雪の思い Two of us #2

こめどころ

 こんな寺社仏閣だらけの街でも、クリスマスなんてやるのかしらとアスカは半信半疑だった。
第3新東京市の研究所内。幹部クラスに若い独身者が多いせいか、毎年クリスマスは賑やかに祝われる。
日本でのクリスマスは只のパーティーの口実に過ぎず、本部挙げてのドンチャン騒ぎだ。
家族のいないアスカにとってはドイツ式の、家族同士のしんみりしたクリスマスより好ましかった。
京都にいる祖母にも会いに行くことはなかなか許されないことはわかっていたし。
ただ来て見れば来たで、この街はクリスマスに余りに似つかわしくない雰囲気だとアスカですら思う。
確かに住んでいる辺りでは、ごくたまに子供がいるらしきに家の中にツリーの輝きを見るばかりだ。
大通りに出てデパートの方に向かう。
それなりの飾り付けもあり、クリスマスセールのポスターも貼ってはある。
ただそれは第3東京の街より少しばかり――いや、かなり控えめである気がした。場違いというか。

それでも知り合ったあの時、碇シンジに何故クリスマスに会おうとねだらなかったのか。

「生まれて初めて男の子と一緒にすごせるクリスマスだったかも知れないのに。」

惜しいことをしたと思う。返すがえすも思う。
日本ではクリスマスが若い男女間でのイベントとして定着していることは知っていた。
はしたないと思う反面、可能であったイベントに未練が残るのは年頃の女の子としては無理からぬこと。
しかし、教会へ通いもせず、信仰が厚い訳でもない。こういう時ばかり神様を利用するのは気が引ける。
その辺は無宗教といってもドイツの文化として、宗教に関しての態度は真面目だった。
だからより一層、我慢した分朝から落ち着きなくそわそわしていた。

「27日に部活が終わるって事は、27日に遊びに来るってことかしら。
それとも終わって次の28日に行くっていう意味なのかしら。紛らわしいったらないわよ!
ねえ、お祖母ちゃんどっちだと思う?」

「せわしない子やなぁ。大人しゅうして、待ってなはれ。」

「だって、えーい!電話くらいしてくれば良いのに。お祖母ちゃんあたしちょっと行って来る。」

「え、なにしおすの。」」

「ちょっと見てくるだけっ!」

アスカはとうとうコタツから立ち上がった。
襟ぐりの広く開いたVカットの白いセーターの上に、お洒落なコートを羽織った。

「これっ、今日は寒うおますえ。仰さん着ていきなはれや。」

「大丈夫っ、ズボンはいてるからっ。」

防寒インナーの性能がいいので、お祖母ちゃんが言うほど(伊達の薄着だが)さほど寒さは感じない。
あーっ、そういえば、電話番号なんて教えてなかったじゃないのっ、って思い出したのだ。
もう2時近いじゃない。今日は来ないつもり? 大き目のマフラーを巻きつけて、スノーブーツを履いた。
玄関と門戸の開け立ての音が2度。祖母が呆れるような間隔で聞こえた。文字通り吹っ飛んで行った。
夕食の準備はどうするのか。あの少年と合えても合えなくても連絡はあるまいと思う。
祖母はため息をついて、市場に行く準備を始めた。用意だけはしておいてやらずばなるまい。

ここ数日断続的に降り続いた雪で、前に積もった雪が凍り、その上にさらに降り積もっている。
買ってきたスノーブーツのおかげで、今のアスカには足元に不安が無い。
せっかく一人で着れる様になった和装だが、この坂道を草履で歩くのはあきらめるしかない。
周囲の人々も皆長靴姿ですっかり雪国の様相を呈している。
店先の凍った雪を商店街や住宅の人々が毎朝スコップで削っている姿。
それを加茂川まで運んで棄てる清掃局や水道局の除雪トラックも見慣れた光景になった。
その中を紺と青と空色の大判マフラーを翻し、足早に坂を下る。
せめて電話番号くらい尋ねておかなかったのかと悔やまずにいられない。
馬鹿!馬鹿!あたしの馬鹿! と頭の中はそのことで一杯だ。

「お出かけどすか〜。アスカちゃん。」

「あ、こんにちは〜」

近隣の人もこの見た目外人少女が村瀬の偏屈婆さんの孫だと言うことに馴染み、挨拶をしてくれるようになった。
アスカは上の空で顔だけ笑って挨拶を返す。
マフラーをもう一度巻きつけて駆けるように長い足で大又に進んでいく。

「この寒いのに元気やな、アスカちゃんは。見てみあの歩幅の広いこと。格好ええなあ。」

「飛んで歩いてる感じやな。背中丸めてる、よそのお子らに見せてやりたいもんやわぁ。」

「さすがは村瀬の婆様の孫娘だけのことはあるわ。凛々しおすなぁ。」

近所の評判もなかなかである。(頭の中が見えたらみんなに笑われたかもしれないが。)
それが回りまわって「婆様」の耳に入るとさすがの「偏屈もの」も顔があっさり崩れてしまうのだった。

さて、『飛んで歩いてる』アスカはそのまま真如堂から神楽岡通りを降り右に折れた。
東大路を近衛から東山一条、京都大の横を抜けて、三高のある百万遍のほうへと歩を進めた。
吉田神社の山道を抜ければ早いのだがこの雪では抜けるのは無理。それで大通り脇の道を抜けたのだ。
知恩寺の東隣が碇シンジのいるべき場所である。

「結局ここまで来ちゃったけど、なんだ三高の生徒なんか誰も歩いてないじゃない。」

学校はとうに冬休みで、クラブ活動に出てくる生徒以外は、いないのは当然。

「ああ、そうだっけ。あたしどうして気づかなかったんだろう。」

額に手を当てて、う〜と唸る。頭が全然動いていない。どうかしてる、と思う。

そこら辺には暇をもてあました帰省しない大学生だけがうろうろしている。
声を掛けられると面倒なので、立ち止まらずにどんどん歩いていくしかない。
とうとう三高の校門まで来てしまった。校門は幸いにして開いていたが、さてこの後どうしよう。
グラウンドではサッカー部員がせっせと雪かきをした後でボールを蹴っている。
幾らなんでも、ずかずか他校に入っていくわけには行かない。
そのまま暫く眺めていると、たまたま、勢い良くボールが転がってきた。
大通りに飛び出してしまう所を、赤金の髪を大きく揺らしながら足で押さえつけた。

「おうっ!すまんな!」

この寒さの中、汗びっしょりになったサッカーのユニフォーム姿で少年が大声で声をかけた。
だが、すっきりと身体を伸ばし、顔を上げたアスカを見て、気後れしたように立ち止った。
アスカはそのサッカー少年に向かって勢い良くボールを蹴り返す。ボールは綺麗に弧を描き、
音を立てて、少年の腹に受けとめられ足元に落とされた。にやりと笑う少年。

「女なのにやるやんか。あんたここの生徒や無いな。なんか用か?」

「ねえ、あんた。碇って男の子知り合いじゃない?去年転校してきたらしいんだけど。」

そっけなく、用件だけを答える少女。目を丸くしてサッカー少年は考え込んだ。

「碇?それって、2年生の剣道部の碇のことか?」

「あっ、多分その子だわ。剣道部ってどこで練習してるの?」

「多分あそこはもう練習は終わりやし、呼んできてやろか?」

どうしよう、と一瞬躊躇うと、そいつは「待っとり!」と言い残して校庭を全力で横切っていった。
あたしよりよほど判断が早いじゃない、と久しぶりに男子に感心した。
これはアスカにしては珍しいことだった。

「なかなかいい奴じゃない。」

そう言うと、覚悟を決めて門柱にもたれかかった。先にクラブの終わった男子や女子が下校していく。
アスカを認めると、不思議そうな顔でちらちらと見ながら門柱脇の階段を下りていく。
慣れた事とはいえ、早く来てくれないかと思い、マフラーを巻きなおし、顔を半分うずめて待つ。

「ほら、あすこや。」

そういう声が聞こえた。道着姿のままの碇シンジがアスカに向かって駆けてくるところだった。 急に恥かしくなる。

「惣流さん、どうしたのっ!」

「あ、あのっ!」

途端に口が動かない。
どうしてこの子の前に出ると、上がっちゃうのよっ!と地団太を踏みたい思い。

「あの、今日約束の日だったからさ。」

「あっ、そうだよね。午後から行こうと思ってたんだ。」

「そうなの。は、早く来すぎちゃったわね。ごめん!」

待ちきれなくて迎えに着たとは言えず、振り返って、校門の石段を駆け下りた。
そのまま幼稚園の角を曲がって帰ろうとしたところで手をつかまえられた。

「どうしたんだよ。せっかく来てくれたんだ。一緒に帰ろうよ。」

その手を振り払う力が、どうしてか出ない。

「あ、あたしっ!」

「迎えに来てくれたんでしょう?」

何の悪気もなくニコニコと笑う碇シンジに呆れて、アスカは何も言えないでいる。
そ、そんなことみんなの前で言う?恥ずかしいじゃない!
石段の上で見ていた、さっきのサッカー少年も唖然としていたが、やおら叫んだ。

「碇〜〜。その子、もしかして、もしかしてお前の彼女かー!」

「あほ言いなっ! そんなわけないだろっ!」

怒鳴り返したら、周囲の通行人が一斉に振り向く。なぜか、皆微笑んでいる。
顔から火が出そうって、こういうこと?アスカはマフラーを鼻が隠れるほど引き上げた。

「寒いから角の郵便局の中で待ってて!」

「ちょ、ちょっと待ちなさいよっ!」

アスカに勝手なことを言い捨て、急いで駆け戻っていくシンジ。
またアスカのほっぺたが膨れ上がる。

「何だ、彼女じゃないわけねっ。そりゃそうでしょうけどねっ!」

不満で、どうしてか割り切れない思いがしたけれど、郵便局のベンチに腰かけ、待つことにした。
確かにここは暖かいけれど、入って来る人がその度驚くのには閉口した。
まだまだこの街では、赤金の髪に青い瞳という典型的な白人系は珍しいのだろう。
これだけあちこちに英会話学校があり、白人教師がいるにもかかわらず。
欧米系白人の子供は大人より目に付かない。一般の小学校でも見かけることは無い。
全部がアメリカンスクールに行っている訳ではないと思うのだが。

笑ったと言ってざわめき、言葉を話したといってどよめき、細波のような声が広がっていく。
なんなのよ一体、ここは幕末と同じくらい外人が珍しいわけ?
和装できたらもっと驚いたでしょうね。ついでに芸子さんみたいな日本髪でも結いましょうか?
そう心の中で毒づきながら、ニコニコとしている自分もいけないんだけどね。
日本に来てから何千回も繰り返した問い。しかもそれを失礼な事なんだと誰も思っていないのだ。

スーパーで買い物をしていてもじろじろと嘗め回すように見られる。
挙句にこちらの顔や買ったものまでじろじろ眺められ、非難がましい目で見られた経験もある。
外人でなくてもちょっと目立つとそういう目にあう事もある。
彼女はこの日本の風習が大嫌いなのだった。
いい加減我慢の限界で、立ち上がろうとしたところへ制服に着替えたシンジがやって来た。

「遅いっ!」

「そう?これでも急いだんだけどな。」

大きな防具入れを担ぎ、額に少し汗が浮かんで吐く息がまっしろだ。嘘ではなくよほど急いだのだろう。
その様子が碇シンジの真面目さや誠実さとして感じられたので、アスカもほっと息をついた。
少し機嫌も直った。そんな自分も随分恥ずかしい気がした。

「あ、そうだ惣流さん。今日は僕の家の方に寄っていかない?
只のマンションだけどさ。」

「どこにあるの?」

「うーんと、北白川の辺りって分かる?この道の先に北白川のバス停があるでしょ。
あの手前の図書館の奥辺なんだけど。荷物置いてきたいし。」

「あ、吉田山降った辺りね。いいわ。付き合ってあげる。」

アスカは、もう断る気など雲霧消散しているのに気が付いた。
北白川だったらこの先すぐじゃない。この子の部屋も興味あるし。そう思って彼女は同意した。
大きな剣道の防具入れと竹刀袋は確かに重そうだし。

碇シンジもまた、アスカのばっさり羽織っただけのマント風コートに白のセーター、
そして青と紺と空色の大きなスカーフのようなラフに巻きつけられたマフラーに見とれていた。
流れる豊かな髪をなびかせ、薄い灰茶色のコーデュロズボンに黒のスノーブーツ。
寒さで赤く染まった健康的な頬。この間の和装とは正反対の活発な姿だ。

「じゃあ、いこうか。」

「行きましょっ。こっちでいいのね。」

そう言うとアスカは先に立って、金の髪を翻し、走り出した。
かなり大きなマンションの6階。たどり着いてエレベーターに乗る。
シンジはやっと先に立たせてもらい、ドアの鍵を開けた。

「さぁ、入って。父さんも今日は出張だし、楽にしてよ。」

「お留守中に悪いけど、おじゃまします。」

「こっちこそごめん、男所帯だから散らかってて。」

ドアの真正面に大きなパーテーションがあり、その向こうは広い続きの洋間。
その部屋のむこうにもいくつかドアがある。
鍵もかけないまま駆け込んだシンジは、新聞や床に散らばる機械や医学の専門雑誌とおぼしきものを、
大急ぎで片付けている。なかなか手馴れたところを見ると彼が家事を受け持っているのは確かだろう。
何か手伝おうかと屈みこんだ途端、

「カーテン開けてくれる?」

慌てたように言われて、アスカは手早く部屋を回って窓の遮光カーテンを次々開けていった。
開けると眩しい陽光が差し込んで、一気に部屋が暖まっていく。

「あ、今日は寒いし、座敷のコタツの方に入って。掘りごたつだから暖かいよ。」

さぁさぁと追い立てられるように洋間の一角を仕切った和室のコタツに入る。
その間にも、本の間に立っている洋酒のビンや、山盛りの吸殻がたまったクリスタルの灰皿が
どんどん片付けられていく。
その後に掃除機をバキュームホールにつなぎ、あっという間に埃や細かいごみを消していく。
思わずその見事な様子を感心して眺めてしまった。

「床暖房が効くまでちょっと掛かるから。コタツはずっと付けっぱなしだから、あっち入って。」

首を振ってコタツを勧める少年の顔はひどく真剣だ。

「凄いわね、よくそんなに早く掃除できる。」

「ま、ね。慣れてるからさ。ほら、座って足入れて。」

お邪魔します、と言いながら足を入れると、もう2度と出たくなくなるような気がした。
おばあちゃんのコタツとは随分違う。掘りごたつ、かぁ。腰掛けられるので足が楽だ。
正面には広い大きな窓があって、、東山から吉田山、御所からその彼方までを一望させてくれる。
雪の洛中の甍が美しい。新都とはまったく異質な世界の展望だ。

「じゃあ、これ。」

どういう仕掛けなのか、戸棚から取り出された缶コーヒーはあたたかい温度になっていた。
渡しながら、少年は少女の座った席のすぐ斜め横にもぐりこむように座った。
おそらくその席が少年の定位置なのだろう。対の席には背もたれの付いた大きな座椅子がある。
これがおそらく父親の定位置なんだろう。

「今日は、わざわざ来てくれて有難う。えと…」

「アスカ。アスカって呼んで頂戴。向こうではみんなそう呼ぶから。」

「東京で?」

「まあね。ほら、ドイツやアメリカではみんなファーストネームを呼び合うから。」

「あ、そうか。」

「そのかわり、あんたのこともシンジって呼ばせてもらうわよ。」

「ぼ、僕の事なんかどう呼んだってかまわないよ。」

にっこり少女は微笑んだ。

「じゃ、ハイ、シンジ。」

「ハイ、アスカ。」

そう言ってから「て、照れるな、なんか。」と、少年は頭をかいた。

「こんなの慣れよ。すぐ平気になるって。」

そのくせ、女の子しかできないうっとりする様な艶のある笑顔をしている。
言いながら大きなマフラーをはずした。
流れ零れる赤金の長い髪、大きな襟ぐりから見える綺麗で華奢な首すじと青白いまでの胸元。
シンジははっとして目を逸らした。

「なによ。どうかした?」

「い、いやっ、何も。」

何もなんて話ではない。胸がどきどきと脈打っているではないか。
目を逸らしたのにその生々しい肌の色、生クリームミルクの色が焼きついている。
そして、同時に感じた、甘い花がむせるようないい香り。アスカが身に着けていた匂い袋の香りだ。
だが、シンジの鼻腔に匂ったのはそうではない。
その肌の一瞬の色がその香りに変わってシンジに感じさせ、蘇らせた香りだった。
三高は共学だけど女子は男子の三分の一で、一クラス男子30人女子10人。
だけど、こんな綺麗な子は学校にはいない。
綺麗だから?そうだろうか。それだけのことか。だからこの子を片時も忘れないんだろうか。
違う、綺麗なだけなら京都大学の構内歩いてると幾らだって見かけるもの。
シンジは初めて会ったあの日から、ほとんど毎晩のように彼女の夢を見ていた。

惣流さんが「明日会いたい!」って言ってくれたのに。
どうして僕は27日にクラブが終わるから会おうなんて答えたんだ、馬鹿だ。
そういう言葉を噛み締め、悶々としていた。
そうやって、ずっと悔やみ続けていたのだった。

悶々シンジ

確かにお祖母さんはこの街の方だし、礼儀に適った態度が態度を軟化させたんだろうけど。
毎日毎日、あの可愛い女の子に会いたくて、気が狂いそうなほどだった。
学校が終わった後、わざわざ彼女の家の前を通り過ぎて帰ったこともあった。
勿論偶然その時に彼女が出てくるなんてことはなかった。
だが、家の前を通り過ぎる時のときめきと切ない自分の想いが、またうれしかった。
自分は馬鹿なことをしてるとも思った。自己嫌悪を感じたりもした。

だけれども今日、門柱に寄りかかって「僕を待っている」彼女の姿をみたとき。
僕は、体中が泡だって消えてしまうほど嬉しかった。

こんな思いをしたのは生まれて初めてのことだったから、自分になにが起こったのかよく分からない。

落ち着き無くコタツから出ようとして、二人の脛が触れた。
あ、っと思った途端、足が一瞬動かなくなった。なんて優しい感触だろう。
無理やりその後、足をコタツ掛けから引き抜いた。それでも足に彼女の感触が残った。
自分のマフラーをはずし、彼女のマフラーを受け取った。身体中が痺れたようになっている。

「コートも脱ぎなよ。掛けて来るから。」

「あ、ごめん、有難う。」

柔らかなマントのようなコートを、笑顔と一緒に受け取った。甘い清潔な香りだった。
これがあの子の香りかと思うとくらくらする程。

一体何を言ってる、これじゃ変態じゃないか。

シンジは頭を振り払うと、玄関脇のハンガーにコートを掛けた。
そして試合前の精神統一のように短く息を吐いた。

「ねえ、シンジ。」

マフラーをコートの上にさらに掛けたところで、呼びかけられ振り返った。うわ、まずい。
コートを脱ぐと毛足の長いセーターと言えども、少女の体型がくっきりと目に飛び込んで来る。
コタツに入ろうと中腰になっている腿と腰の曲線。お尻の形、柔らかい胸のと首、鎖骨や肩のライン。
思わず息を呑んで目を瞑った。
毛足が長くてぼんやりと見えるがゆえに、かえって少女の輪郭は光に滲んで、神々しくさえ見えた。
でもこのままじゃ変に思われる。すぐ目を見開いて自分の席に視線を固定してまっすぐ歩いた。
駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ。このままじゃ駄目だ。
息を整えて、別のこと考えなくちゃ。頭の中がぐるぐる。顔なんかきっと真っ赤だ。

「どうしたの?」

自分のこんな卑しい考えや視線なんか、この子は露ほども感じていない、想像もしていない。
あどけないほど純な表情に、正反対の意味で赤面するシンジ。

「ねえ、アスカって呼びにくい名前?」

(「い、いやっ。そんなこと、ないよ。ぜんぜん、ない。」)
自分で気づいていないが声になっていない。

「シンジ君?」

「は?」

「は?じゃないわよ。返事は?」

「は、はい。はいっ!なんですかっ!」

女の子は笑い出した。

「それじゃ全然駄目よ。何で、はいなんて言うのよ。」

「そうでしょうか。」

「ああもうっ。お腹苦しいっ。」

真っ赤に湯だって目をしばしばさせるシンジ。
とうとうアスカは大きな声で笑い出した。

「シンジって呼んだら、せめて、何、アスカって答えてくれなきゃ。」

「で、でででも。それじゃまるで…」

「まるで?」

「こ、恋人同士みたいじゃないか。」

とんでもないことを口走っている。

「た、確かに日本じゃそういう風に思えるかもしれないけどさ。
少なくとも東京ではそんなこと無いわよ。兄妹だって、親戚同士だって名前呼ぶじゃない。
普通に親しい同士なら名前で呼ぶもんなの。恋人じゃなくたって呼ぶの。」

大嘘なのだが、可哀想なシンジは信じるしかない。
東京の風習なんか知らないけれど、それがいいって言うなら僕は合わせるけど。
悲壮な決意を固めて、シンジは彼女に向かって言った。

「ア、アスカ。何?」

ぱちぱちぱち、手をたたいて喜ぶアスカ。作戦成功。
何でこんなことが嬉しいのか、アスカ自身自分も疑問だった。

――何こんなに喜んでるのよ。変なの。

「お、お茶でも入れるよ。」

「待ちなさいよ、今コタツに入ったばかりじゃない。」

「でも、ここ何もないし。」

「いいのよ。じゃあ、水でいいわよ、水で。」

夢のように綺麗な子だけど、言葉遣いはいささか乱暴だな、なんて思うシンジ。

「お客さん呼んでおいてそういうわけには行かないよ。」

いや、実際シンジはこの珍客に対してどう対応すれば良いか分からなかったのだ。
よくもまあ、寄って行かないかなんて言えたと思う。
女の子をうちに誘うのはどうしたらいいか計画を練った訳ではなく、つい零れただけの言葉。

女の子を家に入れたなんて初めてだったし――少なくとも、お茶とお菓子くらい出そうと思った。
さっきコーヒー缶を渡したことなんて忘れている。出された方も緊張しているから。
ふたを開けないままコートを脱いだときに転がってコタツ布団の皺の間に落ちている。
そんなことにさえ二人とも気づいてない。
とにかく戸棚からそこにあった筈のゴーフルを出す。この前お客さんから土産にもらったものだ。
せめて生八橋でもあればなあ。とため息をつく。でもあれじゃ紅茶に合わないか。
カップとかソーサー。紅茶の黒い缶と角砂糖。紅茶の白いポットとポットカバー。
マーマレードとジャムなんかを入れる壺をお盆に載せた。
とにかくいつものように動いてさえいれば、失敗しないでいられると思っていた。
紅茶用のジャージー4.0牛乳を慎重にミルク入れに移し変えているそのとき。

「ふーん、シンジのうちは、紅茶にマーマレードやジャムを使うんだ。」

すぐ脇で聞こえた女の子の声にびっくりして危なく牛乳パックを落としそうになった。

「な、なんだよっ急に。大人しくしててよっ。」

振り返るとセーターの毛が触れるくらい近くにアスカがいて、覗き込むようにしている。

「それってひどい。せっかく手伝おうとしてるのに。」

「おとなしく待ってくれてればいいんだよ。君はお客さんなんだから。」

「全部男の子にやらせたなんて、女の沽券に関わるじゃない。後はやらせなさいよね!」

沽券に関わるほど家事をやった経験などアスカにはなかったけれどシンジはそんなことは知らない。
勢いに押されて、戸棚からスプーンを出してもらう。
さらにアスカは冷蔵庫の奥から新しいイチゴジャムとマーマレード出す。
それをジャム用の壺に移し、コタツの上に紅茶カップと皿を並べ、横には電子保温ポットを置いた。
それからしばし、シンジが行う紅茶を入れる儀式のような動きを見守った。
ポット用の毛糸の帽子のようなものをかぶせて蒸らす。甘い香りに二人の顔がほころんでいく。
窓の外に目を移す。
また日の位置が変わり、大文字を入れる山並みが見渡せ、白く寺々の大屋根が映えて美しい。

「雪の京都って、本当に綺麗ね。この前来たときは夏だったわ。
黒谷の大階段や山門辺りで補虫網を長い竿付けて貰って走り回って遊んだ覚えがあるの。」

「へえ、それっていつ頃のこと?」

「日本に来たばかりの年だったから、多分11か12才くらいだと思うな。」

「6年生の頃かー、その時はたまに長野の叔父の所から京都の母さんの実家に来てたかもしれないな。」

「お母さんの実家ってどのへん?」

「久保田町の辺り。このマンションも母さんの実家の一部だったらしいよ。」

「あら凄い。じゃあお公家さんの一族かなんかってこと?」

「さぁ?その辺のことはさっぱり。向こうの家とは母さんが死んでからずっと行き来がなかったから。」

実際、長い廊下でビー玉で遊んだ事。
広い芝生の庭とおたまじゃくしのいる池のことくらいしか覚えていない。
その家の最後の記憶は、青と白の幔幕が張り巡らされ、山のような菊の祭壇にあった母の写真。
大勢の人の中で、サングラス姿で立っていた父の顔。
あの日から父の顔といえばそのサングラスの顔しか知らない。

「ジャムのお茶って好きなの。あたしも。」

少女の声にはっと現実に戻された。

「丁度よかった。昨日新しいジャムを買って来たばかりだったんだ。」

「ねえ、一体どなたが好きなの、ジャムティー。」

湯気の向こうから、ばら色の頬をした女の子が尋ねた。

「それがさ、父さんなんだ。今でも毎朝飲んでいくんだよ。さぁ、できた。どうぞ。」

「ありがとう。それで、どんなお父さんなのかしら。」

すまし顔をして紅茶を美味しそうに飲む少女。むらむらとシンジにも悪戯心が湧いてしまう。

「信じられないような強面(こわもて)だよ。」

そう言いながら自分の分を作る。

「ひげで無愛想で、たっぱがあって。ヤクザも警察も避けるくらいの人なんだ。
多分甘い紅茶を飲むなんて誰も思ってないだろうね。」

「それって、凄いわね。
何でそんな人が科学者なんかやってるわけ?科学者って要は先生でしょ、大学とかの。」

「そう思うだろう?絶対あの人は進路間違えたんだ。犬は吼えるわ、小さな子は竦んじゃうわ。
近づくと犬は吼えるのやめて犬小屋に逃げ込むし、子供なんかワーワー泣き出すんだ。
このマンションじゃ、子供がぐずると碇さんのお父さんに叱って貰いますって言うんだぜ。」

「まさか!嘘でしょ!」

興奮して真っ赤な顔でアスカが叫んだ。シンジは頭を掻く。

「嘘はついてないけど…」

目線を逸らせて、ばつが悪そうに手に取った菓子を割った。

「口が滑るんだ。君が悪いんだよ、アスカ。」

「なんでよう。」

「ほら、そんなふうに、きょろきょろ表情変えるでしょう。つい、ね。」

「それって、凄くあたしの事、馬鹿にしてるような気がするんだけど。
ていうか、あなたあたしのこと凄く子ども扱いしてない?
そんな強面のお父さんの話されたら、誰だってビックリするに決まってんじゃん!」

そのアスカの様子をまた笑顔いっぱいで受けるシンジ。
乱暴な口調の中に感じるこの子の照れ。ああ、いいな、と思った。
父さんと二人だけの変化のない、ただその日の予定が過ぎていくだけの毎日。
この家に、変化などと言うものがあったのだろうか。
あの、石のような父さんと二人。母さんのいない生活。
女の子がいるというだけで、こんなにも部屋の明るさが違うものなんだな。

「そんな父さんと結婚するなんて、死んだ母さんは相当な変わり者だったんだろうな。」

一瞬、アスカはそのシンジのかすかな呟きにはっとした。
だが、ただ口にしただけという調子だったし、シンジ自身気にしては、いなさそうだった。
シンジも何故そんなことを急に思いだしたのか、自分自身もすぐに忘れてしまった。

「だって、すぐそんなに大げさにびっくりした顔するんだもの。」

「なんですってぇ?」

くすくすとシンジが笑ったので、アスカは安心してシンジの方に手を伸ばし、髪を引っ張った。

「痛たたた。ごめん、ごめんってば。」

「さあ、どうしようかな。」

「痛たたた!」

他愛のないじゃれあい。思わず髪を引くアスカの手を握り締めて手前に引いた。
アスカは髪を離したが、シンジはアスカの手を握ったままコタツの天板に降ろした。
綺麗だ、とシンジは思った。お化粧の一欠けらも彼女の肌には乗っていない。
それなのに、あくまでも青い、ラピスように深い青の瞳、明るい薔薇の頬とつややかな唇。
美しいラインを描く濃いめの眉と聡明そうな広い額、真っ白に輝く歯が零れる。
何で、母さんのことなんか思い出したんだろうか。

「ほら、離したわよ。」

そう言ったアスカだったが、シンジは手を離さなかった。いや、離せないままでいた。

「えっ。」

急な不安に駆られて、少女はシンジの目を見た。
そこには暴力的な光はなかったので、安心してそのまま手を暫く委ねていた。
どきどき高ぶっていく鼓動。目の前の少年が静かに自分を見つめているだけなのだけど。

「なぁに。どうしたの。」

とうとう、我慢しきれなくなってアスカは口を開いた。

「もう片方の手も。」

「……」

シンジのもう一方の手の平が、上向きで静かに差し出された。
その上に、アスカはそっと自分の手を伏せて置いた。
手のひらが合わさって温かい。その手も握り締められた。
両手を合わせ、シンジの手が自分の手を包んでいる。
その手の内側から、伝わってくる暖かさと一緒に、自分へ向かって沁みこんで来るものを感じた。
シンジ自身も、アスカに向かって流れ出していくものを感じていた。

「なに?シンジ。」

「えっ?」

そう言われて、自分が手の中に握っているのが少女の手だと言うことにやっと気が付いた。

「これ…シンジから流れ込んでくる。何か。」

「どうして。何か感じたの?」

「なんでも、よ。ちゃんと……伝わってきたわ。」

口ごもったアスカの後を、シンジは追いかけて尋ねた。

「伝えても、いい?」

少女は何も答えない。
ただ、まっすぐにアスカの視線は自分の瞳を見つめている。
まっすぐな姿勢と、澄んだ視線。それが自分を貫いている。

うろたえていた自分の視線がアスカの視線を受け止め、定まった。もう逸らさない。
シンジは少女と出会って以来ズレを感じていた、自分の身体と心の輪郭がやっと重なった事に気づいた。

身体中が熱く火照っている。2人は吸い寄せられたように互いの瞳に捉えられている。
日射しはすでに山際にかかっていて、西の空が真っ赤だ。もうすぐ日が沈むだろう。

アスカは、見詰め合ったまま、動けないで経って行く時間が不安だった。
このまま、この部屋で暗がりを迎えてしまったら、あたしたちはどうなってしまうだろう。
困ったな。まだこんなことになるつもりなんかなかったのに。
でも、本当にそう思って警戒していたのアスカ?と自分自身に問う。
どうしても、シンジに会いたかったんだもの。それしか考えていなかった、と正直な心は応える。
だから、シンジをまっすぐに見つめた。きっと、自分に答えを与えてくれると思ったから。
同じことをアスカは繰り返し考えていた。

手を握っただけで動けなくなるなんて思わなかった。
しかし手をここで今離したら。
このシンジにあたしはもう会えなくなるかも知れない。
もう一度手を繋げるか、それを試すのは怖くて。
思考がまとまらず、ばらばらな想いが浮かんでは消える。
夕焼け空に浮かぶ、ちぎれ雲のよう、と視野の隅に見える空を意識する。

先に動いたのは、シンジだった。
握り合っていた手を僅かに持ち上げ、引き寄せた。
それに連れ、アスカは少しづつ膝立ちになり、身体ごとシンジの方へ手繰り寄せられていく。
引き寄せられ、重なり合った手にシンジは顔を寄せる。
弾むような鼓動を胸に感じた。アスカもその様子を身じろぎもせずに見つめていた。

シンジは自分の手を僅かずつ開いて行く。
その中の小さなアスカの手に、首を降ろして行き、そして唇で触れた。

「あぁ。」

小さなため息と声が、アスカの喉から漏れた。
運命に捕まった。そう思った。
ぎゅっと目を瞑ったアスカの顔を見て、シンジはもう一度そっと唇を当て、離れた。

ぶるっと身体が震えた。僅かな光を残し、茜色と黒のシルエットの中に二人は沈んでいく。
手から、2本並んだ親指の付け根から伝わって来た、唇のかすかな感触。
少女はそれを意識した途端、なんだか目が霞んだようになった。
こんなに近いシンジの顔がはっきりしない。
シンジが自分を包んでいる手に自分もまた屈み込んで。
まぶたを半分まで開いた。そして。

その閉じたつぼみのような形の自分達の手。シンジの親指に。
アスカもまた、唇で触れた。

自分でも信じられないほど熱い息が。合わさった手に掛かった。
二人は、半分目を閉じたまま互いの手に口付けを与え合った。
そうして、少しづつ二人は近づき、互いの腕を寄せ合った。
互いに寄せた、顔と顔。
小さく撚り合わされるように頬を寄せあった。
そして、その頬から顔を傾けあって。

唇同士が、触れ合って止まった。

しんと、音一つない部屋のこたつの角。
止まってしまった影が、山際に描かれる陰と一つに溶け合っていく。
そのまま、シンジはアスカに呟いた。触れ合っていた唇同士が、微かに離れた。

「ごめん。」

「何を謝るの。」

「謝らなくても、いいの?」

「謝らなくちゃいけないようなことしたの。」

シンジは、アスカから身を離し、勇気を奮い起こしてアスカの肩をつかんだ。
自分はとんでもないことをしている。とんでもないことを言おうとしている。
ほんのさっきまで、この子は手を握ることさえ想像もできないほど遠い存在だったのに。
少年は少女を見据えてはっきりと言った。

「していない。僕は、君のことが好きだ。好きだからこうなったんだ。」

アスカの視線も、少年の視線を受け止めている。肩が細かく震えていたけれど。
それが抑えきれない。
二人とも自分の身にこんなことが起こるなどと、考えたことさえなかったのだ。

「アスカにも、僕のこと、好きでいて欲しい。」

「好きじゃない人に、キスなんかしない。わたし――好き。」

「良かった。――ありがとう。」

身体を伸び上がらせて、二人はやや顔を傾けあい、唇を直接、しっかりと合わせた。
互いの腕を身体に巻きつけあって、ゆっくりとコタツの脇に倒れていった。
そこで、改めてぎゅっと音が出るほど抱きしめ合い、互いの身体の重みを確かめ合った。
シンジの顔に被さるアスカの髪。アスカのうねり、反り上がる身体を抱えるシンジの顔と手。
抱きしめあい、被せあう互いの唇は一体全身の何十分の一だろう。
そこは男女の約束を交わす崇高な場所。
互いの身体を初めて感じあっているアスカとシンジは、それを生まれながらに知っていたように思う。
だから、求め合った。
切れ切れに、その口付けの合間に言葉を交し合う。

「こんなに急になんて、可笑しいよね。」

「そうかもしれないけど。この気持ちは嘘じゃないもの。」

「そう思ってくれるの。アスカ。」

「でも、恥ずかしいよ。とても恥ずかしい。」

「僕も。」

それでも、もう一度唇を併せた。

恥ずかしいと思った気持ちは最初に舌を絡め合ううちに消えていった。
唇の間に、唾液が溜まっている。それをシンジは飲み下した。
アスカの…味だ。

あ…今、シンジがあたしの唾を飲んだ。
気づいた途端、アスカの中に喜びと恥ずかしさと、色々な感情が激しく湧き上がった。
さっきよりもっと激しい、身震いのような感動が身体を揺さぶっている。震えが止まらない。
まるで、シンジと命を分け合ったような感動だった。
ただの、キスなのに。
シンジの、真っ赤なほっぺた。熱くなってる。

シンジの手があたしの体をセーターの上から撫でる。――気持ちいい。
髪も、そして頬も。男の子の手は大きくて、とてもあったかいのね。
まるで、何だろう。自分がとても幼くなった様な気がする。
気持ち、いい。
こんなこと、初めてなのに、昔から知っていたみたいにシンジにしがみついてる。

アスカの髪に指を挿しいれる。
身体が、熱い。額が汗ばんで行く。首筋や胸元から熱気が噴き出してくる。
シンジはアスカのセーターの上から優しい体を抱きしめその形を探っていく。
アスカの身体の形とその優美にうねるさまがシンジの脳裏いっぱいに広がる。
だめだ、もう、我慢なんか出来ない。

シンジは、少女の唇から顎を伝って、その白い喉の淵に唇を這わせた。

「んうぅ。」

僅かに抗ったのはくすぐったかったせいだろうか。
心臓がはじけそうなほど激しく打つ。
シンジにとってはそこから先の少女の身体への口付けは、今までと別の意味を持っていた。
それは、少女の身体への愛撫。好きだという純粋な心の先に潜む、耐え難いまでに獣臭い気持ち。
アスカの体を抱きしめると言うより押さえつけるような気持ちで力を込め、唇は喉を降りていく。
少女が苦しがってか、喘ぎ、喉を逸らす。その白い首筋を、もう少年ではない心に潜む別の目が見ている。

愛撫される首筋。小さな肩が襟の広いセーターからすっかり出てしまっている。
ゆったりしたセーターの首から覗くうなじ、鎖骨にまで伸びる愛撫にアスカは戸惑う。
明らかにさっきまでの少年のキスとは違う、もっと別の思いでシンジが自分に触れているのが分かる。
不思議と嫌だとは思わなかった。
自分の身体が、もうそれに反応して、堅く緊張を高めている。
男の子と愛撫し合ったからすぐに陶酔しきってしまうような自分ではない。しっかりしなきゃ。

抱きつかれアスカ

うっとりした気持ちは気持ち。それは素敵な事だけど。

学校の女生徒同士での耳学問は伊達ではない。
男の子の勢いに巻き込まれないだけの冷静さを女の子はいつも持っていなくちゃいけないわよ。
そうじゃないと、結局軽く見られちゃうんだからね。誰かが妙に真剣に語っていた言葉。
そういう事を何か不潔な計算のように感じていたが、そういう冷静さが今必要なんだとわかる。

――ここまであたしに陶酔してくれるシンジを愛おしいと思った。
それが嬉しい自分も可愛いと思う。
でも、このまま流されてしまうのはまずい。シンジとこれからずっとお付き合いしたいなら。
撥ね付けるのは簡単だけど、気まずい別れ方をしたくはない、そのためにはどうすればいい?

「くすぐったい、シンジ。」

「え、」

「くすぐったいの。その辺。」

「そ、そう?」

シンジの知識では、女の子は首筋とか肩とかに唇で触れていけば喜ぶはずだった。
だけど、そうじゃないの?

「シンジにもしてあげる。」

アスカの細い指がシンジのカッターシャツのボタンをはずし、喉の横にキスをした。
うわっ、くすぐったいっ!
一瞬陶酔から覚めた少年の体にとって、その愛撫は飛び上がるほどくすぐったい。
そして自分がしていたように脇に手を入れられると、もう愛撫どころではなかった。

「わ、わかったよ。ごめん。」

そう言ってシンジは手を離して起き上がった。
アスカは身体を伸ばして腕を首に巻きつけ、シンジの唇にもう一度キスをする。
かすかに触れあいながら、唇の裏側にさらにキスを重ねた。
シンジの表情がうっとりとしたものになる。アスカが夢見ていた甘い恋人同士のキスだ。
シンジの表情から、ぎらついたものが消え、もう一度アスカの首に手を巻きつけた。

そうして暫くしてから二人は顔を離し、アスカはシンジの首筋に頭を埋めた。
シンジもアスカを抱きかかえるように包んだ。髪に頬ずりしてくれた。
とても幸せなキスだった。

「随分遅くなってしまったね。」

「うん。」

マンションの部屋に鍵をかけ、再び外に出た。しばし買い物をして回る。

「お祖母ちゃん。帰ってこないから呆れてるわ、きっと。」

「まずかったかな。」

「大丈夫だと思う。あたし、割と出たら出たっきりの人だから。」

「そうだといいけど。」

この部屋の中で、自分達のしていたことを思い出す。
顔から火が出そうだ。こういうことは女の子のほうがいざとなると度胸がいいなんて聞くけれどホントかな。
幾ら約束だったからって、今まっすぐにアスカのうちへお邪魔するのは気が引けるシンジ。

「大丈夫だったら。夕御飯用意して待っててくれるわ。その予定だったから。
あたしが待ちきれなくて様子を見に出ただけだもん。」

「それって何時ごろの話?」

「うーんと…2時頃かな。」

「もう4時間半も経ってるよ。三高までって、精々2,30分くらいじゃない。」

「部活が長引いてたと言えばいいじゃん。大丈夫大丈夫。」

「そ、そうかなあ。もう6時半だよ、真っ暗だし。」

セーターに灰色の綿パン。ブラックの皮のスニーカーとアノラック姿のシンジ。

「じゃあ、このまま帰っちゃうわけ?あたし何日も待っていたのに?」

「それは僕だって残念だけど、このままお祖母ちゃんの前出たらばれちゃいそうで。」

「シンジが着替えに戻ったから時間がかかったということで大丈夫。お土産も買ったじゃない。」

お祖母ちゃんお気にいりの漬物屋さんの柴漬けもちゃんと買った。
アスカは全然気にしていない。お祖母ちゃんがあたしに甘いの知ってるもん、と言う顔だ。
でもどうだろう。
普段可愛がっていればこそ、男の子との事には厳しくなるもんじゃないのか?
そうシンジは心配した。

そして、こんなやり取りをしているうちに次第にアスカも不安になってきた。
シンジが今夜うちに来たがらないのは、恥ずかしい以外にも理由があるんじゃないか。
そう思い当たった事があったからだ。

「ね、シンジ。」

「なに?」

「後悔・・・してるの。」

「馬鹿なことを。」

凍りついた道の上を、今日降った粉雪が箒で掃かれたかのように飛んで流れていく。

「君が、止めてくれなかったら。後悔してたかもしれないけど。」

アスカの肩が震えた。気が付いてたんだ、シンジ。

「え、なぜ。途中でやめてみたいなことして、怒ってないの?
急に怖気づいたみたいに、――逃げちゃったし、あたし。」

「今日、僕、馬鹿みたいだったよな。君がくすぐったい振りしたんだって後で気づいたんだ。」

「え、そんなことない。」

「ううん、何の責任も取れないまだ餓鬼の癖に君の事を。暴走して恥ずかしいよ、それこそ。」

シンジは、途中でやめたことでアスカの事をもっと真剣に考えるべきだと思ったのだった。
その気持ちが、今の言葉でアスカにもよく伝わってきた。
好きなだけじゃ、だめなんだとシンジは言ってくれてるんだ。
並んで歩いていた男の子に寄り添い、手を握る。
ほんの軽く、力を込めると、少年もそっと握り返してくれた。
少年はいじけて言ってるんじゃない。アスカはそれがひどく嬉しかった。
それだけの事に、二人の頬が染まる。

「有難う、シンジ。」

「だから、やっぱり行くよ。今から君のうちに。」

「ま、まさか結婚の申し込みなんかするつもりじゃないわよね。」

急にうろたえまくるアスカ。

「いつかはそのつもりだけど。結婚はともかく、お付き合いの許可とか。」

「ちょ、ちょっと待って。それ、お祖母ちゃんに言うの、まだ早すぎるわよ。」

「何で、僕らは真剣でしょう。」

「勿論そうよ、真剣よ。で、でも心の準備が、あのっ、とにかく今日はだめぇ〜〜!勘弁してっ!」

寒い風が吹き抜ける通りに、アスカの声も響き渡った。

「随分、遅うなりおしたなあ。」

玄関口の真正面に座布団敷いてそこに座り込んでいたお祖母ちゃん。
恐る恐る戸口を開けた二人が震え上がったのは言うまでもなかった。

雪の思い Two of us #2    2006-02-16 komedokoro

Author: こめどころさん
初出: 2006/02/17
修正: 2006/02/18
はい、こめどころさんより"雪の思い"その2を戴きました。
紅茶にジャム入れるのって美味しいですよね。ブルーベリージャムもいいかも?
おこたで事に及びそうになったけど、今回は何とか寸での所で抑えましたね、シンジ君。…惜しい(爆)
まぁ、あんまり焦ると女の子は嫌がりますよねー…なんて言ったのは私ですね。すいません。orz
…含み笑いを浮かべたくなる程良い感じに甘いのが素敵です。
ありがとうございます、こめどころさん!

このお話を書かれたこめどころさんに、是非ご感想を。
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