雪の思い Two of us #3

こめどころ

朝起きてカーテンを開ける。
寒さを示す細かい雪が、広いガラス窓からの景色を埋め尽くす勢いで降りしきっていた。
白い雪と低い雲の向こうに、薄墨で描かれたような山陰と伽藍や塔が幽かに見えた。

昨夜は、剣道部の本年度最後の総稽古、部活動総括で、OBたちも多数出席して盛り上がった。
そうは言っても、会計や大会毎の分析が終わると、現部員はOBの忘年会に付き合うだけ。
総括が終了した後の道場は(質素ではあるが)毎年宴会場となる。
ジュースとビールで乾杯。
その後現役生はつまみを運んだり酒が切れないように回ったりという、それだけが仕事なのだが。
いきなり表に連れ出されて、すりあげ面の秘伝ご教授なんて事も往々にしてあるわけで。
ここで皆と顔を合わせるのが楽しみで全国からOBがきて、青春の思い出である道場を見る。
そして現部員を励まし、往時の後輩達の便りを聞き同期と語り合う。血も騒ごうというものだ。
旧制中学のOBなど、もうとっくに人生の現役をリタイヤした先輩までもやってくるのだ。
総括開始、総稽古、大学、警察などの最強の先輩達の模範稽古、総指導、宴会終了まで12時間。

1学年違えばごみ同然という体育会系の中でも武道系は特に上下関係が厳しい。
高校レベルのOBはまだ序の口だ。酒を飲まされる事も酌をさせられることもない。
それでもくたくたで帰って来て、布団をホットカーペットの上に広げ、制服のまま寝てしまった。
年末の恒例行事は、年寄りが若者のエキスを吸い取るサバトのような行事としか思えない。
夜中に暑さに起き、着ているものを適当に振り飛ばしたことを思い出す。
座布団をかき寄せて2つ折りにし、枕にしてまた眠ってしまった。

そこまで思い出した。ああ、だからこんな格好なのかとシンジは寝ぼけつつ納得した。
ずり落ちかけたブリーフと、ほっぽり出された袖なしのTシャツ。半足だけの靴下とか。
父親からの、年末を越えて暫く帰れないとの伝言が、警告音とともに繰り返された。

『シンジか。年末も正月も帰れん。いずれ誰かに連絡させる。ガチャ、ぴー』

――この伝言はリターン機能により繰り返し再生されます。
再生停止は2、保護するには1、削除するためには3の番号を押して下さい――

なるほど、これで目が覚めたのか、と納得して3を押した。
これで年末正月の一人暮らしが決定。気楽で楽しい正月になるだろうと思った。

シンジは冷たい水で顔を洗うと早々に外に出た。
地上では思ったより雪は降っていないがかなり寒い。コートの襟を立てた。
盆地は風が渦を巻く。どこか遠いところで降っているんだろう。
疎水分流に沿って歩くと喫茶店や食堂が多い。そこの、K2という喫茶店のドアを開ける。
カウベルの音が消えると、シンジはマスターにダブルモーニングを頼んだ。
本来は喫茶なのだが、ここではシンジにはメニュー外の夕食も出してくれる。
ここのマスターはシンジの両親の昔の仲間だったらしい。

――遅くなったり出張が続くときは、飯を食わせてやってくれ。

初めて来た時、シンジの父がマスターにそう依頼をしたのだ。
大学時代の話を2人が語り、それで初めて父がこの街の大学を出たことを知った。
以来、時々ここで朝晩の食事を取っている。自分で自分だけの飯を作るのは味気ないから。
まだ馴染めない学校生活。誰かと一緒にいたいと思うとき。シンジはここに来た。
最近は部活の後で友人を連れてきて奢ったりするようにもなった。
朝は7時から夜は11時まで。マスターはまるで修行僧かなにかのように黙々とよく働く。
静かで広い店舗は大手出版社の観光ガイドにも、銀閣寺散策の項に載っていた。
デートスポットとしても有名になったらしい。夜遅くには隅の壁際にじっと動かない男女がいる。

だが、元々は住宅地の常連客、固定客相手の店だ。
余り込む日が続くと休業の看板がかかる。実際には開いているのを地元の馴染みだけが知っている。
最初はひどく無愛想な人だったが、あの父の仲間だと思えば不思議でもなんでもなかった。
記憶での母はよく笑う人だったように憶えている。
父やその友人達を見ていると母も本当はこんなふうに無口で愛想のない人だったんじゃないかと思う。
だが、通ううちに、今はマスターも随分話すようになった。

「おまえの母親は、わしらの仲間では唯一いつでも笑顔を振りまいていたな。」

「そうですか。安心しました。」

「何故安心する?」

「いえ、父を見ていると僕の記憶のほうが違ったのかと。」

「あいつだけじゃない。わしらは根の暗い集まりだったからな。」

笑っていいのか悪いのか対応に困るような応え。その様子を見てマスターはちょっとだけ笑いを浮かべる。
冗談(らしきもの)を口にする事もある。意外とこの『面白がりな性格』が地なのかもしれない。
人見知りで人間嫌い?そんな人が何故喫茶店なんかするんだろう。『先生』をやっている父にしてもだ。

「おはようございます。」

「そんなに早くはないぞ。」

時計を見ると確かにもう11時近かった。これはまずい。

「もう少し遅けりゃランチタイムだ。モーニングでいいのか?」

「ええ。そんなにおなかがすいているわけじゃありませんから。」

そうは言っても厚切りのバタートースト4枚(厚切りパン2枚分だ)とダブルエッグ、
ベーコン4枚、ソーセージ4本とコーヒー。
ダブルサイズのサラダと、ミネストローネは大カップにたっぷり一杯だ。マスターは苦笑する。
――ふん、お腹がすいてないでこれだけ食うんだからな。
マスターは少し笑ったように見えた。

「それはそうとして、あの金髪娘はどうした? お前さんがいないんでぷりぷりして出て行ったぞ。」

「え?やっぱりそうなんですか!」

バンの上に目玉焼きを乗せ、黄身が垂れないように慎重に食べていたシンジは急に慌てだした。
まずい、只でさえ昨日はまるっきり連絡も取れずにいたのだ。
約束の遊園地に連れて行ってもらえなかった、日曜日の小さな女の子のように拗ねているに違いない。

「そ、それで?」

「それで? 何か約束でもしてたのか?」

「う、ううん。何も。」

「それじゃあ、何も慌てることはないだろう。」

「そ、それはそうなんだけど。」

ああ、大人にはわからないんだ。確かに僕は何も悪くないよ、悪くないけど。
女の子を怒らしたりしたらいけないんだよ。それが、あいつとの間の約束なんだ。
どんなにそれが理不尽なことでも、女の子がそれをどんなにか楽しみにしてたか、わかるんだったら。

「僕が悪いんですよ。」

「何だ、変な奴だな。」

マスターは、急に忙しく食べだしたシンジのために、薄めのアイスコーヒーを出した。
ほんの僅かの間にダブルモーニングを食いつくし、
「ごちそうさまっ!」と言い捨てるように店を飛び出したシンジ。
店の前の通りを必死で走り出した。

「あんなに急いで。あんたの家にでも向かったのかね。」

「いいのよ。あんな馬鹿少し走らせてやれば。」

カウンター裏の小部屋から出てきたアスカが伸び上がって小窓から覗く。しかめっ面に少し笑みが広がった。

「おーおー。走ってる走ってる、あっ、転んだッ。」

ちょっと高めになっている歩道の段差に蹴躓いたのだ。
見事に転がったシンジを見て、女の子はくすくす笑いながらコートを羽織ってカウンターを出る。

「あたしも行くわ。叔父さんありがとうね!」

「ああ。俺はいつでも女性の味方だからな。」

「さすがはシンジのお父様のお友達ね!」

輝くような頬笑みだけが、その場に暫く残っている。そんな笑顔。
カランカラン!とカウベルが鳴って、少女も外に走り出した。

「下手するとあれがゲンドウの娘になるわけかよ。人生は公平じゃねえな。」

そうマスターがぼやいた途端、地の底から這い出したような深い揺れが、建物を軋ませた。
天井に飾っていた銅鍋がいくつか転げ落ち、はめ殺しの窓のいくつかにヒビがはしった。

「な、何だ地震か?珍しいな。」

波を打つ大きな寸胴をいくつか急いで地面に降ろす。
揺れは長く続き、さらに壁の飾り皿がいくつか落ちて割れた。
かなり長い地震だ。しかも少しずつ揺れがひどくなってくる。
タバコの脂で黄ばんだ漆喰の壁も音を立てて割れ、床に落ち始める。
固定されていた版画や絵も一緒になって落ち、ガラスの割れる派手な音が響く。
高い位置の引き出しが放り出されて、銀製の古い食器が投げ出されて飛び散る。

屋外でも異常な光景が見られた。波打つ歩道の石盤。カタコトと音を立てながらばらばらに乱れていく。
街路樹がゆさゆさと揺れて、ポストが根元のコンクリート塊といっしょにゆっくり倒れた。

「う、わ。なによっ、これ!」

足元が揺らいでいる。街路灯に渡されたケーブルがひゅうひゅうと音を立てて振れている。
アスカが初めて体験する地震だった。
立て続けに瓦屋根が落ちて割れる音。看板や屋根の雪の塊も落ち、破壊音がする。
必死になって街路樹にすがりつく。本当に怖い。奥歯が震えてカチカチと鳴っている。
ようやく気が付いたドライバー達が車を停止し始めた。
ハンドルを切り損ねた車が交差点でひっくり返り、角の店に突っ込んだ。
アスファルトに皺が寄り、道路が波うち、裂けている。
絶対信頼を置いていた大地が動くなんて、本能的な恐怖にはさすがのアスカも対応できなかった。
体が震えてる。どんな厳しい訓練でもこんな思いをしたことはなかった。

「いやっ、シンジ、シンジッ!」

へんな悪戯をしなかったら今一緒にいられたのに、と固く目を瞑って後悔した。
神様、金輪際シンジに意地悪しません、威張ったりしませんからシンジを守って。
あたしとシンジが無事でまた一緒に会えます様にっ、お願いです!
その途端、地震は収まった。アスカは暫くしてからそれに気づいた。

「とまった…願いが効いたみたい。」

目を丸くしたまま、ほう、と溜息をついてその場にしゃがみこんだ。
涙がほろほろと頬を伝わって落ちた。

いきなり、携帯が鳴った。シンジだ。

玄関を入った途端アスカの機関銃のような攻撃。
別にアスカじゃなくても口じゃ女の子には絶対適わないのはわかってる。

「大体ねえ、11時まで寝てるって言うのが根本的にぶったるんでんのよ。
休みの日はいっつもこんな調子なんじゃないの?」

「そ、そんなことないよ。ちゃんと起きてるよ。今朝はたまたま昨夜遅かったから。」

「休みの日はあそこでモーニング食べるっていうから、あたし8時半から待ってたんだからね。」

(実際は9時半から。)

「だから謝ってるじゃないか。」

「開き直るの?地震だって凄く怖かったんだからね!」

「確かに少し大きかったけど、そんな泣くほど大きな地震じゃ…」

「泣いてなんかいないってば!」

あの時、携帯が繋がった途端、シンジッ!どこにいるのよって泣き声で叫んだくせに。
だが、この子が泣いてなんかいないと言う以上、それが違うなどと言うつもりはなく。
自分のガールフレンドがどういう人間なのか、この3日ほどでよく分かっていた。

今日は30日。知り合ってからまだ一週間ちょっと、付き合いは3日目だ。
27日。28日。昨日は会えなかった。そして今日。
それでもとにかく、この性格が可愛らしくて仕方がないと思っているシンジだった。

「これ、これ、アスカ。そのうち口が曲がりますえ。」

「だって、おばあちゃん、もう。」

「碇さんが呼んだわけでなし、あんたが勝手にお待ちしてたんやろ。」

「そ、そうだけど。あたしが来るだろうなって…思ってたくせに。」

ここまで言われたら、シンジの方から謝らなければ男が廃る。

「僕が悪かったよ、アスカ。お婆さんもごめんなさい、どうかアスカを叱らないでください。」

「ええのんどすか、碇さん。」

「僕が、気が付かなきゃいけませんでした。」

「あ、あたしっ、お茶入れてこようっと。」

つっと立ち上がったアスカは、台所に消えた。急にどうしたのだろう。

「あれで、照れてますのんや。許してやってな。」

「もちろんですよ。」

それを聞いて、アスカそっくりの表情がお祖母さんの顔に浮かぶ。

「あれでな、大変なんですわ。
ちょっとでも音がすると門まで飛び出していくし、買い物いくと、きょろきょろしてばかり。
ちょっと碇さんと似たような人がいたとか、すれ違ったとか。」

コタツで丸まっている猫のような笑顔でこっそり話すお祖母さん。

「え、それってどういう。」

「通り過ぎた人の後姿が碇さんの肩の線とそっくりだとか、頭の毛の感じが同じだったとか。
なんかの影見ても、碇さん碇さん言いますんのや。あの娘。おかしいですなあ。」

シンジの顔がかーっと真っ赤になったかと思ったら、そのまま首から手まで赤く染まった。
お婆さんから伝えられた、アスカの気持ち。
そうなのか? 僕だけじゃないのか? 君がそんなに僕のこと思ってくれてたなんて信じられない。

「はい、お白湯よ。ほら、粟粒浮菓子入れちゃった。」

お婆さんは満足しきって、すまし顔でその5色の粟の浮いたお白湯を飲む。
アスカは様子が変だと思いながら、俯いたままのシンジを見つめている。
手や首筋までが真っ赤を通り越すほどに染まっている。

「なに?どうかしたの、シンジ。え?」

「え? な、なんでもない。平気。大丈夫。」

『11時23分の地震の震源地は滋賀県彦根市松原町沖の琵琶湖水上800m、震度4。
震源の深さはおよそ1kmと…』

「さっきからこのニュースばかりね。」

「ほらこれ、地震の瞬間に琵琶湖の水がごぼっと湧き水みたいに盛り上がった映像。
直径300mの巨大衝撃波って、こんなこと地震であるわけ?」

「一箇所の地盤だけが突き出すとか、周囲が陥没してそこだけ残ったとかそういうことなら。」

「そんな地震がこんな小規模で終わる訳無い。
向かいの松原町の滋賀大のキャンパスに辺りにまで僅かばかりの波が押し寄せただけだなんて。」

『震度は彦根震度4、高島震度4、京都市震度5、南丹市震度4、舞鶴市震度4、毛島震度4。』

「この京都の震度だって何かおかしいよね。震源地より震度が高いなんてありえるの?
ほらこのTVの図みて。左京区と右京区の北方にだけ震度5が並んでる。鞍馬山に向かっているようね。」

「松原から毛島にかけて断層があるとか?
それにしたって、このライン上が全て震度4なんてことが起るのかな?」

「一気に揺れが抜けるような大断層がここにあるなんて、聞いたことないわね。」

「桂川の断層くらいかねぇ。あっちのほうには昔の火山があってなぁ。
浅断層と深断層が交差しとるし、まぁこの辺は地層学的に面白いところなんですわ。」

アスカが目を丸くする。

「お祖母ちゃんて物知りねえ。」

「あれも少し、これも少しな。肝心なことはひとっつも知らんでいい気になっとたわ。
アスカ、お前は愚かな女だけにはなりなさんな。ええな。」

「え、う、うん。」

一体何のことだろ、と考え込んでいると、祖母はとんでもない事をシンジに言い出した。

「碇さん。」

「は、はい。」

「何か、只事ではないようなことが起るかも知れまへん。」

居住まいを正し、真顔でシンジを見ている。

「その時は、アスカのこと、宜しゅうお願いしますな。」

アスカは口をあんぐり開けて、シュウと蒸気の輪が頭上にできそうな表情になった。

「な、なんて、なに言ってるのよっ!お祖母ちゃんっ!」

喚く少女を尻目に、シンジはアスカの祖母の目をじっと見つめ返した。
嘘や冗談ではない、真剣な眼差し。とてもこの歳の人とは思えない強い視線。
この人は、本気で僕にアスカを託すと言っているんだ。こんな、中途半端な子供の自分に。
だったら、僕はこの人にどう応えればいい。思わず威儀を正し、しっかり正座しなおした。

「はい。必ず。」

そう言って、頭を下げた。生まれて初めて交わす、真剣な約束だ。

「ありがとうさん。」

満足げに祖母は微笑んだ。
アスカは何か口を挟もうとした。が、何も言えない。そのまま黙ってしまった。
祖母の様子がいつもと違うのを感じた。
これは、只事ではない。自分達の生活が根こそぎになるような何かが、起るってこと。
何かを祖母は知ったに違いない。それで、シンジにあたしを託したんだ。
あたし――託されたって…一体どうなるのよ。

次の日も朝から外を散歩して、その後、昼過ぎにはアスカの家に戻った。
そこで3人でお茶をしながら、ゆっくりと話す。今夜は泊っていくことになってしまった。
2人きりになりたいのも山々だったが、お祖母ちゃんと話すことも楽しみだと思う。
アスカにしても正月開けの10日には新東京に戻る予定なのだ。
シンジともいたいが、祖母とも一緒にいたい。その気持ちがシンジにはよく分かる。
アスカが帰ったら、自分ひとりでもこの家には時々顔を出そうと思っている。

「アスカ。」

「は、はい。」

「あんたに色々教えなならん。お煮染めとかなぁ。今日はこれから色々買い物しまひょか。」

お煮しめとはこちらの言葉でおせちのことを指す。

「はい。シンジッ!あんたも付き合うのよっ、荷物多いんだから。」

「そうやな、この雪では車もよう使えしまへんし。頼まれてもらえるやろか。」

「手伝います。うちは掃除するだけですし、父さんも正月、帰ってきませんから。」

市場の混雑の中を3人であちこち歩き回る。意外なくらいお祖母さんの足は達者だった。
若い二人の方がむしろへばりがちな程。

「これアスカ。このくらいで疲れてたら、ええおかみさんにはなれしまへんえ。
買い物は足でするもんどす。いくらかでも始末するために行ったり来たり。それが始末の基本どす。」

昔の女の人は凄い、などと益体もないことを考える。
祝い肴の数の子、ごまめ、叩き牛蒡。これらに加え、黒豆、小梅、田作り、かちぐりを詰めて、
煮抜き玉 子、串貝、はじかみ。棒鱈と蝦芋を炊いたものや、昆布巻き、出汁巻き卵、新居浜の竹輪。
グジの薄皮焼き。紅白の膾。鯨の皮の酢の物。自前で漬けたかぶらと白菜、壬生菜。他に細々。
時間の掛かるものはもう下ごしらえが済んでいる。これだけのものを一人で揃えてしまうのだ。

それでもこの街のおせちは、新東京に比べるとずいぶん地味だとアスカは思う。
毎年、大晦日を本部で越えた職員は、翌日食堂に集り新年の挨拶を交わす。
そこで出るおせち料理は、何でもありのご馳走ばかりだ。
日本中から職員が集っていて、それぞれの地域のもの、それぞれの家庭の御節料理や雑煮が集っている。
それどころか、日本だけではなく世界各国から来たチームまでてんでに料理を作っているのだ。
厨房主任が腕を振るったもの、寮のコンロで作ってきたものと、バラエティーにも富んでいる。
フランス、中華はもとよりモンゴル風の羊の血のソーセージ、ボルシチ、トナカイときのこのシチュー、
ビールのアバラ煮込み。酒もウオッカから泡盛まである。
敷地を掘って焼き石をいれ、バナナの葉をかぶせた子豚の丸焼きを作っている連中もいた。

あれが広い世界を表す料理だとすれば、この祖母の街の料理は時の流れに細く穿たれたタイムトンネルだ。
この街の料理はすす払いの合間に板の間に、美しい椀と台で正座して食べる歳過ぎの食事。
仏壇のお飾り、五具足や綺麗な打ち敷、黒光りする亀と鶴の香炉。
質素なのは伝統だと、それだけでは済ませられない別の世界。それが人の心に生き続けている。
この料理をアスカ自身が作れるようになったら。世界のどこにいてもそれは京都の、祖母との正月だ。

「せやなあ。
昔、家に手伝いの人が大勢いはったころは鰊昆布とかに一本つけてその年のお礼などしたもんやった。
いいカツブシを一杯かけてな。今はそういうちょっとした気あしらいも、のうなってしまいましたからなぁ。」

静かにふけてゆく広い台所で、ひい爺様が使用人に礼をいい、何がしかの小遣いや煙草を与え、
近場の人は家に帰り、内方、遠方の人は翌朝皆で正月を迎えるものだったと、アスカとシンジに
語るお祖母さんの話に耳を傾ける。
そうか、これが日本の生活なのね、とアスカは思う。
同じように耳を傾けているシンジ。あなたのおうちではどんな正月を迎えたものなの?
そんな話も聞いてみたい、と少女は思うのだった。
ドイツでの年越し、どんなことをしただろう。
近場の鐘の音、遠くの鐘の音。あれは知恩院、これは光明寺とお祖母さんは鐘の音を聞き分ける。
寒いのを我慢して、一枚あけた窓から入ってくる鐘の音を比べながらその年の大晦日が過ぎていった。

コタツ布団の中で、互いの手をそっと握りながら。足先を触れさせて。シンジとアスカは幸せだった。

大晦日の夜半。2時過ぎに再び地震があった。
どーんという地鳴りがしたと思ったら、こんどは一気に揺れが着た。
森の鷺やカラスが一斉に鳴きながら飛び立ち、そのまま叫びながらいつまでも夜空を回転していた。
廊下にシンジが飛び出した途端、アスカも部屋から飛び出してきた。

「お祖母ちゃんは!」「いこう!」

階段を駆け下りると、部屋に駆け込んだ。
祖母は布団を跳ね上げて、数台のパソコンを同時に立ちあげ、猛烈な勢いでキーを叩いていた。
ザーッと音が立ったように次々と画面は変化していく。

「お祖母ちゃん!」

振り返ったそこには転送開始のメール画面が見えた。一体どこに。

「行きましょう!」

表に出て、坂の上から見ると、洛中の空が赤く焦げていた。どこからか火が出たのか。
消防のサイレンが市内中で響き渡り、犬の遠吠えがそれに重なって大変な喧騒だ。

いったん収まった揺れが再度襲ってきた。揺れ戻しか。しかもさっきよりも振幅が激しい。
向町のマンションが音を立ててながら崩れていくのを見た。人々の間で悲鳴が上がる。
近くの住宅でも壁が落ちたり、遊びのない防犯窓が割れたりしている。
誰かが持ち出した非常用のラジオが震度6を告げた。
さらに大きな揺れ戻しの可能性があるため、指定避難場所に移動せよとの命令が出ている。

「黒谷さんの門瓦があらかた落ちたと。」

「知恩院さんの三門が倒れたそうや。」

「えらいこっちゃ。何も正月そうそうなぁ。」

外は人ごみでごった返していた。色々な風聞が限りなく飛び交っている。
シンジは雪の中の災害の恐ろしさを思い起こす。
長野で起った5年前。1月12日の大地震。積もった雪が固い壁となり家から脱出が出来ない。
雪で大型消防車と避難民はすれ違えない。火災消火や救助に大変な時間がかかった。
その間に犠牲者は想定の5倍にも膨れ上がった。
マスコミは長野を含む広域自治体(道州制準備組織)を責めた。
だが震災に備え道路を3倍に拡幅する工事など、疲弊した自治体に一気にできるわけもなかった。
雪と怒号、逃げ惑う人々の中で、叔父一家はシンジを守り抜いてくれた。
すすだらけの顔、泥まみれの衣服。いとこ達の自分への笑顔。
肩を叩いてくれた叔父と、子供達を順番に抱きしめてくれた叔母。
父さんが迎えになんか来なかったら僕はあそこで幸せだったのに。どうせずっと棄てていたくせに。

「シンジ!」

「え?ああ。」

「あんた、また変な目してたわよ。ろくでもないこと考えてたんじゃないでしょうね。」

参ったな、と思う。付き合いだしてから一週間もたたないというのに、アスカは自分の心を読む。
自分はまだ振り回されっぱなしだというのに。
アスカのほうにしてみれば、同じことをシンジに感じていたのだがシンジは気づいていない。

真如堂は指定避難場所だが、続く吉田山は雪が深く避難し難い上、坂の上では火に追われる怖れがある。
今のうちに坂をくだって、大学の施設に避難するべきだ。黒谷の奥院の低地は広いが湿地で足場が悪い。
大学構内なら道に沿った建物が防火壁の役目を果たし火に巻かれずに済む。
地上80mまで並ぶスプリンクラーの水の壁が装備された、新築された付属病院もある。

「あんた、どう思いなさる。」

急に、アスカの祖母がシンジに尋ねたので、そのままを述べた。
老人は大きく肯いた。
いつの間にか人々の間に混じっていた銀色の耐熱防火スーツの一団の一人を呼び寄せ、耳打ちした。

「みなさん、万が一の為に山を下って大学構内に避難場所を移します。」

「怪我人が数人出ていますので搬送にご協力ください。」

「この周辺では大きな被害の報告は出ていません。まだ安心です。冷静に行動しましょう。」

実際にはこの地区から見えない場所で、ビルの倒壊や大規模出火が何箇所かあり類焼しつつあった。
だが、地震直後の中心街の火の手はいったん収まっていて、大きな火災は大分南の方に移っていた。
パニックを起こさぬため、消防車や救急車はサイレンを鳴らさずに走るよう指示も出ていた。
実際の危機はまったく去っていない。
吉田山周辺の住人は静かに山を下り、大学構内に移動して行った。

「さて、私らも行きましょうか。」

「ご案内します、先生。」

銀色装備の人々が周囲にまだ残っていた。アスカの祖母を囲むように動き始める。

「はいはい、孫達と一緒にお願いしますよ。」

「はっ。承知いたしております。さぁ、君らも一緒に。」

アスカは敵意のこもった目で彼らを見ているが、シンジは緊急配備の消防部隊としか思っていない。
自分達に悪意を持って近づく集団の経験が無いせいだ。
いつでも集団で近づいてくるものは自分達を守る公共部隊の人間だとしか思っていない。
アスカは、肩を抱くように保護しようとした部隊の一人の手を振り払った。

「触らないでっ。一人で歩けるっ!」

その声と態度で、シンジにも目が覚めたように警戒心が蘇った。
この人たち一体何だ。
さらに、空にまるでUFOのような、不思議な火の玉が飛び交っているのが見えた。
それらが住人が去るのを待ち構えていたかのように接近し着陸。銀色装備の人数が増えていく。
一緒に降りてきた大型ヘリが人を吐き出し、また舞い上がっていく。

「消音ヘリ? 軍事用の、たしかコマンチとか言う奴。あっちは大型輸送ヘリだ。」

さすがに男の子だけあって、シンジにもそのくらいの知識はあった。
サーチライトを回転させながら、数機が交互に上空で待機しているようだ。
これは日本の軍隊じゃない。どこにも日の丸マークがない。もしかして外国軍?
背筋にぞくっと怖気が走った。僕らは捕まったんだろうか。

「君は?」

「ぼ、僕は惣流さんの友人で…」

「この子は全然関係ない人よっ。かまわないでっ。」

噛み付くようにアスカが叫び、僕に尋ねた人を突き飛ばした。
腰に見えたのは、銃っ?

「しかし、惣流少尉っ。」

「黙れって言ってんのがわかんないのっ!」

何か秘密を守りたい様に、激しく突っかかって行ったアスカがそう叫んだ。
そう言った途端、はっとしたようにシンジを振り返り、見つめたアスカの目。
まるで、まるでその顔は小さな子供が泣き出す寸前みたいに目が涙で一杯になっていて。
唇は左右に一杯に引っ張られたみたいになって、鼻の頭なんか真っ赤になっいて。
凄く情けない顔だった。
だがその顔を見たシンジは、ぎりぎりの所でその男に飛び掛りそうになった自分を制した。
心臓を直接つかまれたように、アスカの悲しみとか激しい絶望が自分の中で脈打っている。

『アスカは、僕に知られたくなかったんだ。見られたくなかったんだ。』

シンジは唖然とした表情のまま、アスカを見た。
その表情を変えることも出来ないでいるうちに、彼女の涙は瞼を越えて流れ出していた。
とっさに一歩踏み込んでアスカの手を握っていた。

「いやっ、離してよっ。」

涙の粒が散った。泣いていた。アスカが泣いてた。

「離さない、何で離さなきゃいけないんだよっ。」

「わかってるんでしょ。こいつら、あたしの仲間よ。」

「仲間って…」

「これがあたしの、自由に生活でき無い理由。」

仲間だって?この半分軍隊みたいな連中が?

「君、悪いが一般人は大学のほうへ避難を。」

後ろにいた、もう一人がシンジに声をかける。

「なによ、この人はあたしのうちの身内よ。」

「先ほどは関係ない一般人だとおっしゃられていたようでしたが。」

「い、一般人だけど…」

言いよどむ。

「こ、この人は私の保護者よ。」

「保護者?京都における保護者は教授と伺っておりますが。」

「お、おばあちゃんに何かあったときはこの人の家に引き取られることになってるのよ!」

さっき決まったばかりのことだ。でたらめに近い。

「君、本当かね。」

「ほ、本当です。」

そう言うしかないではないか。覚悟を決めて言い切った。

「お父さんの姓名は。」

「い、碇ゲンドウです。」

「碇ゲンドウ?本当かね。」

明らかに他のメンバーより階級が上らしいその部隊員は、後ろにいた隊員に何事かを指示した。
開かれたPCの画面を眺め、何かを打ち込んでいる。

「確認した。そういうことであれば暫くここにいていい。」

「え?」

却って驚く二人。碇ゲンドウの名前が何故ここで効果があるというのか。

「ちょっとシンジッ。これってどういうことよ。」

「僕に分かるわけないだろっ。」

「ともかく、少し時間ができたのは確かなようね。」

アスカはシンジの手をつかむと脱兎のごとく真如堂の裏手に走りこみ、濡れ縁の下に駆け込んだ。
ポケットからつかみ出した手帳に何事かを書き込む。それを引きちぎってシンジに手渡した。

「いいっ?これがあたしの連絡先。自分のPCから連絡したりするんじゃないわよ。
どこか不特定なところから、逆探知できないようにして発信すんのよ。」

「そ、そんなことどうやって。」

「ああもう、学校にパソコンオタクがいるでしょ、そういう奴に相談すんのよ。」

「わ、わかったよ。」

「あたしはもうすぐ行かなくちゃならない。あんたとお参りとか買い物とか色々行きたかったけど。」

「うん――」

「休暇、終わっちゃった。残念だと思ってくれる?」

「当たり前じゃないか。」

アスカが俯いた。肩を震わせている。

「なんだよ、なに笑ってるの。」

「泣いてるのよっ、この大馬鹿シンジッ!」

パシッといい音がしたと思ったら、そのまま女の子はシンジの身体をぎゅっと抱きすくめた。

「こんなの、絶対早すぎるって思うけど。あたし、シンジとずっといたい。一緒に。」

「僕もだよ。知り合ってほんとに短いけど、いつかまた必ず会って。」

身体を離し、シンジを不思議そうに見上げる。こいつってこんなに上背があった?

「会って?」

「会って、君とずっと一緒にいたい。そして君に言いたい事があるっ。待っててくれるよね。」

会って、言いたいこと?それってなに?

「絶対会える。会いに行くよ。探しに行く。必ず。」

キスシーン アスカはその言葉が終わる前に、シンジに飛びついた。
そして少年の唇に自分の唇を併せた。
高い濡れ縁の下の、乾いた土に膝を突いて。互いの髪に指を絡ませる様にして。
離れたくない想いを、その指と唇に託した。
広大な真如堂の敷地の中の、ほんの小さな一画。アスカの母が、一人ぼっちで遊んでいた濡れ縁の下で。

避難が終わり、ひっきりなしに鳴り始めた消防や警察のけたたましいサイレンや電子鐘。 群れを成すような低く威圧的な空を圧する爆音や急展開する金属音がこの古い街を包んでいく。

だが、この瞬間に、シンジとアスカをくるんでいたのは、音一つない静謐な世界だった。 少女の匂い。少年の匂い。彼らの健康な身体と、純粋に求め合う心が周囲の全てから2人を隔てていた。
ここにあるのは、一つになりかけている身体と心。時たま零れる溜息や服地の擦れる音。 それしかここには無い。
ただ、ただ。離れることがつらい。
何故、自分達が一緒にいられないのか、理不尽な現実が憎く、それだけ互いを愛おしく思えて離せない。
だが、いやおう無しに時間は流れる。

「惣流少尉殿ーっ!どこにおられますかーっ!」

「準備が出来ましたっ!出発しますーっ!」

互いに回した手に力がこもる。暫くして、やっと二人は離れた。
お互いの手を離し、つらさに強ばった少年の顔と、涙に濡れた少女の顔がそこにあるのを確認しあう。
離れたくない。別れたくない。最後に触れ合っている指先を振り切れない。

遠くで誰かが、またアスカを呼んでいる。

「きっとだからね。絶対会いに来るんだからねっ!探しに来るんだからねっ。」

「うんっ!」

でも、それは無理な願い。望んでも適わぬ夢だということを、少女は知っていた。
ここで待ってて、と言う様にアスカは唇に指を当てて、しーっというポーズをとった。]

「アスカ。」

「あたし行くわ。いかなくちゃ。」

縁側下から外に飛び出す。そのまま走っていく後ろ姿をシンジは見送るしかなかった。
アスカは腕で顔を擦り上げ、涙をぬぐった。戦うための自分、本来の自分へ。
銀色の隊員たちがアスカを取り巻いた。
いつの間に来たのか、ヘリよりずっと猛々しい鉄の翼を持った大きな戦闘機が留まっていた。
後部座席に見えるのはアスカの金色の髪。
彼方から、思わず。少年は屈んでいた姿勢から、真っ直ぐに立ち上がっていた。

「君って、一体何者なんだ。アスカ。」

その一瞬アスカが振り返った。間違いなく、シンジはアスカが自分を見ていると確信した。
アスカは、つけていたマスクをはずした。形のいい唇と薔薇の頬がにっこりと笑っていた。

「アスカ!」

駆け寄ろうとした瞬間。爆発したような激しい噴出がシンジの足を竦ませた。
ゆっくりと回りながら垂直に戦闘機が上昇する。
足をスズメバチのように下に垂らしたまま、背を丸めて、ひどく生物臭い姿勢で上っていく。
そして、視界から暗がりに機体が消える頃、激しい光と爆音をとどろかせてシンジの視野からアスカは消えた。

雪の思い Two of us #3    2006-03-12 komedokoro

Author: こめどころさん
初出: 2006/03/14
はい。雪の思い#3です。
本当は#3で終わりの予定でしたが、#3で終わらせると、結末が少し唐突過ぎるので伸ばして頂きました。
今回は転換点という事で…。結末を待っておられた方、すいません。
しかし、女の子は理不尽なことで怒りますね。ツンデレのツンツンの方だと思えば、判りやすいでしょうか?
アスカとシンジ君、お別れしちゃいましたね。この先、どうなるのでしょう?
次回最終回なので、多分即会う事となると身もふたも無い事を思いつつ、次回に期待いたしますー。

このお話を書かれたこめどころさんに、是非ご感想を。
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