Triage 【トリアージ】外伝 3

結紮

(アスカ誕生日お祝いFF)
タヌキさん

 12月4日は、惣流・アスカ・ラングレーの誕生日である。
 彼女の誕生日……クリスマス、バレンタインと並ぶ恋人たちのビックイベント。
 アスカの落ち込みを救いに行ったシンジが、自爆ぎみに告白して、はれて恋人同士になった二人にとって、初めて迎える記念日である。
 アスカが生まれてきたことに感謝するシンジと、シンジに出会うために生まれてきたと喜ぶアスカの二人は、1ヶ月も前から、どうやってスケジュールを合わせるかに必死であった。
 アスカはまだよかった。
 忙しいといったところで学生でしかない。さすがに講義や実習をさぼることはできないが、課題のレポートさえ片づけておけば、放課後はフリーにできる。それこそ、翌朝の1限目に間に合えば、お泊まりでもOKである。
 それに比べて大変なのは、碇シンジであった。
 現役の救急医であるシンジには、勤務シフトというスケジュールが組まれていた。3ヶ月ごとに決められるそれは、すでに年末まで決められており、変更することは難しい。
 そして当日、シンジのスケジュールは、明け番だった。
 救急医の勤務態勢は、三交代である。
 日勤、宿直勤、非番の3つを繰り返しておこなう。実際は、宿直の後続けて日勤に入るので、32時間勤務、明け番休日の2つをシフトとする。
 12月4日、シンジは、午後4時に勤務明けの予定であった。

 シンジとアスカは、車で30分ほどの距離に住んでいる。互いに少しの時間でも惜しいほど忙しい。実際に顔を合わせるのは月に1回と決めて、普段は電話だけで逢瀬を楽しむ。といってもシンジが勤務の日はだめなので、3日に1回ほどの頻度であった。
「聞いてよ。小児科の教授ったら、女は医者になる暇があったら、子供をたくさん産めなんていうのよ。酷いでしょう。女を一人前だと思ってないのよ」
 アスカの電話は、大学での愚痴が多い。
「小児科としては、出生率が減って、小児人口が減ると死活問題だからね」
 シンジは、アスカの怒りをなだめるように言う。
「そんなこと言い出したら、産婦人科はもっと大変じゃない? 」
「たしかに。でも、人類が生きている限り必要なことだからね」
「わかっているわよ。いずれ、アタシもお世話になるんだから」
「それって……」
「何度も言わせないの。アタシはちゃんと産前産後に休暇取るから。その間、不自由さえないように、がんばって稼ぐのよ」
「……う、うん」
「て、照れないでよ。言ったアタシまで恥ずかしくなるじゃないの」
 電話の前で二人して固まっていれば世話はない。
 他人が見れば、砂を吐くようなことをシンジとアスカは、当たり前のようにやっていた。
「でさ、アスカ。誕生日のプレゼントになにが欲しい? 」
 シンジが訊く。
 すでに誕生日まであと3日、シンジの休日は明日しかない。その日に買いに行かないとそれこそコンビニに売っているもので間に合わせることになる。
「新作ペイントソフト」
「はあ? 」
「増設メモリもいいわね。外付けのハードディスクでも、いえ、思い切ってCPU? 」
「なにを言っているのか、わからないよ」
 シンジが首をかしげた。
「じょ、冗談よ。と、友達が、誕生日プレゼントに今言った奴を買ってって、彼氏にねだったら、あきれられたという話を思いだしただけ」
 アスカの声が、ちょっとうわずっている。
「で、アスカは、本当になにが欲しいの? 」 
 シンジがもう一度問う。
「なんでもいい。シンジがくれる物だったら」
「それが一番困るんだよなあ」
 アスカの答えに、シンジが嘆息する。
「じゃあ、アクセサリーをお願いしていい? ずっと身につけていたいから」
 語尾が消え入るようなか細い声で、アスカがねだった。
「どんなのが良い? 」
「シンジが選んで。アタシに似合っていると思うものを」
「わかんないよ。どんなのが良いかなんて。初めてなんだよ。女の子にプレゼント買うなんて……」
 シンジが情けない声を出す。
「だから、悩んで。アタシにどんなのが合うのか? いえ、どんなアクセサリーを着けたアタシを見たいかをシンジが考えて」
 アスカは、シンジに甘えた。
 母親の最後を看取ることなく、仕事に没頭した父に反発を覚え、そこから男嫌いになったアスカは、シンジと出会って異性に甘えるうれしさを知った。
 といっても、シンジ以外の男など、眼中にない。
「う、うん。そう言われたら頑張るしかないね。でも僕のセンスは知っているだろ? あなり期待しないでよ」
 シンジが、笑った。
「そうよねえ。シンジのセンスなら、ゴキブリ型のブローチとか、ウニ型のイヤリングとか買いそうよねえ。なんせ、平常心Tシャツで外に出る人だから」
 アスカがからかう。
「ひどいなあ。あれ高かったんだよ」
 シンジが、文句を言った。
 平常心Tシャツ事件とは、シンジが転勤で引っ越した部屋に、初めてアスカが行くことになったときにのことだ。
 一人暮らしの彼氏の家に遊びに行く。二人きりの狭い空間、盛り上がった雰囲気の元、つい手が触れ、足が触れ、ひょっとしたら大きな一歩を踏みだすことになるかもしれないと、アスカは気合い十分な格好で、待ち合わせの場所に行った。
 レモンイエローのノースリーブワンピースに、青いチョーカーをつけ、紅いハイヒールを履いて、生足、ちょっと屈めば見えそうなほどのミニ。もちろん、下着はK-1グランプリ決勝にだって出せるほどの勝負もの。
 期待に胸をふくらませて、ふくらませなくても十二分に大きいが、待っていたアスカを迎えに着たシンジの格好が悪かった。
 平常心と大きく墨書きされたTシャツに、ベージュの短パン、そしてビーチサンダルとその辺のくたびれたおじさんが、ちょっと散歩に出たという感じである。
「ア、アンタは……」
 アスカの高まっていた昂奮が、水をかけたように静まる。
 並んで歩くのが嫌で、アスカは数メートル離れて、ついていった。
 そして、平常心のTシャツは、その日にゴミ箱直行となったのであった。
「気に入ってたんだよ。あれ。あの平常心って文字、清水寺の管長さんが、特別に100枚だけ書いたものだったのに」
「管長だか、艦長だか知らないけど、あんなのは、二度とアンタには着せないから」
 あれ以来、シンジの衣服は全てアスカの支配下にある。
 デートのときは、前日までにアスカの衣服に合うようにと、上はなに、下はあれ、靴下はあの色、靴はそれと細かい指示が出される。
「はああ、わかったよ。気をつけるから。じゃ、12月4日は、大学正門まえに6時に」
 シンジが電話の終わりを告げる。
「わかったわ。遅れたら、お仕置きだから」
 アスカもうなずく。
「お休み、アスカ。良い夢を」
「お休み、シンジ。アタシの夢を見なさい」
 二人の電話は終わった。

 大学をスキップしていくアスカの課業は、他人の倍ある。3年生でありながらアスカは、4年生、5年生の講義と一部の実習をこなさなければならない。
 医学部の実習や講義には、レポートと口頭試問が付き物である。
 授業を受けて、ペーパーテストに通ればいいでは、駄目なのである。実習ごとにレポートを提出し、そのレポートに準じた口頭試問に合格しないと単位が与えられない。
 シンジと楽しい一夜を過ごすために、アスカは12月5日提出分のレポートを3日まで仕上げ、口頭試問にも合格しておかなければならなかった。
「先生、レポート持ってきました。口頭試問お願いします」
 アスカは、麻酔学の実習指導医の元を訪れて、レポートを出した。
「惣流か、相変わらず早いな。どれ、レポートを読むから、ちょっと待ってろ」
 40歳を超えたばかりの指導医は、アスカの書いたレポートをざっと読む。
「よし、レポートはOKだ。Aランクをつけておく」
「ありがとうございます」
 アスカは、緊張した。ここからが本番である。口頭試問に合格しないと、明日もまた放課後に来なければならなくなり、シンジとのデートに備えて、身体を磨きあげる時間が無くなってしまう。
「麻酔前投薬について問う。代表的な薬剤とその作用について述べよ」
 口頭試問がだされた。
「前投薬には、主として二種類の薬剤が用いられます。精神安定を目的とするジアゼパムや、アタラックス。睡眠剤としてバルビツールやブロバリンが代表的なものです。精神安定剤は、鎮痛作用はありませんが、大脳皮質下の組織に作用して緊張を緩和し、麻酔の効果を高めます。睡眠剤はその名の通り、睡眠に導入することで緊張を緩和し、不意な体動を抑制します。鎮痛効果も期待できます」
「よし。では、麻酔前投薬として、ジアゼパムを選択した場合、投与のタイミングと投与量を述べよ」
 第2問に入った。
「1時間から2時間まえに、体重に応じて5~10ミリグラムを経口投与します」
「よろしい。では、最後に。睡眠剤を麻酔前投薬として使うときの注意点を述べよ」
 3問目である。
「投与量が多すぎると、呼吸や心拍を抑制し、生命の危険に陥る可能性があることです」
 アスカは、なんなく答えた。
「よろしい。合格だ。いつもながら、的確だな」
 指導医はアスカの実習手帳に合格の検印を押した。
「惣流、卒業したら麻酔科へ来い。おまえなら教授も夢じゃないぞ」
 指導医がアスカを誘う。
「ありがとうございます。その節はよろしくおねがいします」
 アスカは、麻酔科の医局をあとにした。

 麻酔科はアスカの志望の一つである。
 将来シンジとペアを組むのが夢なアスカとしては、救急医と関連の深い麻酔専門医は、魅力ある選択である。
 それに手術中の、いや、その前後も、患者は麻酔専門医の監督下にある。いわば、麻酔専門医は手術のコントロールタワーであった。
「シンジに命令するのも良いわね」
 アスカの密かな狙いである。
 なんせ、医者としてのキャリアでは、年上のシンジに勝つことはできないし、その天才的な手術の腕は、身をもって体験していた。
 アスカの右腕が無意識に傷口を衣服の上からなぞっている。
 卵管血腫破裂。
 アスカの思慕を確実にした聖痕、シンジを大学病院から追放した烙印。
 シンジによってつけられた手術痕は、知らなければ気づかないほど薄い。その髪の毛と同じくらい細い筋は、チタニウムの鎖より強く、アスカをシンジにくくりつけている。
「誰にも渡すものか」
 アスカの顔に暗い影が浮かぶ。
「シンジの周りには、女が多過ぎなのよ」
 影は一瞬で消えて、いつものアスカに戻る。
「綾波レイさんは、北海道に離れたと思ったのに、ちょくちょく電話して来るみたいだし、霧島マナもあきらめたような顔しているけど、シンジのこと忘れられないみたいだし、山岸マユミとかいうのは、権力でシンジを捕まえようと画策しているし……」
 アスカから見てシンジは誠実な男である。問題は、人を傷つけたくないと思いすぎていることなのだ。
「一人を傷つけたくないと思えば、それ以上の人にいやな思いをさせなきゃならないこともある。それぐらいあの歳になったらわかっているはずなのに」
 アスカは愚痴をこぼす。
 シンジのトラウマは、母の命と引き替えに助かった人がいると言うことだ。
 一人の犠牲で数人が生きながらえた。シンジは、母を失ったが、大切な人を失わないで済んだ人が何人かいた。
 これが、シンジに自分さえ我慢すればという、ゆがんだ自己犠牲の精神を植え付けた。
「そんなの独りよがりでしかない。自己陶酔、マゾのマスターベーションじゃないの」
 アスカは辛辣にシンジを何度も批判した。
「いい? 自分より他人が傷つくのが嫌ということはね。アタシのことを好きになった男がいたら、シンジはアタシをあきらめると言うことなのよ」
 アスカは、シンジの手を握りながら話す。
「ねえ。アタシを他人に渡して良いの? 他の男に抱かれるアタシを想像できる? 」
「……いやだ。アスカを他の男に渡せない」
 シンジにそう言わせるまで、アスカがどれだけの時間を掛けたか。

「明日は、アタシの誕生日。この日だけは、なにをしても許されるわ」
 アスカは、シンジを自分のものにし、自分をシンジのものにさせる作戦を練り始めた。 
 12月3日の宿直は、忙しかった。
 関西のベッドタウンである京滋市に救急指定病院は、いくつかあるが、唯一市立である京滋市民総合病院は、その規模からも、救急車の来訪がもっとも多い。
「入電。京滋バイパスで自動車事故。運転手がハンドルで胸部を打撲。肋骨が心臓と肺の両方を損傷している模様」
「65歳女性、胸部痛で救急要請。血圧低下、意識混濁。呼吸減少。狭心症の既往あり」「京滋駅構内で40歳代の男性吐血。意識消失。呼吸、心拍ともに微弱」
 一つ手術が終わると、お茶を飲むまもなく、次がくる。
 シンジが、ようやく医局のソファに倒れ込むことができたとき、夜明けの光がうっすらと東の空を染めていた。
「お疲れ、ひどかったな、昨夜は」
 ペアを組んだ麻酔医が、缶コーヒーを2つもって、シンジの隣に腰を落とす。
「ありがとうございます」
 差し出された缶コーヒーを受け取って、シンジは頭をさげた。
「でも、全員助かりました」
「当たり前だ。これで一人でも死んでてみろ。肉体的疲労と精神的脱力で、俺たちは使い物にならなくなっているさ」
 缶コーヒーを飲みながら、麻酔医が笑った。
「どうだ、碇。終わったら久しぶりに一杯やらないか」
 麻酔医が、誘う。
「すいません。今夜は先約があるんです」
 シンジが、断る。
「そうか。デートだな。デートだろ。いいねえ。若いってことは。女と会うのにまだ喜びがある。結婚してみろよ。女房と会うのなんて、当たり前になっちまって。えっ、碇。どきどきするだろ、彼女と会うとき」
 麻酔医がシンジに問う。
「ええまあ」
「俺なんぞ、女房見てどきどきしたら、不整脈を疑うよ」
 麻酔医が、天を仰いだ。
「山岸さんだっけ、碇の彼女? 」
 麻酔医が訊いた。
「はあ? 違いますよ」
 シンジは、驚いた。
「そうだっけ? 副院長が吹聴して回っていたぜ。碇は、地方の大病院の娘婿に決まったって」
「冗談じゃないですよ。確かに山岸さんとはお見合いしましたけど、ちゃんとお断りしました」
「碇。副院長を甘く見ちゃいけないな。あの人は、自分の利益になることなら、なんでもやる人だ。たぶん、こうやって病院中に噂を広めて、おまえの周りから攻めていくつもりなんだろう」
「勘弁してくださいよ」
 シンジは、情けない声をあげる。
「まあ、がんばるんだな。さて、俺はちょっと仮眠させてもらう。あと10時間か。今日はもう終わりにして欲しいよ」
 麻酔医は、医局に隣接した仮眠室へと消えた。
「僕も、少し寝ておこう。デートの最中にあくびなんかしたら、アスカになんて言われるか。アタシと会っているのがそんなにつまらないの。なら、退屈しないようにしてあげるぐらい言いそうだよなあ。で、なにをしでかしてくれるか。考えただけでぞっとするよ」
 シンジは、アスカの怒った顔を頭に浮かべる。
 ソファに横になったシンジは、すぐに眠りに落ちた。

 シンジは、4時間ほどだったがぐっすりと眠ることができた。
「よく寝たけど、ソファだと背中が痛いや」
 大きく伸びをして、シンジは大あくびをする。
「お腹空いたな。食堂は、まだ開いてないか」
 卓上の時計は、午前10時半を指している。
「あと6時間か」
 シンジは、起きあがって机に向かう。
 昨夜の手術のカルテを書かなければならない。投薬指示に家族への説明はすでに済ませてあるが、後回しにできるものは、全部ほったらかしている。これらを書き上げてしまわないと帰ることは許されない。
 書類に忙殺されたシンジが、昼飯にありついたのは、午後1時半を回っていた。
「入電、通り魔事件の被害者。ナイフ様のもので顔面に数カ所切創。ショックを起こし、心肺停止一回。現在は回復。意識なし」
 学会誌を読んでいたシンジと、詰め将棋をしていた麻酔医が、顔を見あわせた。
 麻酔医が電話に飛びつく。
「血液型確認。輸血の用意。リンゲル点滴準備」
「レントゲン室に頭部MRIの準備を依頼してください。眼科用のフォーゼロ縫合針を用意してください」
 シンジが、医局に隣接する手術準備室に顔を出して、手術室担当の看護師に頼む。
「フォーゼロですか」
「はい。病院にあるだけ持ってきてください」
 そう言い残して、シンジは手洗いに走った。
 5分ほどで救急車が患者を搬送してきた。
 まず頭部の損害の有無がなにより重視される。脳に異常があれば致命傷になりかねない。助かっても後遺症が残る可能性が高い。
 レントゲン室に患者が入った時間を利用して、説明がおこなわれる。
「患者氏名は大崎タカミ。14歳女子中学生です。帰宅途中を通り魔に襲われ、顔面に二カ所傷を負わされました。一つは、右頬、これは長径7センチ、深さ1センチに達してます。もう一つは顔面中央部に右から左に鼻をまたいでます。長径15センチ深さは5ミリです」
 初診担当が、肉眼所見を発表する。
「かわいそうに。傷が残る」
 誰かがつぶやいた。
「傷は、それだけですが、襲撃を受けて気を失ったらしく、道路で頭部を打撲してます。骨折はありませんが、脳出血の可能性があります」
 説明は済んだ。
「よし、始めるぞ」
 麻酔医の声にシンジたちは立ちあがった。
「ひどいな」
 麻酔を掛けられた少女の顔を生理食塩水で拭く。固まっていた血が取り除かれた下から傷が浮かんできた。
「レントゲン室から連絡。脳内に異常なし。だそうです」
「よかったな。残るは顔面の傷だけだ。できるだけ残らないようにしてやってくれ」
 麻酔医が言う。
「はい」
 シンジが持針器を取り上げる。
「それは……フォーゼロか」
 麻酔医が、目を見張った。
 フォーゼロ縫合針は、眼科で使用されるごく小の湾曲針である。形成外科用の小型縫合針の半分ほどの直径しかなく、付随している糸も短い。
 形成外科用の針を使うのが普通である。
「いいんだな? 」
 麻酔医が時計に目をやる。すでに4時を回っていた。 
「やります」
 シンジは、きっぱりと言った。
 額につけていた拡大鏡を目の前に降ろす。術野が、10倍に拡大される。
「生理食塩水をもっと用意させろ。ライト、碇の手元を照らせ」
 麻酔医の命にオペ室担当の看護師たちが動く。
「まず、中央の傷から縫合します」
 シンジは傷口をじっと見つめると手で合わせた。
「裂けているところがあるな。そこは後回しにして、綺麗な創傷から」
 シンジは針を傷口の内側に通した。
 表皮の上から通し、中を通って、針を表皮に出し、創傷の上を避けて縫合するのが通常だが、これをすると皮膚に縫合針の穴が残る。
 シンジは、それを避けるために表皮の直下に針を通し傷の反対側の同じところへとくぐらせ、創傷の内部で縫合し、結紮する方法を選んだ。
 これは表面に残る傷を減らすことができるが、固い皮膚と違い、柔らかい皮下組織に針を通すことになる。柔らかい組織はちょっと力を入れる方向を間違えただけで破れ、逆に傷を深める可能性がある。慎重にも慎重を必要とするので、時間がとてつもなく必要であった。
「次の縫合針を用意して」
 シンジは、アスカとの約束を忘れて集中した。

 いつものように講義を終えると、声をかけてくる男どもを無視して、アスカは自宅へと急いで帰った。
 アスカのマンションは、大学からバスで15分ほどのところにある。
 鍵を開けるなり、手にしていた教科書やノートなどをテーブルの上に投げだし、衣服も下着も脱ぎ捨てて、アスカはお風呂に入った。
 シャワーでは、完全に汚れが落ちないような気がしたのと、今日のために買ったバラの入浴剤に浸ることで、仄かな香りを身にまといたかったのだ。
 シンジは、化粧気を嫌がる。訊けば、シンジの母親が、口紅以外はつけない人だったらしく、人工的な臭いが苦手らしい。
 白人系の血が濃いアスカの肌は、日本人とは一線を画するほど白い。その肌をもう一層はぎ取るぐらいのつもりで、アスカは体を洗った。
 体毛も濃い方ではなく、さらに金髪なのでほとんど目立たないが、それも徹底的にアスカは処理した。
 最後にたっぷりとお湯に浸かったアスカは、バラの匂いをただよわせながら浴室を出た。
 自慢の髪についた水をゆっくりとバスタオルに吸収させながら、アスカはすでに昨夜のうちに選んでおいた下着を手にする。
 普段つけている下着が10枚以上買える値段を払って手にしたシルクのブラとショーツ。とりわてて飾りを付けているわけではないが、薄いピンクのそれは、アスカの肌を一層白く際だたせてくれる。ハーフカップに近いブラは、アスカの胸を下から支え上げて寄せ、深い谷間を作っている。
 生乾きになった髪に、遠くからドライアーをあてて、ゆっくりと乾かす。わずかに紅い金髪は、秋の実りの稲穂のように輝いた。
 髪留めは、つけない。自然に拡がるようにするのが、シンジの好みだからだ。
「うん。完璧」
 やはり昨夜のうちに選んでおいた白のセーターに茶色のスカートを身につけて、姿見の前で自分を確認したアスカは、力強くうなずいた。
「いけない。待ち合わせに遅れちゃう」
 思いの外風呂で時間を使いすぎた。
 アスカは、スカートより薄い茶色のコートを手にすると、やはり茶色のバックスキンブーツを履いて、部屋を飛びだした。

 アスカが大学の正門前に着いたとき、時計は待ち合わせ時間より10分過ぎていた。
「シンジの奴、遅刻したな」
 一通りシンジを探したアスカが、不満げに口にした。
 そのころ、シンジはようやく最初の傷を縫合し終えた。
「続いて右頬に移ります」
 傷口はすでに生理食塩水で綺麗に洗われている。
 シンジは、傷口を開いて中をじっと見た。
「よし、顔面神経叢は、損傷を受けていないな」
 シンジは、うなずいた。
 頬の下、耳の少し前の辺りには、顔面の表情をつかさどる筋肉を支配している神経の大きな固まりがある。ここが傷つけば、少女は表情の一部を失うことになる。酷い場合は、顔面神経の緊張を保つことができず、顔貌が変わってしまうことさえあった。
「縫合開始」
 シンジは再び集中力を酷使し始めた。

「遅いな」
 アスカは、人気の無くなった大学正門前で俯いた。
 一人で立っているアスカに十人を超える男が声をかけたが、機嫌の悪い顔で睨みつけられて、去っていった。
「はあ。あの馬鹿。アタシを待たせるなんて1億年早い」
 アスカは、寒そうにコートの襟を立てた。

「縫合終了。テープを」
 縫い終わったシンジは、創傷の上に保湿性の高い傷口保護テープを貼る。傷口を湿潤させて表皮の乾燥を避けるためと、雑菌の侵入を防ぐ意味の他に、縫い合わせた箇所にテンションをかけて、傷口が開かないようにする目的があった。
「術式終了」
 シンジが、大きく息を吐いた。
「おい、碇。急がないと駄目だろうが」
 麻酔医が時計を指さす。
「えっ。もう8時半。まずいな」
「あとの書類は全部やっておいてやるから、急げよ」
 麻酔医が、シンジにウインクした。
「すいません」
 手術室を駆け出したシンジは、ロッカールームで着替えるなり、病院を走りだした。
 慌てていたシンジは、せっかく買ったプレゼントと携帯電話の入ったポーチをロッカーに置き忘れたことに気がつかなかった。

 約束の時間から3時間が経とうとしていた。
 アスカは、寒さに震えながらシンジを待ち続けている。
「電話ぐらいしろ」
 アスカは、ずっと携帯電話を握っている。
 救急医として病院にいるシンジに、直接電話することはできない。
「病院にかけてみようかな」
 アスカは、携帯電話の画面に京滋市民総合病院の電話番号を呼びだす。
「はい、京滋市民病院警備室です」
 電話はすぐに繋がった。すでに診療時間は過ぎている。電話は受付の女性ではなく、警備室の警備員が取った。
「あのう、惣流と申しますが、救急室の碇さんは……」
「ああ、碇先生なら、もう帰られましたよ」
「そうですか」
 アスカは電話を切った。
 何時頃とか、いつとか訊くことも忘れて、アスカは肩を落とした。
「どうしたの? アタシに連絡もできないの? まさか、綾波さんが……山岸さんが……」
 病院を出ているにもかかわらず連絡がない。アスカの不安は大きくなっていく
 寒風がアスカの身体からバラの匂いを奪っていく。
 異性不信とも言うべきアスカの性格は、思春期を迎える前に父親に抱いた嫌悪感が原因となっている。
 夫婦として子供まで作った父と母だったのに、母の臨終にさえ立ち会わなかった父。
 女の子が最初に憧れる異性である父親が、最愛の異性である妻をあっさりと捨てて背中をむけた風景が、アスカの根底にある。
 もっとも信頼できる存在の家族によって、与えられた心の傷は、表にこそ出さなくなったが、アスカの中に縫い合わされることなく開いていた。
「やっぱりアタシは要らない存在なの? アタシの誕生日なんだよ」
 アスカは小さくつぶやく。
 母の願いを、アスカの頼みを振り切って、仕事に向かった父の行動は、アスカの根幹を揺るがした。母と共に捨てられたと子供心に刻まれた。
 アスカは震えながら、シンジの携帯の番号を押した。
「現在、電波の繋がらないところにおられるか、電源が入っていないために繋がりません……」
 感情のない声が、アスカの最後の希望を崩した。
「シンジもアタシを捨てるの? 」
 アスカの眼がうつろになった。
 糸の切れた人形のように、アスカはへたりこむ。
 コンクリートの冷たさが、腰から背骨を伝わってアスカの胸を凍りつかせていく。
「アタシのこと必要だって言ってくれたのに……」
 蒼い瞳が、色を失いかけたとき、夜道を照らすヘッドライトがアスカを照らした。

 シンジは必死でハンドルを握っていた。アスカとの待ち合わせの時間はすでに3時間も過ぎている。
 携帯電話とプレゼントを忘れたことに気づいたとき、すでに車は京滋バイパスに入っていた。取りに帰るよりもアスカの元へ行った方が早い距離。
 シンジは、アスカに直接会って謝る方を選んだ。
「…………」
 シンジとしては、珍しいスピードで、大学の正門前に至るカーブを曲がったとき、ヘッドライトが、座りこんで膝を抱えている人影を映した。
「アスカ……」
 シンジは、ライトを反射する金髪に、その人影が誰かわかった。
 車を止めて転がり出たシンジは、アスカの瞳に力がないことに直ぐに気づいた。
「しまった」
 シンジは、携帯電話を忘れてきたことを悔やんだ。
 取りに帰ってでも、まず電話すべきだった。
 シンジは、かつてアスカから、そのトラウマのことを聞かされている。
 アスカの心の傷は、まだ修復されていないことも知っていた。
 そして、シンジはその修復に手をだす勇気が無かった。
「なにさまのつもりだったんだ」
 シンジは、己を罵った。
 大学病院のシステムに逆らって、シンジは、アスカの手術を強行した。そのことを加持リョウジからたしなめられたときに、患者の身体を治すだけでなく、心も救うのが医療だと大見得を切った。
「このざまか」
 シンジは、アスカが目に見える形でのつながり、絆を欲しがっていることに気づいていた。それをシンジは、まだ僕たちには早いとアスカを諭してきた。
「逃げていたんだ」
 シンジは、一歩踏みこむことでアスカとの関係が変わることをおそれただけだった。
 アスカと違う形で、父親に捨てられたシンジの心の傷。それは、親子という切れるはずのない絆を信じることができなくなっていた。
 アスカと肉体的な関係を結ぶ。それは、子供を作る行為でもある。シンジは、自分が子供を父親と同じように捨ててしまうのではないか、子供に純粋な愛を与えることができないのではないかとおそれていた。
「突き詰めていかなければ行けなかった」
 シンジは、父親に捨てられたとき、それを受けいれてしまった。父親を捜し出して、なんでこんなことをしたんだと追求するべきだった。
 どうして、トリアージブラックをつけられたとは言え、父さんは、母さんを助ける努力をしなかったのと、シンジは問いつめるべきだったのだ。
 シンジは、父親の答えを聞くのが怖ろしかったのだ。おまえも母さんも必要じゃないと言われるのが、怖かった。
 シンジは、答えを父親に求める代わりに、勉学に励んだ。父親と同じ職業について、努力を重ね、父親を乗り越えることで、自分で答えをだそうとした。
 その結果が、目の前にあった。
「情けない。かけがえのない人を失うところだった」
 シンジは、冷えきったアスカの身体をしっかりと抱いて、思いのたけをこめたキスをした。
「…………」
 アスカは、寒い風景の中にいた。
 色彩のない病室。中央にあるベッドには、誰も横たわっていない。ベッドの足元にたたまれた毛布。ここが、母親が死んで霊安室に移されたあとの病室だと、アスカは気づいた。
 病院は、死者には無情のところである。
 死者は病室に痕跡を残すことも許されなった。直ぐにこの部屋は別の患者の物となる。遺族には、哀しみに浸る暇さえ与えられない。
 アスカは、部屋の中を見まわした。
 ロッカーにつるされた母の普段着、母が使っていたコップ、歯ブラシ、スリッパ、母の匂いがまだ染みついている。
 アスカの眼が、ベッドの枕元、テーブルの上に置かれた花瓶に向いた。そこには、母が亡くなる前日に父が差し入れた花が飾られていた。
「白々しいことを」
 アスカの口からは呪詛しかでない。
 この花が、父の言い訳に思えた。
 母が死んだにもかかわらず、父はまだ顔も出していない。
「花屋に行く暇があったら、どうしてママの側にいてあげなかったのよ」
 母の病気が死病であったことは、アスカも気づいていた。そして、最後が近いことも。
 愛しい者の末期よりも、大切なものが有る父にアスカは、反発していた。
「愛なんて幻想。アタシは、一生涯男なんて信じない。結婚なんてするものか」
 アスカは、感情を激発させた。
「こんなもの」
 白い病室の色に同化した花に、アスカは手を挙げた。
 その時、色を失ってしおれていたバラが、不意に紅を取りもどした。
「えっ」
 急な変化にアスカがとまどう。
 アスカは、冷えきっていた身体にじんわりと暖かみが戻っていることに気づいた。
 病室が不意に消えて、アスカの唇に感触が伝わる。
 アスカは、意識を取りもどした。
「……アスカ」
 アスカの回復にシンジが気づいた。
「シンジ……」
 アスカもシンジの名を呼んだ。
「ごめんね。遅くなって」
「……ねえ、本物のシンジ? これまで夢だったら、アタシもう生きていけない」
「思いきりほっぺた叩いていいよ」
 シンジが目を閉じた。
「夢じゃないなら、もう1回キスして」
 アスカの求めにシンジが応じる。
「夢じゃないだろ」
 シンジが唇を離す。
「短すぎて、わからない。でも、うれしい」
 アスカが、シンジの胸に顔を埋める。
「どうして、電話してくれなかったの」
 アスカが訊いた。
「ごめん、電話もプレゼントも忘れて来たんだ」
 シンジは、今日のことを話した。
「そう。で、女の子の傷は、大丈夫なの? 」
「やることはやったよ」
「なら、大丈夫ね。シンジの腕は、なによりアタシが知っているわ」
 アスカがようやく元気を取りもどし始めた。
「ごめんね。シンジ。あなたを信じ切れていなかった。あの時、あんなにも醜かったアタシを受けいれてくれたのに」
 アスカが、シンジの胸に縋って泣いた。
「いいんだよ。僕が逃げてきたのが悪いんだから」
 シンジは、泣き顔を見せまいとするアスカを無理矢理胸から引きはがして、3度目のキスをした。
 長いキスのあと、シンジがアスカの耳にささやく。
「アスカが欲しい」
「……うん」
 アスカは、真っ赤になってうなずいた。
 二人は、シンジの車でアスカのマンションへと向かった。
 10分ほどの距離を、二人は無言で過ごした。ただ、シンジの左手をアスカはずっと握りしめていた。
 マンションの扉を閉めるなり、シンジはアスカに深いキスをした。
「身体が熱い……。腰に力が入らない」
 立っていられなくなったアスカを抱いて、シンジがベッドルームに向かう。
「灯りを消して」
 両手で顔を覆うアスカに、シンジは首を振った。
「いやだ。アスカを見ていたい」
 シンジは、そう言うなり、アスカの上に覆い被さった。
 キスをし、服の上からアスカの胸を愛撫する。
「だめ、やさしくして」
 アスカの願いも聞こえないように、シンジは、アスカの衣服を乱暴にはぎ取った。
「綺麗だ」
 勝負下着姿になったアスカにシンジが見とれる。
「やだ。見ないで」
 アスカは、恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にして強く目を閉じる。
「行くよ」
 シンジが、再びアスカの上にのしかかったとき、盛大なくしゃみが、アスカの口から出た。
 くしゃみは1回では済まなかった。
「まさか……」
 シンジは、慌ててアスカの額に触れる。
「熱が有るじゃないか。体温計はどこ? 」
 シンジに言われて、アスカはベッドの枕元においてある基礎体温測定用の体温計をくわえた。
「38度もあるよ」
 シンジの眼から情欲の炎は消えている。
「風邪ひいたんだね」
 シンジがアスカの上から起きあがる。
「えっ、シンジ続きは? 」
 アスカの両手がシンジを求めて伸びるが、むなしく空を切る。
「それどころじゃないでしょ。風邪は最初が肝腎なんだから。洗面器とタオル用意してくるから。その間に着替えておいて。汗かくと思うから、下着も吸収のいい綿の物に替えて、パジャマも着てね」
 シンジが、洗面所へと向かう。
「えええええ、なんで、こんなときに風邪ひくのよ。これもアタシを待たせたシンジが原因よ」
 口では怒りながら、アスカはうれしそうであった。
 シンジがアスカを抱こうとしたことも、アスカの体調が悪いとわかった途端に獣欲を霧散させたこと、その両方が、アスカのことを考えていてくれる証拠だと信じられたからだ。
「まだ、着替えてないの? それとも着替えさせて欲しいのかな」
 洗面器を手にしたシンジが、顔をだす。
「見たいアタシの裸? 」
「うっ。見たいよ」
 アスカに反撃されて、シンジが真っ赤になる。
「今度は、ちゃんとね」
 アスカが、蚊の鳴くような声で言う。
「うん」
 シンジも小さな声で答えた。
 二人は、恥ずかしさのあまり眼をそらしたが、心はそれていない。
「離さないでね」
「ずっと一緒だよ」
 視線を互いに戻した二人が、真顔になる。
 二人は互いがその存在のために、本当に必要な相手だとわかった。

 互いの心の傷の一カ所が縫い合わされ、しっかりと結紮された一夜であった。

終わり

初出: 2005.12.03
Author: タヌキさん
はい、タヌキさんよりアスカ誕生日祝いにトリアージ外伝を頂きました。
今回は甘いですね。それにシンジ君、かっこいい。
でも、中途半端に終っている…。(何が?)やはり、結婚式外伝がまずかったか…。
と、管理人としては切に望んだ状況が設定上、出来なくなったという事を悔やんでます。
すいません、期待してた方、すいません。

そんなわけですてきな作品を書かれたタヌキさんに、是非ご感想をお願いいたします。
タヌキさんのサイトはこちら。たぬき屋本舗
WebMaster: AzusaYumi