春は学会の季節である。
各大学の医学部が持ち回りで開く専門分野限定の小さなものから、数年に一度の国際学会のような大規模なものまで、目白押しである。
2017年、国際救急学会を開催したのは、新大阪大学医学部だった。
新大阪大学は、1970年に行われた博覧会の跡地に建てられた広壮なキャンパスを持つ総合大学である。医学部は、江戸時代に作られた私塾に始まると言われ、歴史の長さでは長崎新大学医学部に次ぐ。関西医学界に隠然たる影響を持ち、支配下にしている病院の数も多い。
どちらかと言えば権力闘争の苦手な新京都大学医学部とは、一線を画した政治力を誇る新大阪大学医学部の面子をかけた一大イベント、それが国際学会であった。
国際学会の会場は、開催地にある名門ホテルが使われることが多い。今回の舞台となったのは、大阪の中心部から外れるが、関西財界御用達でもあるクラシック・クラウンホテルである。
通称クラウンと呼ばれるホテルは、別棟仕立ての駐車場を完備し、大小様々な会議室を擁している。専門ごとに参加人数の違う国際学会には最適であった。
国際学会は数日にわたって開催される。
参加者は、出席する日数に応じた費用を支払い、聴講する。もちろん、事前に申しこみ審査を通れば、発表することも許された。
「で、シンジはどうするの? 」
一週間ぶりにシンジの部屋を訪れた惣流・アスカ・ラングレーが問うた。
「まだ医局での折り合いがついてないんだよなあ。できれば、金曜日のカンファレンスを聞きたいんだけどさ。救急部長が、土日を希望してるからなあ」
碇シンジがため息をついた。
「土日? 京滋市民総合医療センターの救急部長は、たしか既婚で子供もいたわよね。土日は、家族サービスするんじゃないの? 」
アスカが、尋ねる。
「なんか、娘さんが思春期に入って、お父さんと一緒にいたがらなくなったんだって。だから、娘さんがいる土日は、家に居場所がないんだって」
「日本のお父さんは、大変ねえ。家族のために一生懸命働いているのに、娘に嫌われるなんて」
アスカが、わざとらしいため息をつく。
「あははは……」
シンジは笑うしかない。その後に続く言葉が予想できた。
「でも、私はそういう逃げを許さないから。娘に嫌われたなら、奥さんと二人で出かけるぐらいの根性を見せなさいよ。ああ。娘がいてもいなくても、休みが重なったらデートする。これは、おはようとおやすみのキスと一緒で義務だからね」
アスカが、シンジの顔を睨むように見る。
「義務なの? 」
シンジが訊く。
「そう。税金と一緒」
「僕の権利だと思ってたんだけどなあ」
シンジは、そう言ってアスカを抱き寄せると、そっとキスをした。
短い口づけのあと、アスカが頬を染めながら言う。
「……わ、わかってるじゃない。そうよ、シンジだけが、アタシをデートに誘えるんだから……」
アスカの言葉は、ふたたびシンジによって遮られた。
夕食を共にしたあと、シンジに自宅マンションまで送ってもらったアスカの機嫌は、甘い口づけを何度もかわしたわりに悪い。
「ああ、もう。どうしてキスだけで終わるの。アタシが全身でOKサインを出していることに気づきなさいよ。なんのためにかがめばショーツの見えそうなミニスカート、脱がしやすいサマーセーターだと思ってるの。ストッキングはいてないのも、ブラがフロントホックなのも、シンジのためを考えたのに……権利だって言うなら、行使しなさい」
アスカは乱暴にセーターを脱ぎ捨てながら、ぼやいた。
スキップ制度を使って4回生扱いを受けているとはいえ、アスカはやっと今年で二十歳になる。
まだ若いと言えば若いのだが、アスカにしてみれば、シンジを狙う女が多いこともあって、確定的な証拠が欲しいのだ。
「マナはあきらめてないし、綾波先輩も最近なにも言ってこないようだけど、だまって引き下がるような人じゃないし、山岸マユミとかいうのは、たちが悪そうだし……」
アスカの悩みはつきなかった。
国際学会の初日、伊丹空港に特徴的な容貌の女性が、おりたった。第二北海道大学医学部、顕微鏡外科教室助手、綾波レイである。
「わたしは帰ってきたわ」
レイは、飛行機から降り立つと、タクシーに乗り込んでクラウンホテルへと向かった。
「預けていた人を返してもらう。惣流さん。あなたでは、碇くんには不足」
タクシーの中でレイが、小さく笑った。
一時間遅れて、一人の紳士が空港についた。
「関西へ来るのは、久しぶりだ。馬鹿娘の顔を見るのもだか」
到着ゲートを出た紳士を、若い男が出迎える。
「ラングレー教授、お待ちしておりました」
若い男に先導されて、待たせてあるハイヤーに乗り込んだ紳士こそ、アスカの父にして第三新東京大学医学部救急医学教室教授、惣流・ハインツ・ラングレー教授であった。
ハイヤーの中でラングレー教授は、助手席でかしこまっている新大阪大学医学部の若い助手に声をかけた。
「調べてくれたか? 」
「はい」
助手がうなずく。
「で、どんな男なんだ」
ラングレー教授が、その先をせかす。
「碇シンジ、京滋市民総合医療センターの救急室に勤務する24歳の男です。出身は、新京都大学医学部で、ついこの間まで医師国家試験合格最年少記録を保持しておりました」
助手がシンジのことを話し始めた。
「大学でも将来を嘱望されていたのですが、有ることで病院の慣習を破り、その責任を取る形で、地方病院へ左遷されたようです」
「娘の手術か」
さすがにそれぐらいのことはラングレー教授も知っている。
「はい」
「それについては、感謝せねばならんな」
ラングレー教授が、つぶやく。
「あの気の強い娘が、気に入った男だ。大丈夫だとは思うが、アスカは恋をしたことがない。騙されている可能性も捨てきれん。親の私いうのもなんだが、美貌では人後に落ちないからな」
ラングレー教授の目的は、学会よりもシンジを見定めることにあった。
ほとんど同じころ、リニアトレインの新関西中央駅に恰幅の良い紳士が着いた。
「パパ」
ホームで父親を迎えたのは、霧島マナである。
「マナ、元気そうだな」
飛びついてくる娘を受け止めて、霧島記念病院理事長霧島ケイゴは、微笑んだ。
「がんばっているか」
「うん」
うなずくマナに霧島ケイゴが続ける。
「で、おまえが選んだ男というのは、どこだ? 」
霧島ケイゴが、あたりを見回す。
「来てないわよ。だって、まだあたしの男になってないもの」
マナが、父親のせっかちさにあきれる。
「あたしの男……マナもいっぱしの口をきくようになったな」
「女は、恋をすれば変わるの。それより、ねえ、パパ。あたしお腹空いた」
マナが甘える。
「やれやれ、そんなところは、いつまでたっても子供だな。よし、じゃあ、どこか適当な店に入ろう。そこで、ゆっくり話を聞かせてもらうよ」
「強力なライバルがいるのよ」
小さな声で、マナが告げる。
「ほう。マナが言うほど凄いのかい? 」
「そうなのよ。見た目でも頭でも勝てないの。二人ともモデルも真っ青の美貌の上に大学をスキップするぐらいの秀才なの」
マナが、ため息をつく。
「それは手強そうだが、負ける気はないんだろう? 」
霧島ケイゴの目は笑っている。
「もちろん。あたしには二人にない魅力があるもの。同じ土俵の上で戦う必要なんてないし」
「さすがは、マナだな。お父さんは、おまえを応援するからね」
「ありがと、パパ」
マナが父親の右手を抱きかかえるようにまとわりつく。
娘に甘えられて、頬を緩めた霧島ケイゴだったが、目は冷たく光っていた。
そのすぐ後の列車から、山岸マユミが姿を現した。今回は一人だったらしく、無言で荷物をもってタクシー乗り場へと急ぐ。
「クラウンホテルまで」
客待ちしていたタクシーに乗って、山岸マユミは行き先を告げる。
大阪に関係者が集合した。
そんなことなど知りもしないシンジは、やっと決まった学会参加日をアスカにメールしていた。
メールを受け取ったアスカが、にやりと笑った。
「木曜日と金曜日……泊まりできるじゃない」
アスカは自分の講義予定を完璧に記憶している。水曜日は実習あるので、休めないが、その後の講義は、出席しないでも大丈夫である。すでに単位は取得してあった。
「水曜日の夜に迎えに来させて、車で大阪まで……夜のドライブで盛り上がった二人は……さすがに車の中で初めての経験は嫌だけど……そんなこと言っていたら、いつになるかわからないし……どっちにしろ、この二日以内に落とす」
最後は男のようなせりふを吐いて、アスカはシンジあてに、詳しい予定表をメールで送った。
「車でかあ。確かに大阪まで行くんだから、車があった方が便利かな」
メールを受け取ったシンジは、そう言いながら、アスカとの出会いを思い出していた。
シンジとアスカが出会ったのは、第二新東京のバイパス道路の上であった。
当時高校生だったアスカの乗った通学バスと、第二新東京大学で開かれていた学会から京都に戻る途中だったシンジの車が、テロに巻き込まれた。
そこでアスカは救命に必死になるシンジの姿に興味を持ち、その後を追うようにして新京都大学へと進路を決めたのだ。
「でも、アスカと車の取り合わせって、ろくなことないんだよなあ」
シンジは、ぼやいた。
無理もなかった。出会いは、最悪に近い状況だったし、二度目は急病のアスカが救急車を拒否したことで、シンジが車を出さざるをえなくなり、その延長で大学を放逐されることになった。 そして三度めは、つい先日のことだが、救急手術に手間取ってアスカとの約束に遅れたシンジが車で待ち合わせ場所に着いたとき、アスカはシンジに捨てられたと思いこみ、精神的にふさぎ込んでしまっていた。
車とアスカの取り合わせに、シンジはあまり良い思い出がなかった。
「でも、言うことをきかないと、後が怖いからなあ」
シンジはしっかりアスカの尻に敷かれていた。
綾波レイは、学会初日から目立っていた。もちろん衆に目立つ容姿も原因であったが、発表者に対する質問が、遠慮会釈無いのだ。
「そのような結論を出すには、被験者数が少なすぎる」
新しい手法を開発したと自慢げに語る大学教授に一言浴びせ、
「特別の機械がなければできない手術での成功。あなたは自分の腕を自慢したいの? それともお金があることを見せつけたいの? 」
大学病院でさえ購入することのできない高価な機械を使った手術には、痛烈な批判を浴びせる。
たった半日で、綾波レイの名前は世界中にひろまった。
権威を重んじる老人たちには、煙たがられたが、覇気のある若手からは女神とあだ名されるほど、レイは崇拝された。
「綾波さん、今晩の懇親会にご一緒していただけませんか? 」
親衛隊気取りの若い医師が、レイを誘う。
「だめ。出ないから」
レイはきっぱりと断わる。
「えっ、じゃあ、もう帰られるんですか? 」
若い医師が問う。
仕事の関係で、その日のうちにとんぼ返りする者も少なくない。
「いえ。今週日曜日の夜までいるわ」
レイが首を振る。
「じゃあ、なにか予定でも? 」
「部屋で本を読む」
重ねて訊いた若い医師をあっさりと振ると、レイは部屋へと足を向ける。
「だって、碇君がいないもの」
レイにとって、碇シンジ以外は、学会のパンフレットほどの値打ちもなかった。
ラングレー教授も綾波レイに目を向けた一人である。もちろん、妻を亡くしたことで独身に戻ったのだから、女性に惹かれるのは、当然と言えば当然なのだが、ラングレー教授は、レイのジェンダーではなく、娘のライバルという地位に興味を向けていた。
「アスカも手厳しいが、彼女もなかなか手強いな」
ラングレー教授は、会場となった大広間を出て行くレイの背中から視線を外さなかった。
「ふうむ。アスカといい、綾波ドクターといい、色の濃い女に縁があるようだな、碇シンジという男は。さすがにあの男の血を引くだけのことはあるか」
ラングレー教授がつぶやいた。
同じ会場で、やはり霧島ケイゴも綾波レイに注目していた。
「患者を呼べるな。彼女は」
霧島ケイゴはもちろん綾波レイが娘マナの恋敵であることを知っている。愛娘を可愛いと思う父親だが、そのまえに経営者であった。
構造改革という名の弱者切り捨ては、病院にも及んでいる。
健康保険点数の減額、診療科目標榜のための研修の義務化など、病院の経営は圧迫の一途をたどっていた。さすがに第二新東京一の総合病院である霧島記念病院は、今のところ経営は黒字だが、いつどうなるかわからない。近くに評判の良い病院が一軒できただけで、あっというまに閑古鳥が啼くことになりかねないのだ。
「欲しいな」
霧島ケイゴの独り言は、隣に座る娘の耳には届かなかった。
水曜日、碇シンジは当直明けの眠気を5時間の睡眠で追い払った。そのあとシャワーを浴び、気合いをいれて台所に立つ。
妙なことだが、アスカと出かけるとなれば、必ずシンジが弁当を作らなければならないのだ。
料理の経験がなく家事全滅娘だったアスカは、シンジという男を見つけて脱皮はした。掃除洗濯は万全になった。といっても、ともに機械だよりではあるが。
料理も一人暮らしには十分なところまでは来ていたが、シンジには届かない。霧島マナが、料理教室に通い少しでもシンジの腕を凌駕しようと努力し続けているのは知っているが、アスカは料理に関してはあきらめた。あの負けず嫌いのアスカが、シンジの後塵を拝することをよしとしたのである。
「まっ、誰しも苦手なモノはあるわ。それにどんなにシンジががんばってもアタシに勝てないモノがあるから、勝負はチャラよ」
その理屈に疑問を感じたマナが、シンジが絶対に勝てないこととは何かと訊いたら、アスカは胸を張って、こう答えたという。
「簡単なことよ。シンジは、シンジの子供を産めない。どんなにがんばっても」
霧島マナの口を1時間近く開放したままにしたアスカは、その日から料理は一切シンジにおっかぶせたのである。
「こんなものかな」
夕食分の弁当を大きめのタッパウエアに詰めたシンジは、用意してあった旅行鞄を持って官舎の駐車場へと急いだ。
シンジの官舎からアスカのマンションまで、渋滞に巻きこまれなければ30分ほどである。
「遅れないで済むかな」
シンジは、ゆっくりとアクセルに体重をかけた。
その日最終の講義は、薬理学実習であった。理科系の大学では慣習になっているが、その日の課題である実習を無事に終了させた学生から帰宅していい。アスカは開始からわずか1時間半で課程を終え、帰宅準備に入った。
「相変わらず早いわね」
同級生の伊吹マヤが、感嘆の声をあげる。
「マヤだって、終わりかけじゃない」
アスカは、返した。マヤの実習もあとは、混合物質の特定まで来ていた。他の学生たちが、まだ試薬をいじりやおしていることから見ても、いかに二人が図抜けているかわかる。
「これでもアスカがスキップしてくるまでは、実習の女神って呼ばれていたんだから」
マヤが、胸を張る。アスカより小振りながら形のいい膨らみが強調され、近くの男子学生の目を釘付けにする。
「悪いわね。称号とっちゃって」
そう言いながらもアスカは柔らかな顔をしている。
スキップを続けているアスカを生意気ととった上級生が張った卑劣な罠、そこから助けてくれて以来、マヤは年齢こそ二つ違うが、アスカの親友と言っていい。
アスカを壊してやろうとした連中も同じ実習室にいるが、いまだに終わりさえ見えていないのか、悪戦苦闘している様子がうかがえた。そんな女子の機嫌を取り結びたい男子たちも、自分の分を終わらせて手伝いに行きたいと必死に挑んでいるが、実習を課した教授の意図さえくみ取れないようでは、どうしようもない。
「ちょっと待っててくれない? おいしいケーキを出す喫茶店を見つけたのよ」
マヤが誘ってくれる。
「ごめん。予定があるのよ」
アスカは、申し訳なさそうに首をすくめた。
「デートね」
マヤがほほえむ。
「あの彼? 」
マヤは一度シンジを見ている。
「うん。学会に行こうかなって」
「ふううん、随分お堅いデートね」
マヤがからかうような笑みを浮かべた。
「仕方ないじゃない。朴念仁なんだから」
アスカは、頬を膨らませる。
「ふふ。可愛いわね。いってらっしゃい。そのかわり、月曜日は逃がさないからね。ちゃんと首尾を聞かせてね」
マヤは、アスカの目的をしっかり見抜いていた。
「うん」
アスカがうなずく。
「避妊は忘れちゃ駄目よ」
「じゃ、じゃね」
マヤのささやきに、真っ赤になったアスカは、小さく手のひらを振ると実習室を出た。
大学からアスカのマンションまでは、バスで15分ほどである。
「お風呂に入っている間はないか」
アスカはシャワーで我慢することにした。といっても前日たっぷりと半身浴を済ませているし、季節は春とはいえまだ肌寒いので汗も掻いていない。また、薬理学実習は、解剖実習のように異臭が身につくこともないので、このままでも問題はないのだが、そこは恋する乙女である。意中の男に臭いなんて思われてはたまらない。
アスカは衣類を剥ぐように脱ぎ捨てると、浴室に跳びこんだ。
頭からシャワーを浴びたアスカが、髪を乾かし終わるのを待っていたかのように、携帯電話が鳴る。
「下についたから」
電話はシンジである。
「すぐに降りるから」
アスカは、バスタオルを惜しげもなく落とすと、魅惑的な肢体を覆うべく用意していたランジェリーから身につけていく。
生まれたままの姿がもっとも魅力的だと知っているが、まさか裸でシンジを誘惑するわけにもいかない。アスカが選んだのは、なめらかな手触りを保つシルクの上下である。
「よし」
普段ならシンジを待たすなど平気なアスカだが、今日はあっという間に身支度を調えた。
「急がないと、駐車監視員が来ても面倒だし」
交通渋滞の大きな原因である違法駐車を一掃すべく、新世紀に入って設けられた駐車監視員制度は、観光地京都で大きな活躍をすることとなった。
慢性的な渋滞を緩和し、より多くの観光客を誘致したいと考えた新京都市は独自の条例を制定、車内に人がいても駐車禁止区域内ならば、摘発できるようにしたのである。
八坂神社や知恩院、祇園木屋町にも徒歩圏内のアスカのマンション周辺は、重点監視地域に指定されている。荷物の積み卸し、住人の送り迎えなど、黙認されている駐車時間は10分しかない。
アスカは、飛び出すようにして部屋を出た。
「待たせたわね」
助手席にアスカを載せて、車が発進した。
大阪と京都は混雑さえしなければ高速で40分もかからない。
シンジとアスカの二人は、午後8時前に宿泊先のホテルに着いた。
当然、学会会場であるクラウンホテルが便利なのだが、高い格式を誇るだけに代金が半端ではなく高い。決して薄給ではないシンジでも、3連泊するのはかなり響く。
そこで二人は、クラウンホテルまで地下鉄一本で行けるビジネスホテルに予約を入れていた。
「碇さまでございますね。シングルを2つお二泊でご予約をちょうだいいたしております」
きちっとネクタイを締めたフロントマンのせりふに、アスカは殺意さえ覚えた。
「シ、シングル二つ……こ、こいつは……ア、アタシの決心を……」
男と女、それも恋人同士が泊まりがけで出かける。男なら、夜を楽しみに部屋はダブルかツインを取るのが普通である。なのにシンジはアスカと別々のベッドで寝ることを選んだ。
「どうしたの? 部屋の鍵は貰ったよ」
両手を握りしめて動かないアスカに、シンジが不思議そうな顔をした。
「な、なんでもないわよ。ええ。なんでもね」
アスカは引きつった笑いを浮かべた。
翌朝、会場近くの喫茶店でモーニングサービスを食べた二人は、受付を済ませると会場の前三分の一中央あたりに座った。前列にしなかったのは、スライド上映となったときに見づらいからである。
「シンジは今日の講演でどれに興味があるの? 」
受付で会費と引き替えに渡されたプログラムを見ながら、アスカが訊く。
「そうだね。全部聞きたいけど、特に興味のあるのは、LCLを代替血液として使用した大量出血症例の緊急手術についてかな」
救急医であるシンジは、最近医療現場で使用されるようになってきた新しい電解物質に興味を持っていた。
「アスカは? 」
「アタシは、これかな。全身麻酔の現在と実際」
卒業後、麻酔の専門医を狙うアスカは、プログラムを指さした。
「そろそろだね」
学会の3日目が始まった。
会場に入ってきたレイは、すぐに二人の存在に気づいた。ダークスーツ一色に等しい学会場でそれほどアスカの存在は色づいていたのだ。
「久しぶりね」
レイは、あっさりとシンジの隣、アスカとは反対側の椅子に腰を下ろした。
「あ、綾波さん」
シンジが気づいた。
「で、出たわね。白い悪魔」
アスカがけわしい声を出す。
「久しぶり。碇くん」
シンジに向けてほほえんだ後、レイがアスカに顔を向ける。
「お礼を言うわ。惣流さん。長く碇くんを預かってくれてありがとう。でも、それも今日まで。ここからはわたしが碇くんの横にいるから」
レイが感情のこもってない声でアスカに言った。
「なに寝言を言っているの? シンジはアタシのもの。もう、アンタの出る幕は終わったわ」
アスカも言いかえす。
「支えられてばかりの女が、なにを言うの」
「シンジが辛いとき、隣にさえいなかった癖に」
「碇さんが必要としているのは、すぐにでもサポートできる実力を持ったわたし」
「シンジが欲しがっているのは、将来にわたって支え合えるベストパートナー。それはアタシ」
レイとアスカのやりとりは、間に挟まったシンジを無視して続けられる。
「あのう、そろそろ講演が……」
シンジが声をかけるが、まったく相手にされていない。
数百人が入れる大広間でも、群を抜いて派手な二人の美女が、こんなやりとりをやっていては目立つことこの上ない。
「綾波レイドクターの隣にいる男が、碇シンジ医師か。マナが気に入るほどの男かどうか、じっくり確かめさせて貰おう」
会場の中ほどで霧島ケイゴが、じっくりと三人のようすを見つめる。
「あれか、碇シンジという男は」
娘の特徴有る紅い髪を見つけた惣流教授が、つぶやいた。
「男を、医者という仕事を憎み続けてきた娘を変えた。アスカにふさわしいかどうか、試させて貰うぞ。碇シンジ。いや、碇ゲンドウの息子」
惣流教授の目が厳しく光った。
学会と言えども昼食休憩は取る。
赤と青、二匹の龍にはさまれていたシンジもようやく席を立つことができた。
「さあ、碇くん。昼食にしましょう。ここのコーヒーラウンジの野菜サンドイッチはおいしいわ」
レイがシンジの右手をつかむ。
「鳥じゃあるまいし。そんなもんでお腹が膨れるわけないでしょうが。シンジ、時間有るなら外に行かない? ホテルじゃ高すぎて満足に食べられないし」
アスカがシンジの左手を握って誘う。
「高カロリー、高油分の食事……成人病一直線」
「脂っ気もない、男か女かわからない体つきよりましよ」
ふたたび竜虎の争いが開始されそうになったところに、声がかかった。
「碇さん、こんにちわ」
二人のにらみ合いから逃げられる救いの神と、急いで声の主に振り向いたシンジは、唖然とした。そこには、ここにいるはずのない山岸マユミがいたのだ。山岸マユミは、大きな病院の一人娘ではあるが、医者ではない。学会に参加する義務も権利もなかった。
「山岸さん……」
シンジが呆然とした。
「山岸? 」
レイと言い争っていたアスカが、シンジのつぶやきに気づいた。
「あああああ、こいつはいつかの……乳だけ泥棒猫」
アスカは、シンジとマユミがホテルのスカイラウンジで一緒にいたところを見ている。もちろん、そのあとシンジを締め上げて見合いの事情を訊きだしていた。
「泥棒猫? 」
その言葉にレイが、反応した。
マユミに振り向いたレイの瞳が紅く輝く。
瞳の色から想像もつかない氷のような冷たい眼で、マユミを見る。とくに胸の辺りを凝視する。清楚なワンピースを着たマユミの胸元は、布地が引きつるくらいに膨らんでいた。アスカよりも二回りは量感がある。それは、レイをあきらかに突き放す存在であった。
「泥棒猫とは、初対面の相手に随分失礼なことを言われるんですね、赤毛の外人。そう、あなたが碇さんにまとわりついている疫病神なんですか」
マユミも遠慮しなかった。すでにシンジのことを調べあげ、アスカのことも知っている。
「惣流さんが、泥棒猫と喚ぶ。そう、あなたも碇くんに興味があるのね」
レイが、マユミをにらむ。
「あなたが綾波さんですね。大人しく北海道にお帰りになられてはいかがです? サラリーマンに毛の生えたような勤務医が、碇さんにはふさわしいとは思えません」
「町の病院で、お金のことばかり考えているのが正しい待遇とは思えないわ」
「人に一生使われているよりは、ましでしょう」
「あなたのその無駄にでかい尻に、碇くんを敷くつもり? 」
「婿養子などという肩身の狭い思いをさせはしません。私は誠心誠意碇さんに尽くしますから」
大人しそうな外見とは裏腹に、マユミも負けていない。
「あっ、シンジくんだあ」
そこに別の女の子がかけてきた。
「その馬鹿みたいに明るいしゃべり方は……」
アスカが、眉をしかめる。
「マナ……」
アスカの言うとおり、シンジの前には霧島マナが立っていた。
「霧島さん。どうしてここに? 」
シンジは首をかしげる。マナはアスカと同級だが、スキップしていないのでまだ専門課程には入っていない。救急学会に参加する必要などどこにもなかった。
「お弁当を届けに来たの。はい」
マナがバッグをシンジに渡す。
「一緒に食べよ。ホテルを出たところの川沿いにベンチがあるから、そこで」
マナがシンジの手を引く。
「ちょっと待ちなさい。マナ、あきらめたんじゃなかったの? 」
アスカが、マナを糾弾する。
「だって、命の恩人だもん」
理由になっていないことをマナが口にする。
少し離れたところで、見ていた霧島ケイゴがいきなり登場した娘に頭を抱える。
「なにをやっているんだか」
「本当にあれが、アスカなのか」
同じく惣流教授も、驚愕に目を見張っていた。あのアスカが一人の男を取りあっている。男なんてスケベで変態でどうしようもないと公言し続けていた娘がだ。
「うん、あれは……」
惣流教授の目が細められる。その視線の先には、ブルーのスーツに身を包んだ三十歳頃の金髪の女性がいた。
「ゼーレ財団の白衣の魔女。どうして、今ごろ学会などに顔を出す? 5年前、権威付けだけが目的になった学会に価値なしと決別宣言を出して、表の世界から消えたはず。それが、なぜ」
驚愕の声を惣流教授が発した。
「娘たちの方へ向かっている。誰に、なんの用だ? 」
惣流教授が目で追う。
相変わらずもめている五人の元に近づいた白衣の魔女が足を止めた。
「ちょっといいかしら? 」
白衣の魔女が声をかけた。
「なに、また金髪? 碇さんはよほど外人がお好きのよう……」
最初に白衣の魔女へと応対したマユミが、途中で黙った。白衣の魔女に睨まれたのだ。
「シンジ、まだ他にも手を出していたの? 」
「碇くん。ものには節度が」
「シンジくん、今は許すけど、結婚してからの浮気は駄目だからね」
それぞれシンジを締め上げようとした三人の女性たちも、白衣の魔女から放たれる雰囲気に言葉を続けられない。
「碇シンジ君ね」
白衣の魔女が、シンジに問いかけた。
「そうです。失礼ですが、あなたは? 」
初対面なのに自分の名前を知っている女性に、シンジは首をかしげた。
「あら、ごめんなさい。自己紹介がまだだったわね。私、こういう者です」
白衣の魔女が名刺を出した。
「ゼーレ財団医学研究所副所長、赤木リツコです」
「白衣の魔女」
レイが、名前を聞いて思わず漏らした。リツコの視線がシンジから外れ、レイに向いた。
「科学の探究のためなら、すべてを対価として差し出す。中世ヨーロッパ錬金術師の再来。人命より科学に重きを置く白衣の魔女」
淡々とレイがリツコの評判を口にする。
「オペ室のアイスドール」
リツコがレイをそう呼んだ。
「まるで機械のように正確無比なメス遣い。いかなる症例にも心動かすことのない氷のハートをもつ人形」
今度は逆にリツコがレイを評した。
「わたしは人形じゃない」
レイが反発した。
「ふん。まあいいわ。今日の相手は、あなたじゃない」
もののようにレイを見ていたリツコのまなざしが、シンジに戻った。
「シンジ君。そう呼ばせてもらうわ。お父様からの手紙を預かっているの」
「父さんからですか」
シンジが、思わず叫んだ。
「ええ。これを」
リツコが差しだした封筒を、奪うようにシンジは受け取った。
8年前、妻にトリアージブラックのタグをつけ、一切の治療を施すことなく見殺しにした夫。それによって5人の命が助かり、英雄あつかいされた医師。世間の賞賛を受けながら、高校生だった息子を一人残して、行方不明になった父。
どのような気持ちで最愛の妻を見捨てたのか。なぜ支え合うべき家族であった自分を一人置いて消えたのか。感情を押し殺してでも、人の命を救うと言うことはなんなのか。
救急医療に異常な執念を燃やすシンジの原因となった父、碇ゲンドウ。
なんの装飾もない白い封筒、その裏には紛れもなくその名前が記されていた。
シンジの心の中をいろいろなものが巡った。
「碇くん……」
「シンジさん……」
「碇さん……」
「シンジ……」
4人の女たちが、気遣うなか、震える手で、シンジは封筒を開く。
「来い。ゲンドウ」
一行にも満たない文字が、便箋の中央に書かれていた。
「シンジ君。ゼーレ財団の医学研究所は、あなたを必要としている。来てくれるかしら? ドイツまで。お父様が待っておられるわ」
リツコが、シンジを誘った。
続く