シンジが大学病院を去って、いや、追放されて数ヶ月が過ぎた。
「はあああ」
授業の終わりと同時に盛大なため息を漏らしたのは、新京都大学医学部2年の惣流・アスカ・ラングレーである。
アスカのわがままを押し通したことで、シンジと綾波レイは大学病院の忌避に触れ、放逐された。将来有望な医者の未来を閉ざしたことを後悔したアスカは、その身を投げ出して、詫びようとしたが、シンジにいさめられた。
「いつでも会えるから」
そう言ってシンジは、京滋市民総合医療センターへと赴任していったが、実にこの半年間一度も会っていない。
かつては、毎週三回シンジが作った夕食を共にし、週に二回学生食堂でランチを共にしたアスカは、シンジに会えない寂しさに埋もれそうであった。
「元気出して」
アスカに声を掛けたのは、同級生の霧島マナである。
マナもシンジに惚れ込んでいる一人だ。アスカ同様、シンジに命の窮地を救われたことで、想いは決定的になっていた。
「うん……」
アスカは、マナと恋敵ながら仲が良い。
女心に無頓着なシンジを三人の女が狙っている。アスカを筆頭に、レイ、とマナである。今のところ、素っ裸まで見せたアスカが一歩リードしているように見えているが、なんせ、鈍感なことでは筋金入りのシンジが相手なのだ。
優勢だと信じていたのが、一瞬でひっくり返っても不思議ではない。それほど恋敵の二人は魅力的であった。
「はああああ」
アスカは再びため息をついた。
日独のクオーターで並ぶ者のない美女のため息は、周囲にいる男たちを直撃している。
「惣流さん。飲みに行かない? 」
「食事おごるよ」
「新車買ったんだ。ドライブしようよ」
誘いはひっきりなしである。
「ああ、駄目駄目。今のアスカに何言っても耳に入らないから」
マナが、手を振って無駄なことを報せる。
「ついでに、あたしも駄目。予約済みになっちゃったからねえ」
マナも有象無象に引導を渡す。
「霧島病院の跡継ぎが決まったっていうのか? 」
雑魚の一人が驚愕の声を出す。
「馬鹿。あたしがそんなもんに興味のある男を好きになるわけないでしょう。ほら、よだれ、拭きなさい」
マナの目つきがきびしくなる。もう、かつてかぶっていた猫は脱いでいる。
「それになびくような男だったら、簡単なんだけどねえ。ライバルが強力すぎる上に、本人が女心にまったく気がきかないと来てるし」
マナも盛大なため息をつく。
大学を代表する二人の美女のため息姿は、講義室にいた男たち全部を殲滅した。
京滋市は、若年人口の減少に危機感を覚えた京都新府の切り札と言われている。木津川のほとりに残されていた広大な山野を、在来型公共輸送機関で結ぶことで開発した学園都市。国立大学、私立大学をはじめとして小中高一貫教育校などを誘致し、教育世代の子供をもつ家庭を集めることに成功した。
人口が増えれば、ショッピングセンターやシネマコンプレックスなどの娯楽施設、病院歯科医院などの医療施設も必要になる。
京滋市市民総合医療センターは、その中核となるべくして創設された病院であった。
内科外科はもちろん、産婦人科小児科、眼科耳鼻科歯科とほとんどの科目を網羅し、常勤非常勤を合わせた医師100名以上、看護師数百名を擁している。ベッド数は京都新府内最高を誇り、厚生労働省の定める高度救急病院にも指定されていた。
碇シンジは、その中の救急救命室へと出向させられていた。
大学病院と市民総合医療センターの違いは大きい。
まず身分が違う。大学病院の医師は、文部科学省の医療技官である国家公務員だが、市民総合医療センター勤務は、地方公務員になる。
一ヶ月の給料から、ボーナス、福利厚生にいたるまで違うのだ。
また、病院の持つ設備も違う。大学病院は独立行政法人として、国立でありながら独立採算制をとっている。赤字を出すわけにはいかないので、旧式設備をなだめすかして使っているのに対し、市民総合医療センターは、市の財政で動くだけに、赤字をあまり気にすることなく、予算さえ通れば、最新式の医療機器を導入することもできる。
なにより違うのが、患者にたいする姿勢である。
研究のために治療するのか、治療行為だけに専念しているのかの差である。
大学病院は基本的に教育機関として設立されている。従って、患者の治療はその一環でしかない。逆に言えば、損益を度外視した高度な医療を施すこともできる。が、患者を冷徹な観察者の目で見ていることには違いない。
一方の市民総合医療センターは、地域住民の税金で運営されるだけに、住民に対して親切である。ただ、研究機関としてのスタイルを持たないため、厚生労働省の認可が下りていない新薬や、新しい治療法にはどうしても消極的になりがちになる。
出向させられたシンジは、まず病院のスタンスの違いに戸惑った。
「ようは、勝手なことをしなければいいのさ」
二年先輩が、そう諭してくれた。
「大学病院と違うのは、すべての治療が患者のためにであることだ。自分の研究や論文のための治療は許されない」
それはシンジも大きくうなずくところである。
「ただし、ここでの治療は、全部健康保険診療の範疇に限られる」
先輩が、死刑宣告のような声で言った。
「それでは、十分なことができない場合が出てくるのじゃないですか? 」
シンジは、食ってかかった。
「ああ。あの薬が遣えたらと考えることは何度も有ったさ。抗ガン剤を例に出すまでもなく、保険では通っていない薬剤というのは結構多い。また、それでないと対抗できない病気があるのも確かだ。しかし、その費用を患者さんが負担すると言わない限り、俺たちはそれを使うことができない。勝手に健康保険で許されていない薬や治療法を使うことは、健康保険法に違反するし、なによりその費用の出所がない」
「お金の問題じゃないでしょう」
「青いことを言うな」
シンジの叫びを先輩が斬って捨てる。
「ここは、税金で運営されている市民医療センターだ。使われる金はすべて市民の血税なんだ。それを医者一人の裁量で勝手に消費することは許されない。いいか、勝手なことをするなよ。それは、おまえだけじゃなく、病院長ひいては、病院全体に迷惑を掛けることになるんだ」
「…………」
シンジは、言葉を無くした。
レイを巻き込んでしまったことを思い出したのだ。
「設備がない、薬がないと言う前に、おのが全力を尽くせ。それが救急医というものだ」
先輩はシンジのあやうさを知っている。
「救急医である俺たちが救うのは、命。心じゃないこともな」
先輩は、そう言うとシンジの肩をぐっと握った。
シンジは、顔を上げることができなかった。
だが、シンジに打ちのめされている暇は与えられない。
「救急入電、65歳女性、胸部痛を訴えた後失神、脈拍微弱、血圧低下」
「市内福原診療所より連絡。静注中にアナフィラキシーショック。呼吸停止、心拍停止」
「警察より連絡。交通事故。頭部打撲の可能性、意識なし」
「転落事故発生。市営住宅5階より幼児転落。全身打撲、骨折の可能性」
京滋市は、都市ぐるみで新生されただけに、道路の幅は広く、カーブも少ない。ついスピードを出しすぎてしまったドライバーによる交通事故は日常茶飯事であり、他に子供の数が他市に比べて多いことからか、偶発事故も少なくない。
シンジは左遷の不遇を嘆く余裕も、環境の変化に戸惑う時間もなく、救急に追いまくられた。
「大学病院より、きついだろ」
6時間に及ぶ外傷性脳内出血の手術を終えて、医局に帰ってきたシンジに先輩が声を掛ける。
「はい」
シンジは、端末の前に腰を下ろして、電子カルテを入力しながら応える。救急医の仕事は、手術と処置だけではない。
カルテの記載、入院の手配、投薬の指示、家族への説明と、医局に戻ってから休むまもなく、書類と格闘する羽目になる。
「どうだ、落ち着いたか」
先輩が、小さく笑う。
「ありがとうございます」
シンジも先輩の気遣いはわかっている。
「大学病院っていうところは、やりたいことができそうでできないからなあ。教授、助教授、講師の機嫌を窺わないとやってはいけない。最新の医療をしているようだが、その実、教授の進める治療法しかできはしない」
「はあ……」
シンジは、この先輩が外科の教授に海外で開発されたばかりの新しい手術技法を採用するように進言して、でしゃばると嫌われ左遷されたことを思い出した。
「こっちの制約も厳しいが、医局長も一つ一つの事例に口出ししてくることはない。出世の望みはあまりないが、気楽だぞ」
「はい」
シンジもうなずく。
「それにしても忙しすぎたな。この1週間、女房と話をすることも無かった。この分だと、かなりご機嫌斜めだろうよ」
先輩が苦笑する。
「そうなんですか? 」
シンジが訊く。
「おまえだって一緒だろうが。ちゃんと彼女に連絡しているのか? 」
先輩が、逆に問うてきた。
「彼女ですか? 僕いないんですよ」
シンジは顔の前で手を振る。
「嘘を言うな。あの手術をした娘、おまえの彼女なんだろ。だからあんな無茶を押し通したんだろうが」
先輩が、シンジの背中を突く。
「そんな、違いますよ。アスカは、彼女じゃなくて後輩ですよ」
シンジがあわてて否定する。
「ほう、後輩ねえ。まあ、碇がそう言うなら否定はしないがな」
先輩が、にやりと笑う。
「一つだけ忠告しておこう。女というのはな、連絡を怠ると怖いものだそ。気にかけてやれよ。それが、男の義務だ」
先輩に言われて、シンジはアスカのことが気になったが、直接電話する勇気はない。恋人関係でもないのに男から女に電話するなんて……シンジは今時珍しいほど純情で、鈍感だった。
翌日、当直開けを迎えたシンジは、アスカの様子を訊くために、先輩である加持リョウジあてに電話をかけた。
医学部の教育システムは大きく分けて二つになる。
一般社会人として必要な教養を身につける教養課程、医師として学ぶべき専門知識を教えられる専門課程である。
アスカは、その教養課程のすべての単位をすでに終えていた。
21世紀当初、日本人は働きすぎる、勉強しすぎる、余裕がないとの理由で、勤勉が悪とされ、遊ぶことが美徳となった時代があった。
国あげて休日を増やし、労働時間を短縮し、教育での習得内容を減らした結果、日本国内は未曾有をの危機に陥った。
国民総生産の減少、若年層の無気力化、そして子供の犯罪の増加である。
資源のない日本が頼るべきは、人材だけということに国民が気づくまでに、多くの時が無駄に流れた。
失われたものを取り返すのには、費やしたときの倍の時間がかかる。ようやく政策の間違いに気づいた政府が重い腰を上げたとき、すでに2010年になっていた。
政府は、人材育成に力を入れた。
日本では認めていなかったスキップ制度と、学業優秀者への報奨金制度である。
スキップとは、習得すべき単位を得てしまえば、日時はどれだけ短くてもその学年を修了した物と見なし、次の学年への進級を認めるものだ。
必死になれば、1年で3年分ぐらいの飛ばし進級は可能である。ただし、医学部などの実習が必須となっているものは、決められた実習回数をこなさないと習得と見なされない。今のアスカがそうである。学科ではすでに3年を終え、4年に入っているが、実習はまだ2年生という一種のねじれ現象を起こしていた。
「アスカ、帰ろ」
1日の講義を終えた霧島マナが、アスカを誘う。
「ごめん、アタシ今からレポート」
アスカは、マナに詫びる。
「それ、昨日の生化学実験じゃないの? だったら締め切りは来週火曜日だよ」
「教授に無理言ってるから。明日中に提出なのよ」
アスカは肩をすくめる。
「ねえ、アスカ」
荷物を片づけ始めたアスカにマナが問いかけた。
「なに? 」
「本当にスキップするつもり? 一緒に学生生活を楽しまないの? 」
マナがじっとアスカの顔を見る。
「うん」
アスカは小さく応えた。
「それってシンジのため? 」
マナもいつの間にかシンジとファーストネームで呼んでいた。
「一緒に探すって決めたから」
アスカは、シンジ引っ越しの前日、二人で話し合ったことを思い出していた。
「そんなに焦らなくても良いんじゃないの? シンジだって、アスカに無理をさせたいとは思っていないはずだよ」
マナの言うのは正論である。
アスカはシンジから何一つ約束らしいものをもらっていない。
「長い人生から見たら、あたしたちはまだ形成途中なんだから、2年や3年速くなっても変わらないと思うんだけどなあ」
マナが両手を身体の後ろに回す。アスカより一回り小さな胸が強調される。活動的なショートカットのマナは、こういう格好がよく似合った。
「あたしたちがしなければならないことは、今しかない時間をしっかりと楽しんで、社会に出るまでに十分成長しておくことじゃないかなあ。身も心も。もっともアスカの場合、身体はそれ以上成長しなくて良いんだろうけどさ」
マナがいたずらっぽく笑った。
「ありがと」
アスカは小声で礼を言う。
最後を茶化したが、マナがアスカのことを心配してくれていることは、十分に伝わった。「でも、決めたから」
アスカは、しっかりと顔をあげた。
「シンジは、優しすぎる。誰にでも同じように。全員に平等になんてできっこないのにさ。あいつは自分を押し殺すことでそれをしようとする。最初は良いわ。自分に余裕もあるだろうから。でも、どこかで無理は重なっている。それが限度を超えたとき、シンジは潰れるわ。それを防ぐためには、シンジの背負おうとしている荷物を一緒に支えてあげなければだめ。残念だけど、今のアタシでは、シンジの隣に立つことさえ許されない。このまま
6年かけて医者になっていたんじゃ、間に合わないかも知れない。だからアタシは急ぐの。少しでも早くアイツに背中を預けてもらうためにね」
アスカはきっぱりと宣言した。
「はあ、アスカらしいわ」
マナがため息をつく。
「あたしは違う方法でシンジを支えるからいい」
マナが、笑った。
「戦友も大切だけど、男はやっぱり待つ女を必要とするわ。やさしい微笑みと柔らかな胸で迎えてくれる女を。だから、あたしは焦らずにいい女になるためにいろいろ回り道しながら経験していく。もちろん、エッチなことはなし。だって、マナの全てはシンジのためって決めたから」
マナが胸を張る。
「ふうううん。ライバル宣言ととっていいのね」
アスカの眼が細くなる。
「その顔、シンジの前でしない方が良いわよ。アスカってほとんど外人なんだから。蒼い目で睨まれると凄く怖い」
マナが肩を抱いて身を震わせてみせる。
「うっさいわねえ。シンジの前ではしないわよ。たぶん。いや、シンジが浮気しないかぎり……」
アスカは自信なさげに返した。
「じゃ、あたしは帰るね。そろそろ料理学校へ行く時間だし」
「料理学校? 」
「そう。言ったでしょ。あたしの目標は碇夫人だもの。今のようにお湯沸かすのが精一杯じゃ、困るじゃない。あたしは家庭に入る。シンジの子供を産んで、育てて、一緒に老いていくの」
マナが、微笑む。
アスカは、その暖かい笑みにみとれた。心底マナが綺麗に見えた。
「じゃね」
マナが短いスカートの裾を翻して去っていくのを見送りながら、アスカはつぶやいた。
「真の強敵は、綾波さんじゃなくて、マナかも」
生化学の実験レポートを2時間で仕上げ、教授の合格印をもらったアスカは、学生の姿のない講義棟を離れた。
すでに講義棟の正門は閉められている。学外へ出るには、病院と兼用している裏門しかない。
講義棟から病院へは坂道を少し登る。季節は初夏を越えていた。アスカはわずかに額に汗を浮かべながら、歩いた。
裏門が見えてきた。
「よう、惣流さんだったか」
病院の裏口から出てきた男が、アスカに声をかけた。
「あっ、禁煙パイプのおじさん」
アスカはすぐに気づく。
「おじさんは酷いなあ。まだ30才になったとこなんだけどな」
加持リョウジが、髪の毛をくしゃくしゃとかきながら苦笑する。
「禁煙パイプをくわえているだけで、十分おじさんですよ」
アスカは冷たい目で加持の口元を見る。
「だいたい、たばこなんて百害有って一利なしじゃないですか。医者がそのことを知らないとは思えません」
「痛いなあ。これは、中学時代からの悪癖でな、止められないんだよ」
加持が、禁煙パイプをジャケットのポケットに仕舞った。
「随分遅いな」
「ちょっとレポートを書いていたものですから」
自然と肩を並べて歩きだす。
「スキップするんだって」
「できれば」
「シンジ君のためかい? 」
「…………」
加持の問いにアスカは応えなかった。霧島マナとの会話が、頭に残っている。
「どうだい、食事でも」
加持が腕時計を見て時間を確認した。
「結構です」
アスカは、加持の軟派なところを警戒する。
「なにもしないよ。後輩の彼女に手を出すほど飢えちゃいないし、なにより、葛城に知れたら、殺される」
加持が、首をすくめる。
「葛城さんって、確か……」
アスカはシンジの携帯に唯一名前の乗っていた女性、葛城ミサトのことを覚えていた。
「一応、俺の恋人と言うことになっている。大学入学からのつきあいだから、もう12年になるな」
病院の敷地を出た加持は、ポケットからたばこを取り出すと火をつけた。
「結婚しないんですか? 」
アスカが訊く。結婚の年齢が遅くなっているとはいえ、それほど交際が長く続くのは珍しい。
「できないんだよ。いや、させて貰えないんだ。葛城が、俺のプロポーズをなかなか受けてくれなくてな」
少しだけしか吸っていないたばこを加持は、足で踏みにじるようにして消して、簡易灰皿におさめる。
「どうして? 好きなんでしょ、葛城さんのことが。だったら、押しの一手でしょう」
「ああ。俺が唯一愛している女だがな、結婚は片一方の熱意だけじゃ成りたたないんだよ」
加持が応える。
「それに、俺は一度捨てられたしな……」
加持が、小さな声でつぶやく。
「晩ご飯ご馳走してくれませんか? 」
アスカは、加持に声をかける。
「…………」
加持がアスカの顔を見る。
「優しいな君も。辛い話を聞きたいらしい」
「ええ。たぶん、それはシンジの今に繋がることでしょうし」
アスカは、意思の光を灯した瞳で首肯した。
二人は、大学前通りを少し洛中に向かったところにある居酒屋に入った。学生教職員御用達の店は安くてうまい。
「こんなところで悪いな」
加持が店の奥、小座敷の片隅に腰を下ろしながら詫びる。
「かまいません。どこで食べてもアタシには一緒ですから」
アスカも座布団の上に座る。
白人の血が濃く、足の長いアスカは正座が苦手である。横座りしないと辛いこともあって、アスカはずっとズボンをはいていた。
「ビールで良いか? 」
「ええ」
加持が馴染みの店員にビールと料理を数品注文した。
「さて、まずは乾杯しよう」
二人は、掲げたジョッキを鳴らした。
「で、なにを訊きたいかな? 」
運ばれてきた料理に手を出しながら加持が問うた。
「取り敢えず、おじさんのこと訊かせて」
「おじさんは勘弁してくれ。せめて名前で呼んで欲しいな」
「じゃ、加持さん」
アスカは仕方ないなあと言った顔で告げた。
「ありがとうよ。じゃ、まあ、昔話になるがな」
加持がジョッキを口にした。
「俺と葛城が知りあったのは、ここ、新京都大学の一年のときだった。俺は医学部、葛城は法学部で、学部は違ったけどサークルが一緒でな。そこで意気投合した俺たちは、夏休みには立派なカップルになっていた」
「数ヶ月で……スケベ……」
アスカは、ジト目で加持を見る。
「そう言うな。君もそのうちシンジ君と同じことをするさ。お互いに相手が欲しくて欲しくてたまらない。1週間部屋から一歩も出なかったこともあった」
「変態……」
アスカは、少し加持から距離を取る。
「あの頃は、純粋に大学を出たら結婚するもんだと思っていたよ。俺も葛城もお互いの居ない生活はもう考えられなくなっていたからな」
加持が、ビールを逃がそうに飲んだ。
「それが崩れたのは……俺が大学の6回生、そう、卒業の年だ。法学部だった葛城はすでに大学を出て京都府警に就職していた。その夏、あの地震が起こったのさ」
2010年の7月15日。生駒山系と淀川水系の合致するところにある伏見断層が動いた。直下型地震の発生であった。
幸いなことに規模が小さかったことで、京都市内にそれほどの被害は出なかったが、震源地近くの建物は上下の揺れに耐えきれず何棟かが倒壊した。
「シンジのママが死んだときね」
「ああ。シンジ君のお母さん、碇ユイ博士は、運の悪いことに震源地近くの病院で手術中だった」
加持の話にアスカは驚いていた。シンジの父碇ゲンドウが医者だったことは知っていたが、母親まで医者だったとは聞かされていなかった。
「シンジのパパが、トリアージブラックをつけたとき……」
「そうだ。碇ゲンドウ博士が妻を見殺しにして多くの患者さんを救った美談の日だよ」
加持の声に濁りが混じる。
「…………」
アスカは無言で加持を見つめた。
「知っているかい? あの地震の時、その病院でブラックタグをつけられた人間が二人いたことを? 」
「知らない」
アスカは首を振った。
「もう一人いたんだよ。16才の少年がな。加持キョウジ、俺の弟だ」
加持が温くなったビールを一気に煽った。
「えっ」
アスカは、絶句した。
「キョウジは、心臓病があったんだ。大動脈弁閉鎖不全症。心臓から大動脈へ通じる弁の一つが小さすぎて、完全に閉じられない先天性のものだ。軽度で有れば手術することなく、一生過ごせるが、キョウジのはちょっと重かった。心臓が拡張しているときも、弁が開いたままだからずっと血液が流れ出ていく。これは血圧の維持に問題が出る。そこで、心臓外科の権威である碇ユイ博士に執刀を頼んだんだよ。失敗するはずのない手術。キョウジは2週間ほどで退院し、その後は健康に生活できるはずだった」
加持が、机を拳で叩く。
アスカはその音に身体を振るわせた。
「地震が起こるのがもう1時間早いか遅ければ、死ななくて済んだ。運命というのがあるなら、そいつは残酷な天使だ。地震はまさにキョウジの胸を開いて心臓を露出したところで起こった。碇ユイ博士は、手術室天井から落ちてきた無影灯に頭部を直撃され、キョウジは、人工心肺装置が外れて大量出血を起こし、出血性ショックになった。地震がおさまったとき、妻の手術のアシストをしていた碇ゲンドウ博士は、妻と患者にトリアージブラックをつけた」
加持は激情を抑えこんだ。
「どうしようもなかったことはわかっているさ。弟以外にも多くの人が亡くなった」
逆に淡々とした声で加持は続けた。
「弟の遺体が帰ってきたとき、俺はどうしようもない矛盾に苛まれた。命を救ってもらおうと医者にかかっていながら、その医者から救いの手を断ちきられる。人を救うべき手で、人に死刑を宣告する。医者がそんなことをしていいのか。俺は弟の遺体を前に一晩自問自答した」
加持がお代わりのジョッキを口にする。
「…………」
アスカは飲むことも食べることも忘れていた。
「そして、葬儀の前、エンバーミングされることなく、ああ、エンバーミングを知らないか。損傷した遺体の修復をすることだ。アメリカ辺りじゃ医者の仕事なんだが。俺は、冷たく固くなった弟の胸の傷を、縫い合わせながら、初めて人の命に終わりを見つめた。解剖実習で遺体と触れあうことに慣れていたつもりだったが、それは死体に慣れていただけで、死を理解していたわけじゃなかった。傷口を縫うことで俺が弟の死を受けいれたのと同時に母もようやくわかったんだろうな、号泣したんだよ。母がな」
加持が、たばこを手にした。少しもてあそんで、火をつける。
食事の場でたばこを吸う。普段のアスカなら文句を言うところだが、今は気をのまれていた。
「気丈な母が、身をもんで泣くのを見て、もう一つ俺はわかったんだ。助からないと言うレッテルを家族は納得できないってな。無駄でもいいから、なにかしらの処置をしてもらいたいものだってな。患者やその家族が医者に求めるものは奇跡じゃない。やれるだけのことをやりましたという証なんだ。なにもしないで手遅れですじゃあ、気持ちが治まらない」
加持がたばこを消した。
「弟が、煙になったあと、俺は必死でトリアージのことを勉強した。諸外国の文献を読みあさった。気がついたら、大学を卒業していた」
「…………」
アスカは引きこまれていた。1人の人間の人生がそこにあった。
「トリアージに取り憑かれたような状態で、他のことが目に入らなかったからな。卒業は出来ても国家試験は通らない。あっさりと国家試験浪人になっちまった。同級生が晴れて医者として臨床に、研究にと忙しくしているのを横目で見ながら、人を救うのが医療と信じ切っていた俺は、その根幹を崩されて、呆然と過ごしていた」
加持が顔をゆがめる。
「無為に毎日を生きていた俺を救ってくれたのは、葛城だった。今のあんたにはなんの魅力も感じない。生きてる死人と一緒になるくらいなら、あたしは仕事と結婚する。そう言われて頬を一発張られた。あれは堪えたな」
加持が苦笑いをした。
「あんたにしか出来ないことがあるでしょうが。凡百の医者には無理なことが。別れ際にミサトが投げかけてくれた言葉さ」
それを聞いたアスカは、葛城ミサトへの嫉妬を感じた。少女が大人の女にもつ反発心を越えた、かなわないと知らされた悔しさであった。
「そこまで言われて奮起しなければ、男じゃない。俺は、医療に背をむける決意をした。いや、医者の世界からはみ出すことを選んだ」
「それがトリアージ専任……」
アスカは、畏れこめて問うた。
医者の中の異端者、トリアージ専任医。医師会、いや、医療界でも完全に浮いた存在である。医者としての出世はどうやってもない。広義の医療に関わっても、治療に関わることのないトリアージ専任医は、教授助教授になることもなく、病院の院長になることも、自分で開業することもない。名誉にも金にも縁がなく、同業者からは、冷たい目で見られるが、人の嫌がることをしてくれる一目置かざるを得ない存在。
「ああ。実際に家族を失った人間でないと、トリアージの辛さ、遺族の哀しさなどわからない。などと言うつもりはないさ。でも、俺はトリアージを本当の意味で理解できる数少ない医者になりたいと思った。いや、なれると思ったからな」
加持の表情が弛む。
「葛城さんとの仲はどうやって? 」
アスカは尋ねた。
「シンジ君だよ。葛城に怒られて、やっと人生の目標を決めた俺は、妻にブラックタグをつけた碇ゲンドウ博士に会いに行ったのさ。どんな気持ちだったか訊きたくてな。行ってみれば、すでに博士は行方不明になった後だったんだがな、訪ねていった俺をシンジ君が迎えてくれて……」
加持が、遠くを見るような顔をする。
「高校生のシンジ? 」
アスカは、身をのりだした。自分の知らないシンジがそこには居る。
「いや、大学に入ったばっかりだったよ。シンジ君は。家を処分してマンションに移るちょっと前だったんじゃないかな。家の中は雑然としていたから」
加持の言葉にアスカはうなずく。
シンジの几帳面さは、何度となく通ったマンションの部屋を見てわかっていた。本棚に並んだ書物も第1巻から順番に並べないと気がすまない性格なのだ。だから、シンジは部屋が停電しても何に躓くことなく、懐中電灯にたどり着くことができる。いや、普段と変わりない生活も可能だった。
「俺の話を聞いたシンジ君が、言ってくれたのさ。大切な人を作るのは難しい、大事な人を護るのも大変です。でも、失うのは簡単なんです。加持さんにとって葛城さんは、惜しくない人だったんですかって。いやあ、葛城に殴られたよりショックだったよ。母親を亡くし、父親に失踪された男の子に説教されるとは思わなかった」
加持がにこやかに語る。
「で、どうしたんです? 」
アスカは、その先をうながした。
「その足で京都府警に行ったさ。葛城が仕事を終わるのをずっと待って、土下座したよ。俺が馬鹿だったって」
「葛城さんは? 」
「こんなまねをするようじゃ、まだわかってないようね。でも、死人じゃなくなったようだから、あたしの恋人候補にはしてあげるわって」
加持が照れくさそうに告げた。
「まあ、医者の免許を取って法医学教室の大学院に進んだときに、候補から恋人に格上げはしてくれたんだが、まだ、駄目なんだそうだ。俺は世間を斜めに見ているんだとさ」
「なんとなくわかる気がします」
アスカはミサトの言いたいことが、理解できたような感じを受けた。
「そうかい。教えてくれないか? 」
加持が、顔を突きだす。
「駄目です。自分で見つけないと意味がないんですよ」
アスカは首を振った。
「シンジについて聞かせてください」
アスカは、ぬるくなったジョッキを片隅に追いやった。
「……シンジ君かい」
途端に加持の表情が曇る。
「危ないな。シンジ君は」
「アタシもそう思います」
アスカも同意する。
「まあ、無理もないがね。目の前で傷ついている妻を放置して、父は他の患者の治療を優先した。それが非難できないことだとわかっている。でも感情では納得できていない。心理的な矛盾から、シンジ君は脱却していない」
「ええ」
加持の観察にアスカもうなずく。
「シンジ君は医療に理想を求めすぎている。全ての患者の命を救い、その求めには絶対に応じる。それが医療の本質だと思いこんでいる。いや、医療は万能だと思いこもうとしているんだろうな。それが出来るのは神だけだと言うことに気づいていない」
「気づいているけど、それを無理矢理頭の中から追いだしている」
アスカが、加持の意見を言い換える。
「さすがによく見ているな。その通りだろう。シンジ君はお母さんを見殺しにした父を憎むことが出来なかったことが、足かせになっている。碇ゲンドウ博士は、世論で英雄視されたからな。マスコミも医学界もこぞって褒め称えた。父を非難することは、その人々も罵ることになる。シンジ君は、父親に向けるべき感情の爆発を医療にぶつけた。だから、命に最も近い救急の現場を彼は選んだんだろう。救急の結果はすぐに出るしな」
加持が、厳しい顔をした。
「でもそんな心理で、感情にまかせた思いこみで、救急にたずさわっていると……」
アスカは、辛い声をだす。
「ああ。自分の力が及ばない場面に出会ったとき……」
「シンジは壊れる」
「おそらくな」
加持が首肯した。
二人の間に沈黙が落ちた。
それを破ったのは加持であった。
「でもまあ、大丈夫だろ。シンジ君には、こんな可愛い女神がついているんだからな」
加持が、アスカの頭を撫でる。
「はい。アタシが絶対にシンジを支えてみせます」
アスカは、強くうなずいた。
「だが、君が無理をしてはなんにもならないんだ。いいかい。君に余裕がなければ、シンジ君を受けいれることは出来ない。無茶が必要なことは多々あるが、無理はいけない」
加持に諭されて、アスカは気づいた。
「シンジですか? 」
「見抜かれたか。ああ。シンジ君が気にしていたのさ。アスカが責任を感じて無理してなければいいんですがってな」
加持が、にやりと唇をゆがめる。
「あの馬鹿……人の心配より、自分のことを考えなさいよ」
文句を言いながらもアスカの顔は弛んでいる。
「いいんじゃないかな。どっちにしろ、男は女の手のひらの上で踊っているだけなんだからな。焦らずに待つのも女の特権だぜ」
加持が男臭い笑みで締めくくった。
たいした金額ではなかったが、夕食を加持に奢ってもらったアスカは、憂いた顔でマンションに帰ってきた。
荷物をリビングの机の上に放りだして、アスカは携帯電話を手にした。
「ふううう」
メモリーの1番に入れた番号を呼びだすが、発信ボタンを押す勇気がでない。
「今日、当直かも」
アスカは、気弱な声を出す。
シンジが大学病院にいたときは、毎週月曜日にスケジュールを強制的に提出させていたが、アスカの手術のために病院を敵に回し、地方病院へ出向させられたあとは、まったく連絡を取っていない。
「居なかったら……当直開けで寝ていたら……」
アスカは、どんどん気が重くなっていく。
たぐいまれなる美貌を持っていたことが、なまじ邪魔をしてアスカは男に免疫がない。父親が母親を見捨てたというシンジの家庭と似た境遇も、アスカを男嫌いにし、異性との接触を拒否し続けてきた。
いわば、シンジはアスカの初恋なのだ。
電話して嫌われたらどうしよう、いや、もう嫌われているかも。初恋が陥りやすい勝手な暗転にアスカもはまりかけていた。
「なにをうじうじしているの。アタシは、惣流・アスカ・ラングレーなのよ。当たってくだけろじゃない。いえ、くだけるんじゃないわ。当たってシンジを巻きこむの」
アスカは、台所に駆けこむと水をコップに一杯一気飲みした。
「行くわよ、アスカ」
アスカは、通話ボタンを押した。
数回も鳴らずに電話は繋がった。
「はい? 」
電話の向こうでシンジの声がする。
「アタシ……」
先ほどまでの意気込みを忘れたかのように、アスカは小さな声で応える。
「アスカ? アスカなのかい。久しぶりだね。元気にしていた。大学頑張っているようじゃない……」
シンジの声がアスカの耳に届く。
「ああ……」
アスカは、じんわりと拡がっていく暖かさに涙腺が弛むのを感じていた。シンジは変わっていなかった。
「無理はしちゃ駄目だよ。大学は6年で出れば良いんだから。アスカは病み上がりなんだからね」
シンジの気づかう声が、アスカの耳に心地よい。
「アンタも頑張ってる? 仕事大変でしょ、いじめとかにあってない? 」
アスカもたたみ込むように訊く。
「子供じゃないんだから、大丈夫だよ。こっちの病院は設備も新しいし、スタッフも若いから、活気があってね……」
シンジが喋る。
「ちょっと待ちなさいよ。スタッフが若い……まさか、看護婦に手なんか出してないでしょうねえ」
アスカが機嫌良く語っているシンジをさえぎった。
「へっ? 」
シンジが、妙な反応を返す。
「浮気したわねえぇ。たかが数ヶ月の間に、アタシ以外の女に……」
アスカの声が低くなる。先ほどまでの感涙は乾き果てている。
「ちょ、ちょっと待ってよ。どこからそんな話に……」
シンジの必死の弁明を聞きながら、アスカは自分に欠けていた余裕がなにかに気づいた。年齢に相応な時間が、アスカには必要だった。
「人のことはよく見えるんだけどね」
アスカはつぶやいた。ミサトが加持と結婚しない理由にアスカは思いあたっている。加持の心の底にある、俺がやらなければ誰が出来るんだという自負、いや、頑なな思いこみ。加持を弟の死から解き放っていない思い。それが解けるまでミサトは加持と結婚しないつもりなのだ。
「なにか言った? 」
シンジがアスカの独り言を聞きつけた。
「なんでもないわよ」
アスカは、機嫌をなおしている。自分が求めたものは、この男の隣なのだと再確認できたから。
「ねえ、シンジ。また、晩ご飯食べに行っていい? 」
アスカは、ちょっとだけ人生の休憩をする気になった。
続く