Triage 【トリアージ】外伝 1

一緒に探そう外伝

(123456hit贈り物)
タヌキさん

 夜勤と日勤をこなした碇シンジが自室に帰ってきたのは、夕方の6時を過ぎていた。
 32時間勤務中に5救急、3手術をこなしてへとへとになったシンジは、食事を自分で作る気力も無くコンビニ弁当を手にしている。
「シャワー浴びて、少し目を覚まさないとまずいよな」
 シンジは、足を引きずって浴室に入ると頭からシャワーをかぶった。
 アスカからの電話がかかってくるのだ。シンジもアスカと会話するのは楽しいのだが、疲れて帰ってきたときは、眠気に負けるときもある。
 短い髪をバスタオルでこすりながら、シンジが洗面所から出てくるのを待っていたかのように電話が鳴った。
「はい」
 ぼうっとしていたシンジはテレビ電話モードをオフにするのを忘れて通話ボタンを押してしまった。
「はあい、シンジ……って、なんて格好しているのよ」
 電話の向こうから黄色い悲鳴が聞こえる。
「えっ、あ、アスカ。あっ、ごめん」
 シンジは首筋に掛けていたバスタオルで慌てて股間を覆った。
「まったく、レディになんていうものを見せるの。まあ、アタシのを見たんだから、おあいこだけど」
 真っ赤になったアスカが横を向いている。
「ごめん、シャワー浴びたところだったんだ」
 シンジが詫びる。
「忙しかったの? 」
「うん。ちょっとね」
 アスカの問いにシンジが応える。
「学生が多いから、どうしても交通事故が多くなるんだよ」
「悪かったわね」
 アスカが俯く。
「気にしなくて良いって。アスカのせいじゃないんだから。それに、大学病院にいるよりも、症例は多いから。経験を積むには最適だよ」
 シンジが笑って否定する。

 かつてアスカが急患となったとき、しきたりを無視してシンジが無理矢理執刀した。
 アスカの願いに応えたのだが、それはルールを重視する大学病院では許されることではない。シンジは、その責任を取る形で地方病院へ出向させられていた。
「だって、アタシのわがままで……」
 アスカは、ずっとそれを気にしている。有望な外科医であったシンジの未来を奪ったに等しいのだ。経歴に傷の付いたシンジに、海外留学や教授助教授への出世はもうない。
「あのね、アスカ、何度も言うようだけど、医者に取ってなにが一番重要なのかわかるでしょ」
 シンジの声は穏やかにアスカに伝わる。
「一番大切なことは、患者さんの命を救うこと」
「そう。これは医者として絶対に譲れない生命線だね。そして、二番目に大切なことは患者さんの意思を尊重すること」
「ありがと」
 電話の向こうでアスカが、小さくつぶやく。
「出世や僕のプライドなんかより、アスカの希望の方が大切なんだからね」
 シンジが追い打つように、アスカを真っ赤にさせる。
「馬鹿」
 アスカがぷいと横を向く。
 シンジにはわかっている。アスカはもの凄い照れ屋なのだ。もっとも何で照れているかわからない。シンジは女心の機微に思い切り疎かった。

 「で、今日はどうだったの? 」
 シンジが話をうながした。
 アスカが毎日のように電話してくるのは、一日の不満を聞いて欲しいからだ。シンジが居ない日は留守番電話に入るだけ喋る。
「そうそう、今日から組織学の実習が始まったんだけどさあ……」
 アスカのぐちが始まった。

 新京都大学医学部に入学したアスカは、持ち前の努力で2年かかる教養課程を半年、1年かかる基礎医学講義を半年で終わらせ、2年次に3年の実習と4年の臨床医学講義を受けることになった。
 人の命に関わるだけに実習だけはスキップが許されない。アスカは毎日の実習とレポートに不満を漏らしていた。
 曰く、意味がない、臨床家になるんだから基礎科学の実習は必要ない、結果の分かり切った実習をするのは無駄、担当教員がスケベ、等々いつもたっぷり2時間は文句を言うのだ。
 要はシンジに相手して欲しいだけなのだが、恋愛に不器用なアスカは、シンジに好意を素直に伝えることができないからこうするしかない。シンジはアスカの真意に気付いてはいないが、それでも嫌がらずに相手をしている。実は楽しみでもあるのだ。シンジとて男である。アスカほどの美女との会話は、心浮き立たせる。いや、声を聞いているだけでいいのだ。疲れた耳にアスカの鈴を鳴らすような声は心地よい。やすらぐのだ。

「ふんふん、組織学の教授は堅いからねえ。休むと単位くれないよ」
 かといってちゃんと聞いていないとアスカは怒る。疲れ果てているシンジが、電話中に居眠りでもしようものなら、それこそどんな報復をされるかわからない。
 一度、居眠ったシンジは、目覚めたときストップウオッチ片手に暗い笑みを浮かべているアスカに驚いたことがある。
「惜しいわねえ。あと二分遅ければ、くくくくくく」
 シンジが起きたのを知ったアスカの言った言葉である。
 二分遅ければどうなるのかは、どうしても教えてくれなかったが、それ以降シンジはアスカの話にいつも相槌を打つようにしている。そうすれば眠らないからだ。
「2時間ずっと顕微鏡覗きっぱなしなのよ。300倍だとか500倍だとかの高倍率で、その上染色しないとわからないようなものを見てどうするって言うのよ」
「一応知識として知っておかなければ、いけないんじゃないかな」
 怒るアスカをなだめるシンジ、いつもの様相である。
「だったら、教科書かアトラスで十分じゃない。こんな実習まで必須じゃ、時間がもったいない」
「でもね。基礎を知らなければ臨床はできないだろ? 家だってそうじゃないか。土台のない上に家は建たないよ」
「ふううううん。じゃ、シンジは、手術するときにここは重層扁平上皮でここからは移行上皮だから、メスの刃先の角度を変えてとか、考えているんだ」
 アスカの眼が細められる。
「うっ……」
 シンジは応えられない。そんなことできるはずもないのだ。細胞など顕微鏡を使わないかぎり確認できるわけもない。
 シンジはアスカと口でやり合って勝てたことはなかった。
「知っておいて損はないから」
 いつも最後はそうやって逃げるしかないシンジであった。
「まあいいわ。じゃ、そろそろ寝るわね。明日から解剖学実習なんだ」
「そう。医学部でもっとも大切な実習だね。これは、臨床家に絶対必要なことだから」
 シンジはあらかじめ釘を刺しておく。
「見てなさい。アタシの手にかかれば人体の神秘などあっという間にさらけ出してやるから」
 アスカが電話の向こうで胸を張る。
「それは違うと思うよ」
 シンジは苦笑しながら電話を切った。

 アスカのスケジュールは毎週日曜日に、一週間分強制的にシンジの携帯端末に送られてくる。もちろん、シンジの勤務シフトも強制的に連絡させられる。
「今週は、月曜と木曜の午後が解剖の実習で、組織実習が火曜日午前、生理学実習が月曜日午前、生化学実習が火曜日の午後、あとは臨床系の基礎講座か」
 日曜日の夜、送られてきたスケジュールを見ながら、シンジはアスカの愚痴を思いだしていた。

「解剖実習ってさ、4人で一組なんだけど、残りの三人がアタシより先輩の癖してさ、全然やる気はないわ、レポートを一緒に書かないかって自分のマンションに誘ったり、下心丸見えだってのよ」
 解剖学の実習は、二人ぺア二組で一斑を形成する。これは実習が終わるまで変わることなく、このメンバーで一体のご遺体を解剖させて貰い、口頭試問を受ける。
 実習ごとにレポートの提出が義務づけられており、これはペアで作成する。主に解剖のスケッチとその器官の名称、作用、分布領域、支配領域などを記入していく。医学用語の英語統一化の波もあって名称には英語の併記も必要となっている。

「シンジ、おぼえてる? 解剖学教室の講師で眼鏡掛けて髪の毛七三わけで、白衣のボタン全部きちっと止めているやつ。あいつったらね、口頭試問でアタシに、このアタシによ、自分の恥骨縫合を触ってみろって言ったのよ」
 アスカが不満をこぼす。
「ああ、まだやっているんだ。僕らのときも可愛い女の子と見れば、同じ質問だしていたよ。答えられずに恥ずかしがって真っ赤になるのを見て喜ぶんだよ。で、どうしたの? アスカは」
「左右股関節から五横指正中側で女性性器直上に位置していますって言ってやったわよ。ラテン語でね」
「あははははは」
 シンジは目を白黒させている講師の姿を思い浮かべて笑った。

「実習って4時間立ちっぱなしだし、匂いもきついし。髪の毛なんてシャンプーしても臭うのよ」
 腐敗を防ぐためにホルマリンで固定してある。その匂いは独特である。シンジもおぼえていた。実習の後満員電車に乗っても気づくと自分の周りから人がいなくなるのだ。周囲の乗客の不審そうな目が思い出される。
「アスカは髪長いから大変だね」
「いっそのこと短くしてやろうかと思うわよ」
「そこまでしなくても」
「シンジは、髪の毛長いのと短いのどっちが好み? 」
 アスカの声がちょっと真剣になる。
「その人に似合っていれば、どっちも好みだけど……」
 シンジは、優柔不断な応えを返す。
「アタシにはどっちが似合うの? 」
 アスカがそれを許すはずもなく、
「……な、長い方かな……」
 シンジは、結局白状させられた。
「えへへへ、じゃ、切るのやめた」
 アスカがにこやかに笑ってその日の電話は終わった。

 シンジの勤務しているのは、京都府と奈良県と滋賀県の県境に開発された学園都市京滋市の市民病院である。四つの私立大学と一つの公立大学、三つの私立高校と一つの公立高校を擁する京滋市は、人口の平均年齢が30歳代という日本でもめずらしい自治体である。
 それだけに心筋梗塞や脳栓塞などの救急より、交通事故や急性アルコール中毒などが主となる。

「救急入電。市道三丁目交差点で車両と自転車の衝突事故。自転車に乗っていた私立高校の女子生徒が道路に投げだされて頭部を強打。意識レベル300」
 シンジの所属する救急医療室のスピーカーががなった。木曜日の午後、夏の最中ののんびりした空気が吹き飛んだ。
「撮影室に連絡、最優先で頭部MRIの準備。低体温療法システムの準備、輸血のストックは大丈夫? 」
 シンジが救急室に常駐している事務員に叫んだ。
「各所への連絡は直ちに。輸血のストックはO型だけ2L。残りは4L有ります」
 事務の女性が返す。
「職員でO型の名簿を作成しておいて」
 そう言うとシンジは、急いで救急搬入口に向かった。
 いつの間にか雨が降り出している。遠雷の音を消すようにして救急車が着いた。
 救急隊員が運び出すストレッチャーの上には、制服を真っ赤に染めた女子高生が力無く寝ている。
「身分紹介は? 」
 患者の様子を窺いながら、シンジは救急隊員に問う。
「学生証から自宅がわかりましたので連絡を入れました。もうすぐ両親が来られると思います」
 救急隊員が答える。
「わかりました。事務に身分紹介を伝えておいてください。救急車の中ではどうでしたか?」
「呼吸停止が有りましたので人工呼吸を施しました。心停止も併発しましたが、これはすぐに復旧してます」
「外傷は頭部だけですか? 」
「顔面と右肩に軽い擦過傷があります。骨折もなさそうです。跳ばされた先がちょうど歩道の段差だったのが、不幸だったようで、後頭部をかなり酷く陥没してます」
「わかりました。ご苦労様でした」
 シンジが確認事項を聞いている間に、麻酔科医が気道確保から人工呼吸器へのパイプをいれた。このまますぐにMRIに行くが、少しの間でも呼吸をおろそかにすることは、脳へ重大な障害を残すことになる。例え1分先には抜くことになってもチューブは通さなければならない。
「血圧は? 」
 シンジが問う。
「かろうじて確認できるというところだな」
 麻酔医師が告げる。
 MRI室に運ばれていった少女を見送り、シンジと麻酔医はカンファレンスルームに入った。
 カンファレンスルームには、すでに手術室担当の看護師、薬剤師、事務員、そして両親への手術説明と今後の話をするコーディネーターが集まっていた。
「よろしく」
 いつものように術前の儀式が始まる。
「MRI来ました」
 カンファレンスルームに置かれている大型モニターにレントゲン室からのデーターが送られてきた。
「頸椎の一番直上で陥没を起こしているな」
 麻酔医がつぶやく。
「頭蓋骨の破片が延髄を圧迫してますね」
 シンジも続ける。
「出血は硬膜に沿って頭頂部へと拡がっているようだ。損害を受けているのは、脳底動脈か? 」
「のようですね」
「脳浮腫も始まっているようだな」
「ええ。低体温下での手術が最良でしょう」
 外傷を起こした部位は発熱して腫れていく。それは脳にとって致命的な症状に繋がる。27度ほどの生理食塩水に身体を浸して体温を下げながらの手術が選択された。
「心臓と呼吸器への影響もある。腎臓へのショックも防げまい。時間的余裕はないな」
 担当の看護師が走っていった。
 少女の両親が病院に着いたところで、手術が開始された。

 雨が激しくなり、遠かった雷がすぐ近くに落ち始めた。
「ドレーン吸引。血圧変動に注意」
 シンジは脳を包んでいる硬膜と脳本体との間にたまった血液を吸い取り始める。
 地震のような響きと共に手術室の電源が落ちた。
「落雷か」
「自家発電はまだですか」
 手術室に怒声が飛び交う。 
 シンジはじっと動かなかった。脳内に細いとはいえ器具を入れているのだ。慌てて抜こうとして傷つけることは許されない。視野の回復までシンジは耐えた。
 1分ほどで自家発電が開始され、手術室の電源は回復した。
「術式再開します」
 シンジは、再び命との戦いを開始した。

 その日シンジが帰宅したのは、午後11時を越えていた。実に手術時間は8時間におよび、シンジの体力も気力も根こそぎ失われていた。
「アスカか」
 留守番電話のライトが点滅しているのをみてシンジはつぶやいた。
「今度は、なんの愚痴かな」
 シンジは留守番電話のスイッチを切った。救急医の心得である。自宅にいるときは、夜中でも電話が鳴ればでなければならない。
「明日で良いか」
 留守番電話の再生も食事も風呂もすることなくシンジはベッドに倒れ込んだ。

 翌朝、シンジが目覚めたのは午前10時近かった。
「お腹空いたなあ」
 ベッドから起きあがったシンジは、冷蔵庫を開けたがなにも入っていない。
「最近買い物してないものなあ」
 かつて新京都大学付属病院にいた頃は、非番の度にアスカと綾波レイと霧島マナがやってきて夕食をたかっていった。おかげで有る程度のストックがあったが、引っ越してからはそれもなくなり、一人では余分な食材を買わないために冷蔵庫にストックはない。
 シンジは買い物と食事を兼ねて自宅を出た。
 両手に荷物を抱えて帰ってきたシンジは、たまっていた洗濯をし、掃除を済ませる。夕食の用意も終わらせて時計を見ると6時になっていた。
「遅いな」
 シンジは首をひねった。
 アスカはシンジの非番の日を知っている。その日は、自分が帰宅するなりシンジの電話を掛けてくる。ポテトチップスなどを食べながら延々と夜までシンジをつきあわせるのだ。「栄養が偏るよ」
 一度注意したシンジは、画面一杯にアスカの胸、ウエスト、ヒップ、そして脚線を映されて降参した。
「このスタイルのどこに不満があるっていうの? 」
 それでも気にしたのか、最近では人参や大根きゅうりなどをざく切りにした野菜スティックなどを食べるようにはなっていたが。
 シンジもそれにつきあわされるので、非番の日の夕食は喋りながらでもつまめるようなカナッペやサンドイッチを用意している。今日は、蒸し鶏とレタスをごまだれであえたものをクロワッサンに挟んである。
「掛けてみるか」
 7時を過ぎたところでシンジは、アスカに電話した。
 電話の呼び出し音は聞こえるが、誰もでない。
「おかしいな。アスカも留守番電話にしているはずなんだけど」
 シンジは首をかしげる。互いに留守番電話の設定を忘れることはしない。
「留守にしてるわ。フルネームと用件を録音して後で掛けてきなさい。言っとくけどアタシの認めた人間以外の電話は受けないから。シン……一人以外の告白は間に合っているから無駄なことするんじゃないわよ」
 高飛車なアスカの留守番電話の声がしない。
 シンジは2分ほど待って電話を切った。
「そうだ。留守番電話」
 シンジは昨日、留守番電話が入っていたことを思いだした。
 再生する。
「………………………………………」
 ずっと無言である。シンジの留守番電話は全部で9分の録音ができる。
 5分過ぎたところで、シンジはいたずらと確信した。だが、スキップしようとして、なにか嫌な予感がそれをさせない。
「………………………」
 さすがにもう切ろうと手を伸ばしたとき、留守番電話から小さな声がした。
「……キモチワルイ」
 それを最後に電話は切れていた。
「アスカ……」
 シンジは、驚いた。これほど暗いアスカの声を聞いたことはなかった。
「どうしたんだよ」
 シンジはアスカになにかがあったと気づいた。
 もう一度電話を掛けるが、やはり反応はない。
 シンジは、車の鍵を握ると部屋を飛びだした。
 アスカのマンションは鴨川にそった京都市内にある。シンジは車を駆った。
 新設された京滋市と京都市の間は高速道路がつないでいる。シンジは、法定速度を気にすることなく、走った。
 アスカのマンションに30分でついた。
 シンジはエレベーターを待つのももどかしく、階段を駆けあがる。
 303号室、アスカの部屋についたシンジは、インターホンを鳴らす。当然のように応答はない。
「開いてくれよ」
 シンジは自分の携帯電話をドアセンサーに触れさせた。アスカによって勝手に登録されていたシンジのICチップが、認証されてドアが開いた。
「アスカ、入るよ」
 シンジは、アスカの部屋に二度目の侵入を果たした。一度目は、病気に倒れたアスカを救うためだった。
 アスカの部屋の中は真っ暗だった。どの部屋にも明かりはついていない。シンジは手当たり次第に電気をつけていく。
 洗面所、風呂場、トイレ、居間にもアスカの姿はない。
「アスカ、アスカ」
 最後に残った寝室の襖に、シンジは手を掛けながら呼びかける。
「開けるよ」
 シンジは、寝室の襖をひき開けた。
 和室の窓際に置かれたベッドの上にアスカが居た。膝を抱え、頭を膝の中に埋めていた。
「アスカ……」
 シンジはその肩の弱さに、存在感の薄さに絶句した。 
 アスカは、シンジの声がしても顔をあげようとはしない。
「…………」
 無言のアスカにシンジは近づき、そっと肩に触れる。アスカは拒否もしないが、反応してもくれない。
 シンジは両手を拡げてアスカを包み込むように抱いた。
「……シンジ……」
 ようやくアスカが顔をあげてシンジを見た。
 その瞳にいつものきらめきはなかった。夏の青空のような蒼い瞳は、輝きを失い、桜の花のような唇は色を無くしている。
「アスカ」
 シンジはやさしく問いかけて、力を込めてアスカを抱きしめた。僕はここにいるよとの言葉に代えて。
「来てくれたのね……」
 アスカが、小さくほほえんだ。
 シンジはその姿にようやく気づいた。アスカが一人のか弱い女の子でしかないことを。
 初めてアスカと出会った事故現場でのこと、友人の怪我を見て呆然となにもできなかった少女の瞳を思いだした。
「僕はなにを見ていたんだろう」
 シンジはアスカの上辺しか見ていなかったことを悔やんだ。明るく強気でそして美しい女性。自分にはない活発さに憧れてもいた。
「馬鹿だ、僕は」
 シンジはアスカをアイドルのように、偶像として見ていたことを知った。
「ううん、馬鹿はアタシ」
 アスカが口を開いた。

「なにがあったのか聞かせてくれる? 」
 シンジは、右手でそっとアスカの髪を撫でる。なぜかそうしなければいけないと思ったのだ。アスカが小さな子供に見えていた。そして、それは、死んだ母に縋りたくて縋れなかった自分に重なる。アスカの髪からホルマリンの匂いがした。それは、昨日からずっとアスカがこの部屋に籠もりきっていたことをあらわしていた。
「停電があったの」
 アスカの声は弱々しい。
「あの時、アタシたちは解剖の実習をしていた。正中切開を入れて胸部を露出させて、いよいよ内臓に手を伸ばしたときだった。実習室の電気が全部消えたの」
 新京都大学もそうだが、多くの医学部解剖学実習室は、医学部棟の地下にあることが多い。窓がないために停電すると灯りは非常口をあらわす僅かなものだけになる。
「今までアタシは実習なんて、単位のためにこなすだけで良いと思っていた。だから、解剖学実習でも組織学実習でも図鑑を見ているような気で居たわ。しなければいけないからやっている。別にこんなことをしなくても立派な医者になることは簡単だって」
 アスカの告白は、シンジの胸に伝わっていく。シンジは、黙ってアスカの頭をなで続ける。
「ペアを組んでいる先輩のやる気の無さを馬鹿にし、その手つきの鈍さにあきれ、なんでアタシがこんなことをしなければならないの。アタシは少しでも早くシンジと一緒に働きたい。無駄なことに費やす時間はないのって思っていた。一緒の班の三人をアタシは無視していた」
 アスカの身体が大きく震える。
「その時だったわ。停電が起こったの。突然のことだからあちこちで悲鳴が上がったわ。でもアタシは平気だった。雷が鳴っているのを知っていたから」
 シンジを見ていたアスカの瞳が伏せられる。
「三人の仲間も騒いでいた。それが落ち着いて静かになったとき……アタシはもう一人の存在に気づいたの」
 アスカの震えがシンジをも揺らした。シンジはなでつけていた手を外して、アスカの身体をぐっと抱きなおした。
「無言でじっとアタシたちを見ている存在。なにも言わないけど、一番近くでアタシたちのやっていることを感じている存在が」
 アスカの眼が再びシンジを見つめる。
「彼が語りかけてきたのよ。アタシの心に。俺は見て居るぞって。そんな心構えしかできないおまえが、一人前の医者になれるわけ無いって。二度と戻ることのない一瞬の経験を大切にできないものに何一つできやしないって」
「アスカ……」
「俺だったら、おまえにだけは診てもらいたいとは思わないって、はっきりと言われた気がしたの。医学の発展のため、優秀は医者を育てあげるために献体したのであって、その心のないものに触られたくはないって」
 アスカが涙をこぼした。
「電気の復旧と共にその存在は消えたわ。目の前にはいつもの風景。でもアタシ、アタシ、もう我慢できなくなって。どうやって実習を終えたのかおぼえてないの。自分が、こんなにも愚かな人間だとは思わなかった。目的しか見えていない視野の狭い、他人の心がまったくわからなかった馬鹿だと気づかされて……家に帰ってきて鏡を見たら、そこには醜悪な女が映っていたの。キモチワルイの。アタシが、アタシの存在が……」
 アスカが身をもんで泣き始める。
「ママが死んだとき、その死に目よりも仕事を取った父をアタシは見下していた。どうして最後の願いぐらい聞いてあげれないのって。でも、そのおかげで助かった人がいた。父の手によって救われた人がいた。アタシはそれを認めたくなかった。そんなときにシンジに会った。医者としての選択、トリアージに悩みながらも人の命を救おうとするシンジに興味を持った。だから、アタシはシンジに近づくために医者になろうとした。その志の低さをアタシは、見せつけられた。アタシはふさわしくないの、医者にもシンジにも。もしかするとシンジが好きというこの気持ちも偽物じゃないかって思えて、耐えられないの」
 アスカの悲鳴のような嘆きをシンジは黙って聞いた。
 シンジは、アスカの感受性の高さと心のもろさ、そしてなによりも真摯な姿勢にうたれていた。

「アタシもう医者になるのを辞める。シンジにも会わない」
 アスカがしゃくり上げるように宣した。
「勝手すぎないかな? 」
 シンジはわざと冷たく言った。
「えっ? 」
 アスカがシンジの豹変に驚く。
「僕の気持ちはどうなるの? 」
 シンジは、声を強くする。。
「アスカはいいよ。自分でやってきて自分で去っていくだけだから。でも君に引っかき回された僕はどうしたらいいの? 」
「それは……」
「それだけの償いをして貰わないと割が合わないよ」
 シンジの声はアスカを責めるようであった。
「そうね。そうよね。じゃ、アタシを好きにしてくれていいわ」
 一瞬驚いたアスカが、さみしそうな顔をした。
「好きにしていいんだね」
 シンジが念を押す。
「ええ。それでシンジの気が済むなら」
「じゃ、アスカ。僕のものになって。僕の支えに成ってくれないかな。そして君を支えさせて欲しい」
「へっ? 」
 シンジに身体を求められると思いこんで体に力を入れていたアスカが、妙な声をあげた。
「アスカは気付いた。自分になにが足りないかを。だったら、足せばいいじゃないか。手伝うから。そして、僕は、まだ自分に足りないものがなにかわかっていない。だから手伝って欲しいんだ」
 シンジは、ゆっくりと言った。
「僕だって母さんを見捨てた父さんへの復讐で医者を選んだ。さすがにそのいらだちを患者さんにぶつけることはしないけど、父さんへのわだかまりは消えそうにない。あのとき、母さんを見捨てて他の人を助けた父さんの判断が正しかったことは、わかっている。でも、頭はわかっても心が納得していないんだ。この差がいつか僕の仕事に影を差してくるときが来るような気がするんだ」
 シンジは言葉を切った。つぎ一言に想いをこめるために。
「僕は馬鹿だから、たぶんそれに気付くのに一生かかってしまうと思う。それまでつきあって貰うよ」
 シンジは耳まで真っ赤になる。
「……それって……」
 アスカが目を大きく開いた。
「本当にいいの? アタシこんなにも醜いよ」
 アスカが問う。
「大丈夫。アスカは綺麗だよ。特に今のアスカは最高に綺麗だ」
 シンジが、アスカの流した涙の跡を指でぬぐう。
「嘘」
「僕って、そんなに信用無いのかなあ」
 シンジががっくりと肩を落とす。生涯で初めての告白だったのだ。
「無いわよ。だって、だって、アタシが、どんだけシンジに一生懸命だったか気付きもしないで……馬鹿」
「信じて欲しい」
「証拠見せて」
 アスカがそっと目を閉じ、あごを心持ちあげる。
「好きだよ、アスカ」
 アスカの返事を待たずにシンジは口づけした。そっと唇が触れ合うだけのキス。
 息苦しくなるまで口を合わせていたシンジが離れた。
「それだけ? 」
 アスカが、物足りなさそうに訊く。
「ゴメン、初めてだからどうしたらいいのかわからないんだ」
 シンジが、謝る。
「アタシも初めてよ」
「そうなんだ」
 シンジは嬉しそうに笑う。
「いいのよ、最後までしても」
 アスカがシンジの胸に顔をうずめて言う。
「したいけど。今はまだ我慢しなきゃ。僕はまだ半人前だし、アスカは学生だから」
「うん」
 アスカもうなずいた。
「一緒に探していこう、僕たちの道をさ」
 シンジの言葉にアスカは、だまって抱きついた。

初出: 2005.08.12
Author: タヌキさん
はい、123456hit記念にタヌキさんより頂きました。
というか、hit記念のリクエストは何故かこのシリーズになる…(爆)
じゃなくて、今回は甘くて甘くないお話…やっぱりシビアです。
…すいません、リクエストしたのは私です。
"医師になるのに避けては通れない某実習であまりにあんまりな現状に、
「キモチワルイ」と、シンジに一言告げて、それっきり連絡もよこさなくなっ
くなるほどヘコんだアスカをシンジが励まし慰める。
で…キスシーン入れて下さい。"
…これまた具体的な…。(しかもかなーりシビア。すいません、タヌキさん。)
でも医療従事者にとってコレは避けられないし、何らかの形で体験するものだそうです。
そう、いくらお金持ちのボンボンがお金積んで医学部に入学しようと、
アスカが賢くて大学の課程をいくつもスキップしようと、コレは避けて通れない…
ということなので。
いや、こんなリクエストでも書いてくださったタヌキさん、ありがとうございます。

そんなわけでこのお話を書かれたタヌキさんに是非ご感想をお願いいたします。
タヌキさんのサイトはこちら。たぬき屋本舗
WebMaster: AzusaYumi