 黙れぇぇっ!!!!」
「弐号機、起動!…いえ、これは…暴走?!」
マヤがモニターの異様な数値の変動を見て喫驚し、叫ぶ。
オペレーター達が各自のディスプレイに表示された数値を見て慌しくなる。
「どうしたの?」
ミサトがマヤの椅子の側に手を付き、ディスプレイを覗き込む。
マヤのディスプレイに映し出されているのはパイロットとエヴァとの接続状況。シンクロ率の数値と、機体とパイロットとの同期を現す曲線のグラフが表示されている。そこに出されていた数字。それは、シンクロ率の数値の異常な高さと、パイロット側の曲線グラフがエヴァ側に一方的に食い込んでいるものだった。
「何よ?これ?」
「コアに…エヴァに、パイロット側が一方的に干渉してきてます!」
「どういう事?」
「…10年前のデータに酷似してます! エヴァに、接続試験の被験者が…。」
そこまで言いかけてマヤがハッとして口をつぐんだ。
言えないような事があるかのようにマヤはモニターされている画面をじっと睨むように見つめる。
ミサトはその様子を見逃さず、間髪いれずに問い返す。
「…伊吹二尉、どういう事なの?」
「あ、あの…。」
マヤがミサトの問いに焦燥の色を見せる。
何かを隠してる…。
ミサトは直感的にそう感じた。
再びマヤを問い詰めようとした所に、不意に日向が声を上げた。
「弐号機、拘束具を強制的に除去しようとしてます!」
「何ですって?!」
発令所の巨大ディスプレイにジオフロント内の映像と共に、二分割で映し出された弐号機格納庫の映像。そこには目を光らせた弐号機が、肩に固定してあったブリッジを歪ませて強引に動き出そうとしている姿が映し出された。
「アスカっ!」
『…敵は…何処?』
パイロット側から音声のみの通信が入る。
まるで唸り声のような低く静かな少女の声。
その時、突如としてネルフ本部上に巨大な爆音と振動が木霊した。
職員達は一斉に頭を抱え込み、対ショック姿勢になる。
「第3新東京市街跡に弾道弾の着弾、確認しました! 被害状況不明!」
「本部上空に多数の巨大運送機の機影を確認!」
「本部施設内、外部ルートからの侵入者!」
振動が収まったと同時にオペレーター達がディスプレイに映し出された状況を報告する。
発令所の巨大ディスプレイには幾つもの映像が分割して表示される。
爆煙を上げ、火花を散す各施設の映像。本部内の通路に侵入して来る戦自の隊員達。
「始まったのね…!」
ミサトがディスプレイに表示された映像を睨みながら呟く。
巨大ディスプレイに幾つも映し出されている映像の一つ、巨大輸送機の画面を見る。
輸送機の下方部分には白い何かが収納されている。
それを見てミサトが目を見開き、即座に日向に向かって叫ぶ。
「エヴァシーズだわ! 地上からの迎撃では間に合わない!
弐号機、発進!8番ルートからジオフロント内へ配置!急いで!」
「待って下さい!エヴァとパイロットとのシンクロが…。」
マヤが何かを言おうとしたが、言えずに堪らない様子でミサトを見つめた。
周りのオペレーター達もパイロットとエヴァとの数字の異常さを前に、一瞬手を止めた。
それぞれ複雑な顔をする。
しかし、ミサトはそんな事など構わず言い捨てる。
「どの道、生きるか死ぬかよ。動くのなら構わず発進させて!」
ミサトの言葉に、オペレーター達はそのままディスプレイに向き合い、作業を再開する。
そんな中、マヤ一人のみが唇を噛む。
日向はディスプレイの横に置かれていたヘッドセットを手に取り、発進指示の通信を行う。
「弐号機、発進準備!」
ネルフ本部内の各部署に、エヴァ発進の通信が伝達された。