停電事件(一緒に探そう外伝)をきっかけに、正式な恋人同士になった碇シンジと惣流・アスカ・ラングレーは、休日の度に京都市内をデートして、親交を深めて……とは行かなかった。
京滋市立総合病院救急救命室勤務の医師であるシンジは当然として、スキップを重ねて卒業へ邁進するアスカも忙しすぎた。
三日で一日休みの勤務シフトをこなすシンジと、学生として土日を休むアスカでは、そう再々スケジュールが合うわけではないし、連休や盆、正月などの長期休暇は、子持ちや妻帯者が優遇されるのが慣習なため、シンジは病院に出ずっぱりになる。
たまに休みが重なっても、32時間勤務後で疲れ果てているシンジと、スキップのおかげで普通の学生の倍近い課題をこなさなければならないアスカでは、遊びに行く気力も体力も尽き果てている。
ようするに、せっかくカップルになった二人に甘い時間はない。
普通の男女なら、共有する空間と時間の希薄さに、その仲を浸食され、いつのまにか別れという結論に至るのだが、シンジはおいといても、なんせ片割れがアスカである。現況に甘んじるほど柔ではない。
必死でやりくりして原動機付き自転車を購入、たとえ10分の逢瀬でもとシンジの元へアスカは、通ってくる。
そんなアスカに感銘しないはずもなく、シンジも車を飛ばしてたった一度のキスのために夜道を駆ける。
他人から見ていれば、お熱いことでと、文句の一つも口に出ることを二人は繰り返し、愛を紡いでいた。
そんなある日のことである。
何ヶ月ぶりかの二人そろっての休日が、三日先にやってくる。
アスカは、カレンダーの木曜日にバツ印をつけ、大学へと向かった。
今日の講義は、本来五回生になってから受ける放射線科の読影である。
モニターに映し出されるMRIやCT、単純撮影などの画像を見て、診断を下す。
過去に新京都大学付属病院を受診した患者さんの映像を使用するだけに、実戦的でアスカの数少ないお気に入りの講義実習だ。
昼食を終えてからの投影読解の実習は眠気を誘う。
読みとれたものが発言し、眠気に抗じられなかった者は、沈黙を守りさえすればいい。
暗黙のル-ルが支配する実習室はアスカの独壇場であった。
「脳梗塞」
「小脳水頭症」
「間質性肺炎」
「膵臓腫瘍」
アスカが次々と正解を口にしていく。
「凄い」
「天は二物を与えたな」
男子学生から感嘆の声がする。
欲情の混じった賛美の声に、アスカは眉一つ動かさない。
「小生意気ね」
「年下のくせに」
女子学生の一部が、聞こえるか聞こえないかの音量で罵る。
アスカの行動に与えられるのは、賞賛だけではなかった。
妬みの方が多いかもしれない。
もともとアスカほどの美貌となると、同性からの冷たい視線は当たり前であった。その上、どう考えてもできることではない医学部でのスキップを成し遂げた能力と、嫉妬を受けるに十二分な条件がそろっている。
「男なんか目じゃないって顔して」
「アタシには勉強だけしかないっていうポーズ」
「男を誘っていることを表に出していないだけじゃない」
三人の女子学生が、悔しげな顔をする。
女子学生というのは不思議と派閥を作る。隣同士に座り、通学も一緒、トイレに行くのも連れだってと、数人で一つのグループを形成する。
その一つが特にアスカを目の敵にしていた。
三人は、それぞれなかなかの美人である。出身地はちがうが、ともに開業医の娘であり、金と男には不自由していない。
「先輩に対する気遣いを教えなきゃいけないわね」
「後輩のしつけも先輩の仕事だわ」
「小娘に格の違いを教えてあげましょう」
三人が、うなずきあい、陰謀が始まった。
アスカは帰宅部である。ひとときでも早くシンジと肩を並べたいアスカにクラブ活動に割く時間はない。
教授が退室するのを待っていたかのように、帰り支度をするアスカに男が群がった。
「惣流さん、お茶していかない? 」
「おいしいピザの店を見つけたんだけど」
「今日の症例で納得のいかないものがあったんだけど、一緒に検討会をしないか? 」
それぞれ媚びの含まれた誘いをアスカは一顧だにせず、端末をバッグにいれる。
「どいてくださる」
アスカは、男たちを蹴散らして歩きだした。
凛と背中を伸ばした姿は、まさに女王である。
そこらの美貌、もしくは金、あるいは親の権力を女王の資格などと勘違いしている輩とは一線を画する圧倒的な存在感。
男たちは気圧されたように道をあけた。
講義室を出たアスカは、図書室へと足を向ける。
出された課題はその日の内に片づけてしまわなければ、間に合わないのだ。実質三年のアスカは、三年、四年、五年と人の三倍の速度でカリキュラムを進めていかなければならない。
アスカは、停電の二日後、シンジから言われた言葉を心に奮闘していた。
テロ現場で初めて出会った冷静沈着で優秀な外科医、アスカの願いをかなえるために出世を捨て去った熱い心の医療人。
だが、その正体は、母の死を受け入れることができていない気弱な青年。
シンジはアスカにその弱さを見せた。それは、心を預けるに等しい行為であった。
「僕が、くじけそうになったとき、支えて欲しい」
アスカの脳裏に刻まれた言葉。シンジはそう言ってアスカを抱きしめた。
あのときのシンジの腕の力とささやく声を思い出すだけで、アスカは腰の力が抜けそうになる。それほど強力だった。
自らが虚像であることを知らされ、折れかけていたアスカの精神を救い、そしてエリート医師を演じ続けている自分を救ってほしいと甘えてきた男。
アスカは、震えるほど感動し、シンジを望んだ。
あの時、アスカ気づかされたのだ。今までシンジを愛していると思ったのは、自分の虚像を愛して欲しかっただけだということに。
そして、目覚めた。虚栄を取り去って残ったのが、本当の愛だと。
「シャワーだけでも浴びていればよかった」
歩きながらアスカは後悔のため息を漏らす。
寝室のベッドの上で落ち込んでいたアスカに、シンジはプロポーズし、そしてキスまでしてくれた。
だが、そこから先には進まなかった。
「君に溺れてしまいそうだから」
シンジが必死で自制した。それが、アスカにとっては不満だった。
女なら男を溺れさせてみたい。自分以外の女など目に入らなくなるようにしてしまいたいと願うのは当然である。
占有欲のかたまりと自負しているアスカが、寝室、告白、キス、とそれだけ条件がそろっていながら、中断に同意したのは、ひとえに臭いのせいだった。
解剖実習後にふさぎこんだアスカは、付き物のホルマリン臭を洗い流すだけの気力もなく、二日シャワーさえ浴びてなかった。
「初めての想い出が、臭い付きなんて、さすがに嫌だもの」
アスカは一人ごちた。
正解だったとは思っているが、あれ以来、シンジはキスはしてくれても手も握らない。ましてや自慢の膨らみなどに触れてくる気配などまったく見せもしないシンジに、アスカの不満はたまっている。
「できないわけじゃないみたいだし」
つぶやきながら、アスカは耳まで真っ赤にしている。
抱きしめられたとき、お腹に当たった固い感触。男性経験のないアスカでも、それがナニであって、どういう状態で、なぜそうなったかぐらいはわかっている。
「アタシってそんなに魅力無いかなあ」
結局アスカの悩みはいつもそこに行き着く。
図書館へと向かうアスカを見る男達を見れば、それがどれだけ間違った認識かとわかるのだが、もとよりシンジ以外の男など大根かかぼちゃにしか見えていないアスカは、そこまで男達の表情を解析していない。
「はあ」
盛大なため息をついたアスカの背中に声がかけられた。
「そおりゅうさん」
微妙な発音の間違いにアスカは、きっとなって振り返った。
そこには、三人のきらびやかな服装の女医の卵が居た。
「そうりゅうですが……」
アスカは頭をさげることなく訂正を口にする。
シンジとつきあいだす前のアスカなら、遠慮なく怒鳴りつけただろう。
「人の名前もちゃんと読めないような頭なら、さっさと大学を辞めなさい。その程度で治療されたら患者が迷惑だわ」
これぐらいの嘲りつきで。
それも今は変わった。いや、本質は変わっていない。猫をかぶることを覚えたのだ。シンジに諭され、シンジに癒され、シンジにやきもきさせられ、アスカは大人しくなった。
ホオジロザメの皮をかぶったリヴァイアサンぐらいに。
「あら、ごめんなさい。珍しいお名前だから、読み間違えてしまったわ」
おのが馬鹿を恥じもしない中央の女の顔に、アスカは見覚えがある。
「ええと、野々村さん? 」
五年生の総代を務める学年一の才媛……化粧映えする顔に脱ぐだけで生活できそうな肢体、学年の男達の視線を釘付けにするアイドル……アスカが来るまでは。
その座をアスカは、一日で取りあげた。いや、男子学生達によって捧げられた。
白人系の肌は化粧をせずとも白く、野々村ほど大きくはないが、十分女であることを証明できる膨らみ、反則なまでに長い足。シンジと会うとき意外はリップさえ塗らないアスカだったが、格が違いすぎる。
「覚えてくれていたの? 勉学以外に興味ないと思っていたわ」
野々村が意外そうな顔で言う。
「で、ご用件は? 」
アスカはすぐに本題に入った。時間が惜しい。今週末の珍しくシンジとまるまる二日もかち合った休みをたっぷりと楽しむためには、レポートや予習などを済ませておかなければならない。
「惣流さんも知っていると思うけど、レントゲンの読影実習、次回で終わりだから、打上をしようと言うことになっているの」
その話はアスカも多くの男から誘われたので知っている。
「六年生になれば、こういう講義式の実習はほとんど無くなるでしょう。病院実習とか、臨床講義がメインになるから、少人数の班で行動することが多くなるわ」
「それで? 」
アスカは先を急かす。
「学年全体でなにかをするという達成感を味わうのもこれからそうないでしょう。だから、飲み会をしようかっていうことになって、で、惣流さんだけが、出欠の返事をくれてないのよ」
野々村が、小首をかしげるようにしてアスカを誘う。
「ああ、それなら、行きませんので」
アスカはきっぱりと断る。
「ニューセンチュリーホテルでの立食パーティなのよ」
野々村が、食い下がる。
「結構です」
アスカは首を振る。
数ヶ月ぶりのゆっくりとしたシンジとの休日、そして、どんな有名なレストランのディナーよりもアスカを喜ばせるシンジの手料理。
これを邪魔するというなら、父親といえども無事では済ませない。親子の縁をたたき切って、孫も抱かさず寂しい老後を送らせてやる。
ましてや縁もゆかりもない連中など、地獄の業火に投げ込んで……とアスカが暗い思いに浸りかけたのを野々村が引き戻した。
「出ておいた方がよろしいんじゃなくて? 」
「はあ? 」
諭すような野々村に、アスカは間の抜けた顔をしてしまった。
「臨床実習に入って班分けになったとき、困ることになるわ。あなたのように馴染みがないと班に溶けこむのも大変でしょ。あまりお高くとまっているといろいろ困ったことになるわよ」
野々村の一言はアスカを黙らせた。
日本人は異端を嫌う。
出る釘は打たれる。
白い鳥から撃たれるともいう。
長く異国の侵略を受けず、異文化の混入を忌避してきた歴史を持つ民族は、横一並びを美徳とし、出過ぎる者も遅れる者も排除したがる。
ヨーロッパの血を引くアスカには受けいれがたい慣習であるが、この国で生きていくには無用の摩擦は避けるべきだという認識ぐらいはもっている。
現実、新京都大学でも類を見ないスキップの疾さは、アスカを目立たせすぎていたし、忙しくしすぎている。
誰もがアスカを知っている。だが、アスカと過ごす時間がない。年度を越えて学習しなければならないアスカに休憩時間は与えられていない。
大学生なら必ずといっていいほど有る講義の空き時間がないのだ。男子学生なら雀荘、女子学生なら喫茶店、そこで培われるコミュニケーションが、アスカにはない。まあ、必要だとも思っていなかったが。
「今度の実習変更も知らなかったんでしょ」
野々村が、笑いながら問うた。
「…………」
アスカは黙ってうなずく。
実習変更とは、明日の三限目に入っている麻酔科の笑気鎮静法実習のことだ。
全身麻酔ではなく、笑気による感覚の鈍麻とリラックスを利用して痛みを感じにくくする方法で、麻酔ほどの危険性がなく、出産やちょっとした検査などで使用される。
実習はやり方を実地で学び、それを各人が経験する目的でおこなわれる。
麻酔科準備室のベッドを利用するので、手術などが入るとキャンセルされて延期になる。その変更が先週末に有ったのだが、アスカと同じ班の女子は、アスカにだけ伝え忘れた。
いや、アスカと接する機会がなかったために伝えられなかったというのが正解だった。
先ほど、明日の変更を知ったアスカは、愕然としたが、同じ実習班の女子に携帯電話の番号やメールアドレスを教えていないアスカに問題が有り、文句も言えない。
「臨床実習の変更は日常茶飯事ですわよ」
野々村が、勝ち誇ったように胸を張った。
アスカより確実に1カップ大きな存在が、より一層誇示される。
患者の都合が第一に行われる臨床実習は、しょっちゅう変更される。
そのスケジュールは、病院にある学生控え室に掲示されるか、担当教員から班長に伝えられるが、忙しく情報を教えてくれる友人を保たないアスカには伝わりにくい。
同じ班の男子学生にメールアドレスか携帯の番号を教えておけば、確実に報せてくれるだろうが、それ以上に私用で煩わされるのは確定である。
必要事項か、不必要な誘いかを見極められなければ、すべての連絡に応対しなければならず、それはあまりに無駄な時間の浪費であった。
「打ち上げは何時からですか? 」
「五時半からよ」
アスカの問いに野々村が応える。
「……一時間で抜ければ、シンジの部屋に七時過ぎには行けるわね」
小声でアスカは計算をした。シンジの手作りの夕食をご馳走になった後、アタシをご馳走するだけの時間はあるわねと。
すでにアスカのちょっとしたお泊まりセットはシンジの部屋に置かれている。頭に強調詞がつくほどまじめなシンジの抵抗で使ったことはないが。
アスカは脳裏にお泊まりセットの中でひときわ存在感を訴える白のフリル付きシルクの下着を思い浮かべながら、応諾した。
「中座させて頂くことになると思いますが、参加します」
「そう、それはよかった。みんな惣流さんと親しくなりたいと思っていたのよ」
野々村がわざとらしい笑いを浮かべながら、去っていく。
「シンジに伝えておかなければ」
アスカは、図書室に向かいながらつぶやいた。
「碇。ちょっと……」
休み明け、宿直勤日勤に出てきたシンジを副院長が呼びつけた。
京滋市立総合病院。シンジが在籍しているここは、京滋市の管轄にあるが、その実、新京都大学の出先機関である。
私立の病院の一部を除く、ほとんどの病院はいずれかの大学病院の支配下にある。
ジェッツと呼ばれるそこに勤務する医師のほとんどは特定の大学病院から送りこまれ、分院同様の扱いを受ける。
病院の格にもよるが、病院長は概ね定年退職した教授の天下り先であり、副院長は大学病院の筆頭講師クラス、各科部長は講師、医局長は筆頭助手の出向先となることが多い。
ご多分に漏れず、シンジの病院もそうだ。院長こそ長く市の医療行政に携わった厚生労働省医療技官出身だが、副院長以下役職は全部新京都大学医学部で固めてある。
副院長室へ招かれたシンジは、勧められて腰掛けたソファーで跳び上がることになった。
「お見合いですか? 」
副院長の話はシンジの結婚話であった。
「うむ。お相手はな、私立病院とはいえ、松江市では一番の規模を誇る病院のお嬢さんだ。まあ、ぶっちゃけて言うと、その病院の院長と俺が大学の同期でな。其の縁で将来病院を任せられる逸材はいないかと尋ねられてな、君のことを思いだしたというわけだ」
副院長は、秘書に入れさせたお茶を喫しながら続ける。
「碇くんは、27歳だったかな」
「いえ、まだ25歳ですが……」
「そうだったか、いや、若い。ならちょうど良い。相手のお嬢さんは24歳だそうだ。写真が確かここに……有った有った。女子大を出て地元の市役所に勤務されているが、趣味はピアノ演奏。茶道生け花は師範の資格を持っているらしい」
写真をシンジに押しつけるが、シンジは受けとらない。
「美人だぞ」
副院長が、笑いながら見るように命じる。
シンジは、気乗りしない手つきで見合い写真の表紙をめくった。
写真には薄い和紙の紗が掛けられている。
「その紗をめくりたまえ」
写真を前に固まっているシンジを副院長が見かねた。
紗の紙をめくった下には振り袖姿の女性が立っていた。
肩をこえて肩胛骨直下まで伸ばされた黒髪、卵形の輪郭に抜けるような白い顔、柔らかい雰囲気を理知的にまとめている黒縁の眼鏡。プロポーションこそ振り袖に隠されて判断できないが、そこに居たのは間違いない美女。
「山岸マユミさんだ。どうだ、美人だろ」
副院長が笑う。
「…………」
シンジはどう応えて良いか戸惑った。
「今週末に、私たちの学年の同窓会がある。そこに山岸は、マユミさんを同伴してくるそうだ。確か、碇も土曜日は明け番だな」
副院長がシンジの顔を覗きこむ。
「はあ」
「どうだ、マユミさんを夕食に誘ってみては? 同窓会は夕方の六時からだ。まあ、せいぜい二時間と言うところだろうが。いきなり二人きりというのもなんだろうから、五時半ぐらいに私と君、山岸親子で会ってお茶でもして、そのあと二人でというのは」
「ちょっと待ってください。まだ、お受けするとは申しておりません」
シンジは、あわてて副院長の言葉を遮った。
副院長の顔色がさっと変わった。
「碇君、わかっていると思ったのだが……」
シンジを睨む。
「なぜ君が平の医局員で、ここに居なければならないか、知らないわけではないだろう」
副院長が、シンジに冷たい言葉を投げる。
「…………」
シンジは詰まった。
「新京大のジェッツは、ここだけじゃない。離島も有れば、小さな町立診療所もある」
副院長が、淡々と言う。
「経歴に傷の付いた君が、大学病院に戻り、教授選に顔を出すことは不可能だが、私や山岸の口添えが有れば、医局に戻り講師ぐらいまで出世することは無理なことではない」
「…………」
「いい加減、大人になったらどうだ? いつまでも熱い青年医師ではいられないことぐらいわかっているだろう」
副院長がたたみ込んでくる。
「…………」
シンジは答えることが出来なかった。
高校時代に父親に捨てられ、世間の荒波に投げだされたシンジである。世の中を渡るにきれいごとだけで済むとは思っていない。
現実、大学病院で教授に逆らったことで僻地医療に行かされた同級生や先輩を見てきている。
最新の設備、新薬、十分な人手。そのすべてを奪われ、日常に埋没していく。
重大な急患が出れば、なにもすることが出来ず、救助の手が来るまで唇を噛んで待つしかない。
僻地の医療に意義があることはわかっている。だが、それは内科医の出番であり、救急医の場ではない。
そしてここより遠くに行けば、アスカに会うことさえ難しくなる。
ようやく得たシンジを支えてくれる温もり。それが手の届かないところに去ってしまう恐怖にシンジは耐えられなかった。
「それにな、碇。見合いしたからといって必ず結婚しなければならないわけではない。山岸の娘さんが、おまえを気に入らないかもしれないし、おまえが気に入らない可能性もある。心配するな。二人の考えを無視して結婚なんぞさせんよ。籍を入れてから離婚というようなことになったら、山岸の娘に傷が付くからな」
副院長の心配は、山岸の娘にしかない。
「断ってもよいと……」
シンジがようやく口を開いて念を押した。
糸のような望みに縋る。
「言っただろう。山岸の娘に傷を付けるわけにはいかんと。じゃ、いいな。段取りはやっておく。土曜日の五時過ぎには、ニューセンチュリーホテルのロビーに来ておけよ。あと、それなりの格好をしてこなければ、許さんからな。話はそれだけだ」
副院長は、言いたいことだけ告げるとさっさとシンジを追いはらった。
「はあ、アスカになんて言おう」
シンジは、自分の押しの弱さに頭を抱えた。
性格の差である。
動きはアスカの方が早い。
シンジのスケジュールを完全に把握しているアスカは、今夜宿直勤務だということを把握している。
病院内で携帯電話を鳴らすことは許されないし、固定電話で呼びだしをかけることもはばかられる。
となるとメールしかない。
「土曜日、楽しみにしていてくれるのに悪いけど、どうしてもはずせない用が入ったので、そっちに行くのが七時を過ぎるわ。夕食は一緒に食べるから、待ってなさい!! アスカ。
P.S 泊まるからね」
アスカは、メールをうつだけうつと携帯を閉じる。シンジが携帯を見るのが、夜食時だけと知っている。返事が来るのは、夜中になる。
シンジの声が聞けるなら、徹夜でも待つが、メールなら朝起きたときに確認すればいい。
「さて、これを済ませないと土日楽しめないからね」
アスカは、目の前に積まれた課題に取りかかった。
救急勤務というのは、安定しない。それこそ、椅子に座る間もないほど忙しい日も有れば、どうやって時間を潰そうかと考えるほど暇な日もある。
今夜は、どちらかというと後者だった。
当初、交通事故による骨折が二人ほど有ったが、夜に入ってからは、開店休業状態。幼稚園児が、間違えてボタンを飲みこんだ誤嚥が一件有ったが、これは呼吸器科が咽頭鏡をつかって取り除いたため、シンジ達の出番はなかった。
「はあ」
シンジは今日何度目になるかわからないため息をつく。
「碇、副院長に見合いを言われたんだって? 」
今夜ペアを組む麻酔科医が、にやける。
「強引なんですよ、副院長」
シンジが、ぼやく。
「仕方ないさ。地方の私立病院は、保険制度の変更でどことも経営が苦しい。純粋に治療だけをしていればいい勤務医と違って、院長ともなると人事や経営などの医療以外のことで苦労しなきゃならない。かつてのように儲かる時代ならともかく、金策に走りまわるのが仕事じゃ、後継者になろうかという医者なんて、まあいやしない。同級生というか友人に頼まれたら、副院長も必死になるさ。目を付けられたのは、運が悪かったんだと諦めるんだな」
「でも、なんで僕なんでしょう? 」
シンジが首をかしげる。
「それはな、おまえだけが独身だからだ。この京滋市立総合病院の医者の中ではな」
麻酔科医が真相をあかす。
「へっ? 」
シンジが驚いた顔をする。
「気づいてなかったのか? 碇、今年のバレンタイン、いくつチョコレートを貰った? 」
麻酔科医の問いにシンジが指を折る。
「えっと、三十五個です」
その中にアスカの分も入っている。だけではない、北海道から直送された綾波レイの分も、ベルギー王室御用達で国内販売されていないチョコレートをくれた霧島マナの分も勘定に入っている。
「凄いな。碇が2月14日に段ボールを手にしていたとは聞いたが、そんなにあったとは思わなかったぜ。ちなみに、俺は家内の分一個だけだ」
麻酔科医が驚愕する。
「えっ、でもここの看護婦さん達がくれたのは、義理でしょ。だったら、他の先生達にも……」
「あのな。うちの病院は虚礼廃止をうたっているだろ。義理チョコと義理年賀状、お中元お歳暮は虚礼に入るんだよ」
麻酔科医が、あきれる。
「で、碇、ホワイトデーはどうした? 」
「ちゃんと返しましたよ。多かったので、だいたい金額を合わせた市販のクッキーですけど」
シンジは応える。
アスカには、「わかっているでしょうね。ちゃんと形の残るものを返しなさいよ。と、特に左手の薬指に合いそうなのやつ」と脅され、レイには「絶えず身につけているものが欲しいの」とねだられ、マナからは「この書類にサインだけしてくれればいいわ」と枠を緑で囲まれた書類を出されたことを思いだした。
結局、アスカには銀のネックレスを、レイには象眼の髪留めを、マナには小物入れを贈ったが、痛い出費であった。
「それで、しばらくナースセンター浮かれていたのか」
麻酔医が、思いだしたように言った。
「はあ? 」
シンジには訳がわからない。
「まったく、メス捌きと違って鈍いな。虚礼廃止だと言ったろ。だから、看護婦たちが渡したバレンタインは、全部本命。そしてそれに碇は見あうだけのものを返した。それは、本命に応えたに等しい」
「ええええっ」
シンジが大声を上げた。
「心配するな。そのあと全然デートの誘いもしなかっただろ。すぐに看護婦たちも碇の鈍さに気付いたから」
「なんか、複雑ですね」
シンジが、肩を落とす。
「あのときに相手を決めておけば、今頃副院長から見合いの話を……でも、副院長なら、つきあっているのを別れさせてでも見合いさせるか。まあ、どっちにしろ、独身はおまえしか居ないんだから、必要な犠牲だと思え」
「思えませんよ」
シンジは、膨れた。
「さて、そろそろ夜食にしようぜ。食いっぱぐれると朝まで空きっ腹をかかえることになるからな」
麻酔科医は、病院が用意した弁当を開く。
「そうですね」
シンジも宛われた弁当に手を伸ばす。
「おっとメールを先にしなきゃな」
麻酔科医が携帯電話を出す。
「奥さんにですか? 」
「ああ。あいつ、俺がちゃんと病院で仕事しているかどうか、疑ってやがる」
麻酔科医が苦笑しながら、指を携帯に走らせる。
「じゃ、僕も」
シンジも携帯をチェックする。
「メールが一通か」
開いたメールは、アスカからのものだった。
「土曜日のことか。僕もメールしておこう。お見合いが二時間かかるとして、終わるのが、八時頃、ニューセンチュリーホテルからタクシーなら、三十分で帰れるな。食事の用意は、行く前に済ませればいいし。ア、アスカ、泊まるつもり……僕も男なんだから我慢できないかも知れないのに。アスカ、許してくれるつもりかな」
妄想を膨らませながら、シンジはアスカに、仕事の都合で土曜日は九時すぎてからにして欲しいとメールした。
そして土曜日。
シンジは、朝十時にマンションに帰った。シャワーを浴びて三時間ほど仮眠をする。
そのあと冷蔵庫に残っていたもので軽く朝昼兼用の食事をすませ、夕食の買い物に行く。
つきあい出す前から、夕食を共にすることが多かっただけにアスカの好物は、完全に把握している。
「久しぶりにゆっくりできるからなあ。鍋物にでもしようかな? 」
地球温暖化の影響で九月はまだ夏に入るが、スーパーの食品売り場ではすでに鍋物のコーナーができている。
「しゃぶしゃぶにでもしよう。エアコンを効かせれば、暑くないだろうし。鍋物ならアスカも野菜を食べてくれるし」
シンジは、薄切りのお肉と白菜、春雨、椎茸、豆腐などを籠に入れていく。
「ごまだれを忘れたら、大変だよ。どうして、アスカはポン酢よりもごまだれなんだろう。やっぱり関東は、味が濃いんだ」
シンジは首をかしげながら、勘定を済ませ、マンションに帰った。
そのころアスカは、ヘアサロンに居た。
今晩こそシンジを我がものにするために、精一杯女ぶりをあげるためである。
「綺麗な髪ですねえ」
美容師が、アスカの髪を梳きながら感心する。
「毛先を揃える程度で良いです。あと、トリートメントをお願いします」
アスカは、注文する。
普段は、時間がないのであまり手入れらしい手入れができていないのだ。
「毛先が少し傷んでますね。どうでしょう、思い切って少し短くされては。お客さまなら、どのような髪型でもお似合いになりますし、イメージが変わって彼氏も喜ばれますよ」
美容師が、勧めるのをアスカは一言で断る。
「切りません」
シンジが、長い方が好きだと言ったのをアスカは忘れていない。
「わ、わかりました」
アスカの剣幕に驚いて、美容師は、慌ててうなずいた。
その夜、アスカはシンジとの決戦に備えて気合いの入った格好でニューセンチュリーホテルへと向かった。
ニューセンチュリーホテルは、京都の景観保護規制が解かれて最初に建てられた高層ホテルである。五山の送り火も祇園祭も時代祭も葵祭も見下ろすことのできる立地にあり、最上階のスイートルームに至っては、一泊五十万円というとんでもない費用を必要とする五つ星ホテル。宴会場も多く、毎日多くの人間でにぎわっていた。
「五階、扇の間ね」
アスカは『本日のご宴会』と書かれた案内板で新京都大学医学部放射線実技講習打ち上げ会会場を見つけた。
もともとお義理もお義理、嫌々出るのである。アスカがホテルに着いたのは、五時二十八分と開始寸前であった。
アスカがもう三十分早く着いていれば、ロビーでシンジと出会うことができたのだが、すでにシンジは待ち合わせのロビーラウンジで副院長に紹介された山岸マユミと挨拶を交わしていて、ラウンジの横を早足で歩いていくアスカに気付かず、脇見を振らずに目標へと向かうを信条としているアスカは、ロビーラウンジに目をやることもなくエレベーターホールに向かい、ともに同じ所にいることを気付かなかった。
「初めまして、碇シンジです」
「こちらこそ、初めまして、山岸マユミです」
シンジの挨拶を受けて、頭をさげた山岸マユミの頬は薄く染まっている。
「山岸、こいつが、うちの病院のホープ、救急救命室担当医の碇シンジだ。二十二歳で医師免許を取った逸材だ」
副院長がシンジを紹介する。
「よろしく、碇先生。私は、島根県で病院をやっている山岸だ。君より三十年ほど先輩になる。これは、娘のマユミ。一人娘なんで、甘やかしてしまってとんだお転婆だが、よろしく頼む」
山岸が娘を見ながら目を細める。可愛くて仕方が無いという仕草である。
「お父様ったら……」
マユミが、手で軽く打つ真似をする。
「さて、山岸。俺たちは会場に行こう。六時からだが、気の早い連中はもう来ているようだ。今も大西がそこを通っていった」
副院長が、ロビーを指さす。
「そうか、それは懐かしいな。よし、行くか」
山岸も腰をあげる。
「えっ、副院長……」
「お父様……」
残されそうになった当事者二人は、驚きで腰を浮かせる。
「なにをしている? 若い二人だけにしてやろうというのだ。碇、山岸さんを食事にご案内しろよ。俺たちは同窓会で食べてくるから気にするな」
言いながら副院長はシンジの耳にささやいた。
「わかっているだろうが、代金はおまえが払え」
マユミも父親から諭されていた。
「お父さんは気に入ったぞ。あとは、マユミ次第だ。ちゃんとどんな男か見極めるんだぞ」
二人の親父は、さっさと去っていった。
「はあ……」
シンジはため息と共にソファに腰をおろした。
「もう、勝手なこと言って……」
ちょっと怒った顔を見せながらマユミも座る。
シンジの視野にゆさりと動くものがあった。男なら目を吸い付けられずにおかないもの……いや、ものといっては失礼だ。女性が外見的にもっとも女性であることを示す乳房が大きくその存在を知らしていた。
あまり女性に興味のないシンジの目が吸い付けられるほど、圧倒的な物量であった。
シンジの周囲にいる三人の女性も、日本人離れした体型を誇っている。
七十五%白色人種系の遺伝子を保つアスカが、一歩ぬきんでているのは当然としても、レイもその細い身体に釣り合うぎりぎりの形と大きさを誇り、マナも純粋な日本人の平均を僅かながら上回る。
その三人を見慣れているシンジの目を奪うほど山岸マユミの胸は大きい。アスカが富士山とするなら、マユミはエベレストだ。
あまり体型のでないゆったりとしたワンピース姿なのだが、それを押し上げる迫力は、シンジをも魅了した。
「えっ、あっ」
シンジの視線に気付いたのだろう、マユミが両手で胸を隠す真似をする。
「碇さん、どこをご覧になっているんでしょうか? 」
マユミが睨む。
「うっ、すいません」
シンジは素直に詫びる。
「いいです。許してあげます。その代わりおいしいものをご馳走してください」
マユミが笑う。
「じゃ、行きましょうか」
シンジはマユミを誘ってホテルの最上階へと向かった。
打ち上げパーティには、五年生男子のほとんどが参加している。これというのも、アスカが出ると野々村が触れてまわったからだ。
厳しい拒否にあうのを怖がっているのだろうか、声をかける度胸の有る奴はまだ現れていない。
逆に女子学生の一部が、アスカを取り囲んだ。
「ねえ。惣流さん、そのドレス、どこで買ったの? 」
「いつもの素っ気ないジーンズにブラウスも似合うけど、フォーマルな格好だと、より映えるわねえ」
「脱色した金髪と本物じゃ光かたが違う」
端からアスカに勝負を挑む気のない女性達にしてみれば、アスカの美貌は鑑賞に値するもので、妬む気にもならない。
「これ、第三新東京で父が、大学入学祝いにって買ってくれたものなんです。今日始めて着たんですけど、似合ってます? 」
「慣れない格好は疲れます。とくにハイヒールが……ああ、早くスニーカーに変えたい」
「アタシのは、純粋な金髪じゃなくてちょっと赤毛が入っているんです」
アスカは、親しく声をかけてくる先輩達と談笑を続ける。
元は、病院実習のために人付き合いを増やそうという不純な動機だったが、悪意のない彼女たちとの会話をアスカは楽しく思い始めた。
「惣流さん、一人暮らしなんでしょ。ご飯とかは自炊? 」
おとなしめの女子学生が問う。
「それが、アタシ……料理全く駄目なんです。掃除と洗濯は出来るんですけど……」
アスカが苦笑する。
「そうなの?でもそれじゃお金かかるでしょ。今度簡単にできる料理教えてあげましょうか?」
「是非、お願いします」
アスカは頼んだ。アスカとて恋する乙女なのだ。シンジに手料理を食べさせて、おいしいと言わせてみたい。
「あらためて、よろしく。惣流さん。私は、伊吹マヤ」
「惣流・アスカ・ラングレーです。アスカって呼んでください」
「二人だけでずるいわよ」
他の女子学生が、拗ねる。
「じゃ、みんなでやりましょうか? 」
周囲からも賛同の声が挙がる。
垣根を取っ払ってしまえば、女同士というのは、すぐに仲良くなれる。
アスカは宴会場に入って初めて、穏やかに微笑んだ。
「おい、惣流さんが、笑っているぞ」
遠巻きに見ていた男子学生達がざわつき始める。
無理もない。学内で歯を見せたことさえないアスカが、笑顔なのだ。
「ご機嫌が良いのか? 」
「今日は、行けるかも知れない」
鉄壁の防御を誇るアスカといえども、アルコールが入れば、ちょっとはガードが甘くなる……いや、それ以上に積極的に飲ませて潰してしまえばと男子学生の多くが考えたとしても仕方ない。やりたいさかりなのだ。
また、普段はほとんど身なりに気を遣わないアスカが、ドレスに近い装いでやってきたのだ。男たちから見れば、誘ってくれとアスカが言っているように取れた。
「惣流さん、飲み物はなにが良いかな? 」
「なにか食べ物を取ってこようか? 」
「こんなところさっさと抜け出して、メインレストランでディナーをしませんか? 」
いきなりアスカの周囲は男だらけになった。
「いい気になっているようね。それもあと少しよ」
野々村が、嫌な笑いを浮かべ、振り返った。
「準備できてる? 」
着崩れたジャケットの男子学生が、ポケットから小さな瓶を取りだした。
「部屋は? 」
野々村が重ねて訊く。
「一つ上の603号室。あの非常階段を上がれば、すぐ。まず人目にはつかないよ」
ジャケットの男子学生が応える。
「カメラも? 」
「ぬかりなし。DVDを用意してある」
「じゃ、始めましょ」
野々村が、合図すると野々村の取り巻き女子学生の一団がアスカを取り囲んでいる男子学生たちを駆逐した。
「惣流さん、紹介しますわ。わたくしの従兄弟で津田沼靖彦。本当ならもう卒業して居るんですが、三回目の五年生ですわ」
野々村を押しのけて津田沼が、前に出てきた。
「初めましてかな。惣流さん。君とは学年は一緒だけど、五つほど歳上になる。よろしく」
津田沼が、軽く頭をさげる。
「どうも。惣流です」
アスカはそっけない返答をする。
「可愛いね。彼氏はいるの? 居ないんだったら是非つきあって欲しいなあ」
津田沼がアスカに迫る。アスカは、すっと足を引いてかわす。
「せっかくですが、私にはもう決めた人がいますので」
アスカの声は厳しい。まじめに出席さえしていれば、それほど進級が難しいわけでもない医学部で、留年を繰りかえすのは、まともではない。やる気がないか、甘えているかのどちらかである。そのどちらもアスカがもっとも嫌うものであった。
「へえ。是非紹介して欲しいな。うちの大学の人? 」
津田沼が、訊いてくる。
「プライベートなことですから」
アスカは拒絶する。
「いいじゃない。こんな綺麗な惣流さんのハートを射止めたのは、どんな良い男か知りたいじゃないか。なあ」
津田沼が野々村を振り返る。
「そうね。群がる同級生や上級生、はてはドクターたちに目もくれない惣流さんが選んだ人というのを見たいわ」
野々村が同意した。周囲を囲んでいる女子達も首を縦に振る。
「写真持って居るんでしょ。見せてよ」
野々村がアスカの持っているバッグに手を伸ばした。
「触るな」
アスカが手をはたく。
「痛いっ」
野々村が悲鳴をあげる。
「なにをするの」
怒りをあらわにする野々村にアスカは冷たい視線を向ける。
「許可無く人のバックに手を出すなんて、窃盗犯と思われても文句は言えないわよ」
「それが先輩に対する態度なの? 」
野々村が怒鳴った。
「先輩先輩と偉ぶる暇があったら、勉学に励んだら? はずかしげもなく胸の谷間を見せつけるような服を着て、医者になりに来ているのか、婿を探しに来ているのかわからないわよ」
アスカも遠慮がない。
「なんですって、この外人崩れが」
「うるさい」
二人の口げんかが始まった。たちまち周囲に人が集まってくる。
「はいはい。みっともないまねはやめようよ。野々村も落ち着いて。惣流さんも」
津田沼が、割ってはいる。
「見せ物じゃないんだから。散った散った」
二人が落ち着くのを見て、津田沼は集まった野次馬を追いはらい、両手にグラスを持って帰ってきた。
学年を牛耳っている野々村に対する遠慮から離れていた伊吹マヤが、津田沼の手元を見て首をかしげる。
「グラスを妙に交換したような……」
「えっ。それってまずいわよ。あの津田沼って、お父さんが大学のOB会の会長を務めていることを良いことにやりたい放題らしいわ。何人か、あいつの毒牙にかかったって言うし」
「それに、津田沼と野々村は従兄弟同士だって聞いたわ」
女子学生達が顔をつきあわせる。
「でも、あいつらを敵に回すとまずいわよ。野々村さん、外科の教授と怪しいって言うし……」
野々村の苛烈なしかえしに二の足を踏む。
「やっぱり、見過ごせない。私、ちょっと行ってくる」
マヤが、足を踏みだした。
津田沼が、嫌な笑いを顔に貼り付かせて、両手のグラスを、アスカ、野々村の両方に差しだす。
「実習の打ち上げにもめ事は、勘弁して欲しいな」
「うっ」
「そうね」
津田沼にそう言われて、アスカも野々村も一歩退いた。
「はい。仲直りのしるしに乾杯しよう」
差しだされたグラスを二人は受けとる。
「じゃ、一気に飲み干してよ」
津田沼の合図で野々村とアスカがグラスを合わせる。軽い音を響かせてグラスの中のシャンパンが揺れた。
「乾杯」
津田沼の声に合わせてアスカがグラスを口に寄せる。
アスカを囲んでいる野々村の取り巻きたちが、じっとアスカを見る。
「待って、アスカ」
マヤが、アスカを呼んだ。
飲みかけていたグラスをアスカが降ろす。
「なに、マヤ? 」
アスカが顔を向ける。
「伊吹くん、邪魔しないでほしいな。せっかくの仲直りをさ」
津田沼が素早くマヤを抑えにかかる。
「そうよ。伊吹さん。ちょっと離れて」
続いて野々村の取り巻きの女子学生が、マヤを排除しようとする。
「さあ、飲むわよ」
野々村がアスカをうながす。
その一連の動きを見て、気付かないアスカではない。
「そうね。その前に、グラスを交換して貰おうかしら? 」
アスカが素早く野々村の手からグラスを奪った。
「はい」
代わりに自分のグラスを差しだす。
「えっ」
野々村の顔色が変わる。
「飲めないなんて言わないわよねえ」
アスカの表情が、厳しくなる。
「ひ、人のグラスを奪い取るような下品な方とは、つきあえないわ」
野々村は、グラスをテーブルの上に放置すると足音も高く去っていく。
「おい」
津田沼が、その背中に声をかけるが、野々村は振り向きさえしない。
「いらない口出しをしやがって。覚えていろよ」
マヤに凄んで津田沼が、野々村のあとを追おうとする。その前にアスカが立ちふさがった。
「アンタ馬鹿? アタシやマヤを脅す余裕があったら、自分の心配をしなさい」
「どういう意味だ? 」
津田沼の目つきが鋭いものに変わった。
「このグラスを中身ごと警察に提出するわ。これには、アンタの指紋がくっきり残っている」
「うっ」
津田沼がグラスに手を伸ばそうとするのをアスカの手がはたき落とす。人体の急所を覚えているアスカの一撃を受けて、津田沼が座り込んだ。
「いいこと。今後何かしでかしたら、遠慮無くアタシは警察に訴えるからね。マヤはもちろん、他の女子にも指一本出してご覧なさい。マスコミにも流すわよ。アンタの悪事」
アスカが両手を腰にあてて宣言する。
「ふん、そんなものぐらい、もみ消すことはできる」
津田沼が手を押さえながら立ちあがった。
「アンタの親父がどれほどの大物か知らないけど、証拠があれば、庇いようがないわよ。そうそう、一つ良いことを教えましょうか。アタシ、診断科の加持先生と仲が良いの」
アスカが小さく笑う。
「黒衣の審判者か」
津田沼の顔色が白くなっていく。
大学で唯一のトリアージ専門医である加持リョウジは、外科の下部医局である診断科の医長で講師待遇でしかないが、医者の誰もが嫌がるトリアージを行うだけに発言力は大きい。
「知っているようね。ついでに加持先生の婚約者、葛城ミサトは、京都府警の刑事」
アスカが止めを刺す。
「くそっ」
津田沼が苦渋の顔をする。
「アタシも同級生から犯罪者を出したいと思ってはいないわ。だから、アンタがなにもしなければ、アタシも動かない」
アスカは、最後まで追い詰める気はない。やけになって、妙なことをしでかされては困る。
「わかった。俺の負けだ」
津田沼が両手を挙げた。
「結構。ついでに、アンタの従兄弟にも釘を刺しておきなさい」
「ああ」
津田沼は、うなずくと群がる学生たちを避けるようにして会場を出て行った。
アスカは、それを見送るとマヤの隣に沿った。
「おかげで助かったわ」
アスカは頭をさげる。
「ううん。友達じゃない」
マヤが首を振る。
「アリガト」
アスカは嬉しそうに微笑んだ。
ニューセンチュリーホテルは、見晴らしの良い最上階にレストランやバーを配置している。シンジは、その中で評判のイタリアンにマユミを案内していた。
「あっ、おいしい」
出されたパスタにマユミが舌鼓を打つ。
「本当だ。ゆで加減も見事ですけど、味付けがしつこくなくていいですね」
シンジも同意する。
見合いの席でイタリアンを選んだのは、お腹を一杯にしないためである。アスカとの約束があるシンジは、家に帰ってしゃぶしゃぶを食べなければならない。
「それだけでいいんですか? 遠慮なさらず召し上がってくださいね」
マユミがシンジの食が少ないことを気遣う。
「実は、昼食が遅かったんですよ」
シンジが、嘘の返事を返す。
「ならいいのですけど。ごめんなさいね。無理矢理父がつきあわせてしまって」
マユミがわびる。
「大切な週末のお休み。なにか、ご予定が有ったでしょう」
「いいえ。大丈夫ですよ。こちらこそ、申しわけありません。こんなおもしろみのない男と食事だなんて。山岸さんなら、もっといい人がいくらでもいらっしゃるでしょうに」
シンジは本心から言った。
無理をして医者になったシンジは、男女交際の経験がない。親しく話をする女友達も、アスカしかいない。そんな自分が初対面の女性を楽しませることができているとはみじんも思っていなかった。
「そう見えます? 私、男の人と二人きりでお話しするの、実は、初めてなんです」
マユミが、小さく微笑む。
「えっ? 」
シンジが驚く。
「今時珍しいでしょう。私、地元ではお嬢さんなんですよ」
マユミが笑う。
地方で総合病院の院長はかなりの名士であり、権力は市長の首をすげ替えることなど容易なほど強力だ。その病院の娘となるとまさにお嬢様である。
うかつに声をかけて院長である父親に睨まれると、仕事を失うどころか、その地に居られなくなる。いくらマユミが美人でもたいがいの男は二の足を踏む。
それでもちょっかいを出してくるのは、マユミの実家の権力あるいは金目当てと露骨にわかる連中ばかり、乳母日傘で世間知らずに育てられていても、馬鹿でないマユミは近づいてくる男の目的を感じ取り、あっさりと振る。
「だから、一度も男性とおつきあいしたこともなくて……」
マユミが恥じるように顔を伏せる。
「そうなんですか。僕もあまり女の人のことはよくわからないんですよ」
シンジは、頭を掻く。
「まさか。碇さんは、おもてになりそうですけど」
マユミが、疑わしそうな目でシンジを見る。
「とんでもない。僕みたいな取り柄の無い男に興味を持ってくれる女性は、変わり者だけですよ」
シンジはそう言いながら、この科白をアスカが聞いたら怒るんだろうなあと思っていた。
ぎこちない会話を重ねている内に料理は無くなった。
シンジがちらりと時計を見る。まだ、マユミの父が出ている同窓会のお開きまでは時間がある。
「席を変えましょうか。食べ終わったのにいつまでも居るのが気詰まりで」
シンジが、混んできた店の中を見まわす。
「そうですね。じゃ、お願いして良いですか? 私、このホテルのスカイラウンジに行ってみたいんですけど。お酒を飲むお店に入ったこと無いんです」
マユミが、頬を染める。
「僕もこのホテルのラウンジは初めてなんです。じゃ、行きましょう」
シンジは、伝票を手に立ち上がり、マユミの椅子を引いた。
同窓会会場では、手に水割りのグラスを持って山岸と副院長が、小声で話している。
「あの碇とかは、大丈夫なのか? 」
山岸が問う。
「外科医としての腕は保証するよ。あれは間違いなく天才だ」
副院長が答えた。
「それも大切なことだが、婿養子に来られるのか、ということだ」
「心配ない。碇に係累は無いといっていい」
副院長が水割りで唇を湿らせる。
「まず、母親だが、八年ほど前の地震で亡くなっている。そして父親は、失踪中だ」
「地震で……父親が失踪……。おい、もしかして、あの碇ゲンドウか」
山岸が思いあたった。
「さすがだな。よく覚えていたじゃないか」
副院長が笑う。
「当たり前だ。碇ゲンドウと言えば、俺たちの一期上で沈黙の魔術師と呼ばれた逸材じゃないか」
山岸が驚く。
「地震で瀕死の重傷を負った妻を見捨てて、他の怪我人を助けたヒーロー。その実は、世間の称賛を浴びながら、一人息子を捨てて逃げた臆病者」
副院長があざ笑う。
「おまえ、まさか……」
山岸が親友の顔を見つめる。
「まだ、碇ゲンドウに医局長戦で負けたことを根に持っているのか? 」
「ふん。あいつが最初から京都西市民病院に出向していたら、俺がすんなり医局長になれ、そのまま講師、筆頭講師、助教授とあがって行けたはずなんだ。なのに、あそこでけちがついたが為に、講師止まりで、今じゃ田舎の新設病院へ片道切符」
副院長が、真情を吐露する。
「おい、まさか、復讐で俺の娘を使おうと言うんじゃないだろうな」
山岸が副院長の肩を掴む。
「心配するな。俺も親友の娘を不幸にする気はない。碇は父親に似ず、素直な奴だ。人柄もいい。それにアイツには後ろ盾がない。医局を放りだされた碇に行き場所など無いからな。大人しくマユミさんの尻に敷かれてくれるさ」
副院長がさらりと口にする。
「なにより、碇は押しに弱い。強気に出れば、言いなりさ」
副院長が、笑いを浮かべながら言った。
午後七時半、予定していたパーティが終了した。新京都大学医学部五回生たちも三々五々散っていく。
あれだけの啖呵を津田沼相手にきったアスカを二次会に誘おうとする男子学生はいなかった。
「アスカさん、この後どうするの? 」
マヤが訊いてくる。後ろに数名の女子学生が附いている。
「そうね……」
アスカが腕時計に目をやる。シンジとの約束までまだ一時間ほどある。
「ちょっとぐらいなら、何とかなるけど……」
「じゃさ、夜景が綺麗と評判のスカイラウンジへ行ってみない? 」
マヤが誘う。
「いいわ。マヤと友達になれた記念だものね」
アスカはエレベーターホールに向かった。
シンジとマユミは、スカイラウンジの外周、窓に貼りつくように作られた二人並びの、俗にカップルシートと呼ばれる席に座っていた。
「碇さんって、結構お強いんですね」
マユミがカクテルを水のように空けながら言う。
「山岸さんこそ、凄いじゃないですか」
シンジも負けじと水割りを口に運ぶ。
すでに二人はできあがりかけている。
「私は血筋ですわ。父も亡くなった祖父も、母も祖母もざるのような人ですから」
マユミがころころと笑う。
「碇さんは、いつもお飲みになるんですか? 」
「いえ、仕事柄いつ呼びだされるかわからないので、普段は滅多に飲みません。こんなに飲んだのは学生以来ですよ」
シンジも微笑む。
会話がないのが原因だった。年頃の女性、それも美人と二人きりで話したことなどほとんど無いシンジと、箱入り娘で男と二人きりになったのが初めてのマユミでは、話が続かない。そこで、少しはほぐれるかと飲むペースをあげたのが間違いだった。
すっかりできあがってしまった二人は、気兼ねなく互いのことなどを喋り、うち解けている。
「学生時代は、飲んだんですかぁ? 」
マユミの語尾にも甘えが見られる。
「飲みましたよ。お金がないからいつも友人とか僕の部屋とかでしたけどね。ビールは値段の割に酔えないから、いつも安ウイスキーとか焼酎でした。それもなくなったときは、消毒用のエタノールをジュースで割って飲みましたよ。舌を刺すほどきついんですけど、すぐに酔えました。その代わり翌日頭が痛い痛い」
シンジが思い出すように笑う。
「私も外では飲めなかったですよ。お父さまが家以外では飲むなって。何でなんでしょうねえ」
マユミは気づいていない。飲めば、ガードが甘くなる性格に。
「外で飲むのも楽しいですね」
シンジが水割りのお代わりをオーダーする。
そこへアスカたちが入ってきたが、酔っているシンジは気づかない。
「えっ、あれは……なんでシンジが、女連れでここに……」
アスカは一目でシンジを見つけた。
「どうかした? 」
マヤがアスカを気づかう。
「席あそこでいい? 」
アスカは、シンジ達とは背中合わせになるテーブルを指さす。
「いいわよ」
マヤの了承を得て、アスカはボーイに席を用意させた。
シンジと一番近い席に腰を下ろしたアスカは、マヤたちの会話そっちのけで、耳をそばだてる。
「浮気……だったら許さない。純真な女子高生だったアタシをたぶらかして、京都にまで連れてきて、その上、親にも見せたことのないところまで見て、アタシの身体に一生消えない傷を付けた癖に。いまさら他の女に乗り換えようなんて……シンジを殺して、アタシも死んでやる」
アスカは周りに聞こえないように小声でどす黒い想いを撒く。
背中に殺気をこめたオーラが迫っていることも気づかず、シンジは、マユミと楽しそうに会話を続けている。
シンジの学生時代の他愛の無い話とか、マユミの仕事の話とか、色気のある話ではない
が、アスカは気にくわない。
アスカさえ聞いたことのないシンジの話が、ごろごろ出てくるのだ。
「なんで、アタシに言えないことでも、この女には話せるのよ」
アスカの怒りがふつふつと煮えていく。
「気分でも悪いの? 」
気がつけば、マヤたちが心配そうな顔でアスカを覗きこんでいた。
「うううん、大丈夫」
あわててよそ行きの笑顔をはりつけるが、アスカの心の中は般若状態である。
「医学部って勉強ばかりしているんじゃないんですね」
マユミがシンジの学生時代の馬鹿話を聞いて笑い転げる。
「あははっは」
シンジも笑う。
なに笑ってんのよ、このバカシンジ。
アスカは心で罵りながら、様子を窺い続ける。
「仲良くやっているじゃないか」
そこへ、副院長と山岸がやってきた。
「よくわかりましたね」
シンジが席を立ってむかえる。
「一階のラウンジにいなかったからな。あとは、ここぐらいしかない。なにより、マユミはアルコールに目がないからな」
山岸が、酔って頬を赤くしている娘に愛おしげな眼差しを向ける。
「さて、若い者同士盛り上がっているところを悪いが、そろそろ電車の時間なのでな。乗り遅れると今日中に帰れなくなってしまう」
山岸がマユミに手を添えて立たせる。
「はい、お父さま」
マユミがうなずく。
「じゃ、碇くん。今日は済まなかったね。娘が世話になった。松江に来ることがあったら是非報せてくれたまえ。歓待するよ」
「ありがとうございます。その節はよろしくお願いします」
シンジが頭をさげる。
「じゃ」
山岸はさりげなくシンジの席にあった伝票を取りあげて、キャッシャーへと向かった。
「楽しかったですわ。また、お会いしたいです」
「こちらこそ。御退屈だったでしょうに。ありがとうございました」
シンジが、礼を述べる。
「では、失礼します」
マユミが小さく手を振って父に続いた。
「碇、ご苦労だったな。いい娘さんだったろうが。では、月曜日に病院でな」
副院長も背を向ける。
「失礼します」
三人を見送ってシンジは、席に腰を下ろす。
「ふうう」
ネクタイの結び目をゆるめてシンジがため息をつく。
喉が渇いたのか、チェイサーのグラスで口を湿らせた。
「最低だよな、僕って」
シンジがつぶやく。
「アスカという恋人がいるのに、山岸さんといたこの時間が楽しかった。綾波さんといる時間も好きだし、霧島さんと話すのも嫌じゃない。僕ってこんなにいい加減な男だったんだ」
時計に目をやる。
「いけない。アスカとの約束まで時間がないや」
残っていた水割りを一気に空けた。
シンジは、あわててラウンジを出ていった。
「ごめん、アタシも帰るわ。代金は大学で払うから」
アスカは、シンジが出ていくのを待って、マヤに告げる。
「わかったわ。頑張ってね」
マヤはどうやら、アスカがシンジのことばかり見ていたことに気づいていたらしい。
「アリガト。大学でね」
アスカは、みんなに頭をさげてシンジの後を追った。
エレベーターホールでは、シンジの載ったエレベーターの扉が閉まりそうになっている。
「待ちなさいよ」
アスカが無理矢理閉じかけた扉に身体を割りこませた。
「えっ、あっ、アスカぁ? 」
シンジが驚きの声をあげる。
「なんでアスカがここに? 」
「アタシより、シンジがなぜここにいるのか知りたいわねえ」
シンジの疑問にアスカは、強ばった笑みで応える。
「ひっ」
シンジが恐懼する。
「さあ、ネタはあがってるのよ。素直に白状した方が、長生きできるわよ。ことと次第によっては、長生きと言っても五分ほどの差になるけどね」
アスカの両手の指が鷲のように曲げられてシンジの首にあてられる。
エレベーターが一階に着くまでにシンジは全部自白させられた。
「ふうん。シンジ、ちょっとここで待ってなさい。逃げたら酷いからね」
アスカは、フロントへと走り寄っていく。
しばらくして戻ってきたアスカの手には、ホテルの鍵が握られている。
「さあ、行くわよ」
アスカがシンジをうながす。
「へっ? どこへ」
シンジが、わからないという顔をする。
「この鍵を見てわからないの? 」
アスカは、シンジの目の前に鍵をぶらつかせると、シンジの手を引っ張って、エレベーターに載った。
エレベーターを降りてもアスカはシンジの手を離さず、ぐいぐい引っ張っていく。
「ここよ」
アスカが鍵を開けた部屋に入ったシンジは、顔色を変える。
「ア、アスカ、こ、ここここ……」
「鶏か、アンタは」
アスカがあきれる。
「この部屋、ダブルじゃないか。ベッドが一つしかないよ」
「当たり前でしょ。一緒に寝るんだから」
シンジをベッドに突きとばすようにしてアスカは、その前に仁王立ちした。
「いいこと。アンタがアタシに黙って見合いしたことは許してあげる。社会生活をしていく上で断り切れないしがらみというのはあるから。でもね、我慢できないのは、アタシを信じ切れなかったコトよ」
アスカは、怒っていた。
「シンジがどれだけ遠くに離れても、アタシの気持ちが変わるはずなんて無いことぐらい、わからなかったの? そんなにアタシは信用無い? 」
アスカの眼に涙が浮かんだ。
「……ごめん」
シンジが、アスカの怒っている原因を知って謝る。
「不安だったんだ。僕の大切な人は、全部いなくなった。母さん、父さん。だから、これ以上失いたくなかった。一人になるのが怖かったんだ」
シンジは、ベッドから起きると泣いているアスカを抱きしめた。
「馬鹿、アンタは本物の馬鹿よ。アタシが逃げだそうとしたのを許さなかった癖に、なに自分だけ弱い心に逃げこもうとしているのよ。アンタが、副院長に睨まれて離島に行かされたら、アタシも行くわよ。大学を出るまで二年ほど単身赴任して貰うことになるだろうけど、絶対にアタシはシンジのところに行く。それぐらいわからないの? 」
アスカはシンジの胸をたたく。
「ごめん、本当にバカシンジだよね。アスカに愛想を尽かされても当然だよ」
シンジは、じっとアスカを抱き続ける。
「アンタよりもアタシの方が不安なのよ。シンジに捨てられたらアタシ、どうしたらいいかわからないじゃない」
「ごめん……」
「許さない。もう、許さない」
アスカが首を振る。
「どうしたら許してくれるの? 」
シンジが答えを乞う。
「アタシを抱いて。アタシの身体にシンジを刻んで。そしてシンジの身体にアタシの匂いを付けさせて。他の女が寄ってこないように」
アスカが小さく震える。
「わかった」
シンジは、胸の中で俯いているアスカの顎に手をやり、上を向かせる。
そっと瞳を閉じるアスカ。シンジの唇がアスカの唇に重なりかける。
「ま、待って。先にお風呂に入らせて」
アスカは、シンジの胸に手をつい手をついて離れる。
「汗かいちゃったから」
「気にしないよ。僕は」
男は途中で止めるのが辛い。
「アタシが気にするの。ちょっとだけ待ってて」
アスカは風呂場にとびこむ。
服を脱いでシャワーを浴びながら備え付けの歯ブラシで歯を磨く。
ラウンジでツナサンドを食べたことを思いだしたのだ。タマネギを利かせたツナサンドは、結構臭う。
「初夜の最初の思い出がタマネギの匂いのキスじゃ、嫌だもの」
アスカは、ボディシャンプーを手にとって泡立てると、そのまま身体に滑らせていく。
両手で豊かな胸を持ちあげるようにして洗う。
「気に入ってくれるかなあ」
アスカの自慢の一つである。すでに自分でもわかるほど先端が尖っている。
「あう」
自分の指先でさえ、感じるほど敏感になっていた。
アスカの指は、なめらかな腹部を過ぎて、女に至る。そこは、明らかに水分以外のもので潤っていた。
「アタシ、こんなにもシンジのことを欲しがっていたんだ。高校時代からだから、足かけ四年。その想いが今日果たされるの。でも、やだな。シンジに淫乱だと思われないかなあ」
アスカはシャワーの水をあててぬめりを洗い流そうとするが、温かい水が、より一層の刺激となって、逆効果である。
そこを無視してアスカの指は足まで降り、そして最後にシンジの付けた下腹部の傷跡に戻った。
自分でなければわからないほどうっすらとした瘢痕。
アスカの指が、そっと撫でる。
シンジを大学病院から去らせることになったアスカの原罪。
それを許してくれた男。
男に縋ろうとして入った医学部で、思い知らされた覚悟の無さ。
逃げだそうとした自分を、全身でつなぎ止めてくれた男。
アスカは、身体の芯から熱くなるのを感じた。
シャワーを浴び終わったアスカは、軽く全身の水気を拭くと、バスタオル一つを身に巻いて、浴室を出た。
「シンジ……」
生まれて始めての媚態を全身にまとったアスカの潤んだ目が見たのは、ベッドの上で気持ちよさそうに寝るシンジの寝顔であった。
待っているうちに酔いが回ってしまったのだ。
「シンジ、起きて、ねえ」
アスカの甘いおねだりにもシンジは反応しない。完全に熟睡している。
「ふっ」
アスカは、急に肩の力が抜けていくのを感じた。
「まだ二人の機は熟していないと言うわけ。まったく、アタシ一人が熱くなって馬鹿みたいじゃない」
アスカは、シンジの頬を指先で突く。
「アンタだけなんだよ。アタシがこんな姿を見せるのは」
アスカはバスタオルを外すと、裸身をあらわにした。
「だから、絶対に離さない」
アスカは全裸でシンジに抱きつくと一緒に眠りについた。
そのころ、松江へ向かう特急電車の中で、山岸親娘が会話をしていた。
「どうだった、碇くんは」
山岸が娘に訊く。
「楽しい方でしたわ。それに誠実でしたし」
マユミが応える。
「そうか。気に入ったのか? 」
「ええ。とっても」
マユミが微笑む。
「お父さま。久しぶりにおねだりして良いかしら? 」
「ああ、なんでも言いなさい。服か、宝石か、それとも車かな? 」
「碇さんを私の旦那さまに貰ってください」
「へっ」
あまりにストレートな娘の表現に父親が、豆鉄砲を喰らった鳩のような顔をする。
「私、あの方の妻になります」
マユミが、遠ざかっていく京都の町へと顔を向けて、宣言した。
続く?