新京都大学医学部臨時教授会は紛糾していた。
「とにかく、このような秩序を乱す行為は、断固として認められない」
もっとも激昂しているのは麻酔科の教授である。
「しかし、違法行為ではなく、患者の希望に添ったものだ」
それに反論しているのは、救急救命室長だ。
大学病院の医局には魑魅魍魎が巣くう。表向き協力し有っている科が、裏ではいがみ合っていたり、罵りあう仲の第一内科と第二内科の教授が、教授選では一枚岩だったりする。 他にも助教授が、自医局教授のライバルと手を結んでいたり、敵対する医局の看護婦長とできている教授がいたり、狐と狸の化かし合いが日常茶飯事となっている。
救急救命室と蜜月であるはずのレントゲン科が麻酔科の肩を持ったり、麻酔科教授と同期の産婦人科教授が敵にまわったり、救急救命室と麻酔科の両方と親密な外科が、日和見になったりと、思う存分に発揮されていた。
百論が尽くされるのを黙って見ていた冬月コウゾウ病院長が、ゆっくりと立ちあがった。
「では、裁決を下そうと思う。救急救命室所属の……」
ことの起こりは惣流・アスカ・ラングレーが倒れたことにあった。
卵管血腫破裂。
アスカを襲った病は、場合によっては命に関わるものだったが、幸い本人からの直接連絡が間に合い、わずかな傷口を残して駆逐された。
そのとき、アスカの強い願いによって、シンジが執刀した。今、それが問題になっていた。
あの日シンジは非番だった。
アスカが、シンジ以外の男に自分のもっとも女らしいところを見せることを拒んだ結果だったが、それは大学病院のルールを乱した。
救急患者は、輪番制で担当する。
それをシンジは崩した。それだけならまだ良かったかも知れない。当番医が、シンジを応援していたから。
問題は、シンジと共に手術室に入った綾波レイにあった。アスカの希望を汲んで手術の立会人でもある麻酔医を手術室から追いだしたのだ。
確かにアスカの手術は腰椎麻酔で済み、全身管理を必要とする全身麻酔ではなかったが、麻酔科の機嫌を大きく損ねることになった。
救急手術は救急救命医と麻酔医の二人三脚があって初めて成りたつ。
もちろん、看護師や薬剤師、臨床検査技師などの協力もなくてはならないものだが、麻酔医は担当患者の術前術後を管轄する。医師国家試験に合格しただけで成れる外科医と違い、麻酔医はその上でさらなる研鑽と経験と試練を乗り越えなければ資格を得られない。だけにプライドも高かった。
「今後、碇シンジ、綾波レイの手術に麻酔科は参加しない」
即日、麻酔科の医局長が、救急救命室に怒鳴りこみ、シンジの謝罪もむなしく、臨時教授会の開催となった。
シンジとレイを裁く教授会、その実は麻酔科による復讐であった。
麻酔科は、歴史が浅いこともあって軽視されていた。医局としての規模も内科や外科に比べれば小さい。
外科が、教授一人、助教授一人、講師以下助手十人の十二人体制であるのに対し、麻酔科は教授一人、講師一人、助手四人の六人しかいない。
予算も少ないし、研究室も狭い。大学病院の病院長や副病院長に麻酔科出身の人間がつくこともなく、支配下にある病院に出向しても麻酔科部長までで、それ以上の出世はない。
麻酔科教授は、レイを第二北海道大学医学部から預かった冬月病院長の責任追求の姿勢まで見せていた。
当然、最後まで追いつめるつもりはない。ここで恩を売って麻酔科への見返りを期待しているのだ。
冬月を失脚させるチャンスではあるが、病院の最高権力者に準備も根回しもなく、まともに牙をむくことがどれだけ怖ろしい結果を産むかぐらいは知っている。政治ができなければ、教授選に勝ち残ることはできない。
冬月もこの程度のことでその座を譲る気など無い。若い医師などいくらでも代わりはいるのだ。
椅子から腰をあげた冬月が、淡々と口を開く。
「碇シンジは、出向させる。綾波レイは出身大学へ帰還させる。以上でよろしいな」
冬月の言葉を教授会は承認した。
三日後、新大阪空港まで見送りに来たシンジに、
「謝らないわ。そしてあきらめもしない」
レイはなぞめいた微笑を浮かべて別れを告げ、アスカに会うことなく札幌へと帰っていった。
そして五日後、引き継ぎを全て終えたシンジは、京滋市総合病院救急救命室勤務を命じられて新京都大学付属病院を去ることになった。
あまりに急な人事異動のため、引っ越しなどは間に合わないが、一種の懲戒を受けたシンジの居場所は大学病院にもうない。一週間の有給休暇という形でシンジは、病院から縁を切られた。
最後の登院を済ませ、私物の整理も終えたシンジは、救急救命室にあいさつにきた。
「がんばれよ」
「じゃな」
顔なじみ達も素っ気ない。巻きこまれることを忌避しているのだ。
「冷たいやつばっかやのう」
同じ班だった鈴原トウジが、面白くなさそうな顔をする。
「いいんだよ」
シンジは、トウジの友情に感謝した。
「おまえは、このまま、博士号を取ってアメリカに留学、講師、助教授と順調に出世していくと思ったんやけどなあ」
トウジが、残念そうな声を出す。
「それはないよ。臨床の現場を離れるつもりはなかったから」
シンジが首を振る。
「居た、居た」
そこへ麻酔医の相田ケンスケがやってきた。
「ええんか? 」
トウジがケンスケを見て驚く。
ケンスケは麻酔科の助手である。今回の騒動の当事者と言ってもいい。
「構うものか。しがないサラリーマンの息子の俺が大学病院で出世しても講師止まりだからな。いずれ給料の良い病院に出向するつもりだ」
ケンスケがシンジに目を向ける。
「シンジ、腐るなよ。必ずおまえを必要とする時代が来る」
「ありがとう」
友人の好意にシンジは頭をさげる。
「それより、お姫様のところにあいさつに行ったのか? 」
ケンスケが問う。
「お姫様? 」
シンジは首をかしげる。
「惣流さんのところだよ」
ケンスケが、あきれた口調で言う。
「行ってないよ。人事異動だもの、それにアスカの主治医は婦人科の間部ミツコ先生だしね」
なぜと言わぬばかりに、シンジが怪訝そうな表情を浮かべた。
緊急手術はシンジが行ったが、救急救命室はその予後とは関わらず、専門科に患者を転送するのが慣例である。
「あちゃあ」
「鈍感にもほどがある」
トウジとケンスケが、天をあおぐ。
「まあ、これがシンジなんだろうけど……」
ケンスケが、ため息をつく。
「あいさつぐらいはしておけよ。真紅の虎の餌付けも終わるんだろ」
アスカが休みごとにシンジの家で食事を食べていることを、ケンスケとトウジは知っている。
「ああ、そうだね。言っておかなければ、アスカが困るか」
シンジが納得する。
「じゃ、行ってくる。新しい住所が決まったら連絡するから」
シンジは未練も見せず、かつての職場を後にした。
「はあ、お互いファーストネームで呼び合う仲だというのが、わかっているのかねえ? 」
ケンスケが、ゆっくりと首を左右に振った。
アスカの入院しているのは、付属病院六階の産婦人科病室である。産婦人科はそのプライバシー保護の観点から、狭いながらも全室個室となっていた。
その個室でアスカはむくれていた。
理由は簡単である。シンジが顔を見せなかったからだ。
アスカの術後の経過は良好である。
「やるわねえ」
主治医となった間部ミツコが、アスカの傷口を見て感心したほどだ。
「ためらいのないメス捌き、接着はバイオボンド。これなら、ヌードモデルだってできるわよ。救急の碇医師だっけ。もの凄く気を遣ったわね」
「うれしい……」
それをアスカがシンジの想いと受け止めて頬を染めてから、一度もシンジは見舞いに来ていない。
「当直もあるし、救急はいつ呼びだされるかわからないからね」
そう言ってごまかしていれたのは、術後三日目まで。四日目になるとアスカの短い堪忍袋の緒はほどけ始めた。
「なにやってんのよ。あいつは。あそこまで見せた仲になったって言うのに、病の恋人をほったらかすなんて。これはしつけ治さなきゃだめね」
正式な告白をしたわけでも、受諾の意思表示を貰ったわけでもないが、アスカの中ですでにシンジは所有権登記済み物件である。
「まさか、綾波先輩と……」
ライバル宣言をした雪の妖精のような綾波レイをアスカは思い浮かべる。
「くっ、確かに強力なライバルだわ」
アスカは自他共に認める美女である。クオーターという西洋と東洋の絶妙のバランスがなしえた彫りの深い容貌と日本人離れした体躯は、無敵にちかい。
そのアスカがレイの美しさは認めている。
「仕事場の同僚というのも大きなポイントね」
アスカは唇を噛む。
職場結婚、もっともありがちなパターンをとれる位置に綾波レイはいるのだ。
「電話して呼びだしてやろうかしら」
術後五日目、アスカのいらだちはピークをむかえた。
病院内は携帯電話の使用が許されていない。病室の枕元に電話機はあるが、これは受信専用である。電話するならナースセンター横にあるカード公衆電話を使うしかないが、アスカはまだ歩く許可が出ていない。
縫うことに比べて遙かに傷跡を残さないバイオボンド接着であるが、やはり確実性では縫合に劣る。傷口の上に保護テープを貼ってあるとはいえ、無理は傷口を開くことになり、それは入院期間の延長を意味していた。
「もし、アタシが入院している間に、綾波さんの唇とか膨らみとかあそことかを、見たり触ったり舐めたりしてみろ。二度と復活ができないように四肢をバラバラにしてから、首を切り落としてやる」
狼男か吸血鬼を滅ぼすようなことを口走りながら、アスカが涙を浮かべる。
「シンジィ……」
病室で一人、孤独に慣れた顔をしながらも、恐れているアスカが、気弱になりかけたとき、扉がノックされた。
『惣流・アスカ・ラングレー 担当医間部』
そう書かれた病室の扉をシンジはノックした。
「はい」
中からの返事を聞いてシンジは、ドアを開けた。
「こんにちは。どう? 調子は」
シンジは、一階の売店で買ってきた花束をアスカに差しだしながら問うた。
「…………」
アスカは花束を受け取りはしたが、礼も言わずじっとシンジを睨んでいる。
「あのう、アスカさん? 」
シンジがドライアイスのように、病室を満たしつつある冷気におびえた。
「なにしてたのよ」
アスカの声は地の底から響くように低い。
「えっ? 」
「だから、いままでどうしてこなかったのよ」
アスカの声がきびしくなる。
「ごめん、いろいろ有りすぎて……」
シンジが頭をさげる。
「綾波さんとなんかあったんじゃないでしょうね」
「知っているの? 」
シンジが驚く。
「…………」
アスカが絶句し、すぐに泣き出した。
「うっ、うっ、アタシが、アタシが入院している間に、そんな、勝手よ、卑怯よ。なにが、ライバルよ。退院するまで待ってくれたって良いじゃない」
「アスカ、そんなに綾波さんのことを……」
シンジはアスカの背中にそっと手を載せた。
「触らないでよ」
アスカはシンジの手を振り払った。
「ごめん。綾波さんもアスカには会いたかったと思う。でも時間がなかった」
「なによ、なによ。時間なんて幾らでも作れるじゃない。三日や四日ぐらいどうでもできるでしょうが」
アスカは、布団を頭までかぶった。
「急だったんだよ。アスカの手術の翌日に話が決まって」
「次、次の日ですって……。あんまりよ。アタシは、アタシは、命まで賭けてアンタにしか見せないって頑張ったのに……アタシだけが、空回りして馬鹿みたいじゃない」
アスカが布団から顔を出して鬼のような表情でシンジを見る。
「ちょっ、ちょっと待って。なんか話がおかしくない? 」
そこでシンジは気づいた。
「おかしいのは、アンタたちでしょうが。アタシはちゃんとアンタにも綾波さんにも告げたわよ」
アスカはシンジ以外に大切なところを見せることはないと言い、シンジが居なくなってからレイにシンジはアタシのもの宣言をしている。
ただ、それが目の前の鈍感男には通じていないだけなのだが、アスカはそれがわかっていない。
「はあ? 」
シンジが妙な声を出す。
「アスカ、落ち着いて」
「アタシは、落ち着いているわ」
酔っぱらいほど酔っていないと強弁するを、アスカは地でいっている。
「で、シンジ、綾波さんはどうなったのよ? 」
アスカが問いつめる。
「ああ、彼女なら行っちゃったよ」
「イッちゃったですってぇ」
アスカが、アタシにはアタシにはキスさえしてくれなかったのに……とつぶやき、うつろな目をしだす。
「うん。北海道に帰ったよ」
「へっ? 」
アスカが、きょとんとする。
「北海道? ハネムーン? シンジはここにいる。成田離婚? 」
アスカの中でいろいろな光景が浮かんでいるのがわかる。
「違うよ。綾波さんは第二北海道大学へ帰還したんだ」
シンジが、事実をようやく告げることができた。
「えっ? 今年来たばかりじゃない? 」
「色々あってね。で、僕も今日までなんだ」
「はへ? 」
さりげなく漏らされた爆弾発言に、アスカが間の抜けた顔をする。
「今日までって……なんのこと? 」
「人事異動があってね。綾波さんは第二北海道大学救急救命室に、僕は京滋市総合病院救急救命室へ行くことになったんだ」
シンジはできるだけ静かに語った。
アスカがじっとシンジを睨む。
聡明な彼女は、それが通常のものではないと感じた。
「なにがあったの? 」
アスカが、激情を内包した低い声を出す。
「通常の異動だよ。大学病院の医者といえども地方公務員には違いないから。命令があれば、どこにでも行かなければならない」
シンジも平静に応える。
「そんなわけないじゃない。異動って普通は4月、10月でしょうが。それがなんで8月にあるのよ」
アスカの感情がたかぶってくる。
「臨時の人事異動なんだ」
「嘘」
シンジのごまかしをアスカは、切って捨てる。
「なにがあったの? 」
アスカが同じ問いを発する。
シンジとレイが大学病院を去る。それも急に。となるとアスカに思いあたる原因は一つしかなかった。
「アタシのせいね」
アスカの言葉に、シンジが慌てて頭を振った。
「ち、違う。単なる異動だから」
「…………」
アスカはじっとシンジを見つめる。シンジが目をそらした。
「そうなのね」
アスカが俯いた。
病室に気まずい沈黙が訪れた。
「いつ引っ越すの? 」
重い沈黙をアスカのか細い声が破った。
「今週末なんだ。病院の社宅が空いていたから」
「そう」
シンジの答えにアスカがうなずいた。
「アスカが気にする事じゃない。誰だっていつかは大学病院から離れるんだから」
シンジの慰めに意味がないことぐらいアスカも知っている。アスカの父は第三新東京大学の教授なのだ。
大学病院から医師が離れるには二種類有る。
海外の大学へ留学するために離れる者と支配下にある病院へ出向する者と。
留学組は数年の研究の後大学へ戻り、助手から筆頭助手、医局長、講師へと出世街道をのぼっていく。助教授までは約束されたに等しい。
病院への出向組は、そのルートから外れた者の末路である。
教授戦、助教授戦に敗退して病院を去る講師、筆頭助手というパターン。そして助手、副手の時に、ミスをしたか教授などに睨まれたかで医局から放り出されるパターン。
ともによほどのことでもない限り大学病院へ帰ってくることはない。
「京滋市総合病院はできたばかりで最新の医療器具があるし、スタッフも若い。良い勉強になるんだ。僕としては望んでも行きたいところだったから」
シンジの必死の言い訳もアスカには通じない。
アスカは顔を上げようとしなかった。
「じゃ、アスカのことは間部先生に頼んであるから。無理しないで早くよくなってね」
シンジは、そっと病室を後にした。
シンジが出ていった後もアスカはじっと動かず、シーツに目を落としたままだった。
「馬鹿よね、アタシ。一人で浮かれまくって」
アスカがつぶやく。
「いつもそう。アタシ周りが見えなくなって、自分だけが中心にいたがって、ずっと誰かに見ていてほしがって……それがどれだけ迷惑を掛けているのかわからない」
小学校からずっとクラスの人気者だったアスカに、友人と呼べるのが洞木ヒカリしかいない原因はそこにある。
「あははははははは……うっ、うううう……」
うつろな笑いは、すぐに泣き声となった。
それから数日、アスカは抜け殻になった。誰が来ても薄く笑うだけで自分から声を出すこともなかった。
「どうしたのよ、アスカ」
大学で唯一の友人である霧島マナが見舞いに来ても同じだった。
今まで見舞いに来なかったのは、マナ自体も呼吸器の発作で入院していたからだ。
大学でマナに振られた男が、無理矢理彼女を自分のものにしようとして、麻酔薬を嗅がせた。途端に喘息の持病を保つマナが発作を起こし、男はそのマナを見捨てて逃げた。なんとか、シンジが助けたのだが、マナはそのまま入院となった。そしてようやく、マナは昨日退院することができた。
「どうもしないわ」
アスカの声にかつての張りも覇気もない。
「おかしいよ、アスカ。まるで魂が欠けたみたい」
「そんなことないわ。アタシはアタシ。なにも失ったわけじゃない」
マナにアスカはそう言うとベッドに横になる。
「ゴメン、疲れたから」
「うん、じゃ、また来るね」
マナは気遣いを見せながら帰るしかなかった。
そして、土曜日が来た。
シンジは明日、現在の住まいを出て京滋市に移る。
京滋市は京都と奈良と滋賀の県境の山地を切り開いて作られた学園都市である。国立大学を始め、私立大学、高校を多数抱え、住人の年齢が若いことでも知られる。
京都市内からなら、JRで30分、車でも40分ほどの距離でしかないが、アスカにとってそれは無限にも等しい遠さであった。
シンジとの距離……心の距離ではない、物理的なものを作ったのは、自分。今でもシンジの非番の日にしか会えないのに、それさえ許されなくなる。
あの事故の日、無心に人を助けているように見えながら、無くしたものを必死で探していたシンジ。その姿に自分と同じものを見つけて惹かれたアスカが、京都にまでシンジを追いかけて、ようやく確保した居場所。
大切な場所をアスカは、自分のわがままで失うことになったと知った。
心の大部分を喪失する感触にアスカは、精神の崩壊の音を聞いていた。
「どうでもいいのよ。もう」
アスカは、涙さえもう流せなくなっていた。
「惣流さん、電話よ」
ナースセンターからの連絡を受けて、アスカは枕元の受話器をあげた。
「はい」
命の輝きの感じられない声でアスカは、電話を受けた。
「やっぱり、死んでいるわね」
電話の向こうから聞こえてきたのは、冷静な宣告だった。
「綾波さん? 」
聞き慣れた声にアスカが、反応する。
「死人に呼ばれる筋合いはないわ」
レイの声は冷たい。
「うっ」
アスカは詰まった。
「一時は、あなたなら恋敵として認めても良いと思ったけど、間違いだったようね。情けないことに、私には人を見る目がなかった」
レイの言葉がアスカを打つ。
「二年間、こちらで我慢するつもりだったけど、明日にでもそちらに行かなければならないようね」
「どういうことですか? 」
「この機会に、麻酔医の専門医を取ろうと思ったの」
「はあ? 」
アスカはレイの言いたいことがわからなかった。
「あなたの手術の時、麻酔医が居なかったことが問題となって、私は北海道へ、碇くんは地方病院へ飛ばされた。ならば、麻酔の専門医の資格をとれば文句は言われない。そうして碇くんとペアを組む。仕事だけじゃなく、私生活でも」
レイの声が、大学病院というシステムに負けていないことにアスカは気付いた。
「それって……」
「私はあきらめた訳じゃない。でも、あなたはあきらめたようね」
「だって、仕方ないじゃないですか。アタシのわがままのせいで、シンジは……」
「そうよ。あなたのわがままが原因」
レイが止めを刺す。
「ううう」
アスカが電話口で涙を流した。
「あなたの碇くんへの想いはその程度のものだったのね」
「そんなことはないです。でも、アタシの……」
アスカはそれ以上言えなかった。
「なぜ? あなたのわがままを碇くんも私も許したのよ? なら、最後までわがままを通しなさい」
「…………」
「医者のわがままは許されない。だけど、患者のわがままは最大限許される。だから、あなたのわがままは通って当然。気にすることはない。患者のわがままを許容できなかった病院が間違っている。私は胸を張って第二北海道大学に帰った。碇くんも同じ。彼も正々堂々と新しい職場に行く」
レイが、淡々と語る。
「私も碇くんも負けた訳じゃない。新たな戦いを勝ち抜くために、一時体勢を整えるために退いただけ。最後に勝つのは私たち」
「私たち? 」
「そう、碇くんとその妻となった私」
電話口で勝ち誇った声がする。
「かもしれないわね」
アスカはうなずくしかなかった。もう、自分にはシンジに近づく権利はない。
「もう良いわ」
レイの声が冷淡に変わった。
「あなたに後事を託したつもりだった私が馬鹿だったわ」
「後事? 」
「気がついていないようね。地方病院に独身の医者。若い看護婦のアタック、田舎の常で有力者の娘との見合い。誘惑は多いわ」
「…………」
アスカは息をのんだ。
「碇くんが返り咲く妙手の一つが、政治家の娘と結婚すること。大学病院といえども政治家には勝てない」
レイが重ねて言う。
「シンジが、そんなことをするはずない」
「でも、男は失意の底にあるとき、女の肌に縋るわ」
レイが断言した。
「碇くんは鈍いわ。女の気持ちなんてまったく気付かない。まあ、あなたも私も素直に表現していなかったせいもあるけど。体を使って露骨に迫られれば、経験の浅い碇くんなど一撃で陥落するかもしれない」
「そ、そんなわけない。だって、シンジはアタシを見てもなんともなかった」
アスカが必死に否定する。
「あなたに魅力がない」
「そんなわけないでしょうが。アタシは惣流・アスカ・ラングレーなのよ」
アスカが激高した。
「ふふふふ」
レイが電話の向こうで笑う。
「なにがおかしいの? 」
アスカの怒りはヒートアップしていく。
「ようやく生き返ったようね」
レイにそう言われてアスカは絶句した。
「敵に塩を送ったつもり? 」
アスカの声は低いままだ。
「敵? 悪いけどあなたじゃ私の敵ではないわ。この程度で碇くんのことをあきらめられるのだから」
「どういう意味かしら? 」
「あなたに一時的に碇くんを預けてもどうということはない」
「預けるですって? 」
アスカが、レイにくってかかる。
「そう。他の女から碇くんを護るために。一時的にあなたに碇くんを任せる」
「アタシよりも他の女が怖いというのね」
「ええ。他の女はプライドを捨てて縋りつくけど、あなたは碇くんよりプライドを取る。命がけでない相手など脅威でさえないわ」
「なんですってぇ」
アスカが憤る。
「あなたが一番可愛いのは自分。碇くんじゃないわ」
レイの一言にアスカが凍った。
「そ、そんなことない」
「だったらなぜ、あなたは碇くんに会おうとしないの? 」
レイの言葉がアスカの心臓を突いた。
「自分のせいで、碇くんと私が大変なことになってしまった。私が居なければあの二人は、こんな事にならなかった。そう思っているなら、それは逃げでしかないわ」
「うっ……」
アスカは返す言葉もなかった。
「碇くんを支えようとは思わない。とにかく碇くんと離れて、自分の罪を見なくて済むようにしよう。そんなあなたなど、路傍の石よりも気にならないわ」
レイは遠慮なくアスカの心をえぐる。
「碇くんと一緒に探そうなどと言っていたけど、あれもあなたの幻想だったわけね」
アスカはシンジとの原点に触れられて、爆発した。
「うるさい。幻想なんかじゃない。あれは、アタシの本心だ」
「簡単に諦められるものが本心……ふっ」
レイが嘲る。
「碇くんが、引っ越しのことを告げに来たとき、あなたはどうだった? 泣いて縋った?土下座して謝ったのかしら? 」
「そんなことをするわけ無いでしょうが」
アスカが怒鳴る。
「そう。碇くんの存在よりもプライドが大切なのね」
レイの一言でアスカの登り切った血が、凍り付いた。
「来週の火曜日には、碇くんのところへ帰るわ。そして生涯離れない」
レイがそう宣言して電話を切った。
アスカは、受話器から聞こえる機械音をずっと聞いていた。
動けなかった。
打ちのめされた。
「アタシ……偽物だったんだ」
レイに浴びせられた罵倒も憐憫も、もう痛くはなかった。
覚悟の無さを知らされたことが、もっと辛かった。
「シンジの側に居る資格なんて無い」
アスカはシンジの目指しているものへ一緒に進んでいくつもりだった。だが、泥にまみれて、這い蹲ってでもついていくだけの想いがなかった。
「これでいい。シンジには、綾波さんのような芯のある人がお似合い。アタシにはアタシに合った男がきっとどこかに居るわ」
アスカは受話器を置いた。
「熱病みたいなものだったのよ。シンジに恋していたんじゃなくて、恋に憧れていただけ」
アスカは、大きく背伸びをした。
「ああ、負けよ、負け」
アスカが、天井を見あげる。
「さっさとあんな鈍感な男のことなんか忘れて、新しい恋を見つけなきゃ」
アスカは笑いを浮かべる。
「なんでかなあ。涙が止まらない。痛い。そう、傷口が痛いからよ。けっして心が痛いわけじゃない。止まれ、涙。アタシの言うことを聞きなさいよ」
アスカは泣きじゃくった。プライドもなにもかも押し流す。
「諦めきれるわけないじゃない」
アスカが腫れた目を見開いた。
「惣流・アスカ・ラングレーは、碇シンジのことが好き。それを確かめる」
自分に言い聞かせるようにアスカは宣言した。
大学病院というのは、24時間眠らない。
急患への対応、重症患者の見守り、そして研究への熱意。誰かしらが起きている。
だが、そこに間の抜けたような空白が有る。
人件費節約を言い訳に減らされた看護師は、ナースセンターに常駐できるほどおらず、研究者は、ラボから出ることもない。
術後の経過も安定し、点滴も一日一回1時間だけとなったアスカの病室を夜回りは訪れない。
アスカはなんなく病院を抜けだすことに成功した。
シンジの下宿は、大学病院から徒歩で15分ほどのところにある。
父が失踪してから、高校生の身分で一軒家を維持することができず、ここに引き移ってすでに6年を越えた。1LDKしかない狭い部屋だが、碇シンジにとって唯一の安らげる場所であったことは確かであった。
「もうここで過ごすこともなくなるのか」
シンジが引っ越しの荷物で唯一梱包されていない寝具に横たわりながら上を見た。
「知らない天井だ……」
そう言って初めての夜を過ごしてから、何度天井を見あげたことか。
「あの染みも、このひびもずっと一緒だったなあ」
シンジはひとりごちた。
大学病院でもめ事を起こして出向させられる。これがなにを意味しているかぐらいシンジは知っている。
二度と檜舞台に戻ることはできない主流からの脱落。論文や博士号、研究などと関わりのない世界への墜落。
数年ごとに病院を移らされ、どんどん最先端の技術から離されていき、地方病院の医局長あたりで定年をむかえる。
もともと臨床を希望して医者になったシンジは、名誉や出世には興味がなかった。だが、最新の器具、最新の技術を目の当たりにすることができる大学病院からの追放は痛い。
シンジは見捨てられた母を想い、一人でもこの哀しみを抱く子供を作らないために医者の道を選んだのだ。救命の可能性を高めるものから遠ざかることは身を切られるようであった。
「精一杯やるしかないな」
明日は早いからなとつぶやいてシンジが目を閉じたその時、アパートの扉がたたかれた。
「こんな夜中に……」
シンジは枕元の時計を見る。すでに針は新しい日の始まりを示している。
「どなた? 」
シンジは、わずか数歩でリビングを横断、薄い合板の扉に声をかけた。
「アタシ」
扉の向こうから聞こえてきたのは、聞き慣れた声。
「ア、アスカ? 」
シンジは慌てて扉の鍵を外した。
「どうしたの、こんな夜中に」
驚くシンジを突きとばすようにして、アスカが入ってきた。
「暑いわねえ。病院から歩いただけで汗びっしょり。シンジ、シャワー借りるわよ」
アスカはシンジに応対するまも与えず、シャワールームに消えた。
「あっ、着替えよろしく。アンタのシャツで良いから」
アコーディオンカーテンをちょっとだけ開けて、アスカが顔を出す。
「そんなものないよ。もう、荷造りしちゃったし」
「ふうん、明日アンタは裸で引っ越すんだ」
アスカの眼がじとっとシンジを見る。
「あっ、でも、あれしかないから。明日困るし」
「そう。別に良いわよ。アタシは裸でも。責任取って貰うから」
アスカの顔がにやりと笑う。
「わかった、わかったよ」
シンジは降参した。
「よろしい」
アスカは、ようやくカーテンの向こうに消えた。
「はあ、どきどきだわ」
閉じたカーテンを背にしてアスカが胸を押さえる。
夜中に男の部屋に来てシャワーを浴びる。いかに鈍感なやつでもそれがなにを意味するかぐらいはわかる。
「アタシの心を確かめるための儀式」
頭から水をかぶりながらアスカがつぶやく。
女にとって身体を重ねるということは、その男に全てを預けるに等しい。また、同時にその男の歴史を受け止めることでもある。
「抱かれてみて、少しでもすきま風を感じたら、アタシの恋は偽り。その時は、大学を辞めて帰る」
アスカは覚悟してきた。
水玉を弾き、するすると流していく肢体は、すでに男を受けいれる体勢を整えている。自分でもほれぼれするプロポーションは、シンジを雄に変えるに十二分であろう。
「アスカ、着替えここに置くね」
浴室のドアを越えてシンジの声がする。
「アリガト」
アスカは、両手で二つの膨らみを掴むようにして気合いを入れた。
「うわったああ、着替えはどうしたんだよ」
アコーディオンカーテンの開く音に振り向いたシンジが、真っ赤になって首を横に向ける。
「だって、髪の毛が乾いてないんだもん」
アスカはバスタオル一枚を巻いただけである。
「だめ、すぐに着替えて……」
リビングの机に頭を打ち付けるように顔を伏せたシンジは、絶句した。背中にアスカが貼りついた。
「ア、アスカ、む、胸……」
「胸なら有るわよ。人よりちょっと大きなのが二つ」
「じゃなくて、その当たっているんだけど、胸が」
「当然よ。当てているんだもの」
「へっ? 」
シンジが間抜けな声をあげる。
アスカの吐息が耳元にかかり、金色の髪がシンジの頬を撫でるようにして落ちてきた。
いつも自分が使っていたシャンプーの匂いなのに、それがアスカの髪から漂うと全く違うもののようにシンジが感じる。
「シンジ、アタシを貰って」
「な、なにを言うんだ、アスカ」
シンジが焦る。
「お詫びのつもりなら、そんな必要ないから」
シンジが、首を振る。それが、背中に押しつけられている膨らみを揺らし、ますますシンジは赤くなった。
「馬鹿にしないで。アタシは、お詫びで身体を差しだすほど安い女じゃないわ」
アスカの声に怒気が籠もる。
「ごめん」
シンジが詫びる。
「ねえ、シンジ。あなたはアタシと綾波さんのどちらが……」
好きなのと続けようとしたが、そこから先を言うことをアスカはできなかった。
覚悟してきたはずだったが、そこでレイの名前を出されたら……アスカは、気迫がしぼんでいくのを感じた。
頭が冷えて行くに連れ、この状況がいかに卑怯かをアスカは認めた。女の武器で攻めているアスカを優しいシンジが拒否できるわけもなく、遠く離れたレイには不戦敗しかない。
「はあ、勝てないわね」
アスカを煽ればこうなることぐらい、レイは予想していたはずである。レイは二人の左遷の原因を自分だと知ったアスカが壊れるだろうことを予想し、それを防ぐためにあんな電話を掛けてきた。レイが、火曜日に京都へやってくることなどはない。
アスカは、シンジの背中から離れた。
「あの……アスカ? 」
シンジが、気づかう声を出す。
「もう良いわ。着替えてくるから待ってて」
アスカは、もう一度カーテンの向こうに戻り、シンジのポロシャツと短パンを借りた。
「落ち着いた? 」
シンジの瞳に限りない優しい光を見つけて、アスカは安堵した。そして怒った。
「なんで、アンタの目に欲情が残ってないのよ? 」
アスカにしてみれば一世一代の色仕掛けだったのだ。
「だって、あんな哀しそうなアスカの声を聞いたら……」
シンジがそっと口にする。
「ばぁか」
アスカは甘くシンジを罵る。
「綾波さんかな? 」
シンジが訊いた。
「うん。電話をくれた」
アスカは首肯する。
「凄いな。綾波さんは。僕では思いもつかなかった」
「悔しいけど、今のアタシじゃ太刀打ちできない」
アスカは、他人の実力を認めないほど狭量ではない。
「でも負けない。そのためには、いろいろ知っておかなきゃ駄目だから」
アスカは、シンジと朝まで語り合った。産まれてから今日までのこと全てを相手に知ってもらい、相手の全てを知るために。
一夜が明けた。
シンジの淹れたモーニングコーヒーを飲み終えて、アスカが帰ると告げた。
「平等で無ければ、アタシが許せないの」
アスカはシンジにレイを一度招くようにと命じる。
「一晩語り明かして。でも、それ以上のことをしたら……」
アスカから殺気がほとばしる。
「わかってるよ」
うなずいたシンジを置いて病院へ戻ったアスカを待っていたのは、髪の毛を逆立てて怒っている主治医と看護婦であった。
「あははははは」
笑ってごまかそうとしたアスカは、主治医の間部によって無理矢理裸に向かれた。
「シャワーかお風呂に入ったわね」
アスカの傷口を覆っている保護テープの端がめくれている。
「外泊、シャワー……惣流さん、どこでなにをしてきたのかしら? 」
看護婦が女性の内診に使う器具を手で動かしながら怖い顔で訊く。
「ちゃんと調べないと感染していたら大変」
間部医師が、器具を受けとり、ペンライトを灯す。
「な、なにもしてません」
アスカの抵抗もむなしく、器具はアスカに入れられる。
「いやああああ、アタシの中に入ってこないでぇ」
アスカの絶叫が病院にこだました。
引っ越したシンジはアスカの言いつけ通り、レイを誘った。
「惣流さんが、そう言ったの」
アスカの話を聞いたレイが、電話の向こうでつぶやく。
「綾波さんが、アスカを元気づけてくれたんだろ? 」
「そんなたいしたことはしていないわ」
「でも、アスカは元気になった」
「綺麗だった? アスカの身体」
レイが問う。
「わかんないよ。見てないから」
「見てない? 」
レイの声がこわばる。
「声が震えていたからね。ああ、無理しているなって。お詫びなら要らないって言ったら怒られたけど。あれってお礼のつもりだったのかな? 」
シンジが不思議そうに口にする。
「ごめんなさい、こんなときどういえばいいかわからないの」
冷たくレイが告げる。
「切るわね。これ以上碇くんと話していたら、殺意を我慢できそうにないから」
レイが受話器を置いた。
終わり