軽い音をたてて、エレベーターの扉が開いた。
そこから現れたのは、栗毛色の髪を腰まで流し、やや小柄で細身の身体に柔らかさを訴えるボディラインの女性である。
「ふんふふふん」
彼女は、鼻歌を口ずさみながらマンションの廊下を進んで、3つ目のドアの前で止った。
「えへへっっへ」
表札を眺めて満面の笑みを浮かべる。
『碇 シンジ
アスカ 』
「いよいよ、今週末なのよね。結婚式」
あと3日間で22年間連れ添った名前と決別するこの女性こそ、世界の救世主にして、ネルフ総本部外交局第一課課長、惣流・アスカ・ラングレー、22歳である。
アスカは、マンションのドア脇に設置されているセンサーに左人差し指を当てる。続いて、右目をドアスコープに合わせた。
「指紋認証、網膜パターン一致。お帰りなさいませ、奥さま」
合成音声と共にドアロックが解除される。
「奥さまだって。いつ聞いてもいい響きよね」
はにかみながらアスカは、ドアを潜った。
「さて、まずは、窓を開けて換気しないとね。次に布団を干して。シンジが疲れて帰ってくるんだから、ふわふわののお布団でぐっすり寝られるようにって……寝かしてくれるかしら。こんなところにまで気が利くんだ。アスカ、僕は君のようなすばらしい女性と一緒になれて幸せだよ。ああ、アスカ、結婚式まで、もう我慢できない……なんて、押し倒されたらどうしよう」
両頬を手のひらで抑えて、アスカが身もだえする。
アスカの連れ合い、碇シンジは、国連本部地域紛争調停官として、長期出張中であった。それが、今夜帰国する。
もっとも、結婚式とそれに伴うハネムーンのための休暇でしかないので、2週間経てば、またエルサレムに単身赴任だ。
「ほんとに国連もけちくさいんだから。オーロラ通勤ぐらい認めてくれればいいのに。アタシたちは人類歴史の守護者なのよ」
ベランダにお布団を干しながらアスカが、ぼやく。
オーロラとは、21世紀初めにアメリカが開発したロケットエンジン搭載の成層圏飛行型輸送機のことだ。
マスドライバーを使って成層圏まで一気に加速され、地球上の何処にでも1時間以内に到達できる。
問題は、一回あたりの発射に百万ドル単位の金がかかることだ。
「新婚夫婦の生活を考えなさいって。もし、遠距離恋愛で二人の愛が冷めたらどうしてくれるのよ。それより、単身赴任の寂しさに負けてシンジが浮気したら……弐号機に載って初号機と合体してフォースインパクト起こしてやる」
アスカの眼は、冗談を言っているとは思えないほど真剣である。
「さてと、布団も干したし、お風呂掃除も終わった。残るは、晩ご飯の用意だけ」
アスカは手早く、台所で下準備に入った。
ものの1時間ほどで、手の込んだ料理が後は最後に火を入れるだけの状態になる。
「一人暮らしを6年もやれば、できるようになるわ」
サラダのミニトマトを一つつまみ食いしながら、アスカが呟いた。
「やっと一緒に戻れるのよね」
使徒戦役まっただ中、2015年10月5日に始まった、アスカとシンジの同居は、サードインパクトを持って終わりを告げていた。
目的もなく、言われるがままに流された少年と、強迫観念と孤独に育てられた少女は、大人の都合で、出会わされ、互いに縋り合うようにし向けられ、最後は憎しみをぶつけ合うように、誘導された。
壊れた幼い自我を生け贄に始まったサードインパクトは、結局少年と少女が、気づいても居なかった想いによって防がれ、一度は溶けた人類も復活した。
そして、人類最初の男アダムとなった碇シンジと、その身体から造られた人類最初の女イブに比された惣流・アスカ・ラングレーは、互いに罵りあい、憎みあい、傷つけあって、許しあい、許されあって、永遠の愛を誓うことになった。
その軌跡は、別の物語として語ることもあるだろう。
「シンジが帰ってくるまで、あと2時間か。そろそろ取らないと、シンジに気をつかわせちゃわ」
掛け時計に目をやったアスカは、右手の平を杯のようにして、左目にあてる。
「ふう、開放感。コンタクトとブラ外すのって、一緒だわ」
アスカは、大きくため息をついた。
蛍光灯の明かりを受けてアスカの瞳が輝く。左右で色が違っている。
深い海に似た青みがかった緑だったアスカの瞳は、右にだけ残り、左は、凝固した血のように赤黒く濁っていた。
ロンギヌスの槍で目をつらぬかれた弐号機のフィードバックを受けて、変わったのだ。
ネルフ最先端の医療技術をもってしても治せない神殺しの傷。
ほとんど見えなくなった左目は、アスカからパイロットの資格を奪った。
他にも右腕は、真ん中にまっすぐの傷跡が、つややかだった下腹部には、赤いミミズの這うような瘢痕がある。
アスカだけではない、シンジにもある。両掌と胸の中央に醜く残る罪の証と、アスカによってつけられた腹部の傷。
だが、それは互いの絆でもある。
アスカは、ワンピースの上から、そっとお腹を撫でる。あっという間に体が熱くなっていく。
「シンジ……」
アスカは、憎しみをストレートにぶつけ合っていたときを思い出した。
「こんなに醜くなった体の女なんて、アンタの性欲処理にも使えないでしょう。アンタがちゃんと初号機に乗ってくれていたら、アタシはこんな惨めな身体にならずにすんだのよ」
そう叫んで、アスカが病室で裸になって全身の傷を見せた。
アスカの予想を裏切って、シンジは、眼を逸らさなかった。
そのままアスカから目を離すことなく、シンジがゆっくりと近づくと、跪いてアスカの下腹部でもっとも大きな瘢痕に、口づけたのだ。
「謝らないよ。あのときは僕も限界だったから。でも、この傷も、その紅い瞳も、アスカなんだから。僕は逃げない」
そう言ってシンジは、傷を強く吸った。
「あくっっううっ」
子宮の真上に位置していた傷に与えられた刺激でアスカは、生まれて初めて達した。
それから二人の仲は、急速に修復していった。
「今日は、最後までしてくれるかな」
その日以来、会えば必ずシンジは、アスカの傷に口づける。
左目、右腕、そして下腹。
しかし、女のもっとも女らしい部分を間近に晒しているにもかかわらず、シンジは、決してそれ以上の行為に及ぼうとはしない。
「逃げているの? 」
じれて、そう訊いたアスカに、シンジは、まじめな顔で応えた。
「一歩踏みだせば、僕はアスカに溺れてしまう。それこそ逃げだから」
それ以来、アスカも積極的に迫ることはしなくなった。もっとも、露骨ではないアピールは続けていたが。
「待たせすぎよ、馬鹿シンジ」
アスカは、取り入れた布団をもって、シンジの部屋に入る。
結婚が決まって購入した4LDKのマンションには、シンジが先に引っ越していた。
おのおの一部屋ずつ個室を取ったが、まだネルフの高級士官用官舎に住んでいるアスカの部屋と違って、シンジの部屋には、わずかながら生活の匂いがあった。
布団をベッドに敷いて、その上にアスカは身体を投げ出す。ふわっとした柔らかい感触とかすかなシンジの残り香にアスカの目がうっとりと閉じられる。
「あらっ? 」
ベッドに横たわったアスカの瞳にシンジの本棚の乱れが映った。
「珍しいこともあるものね」
アスカは、立ちあがった。
乱れている本を取り出して、並べ直そうとしたアスカは、本棚の奥に一冊の本が押しこまれているのに気づいた。
「なにかしら? まさか……」
シンジとて、健全な男性である。性欲もたまる。
「エッチな本だったら、許さないわ。アタシがいつでもシンジのパトスを受け止めてあげると言ってあるんだからね。もし、他の女でナニを押っ立てていたら……アタシのこの手でちぎり取ってやる」
左手を鬼の爪のように曲げて、アスカの顔が、厳しくなる。
エヴァ弐号機に、エースパイロットの座にあれだけこだわっていたアスカである。独占欲は、他人の数倍強い。
鬼気迫る顔で手を突っ込み、本を取り出した。
「ノートじゃないの。それも随分古いわねえ。表題も煤けて読みにくい。この字は、えっと……日記かな? これって、シンジの日記? 」
アスカは鬼気を喜々に変えた。
「なにが書いてあるのかなあ? アタシのこと? 」
初恋の少女が、意中の相手から貰ったラブレターを開くかのようにわくわくしながら、表紙をめくったアスカは、一瞬で顔色を変えることになった。
「シンジの変態、馬鹿、裏切り者」
アスカの叫び声が、マンションを揺るがした。
碇シンジの日記
2015年8月3日(月)
今日から、日記をつけ始めることにした。今までのように朝起きて夜寝るという、目的のない生活に終わりを告げるために。
10年ぶりに父さんから手紙が来た。それも速達で。
手紙の内容は、たった一言しか書いていなかった。
「来い。ゲンドウ」
手紙には、父さんがいるという第三新東京市までのリニアの切符と、駅まで迎えに来てくれるという、女の人の写真が入っていた。葛城ミサトさんというらしい。
凄い写真だ。覗きこまなくてもパンツが見えそうなミニスカートに、文庫本ぐらいなら挟めそうな胸の谷間。
父さんとどういう関係なんだろう? ひょっとして再婚相手なのだろうか?
この人が新しい僕のお母さんだったら…………きっと…………
僕が学校から帰ってきても、父さんはまだ帰ってきていない。
「ただいま」
「おかえりなさい、シンジくん」
新しいお母さんが僕を迎えてくれる。エプロンの上からでも大きな胸の膨らみがわかる。
「今日も、暑かったわねえ。ご飯までは間があるから、先にシャワーでも浴びちゃったら」
「うん」
義母さんに勧められて、僕は浴室に向かう。
汗だくになった制服を抜いで洗濯籠に入れようとした……僕の目に、白くて小さな布が飛びこんでくる。
こ、これって……義母さんの……
手を伸ばしちゃ駄目だ、手を伸ばしちゃ駄目だ、手を伸ばしちゃ駄目だって、唱えている間に僕は、白い布を顔の前に持ってきてしまった。
「…………」
匂いを嗅いじゃ駄目だ、匂いを嗅いじゃ駄目だ、匂いを嗅いじゃ駄目だ……ああ、これが、女の人の、いや、義母さんの匂い。
僕は、想像していた以上に本能に訴えてくる異性の匂いに陶然とする。
「なにやっているの!!」
鋭い声が僕をたしなめる。
いつのまにか、義母さんが背後に立っていた。
「あっ、あの、これは……」
僕はしどろもどろで、まともにしゃべれない。
「ふううん、シンジ君もこういうのに興味があるんだ」
義母さんが、僕の顔を見下ろす。
「ごめんなさい、そう言うつもりでは無かったんです」
僕は、とにかく謝った。謝っていれば、誰も僕を責めたりしない。
「どういうつもりだったの? ねえ、シンジ君、教えてくれる? 誰のパンツでも佳かったの? それともあたしのパンツだからそういうことしたの? 」
義母さんが、顔を近づけてくる。ああ、良い香りがする。義母さんがいつも使っているラベンダーの香水の香り。
義母さんが、僕の顔を胸に抱え込む。柔らかく、熱い膨らみに僕は包まれ、もう、なにも考えられなくなる。
「か、義母さん、いえ、ミサトさんだから……」
「そう、あたしだからなのね。うれしいわ、シンジ君。じゃ、あたしがシンジ君に教えてあげるわ、そんな布きれにはない、暖かさを」
義母さん、いや、ミサトさんが僕のズボンを降ろした。ミサトさんの白い手が僕の……
「うっ…………」
僕って、最低だ。こんな妄想でイクなんて……
「なんなのよ、これえ」
アスカは、悲鳴のような声をあげて、次のページをめくった。