その少女は暫く坂を上がって、いつもの小路を抜けようとした。
だが両側の塀を越え、左右から雪に覆われた竹が重なり合い、先を塞いでいた。
立ち止まり、手前の竹に積もって凍った雪を、傘の先でつつく。
雪がわずかに落ちたかと思うと、撓っていた竹は、ざぁっと激しい音を立て雪を振り立て弾け飛んだ。
思わず後ずさると、傘に細かい氷の粒がばしばしと音を立てて当たった。
こうして叩きながら進んでいくのも面白いかもしれないが、危険なことだ。
面白そうと思った事自体、この子はだいぶ変わっている。
竹に叩かれたらひどい怪我をしそうだ。弾き出された雪の塊も固く、大の男でも危ない。
只でさえ不慣れな和装だし、と少女はその後冷静に考えた。滑りがちな足元も気になる。
「お祖母ちゃんが着物なんか着せたがるから…」
祖母の趣味で和服を着せられて外出している。和装でなければそのまま進んだかもしれない。
幸い運動神経がいいので、今のところ事なきを得てはいるが…相当なお転婆なのかもしれない。
そもそも、和服の着こなしは運動神経で支えられるようなものだろうか。
わが事ながら苦笑してしまう少女だった。
確かに着物を着せられ、鏡の前でくるりと一回りした時には自分でも悪くないと思ったのだが。
だが、こうも活動しにくいとは思わなかった。
毎日着て歩いてはいるが、やっと草履や裾のあしらいに慣れてきたばかりだ。
御淑やかに、と言われている。くるりと方向を変え二の坂に向かうことにした。
あちらは両側に商店が交互に並んでいるだけだ。枝垂れ(しだれ)ている竹はないだろう。
真如堂の前に出てそこから曲がって行けばよいと思いついたのだった。
彼女は年末20日からこの街に来ている。
祖母の住む、いつにない寒さと、雪の降り続くこの西の古い街。
年末の慌しい時間の中であったが、この街に来てからの時は流れ方が違うと感じていた。
とろりとした癒されるような刻。本部における分刻み秒刻みでの時間管理とはまるで違う。
初めて空を見たような、そんな気持ちがするのだった。
この前この街へ来たのは、ドイツで大学の専門課程を終えた次の年。
日本に初めて来た13歳の時ではなかったか。もう4年も前のことだ。
ここに来て空を眺め、この先に何か特別のことが起りそうな、そんな期待が湧いて来たのだった。
それは今年も同じだった。
幾日かが経ち、この人見知りの激しい街が、自分にようやく心を許してくれるように思えてきた。
祖母ともやっと他人行儀な態度がほぐれて、血縁らしい遠慮の無さが生まれてきた気がする。
坂沿いの細い路地奥の市場や街並みを、手探りするようにやっと一人で歩けるようにもなった。
この街にも雪が降り始めた。深々(しんしん)と夜も昼も静かにこの街を覆っていく。
雪はいつまでも降りやまず、寺院の瓦や山々、商店街や庭園の緑を白く塗り替えていった。
祖母の頼みで届け物に向かった先から戻ったのだが、墨を買いに遠回りしたのが失敗だった。
参詣の人ごみを避けるため遠回りした先は、何十年ぶりかの激しい雪で、より通り辛くなっていた。
たちまち方向感を失う。雪で街の景色がすっかり変わってしまったせいもあっただろう。
高台に見えたはずの塔の屋根が突然坂の下に現れたりして唖然とする。
雪の壁がやっと馴染んだ景色を消してしまうのだった。
雪草履の下で、凍った雪がざりざりと音を立てる。
足元に集中しているせいか少女の表情は硬かった。
歩を進めながら、自分の認識している以上にここが狭いエリアの中なのだと気づかされていた。
しかし、僅かに日常が切り替わると、その狭い一画の中でさえ一筋隣の道が分からなくなるとは。
幾ら足元と裾あしらいに気を取られているとしても、こんな簡単に路に迷うなど恥ずかしい。
余計な思考がさらに失敗を呼ぶ。普段なら当然気が付くべきことに、まったく気が付かなかった。
「危ない!」
誰かが叫んだとたんに、上から何か重い物が続けざまに落ちて来た。
傘が弾き飛ばされ、姿勢を崩した。
目の前で氷の塊が砕け、美しい小紋の長羽織が舞う。小さな悲鳴と、靴と砂利を踏みしめる音。
同時に、頭上に男物の傘が差しかけられ、多々良を踏んだ少女の身体は誰かに支えられた。
支えてくれたその誰かはまだ大人の身体ではなく、少女を柔らかに受け止めた。
濃紺の学生服。思わず目を上げると、同じ年頃らしき高校生だった。
「三高」と書かれた金の襟章を確認し、目を伏せた。
続けて落下する氷と化した雪の塊を避け、二人は石畳を外れて玉砂利を敷いた側溝脇にしゃがみこんだ。
「あ、ありがとう。」
なぜっ、胸がどきどきする。顔を上げることが出来ないでいる。
「昼は気温が緩む。軒(のき)から雪の塊が落ちてくるから、離れて歩いたほうがええよ。」
どうして何も言わないの? お礼くらい言わなきゃ失礼じゃない。
「あ、傘の骨が。」
小路の真ん中に骨の折れた、上品なえび茶の傘が転がっているのが見えた。
少女の肩に自分の傘を差し掛けたまま、転がった傘を少年は拾い上げた。
聞き慣れないそのイントネーションを、初めて自分に近しいものと感じた。
えび茶色の祖母の傘。骨が二本折れていた。骨接ぎさんに出さないと、と思う。
自分と違って、祖母はまだつかえるものを棄てたりしない。
それはこの街全体の雰囲気でもある。
少年が差し出した傘の柄を握った。
「壊れちゃった。」
見ていたのは傘だけ。そこに、明るい少年の声が降ってきた。
「ごめん、間に合わんかったな。大事な傘や無いんか?」
しまった。いつもの調子で非難がましく言ってしまった。少女は慌てて言い直した。
「ううん。傘さし掛けてもらったから怪我しないで済んだんです。あ、ありがとう。」
言葉が変だった。たかが男の子と話すのにこんなに上がるなんておかしい。
「君、この街の人じゃないのか。」
「あなたもそうなんですね。」
傘で顔が見えないまま、互いにこの街の人間ではないと言う安心を感じた。
少女はつい丁寧な言葉を使ったのは着物なんか着てたせいだと思う。
雪の小路で助けられたなんて、少しロマンチックだなと思い、何言ってるんだろとまた反省。
そして、二人は同じ方向を向いたまましゃがみこみ、言葉を交わした。
「まだ、越してきて一年足らずだ。もっともまたすぐ越してしまうかもしれないけど。」
「その割には言葉がうまいわ。」
「母はこの街の人だったから。外に出ると何やすぐここの言葉が出てきよる。」
「ああ、それで。お父さん、転勤の多い仕事なの?」
だった、ってことは今はお母さんはいらっしゃらないって事よね。
この子も片親なのか。あたしも――最初から片親みたいなもんだけど。
「まぁね。そのたびに編入試験を受けるのが面倒でかなわないけど。」
「ここの前はどこにいたの?」
「長野の叔父の所。一昨々年(さきおととし)、父さんが急に僕を引き取るって言い出した。
何を急に思いついたんだか。それからは色々な町に住んだよ。」
「そんなに色々な所に?」
「そう、富山、茨城、小樽、三重、そしてここ。みんな研究所の近くで。半年単位で越して回った。」
「何かの研究者なの?」
「良く知らないけど、精神と肉体を機械に置き換えて繋ぎ止める、そんな実験をしてるらしい。」
少年の顔はこわばり、そこで言葉が途切れた。ここから先は話すことを禁じられている。
傘の向こうから聞こえる女の子の声は、今まで聞いた誰の声より気持ちのいいアルトだった。
「どうしたの?」
「ごめん。これ以上は知らないんだ。」
男の子は、傘を持ち上げ、その時、初めてお互いを見た。
濃紺の蛇腹、海軍風の学生服。そして美しい小花の和装を纏った少女。
少女が少年の顔をまっすぐに見たのと同時に少年は青い瞳と白い額にかかる紅い髪を見た。
驚きが一瞬二人の顔に走り、互いに目を伏せた。
「びっくりした?」
「え、うん。着物しか見えなかったから気づかんかった。日本語うまいんやな。この街長いんか?」
「いいえ、休みが終わったら東京に帰る。ここには祖母の家があるだけなの。」
「ふうん、すぐに帰ってしまうんか。」
「何。残念だった?あなたまた、街の言葉になってるわよ。」
「あ、そうやね。びっくりしても地の言葉でるんかな。」
そう言って少年は少女と一緒に微笑んだ。
からかう様に意地悪く言ってみたが、女の子は意外なことに自分も残念と感じていた事に気づいた。
冬休みになるより早くこの街に来てよかったかなと思いながらほつれた髪を耳に掛ける。
急に再び雪が降り出した。土塀の松を越えて二人がしゃがみこんでいる場所に降りかかってくる。
ここは風の通り道らしい。それに気づいて二人は立ち上がり、次の店の横に移る。
「骨、2本も折れてしまったなぁ。ついでもあるから、近くなら家まで送るよ。」
店の前に飾られた松飾り、その緑に雪が再びちらついた。それを見ながら少年は声を出した。
「また雪が降ってきたし。」
「あら、優しいんだ。女の子あしらいに慣れてるのね。」
「まさか。…本当についでがあるんだ。この先のお堂に用がある。」
「え?真如堂さんに?」
「え、うん。」
少女は傘を窄(すぼ)めた。少年の濃紺の制服に雪が一斉に降り積む。
「あたしの家、その少し手前なの。ちょっと寄って行きなさいよ。」
随分大胆なことを軽く言ってると自分でも思ったが、誘ってしまった言葉は打ち消せなかった。
いいよね、お祖母ちゃんいるんだし。
雪が、下ろしたままリボンで押さえた素直な髪と、品のいい長羽織に白く纏わり付く。
「いや、それはいいけど…よければ傘に入る?また降ってきたし。」
「入れて。」
王女のように誇り高く、女の子は同意した。
空からはさらに激しく雪が落ち始めた。心のうちで、これじゃしょうがないもの、と言い訳をした。
そんな言い訳が誰に向かって必要だと言うのだろう。差し掛けられた少年の傘に入り、歩き出す。
傘を差しかける少年の腕に手を掛け、小路を行きかう人の隙間を抜けていく。
先ほどまでは頼りない足元だったが、今は安心して進むことが出来る。
風呂敷包みを下げた少年の腕があるだけなのに。
とある一間間口(いっけんまぐち)の檜の門戸の前で、二人は立ち止まった。
もう片方の手も少年の腕に掛け、少女は少年を見上げた。
「ほら、上がって行きなさいよ。」
照れ隠しの強気な言葉遣い。実際これで学校では一目置かれているのかもしれない。
(学校といっても全員が施設勤務の親の子弟だ。気の休まるときも無い学校だったが。)
だが、ずっと上気したままの頬が、言葉になっていない真実を伝える。
「いや、いい。初対面の子の家に上がったりできないよ。」
何て堅い奴だろう。と少女は少し苛立つ。自分の周囲にいる男達とは随分違う。
まったくなんて融通が利かないんでしょう。
「あたしがいいって言ってるんだからいいのよっ。」
「だから、僕には用事があるんだってば。」
「じゃ、じゃあそれが終わったら寄ってくれる?約束する?」
その、急に頼むようになった様子に、男の子は少し渋い顔をしながらも、頷いてしまう。
そのぎこちない肯き方に、女の子は思わず染まった頬のまま笑顔をこぼしたのだった。
男の子は渋い顔のまま、寒さに頬を赤くし、踵を返した。
少年はそのまま雪の中を、学生コートを翻し足早に坂を上がり、真如堂の方に消えていった。
引き止めすぎたかな、と少女は思い、身を翻して玄関の戸をあけて家に上がった。
座敷を覗く。几帳面な祖母は、自分のお使いの間にもうすっかりきちんと片付けていた。
深々と冷え込んでいる火の気のない座敷。茶の間にいた祖母に声をかけた。
「ただいま。」
「お疲れ様でしたな。吉村のご隠居とはお会いできたんか?」
ヤカンを乗せた石油ストーブがある、祖母の部屋。
二棹の箪笥と、床の間にはテレビ。小振りな神棚と仏壇。
その神棚の斜め横の鴨居には二人の男性と一人の女性の写真が飾られている。
その前に座布団が敷かれ、祖母はいつもそこに部屋の景色の一部のように座っている。
そのさらに前には小さなこたつが置かれていて、祖母の好物の甘酒が湯気を立てていた。
この湯気がなかったら若者にはやや寒々しく感じる部屋だったろう。
二人は毎日このこたつでご飯を戴く。
「うん、これ預かったわ。」
渡された手紙を袱紗から出して渡し、付け加える。
「あのねお祖母ちゃん、後でお客様が来るの。座敷に火を入れてもいい?」
「あんたにお客なぁ。どなたはんどす?」
当然のことながらこの街に少女の知り合いなどいるわけがなかった。
この孫娘は、日本に来るまでずっと外国で暮らしていたのだ。
娘が亡くなった後、孫を引き取ろうとした。
だが、アメリカ政府や日本政府が間に入り実現できなかった。
娘は何か重要な国家機密級研究に従事しており、孫もその実験に重要な関わりがあると言う事だった。
小田原近くの研究都市からの年末の里帰りも幾つもの条件付きで、今回やっと2度目の帰省が許された。
だからこそ孫可愛さに部屋を整え、何枚もの着物や羽織をあつらえ、真綿の布団やこたつまでセットしたのだ。
政府筋曰く、アスカの行動監視を邪魔しないこと、行動結果について知りえたことは機密とすること。
外出の際は秘密裏に護衛を付かせるのを承知して欲しいなど、煩わしいことこの上ない。
元々、お上のやることに一言言わずにいられない気性なのだ。この街自体の気性と同じだった。
この少年という「お客さん」は「邪魔」の項目に当たるのだろうが、断固報告するつもりなど無い。
政府が多少困ったとしてもアスカの意を適えることに異論があろうわけは無く、むしろ痛快だ、などと思う。
「街で知り合った男の子よ。府立三高の子。
その子もよそからの転校生なんだって。暫くぶりで標準語聞いたから懐かしかったわ。」」
それが何を保障するわけではないが、身元が明らかならいい、と祖母は思った。
この街では三高は、一応一高二高と並んで、昔からの進学校で、それなりに信用のある高校だった。
東大や阪大京大に何人も入ると言う学校ではないが、半分は現役で名の通った大学に行く。
残りは次の年には始末が付く。画学校や音楽学校や演劇の道に進む子も2,3人でる。
いわば伝統的2流校というおっとりした雰囲気がこの街に馴染むのかもしれない。
それを愛する卒業生も多く、人気がある。クラブ活動も学祭も盛ん、地元の大店の子息も多い。
2番目の夫とは三高出身同士だと言うことで以前からの知り合いだった。
自分の学年で京大に行ったのは二人だけ。さらに仲は深まり自分達は同志で親友だと信じていた。
結婚してアメリカに渡ったとき、娘を連れて日本に戻った時、見送り、迎えてくれたのがその村瀬だった。
考えれば、その前とはまったく違う日本での生活。その暮らしが私を癒してくれた。そして娘も。
だが孫はそんな子とどこで知り合ったのだろう、いわゆるナンパという奴だろうか。
年頃の娘の祖母としてはいくらか心配だったが、この際孫の目を信じることにする。
孫の行動に口を出せないなんて馬鹿げていると思うが、ここにいるうちなら自分の管理下であるだけマシか。
自分も娘も、他人の目より自分の目を信じて生きた。これも血なのかもしれない。
「ええよ。火鉢の炭もおこしてあげよか。」
「お祖母ちゃん。ありがとう。」
この孫娘はなんと可愛く笑うのだろう。
界隈では気難し屋で通っている祖母は自分も釣り込まれ笑みを浮かべた。
昔、幸せに夫と小さな娘と暮らしていた頃を思い出さずにはいられない。小さな幸せがあった。
雪が降り積もっていく。孫娘は門から続く細長い石畳の雪を掃き清め、玄関口の花も活け変えた。
万端整えて少年を待つ。考えたら名前すら聞いてないのだ。自分も名乗っていない。
もし彼がやってこなければ探しようがない。まさか高校に電話して調べてもらうわけにも行かないだろう。
5時が過ぎ、辺りが暗くなった頃、少年は戻ってきた。
からからと引き戸の音がして、暫くすると玄関の前に誰かが立った気配がした。
部屋から僅かに廊下に顔を覗かせる。
祖母がすでに玄関に出ていて、部屋で待っていなさいと視線が言っていた。
呼んでおいて迎えに出ないのは失礼じゃないのかしら。と娘は思った。
だがこの街ではそういうものらしい。小柄に見える祖母だが、立ち上がると意外と背が高い。
真っ白な髪は迫力があり、声には張りがあるので、表情は歳よりずっと若く見える。
部屋の要り口を少し開けておくと二人が形式にのっとったやり取りをしているのがわかった。
「どうぞお上がりな。」
それを聞いて座敷の戸をそっと閉めた。
「こちらへ。この座敷や。」
「はい、失礼します。」
「アスカええか。碇さん来はりましたえ。」
「はい。どうぞ。」
襖を開いて、お祖母ちゃんに続いて彼が入ってきた。そうか、碇君って言うのか。
あたしの名前も分かっちゃったけど、これであいこよね。
益体もないことを考え、作法なんてものも役に立つことがあるんだと思って笑った。
「こんなええもん頂いたわ。後でお茶請けに出しましょうな。」
「つまらんものでしょうが、父に持たされました。」
「気の付くお父さんですな。なかなか男はんでこない気の回る方はいらはらしません。」
お祖母ちゃんが目を細めているところを見るとよほど美味しいお菓子を持ってきたのね。
そう思うと、この場面がとても面白いものに感じられる。
男の子の方もすっかり街言葉から関東言葉に代わってる。
「いらっしゃい。約束通り来てくれたのね。」
「うん。約束、だから。」
正座のまま深々とお辞儀をしたら、赤くなっておどおどして。
なぁんだ、急に普通の男の子になっちゃった。
さっきまで随分如才ないと思っていたが、それはこの少年の表皮に過ぎなかったようだ。
「来ないと、もしまた会った時、逃げるか隠れるかしないといけなくなる。」
「いい心がけよ。」
そうアスカが言うとシンジは再び苦笑した。
初対面だと言うのに、どうも自分はこの女の子には逆らえない。
それが嫌でもないから不思議だ。そんな笑顔だった。
もう一度挨拶を交わし、二人だけになった。
「碇君っていうのね。名前は?」
「石偏に定まるって書いて碇、名前はシンジ。高校2年。君は、村瀬さんでいいのかな。」
「ここはお祖母ちゃんの家なの。お祖父ちゃんの苗字が村瀬だったわけ。
あたしの名前は惣流アスカ。ソウリュウ・アスカ・ラングレーが正式の名前よ。
あたしも高校2年。」
「惣流って、随分珍しい苗字だね。」
「あなたの碇って言うのも珍しいんじゃない?
とにかくそこの席にお座りなさいよ。手を温めたら?」
火鉢の横の席にシンジを座らせた。シンジはコートを脱ぐと席のすぐ脇に畳んで置いた。
「火鉢なんて使ったの初めてだよ。炭ってこんなにいい香りがするもんなんだね。」
「お祖母ちゃんの自慢の火鉢ですもの。炭も結構こだわってるみたいよ。」
炭の香りがほのかに香り、火箸で炭を置き換えると僅かな火の粉が立つ。
そして新しい畳の匂い。
アスカの祖母が彼女を迎えるために家の畳を入れ替えたばかりなのだ。
シンジは火鉢の上に手をかざして炭の温もりを味わっているようだった。
「ね、用事って何だったの?」
「父さんに言われてたんだ。真如堂で茶会がある、頼んでおいた菓子を取って来いって。
普通なら年明けて初釜だけど、茶会の仲間が来年早々異動になるらしくて。」
「で、これから友達の家に行くって言ったら、一箱分けてくださったわけ?」
「うん、そう。」
「優しいお父様じゃない。」
「たまたま気が向いたんだ。普段は僕が何しようと余り関心がないようだよ。
母さんが死んでから、父さんは僕と余り口を利かなくなったんだ。」
そうなのだろうか。自分の子供に関心がないなんて事があるのかしら。
親のない自分がよその親を過大評価しがちなのは分かっている。
けれど、子供は親の愛情を当たり前と思っていることが多すぎる気がするのだった。
当たり前だから気がついていないということも多い。余りに当たり前にあるものだから。
だが、目の前の少年の表情には悲しい陰があり、瞳の輝きが沈みこんでいる事に気づいた。
とにかく話を変えようと思う。
「碇君は、何かしてる事がある?クラブとか趣味で。」
「小さな頃から、剣道やらされてたよ。後はチェロを少し。」
「珍しい組み合わせね。」
「父さんと母さんの趣味でね。3歳くらいから始めて、たいして好きでもなかったんだ。
結局止めるチャンスが無くて未だに続けているだけだよ。」
「じゃあ、もう14年くらい続けてるんだ、凄いわねえ。」
「いや、時間ばかり掛けてるけど、凡才を恨むばかりだよ。」
頭を掻くシンジの様子に、だからあの時とっさに傘を差し掛けることが出来たのね、とアスカは納得した。
あの瞬発力と判断は無駄に時を過ごさなかったことを教えてくれる。
それに比べると自分は何が出来るだろう。
お茶とか、ピアノとかバレエとか、およそ女の子らしいものなんか何も知らない。
これも、親がいなかったせい?
「真如堂は今日はひっそりしてたんじゃない?」
「うん、お堂や講堂、もみじの枝なんかも雪に映えて綺麗だったけど、ひと気は無かった。」
だが、その静かな真如堂が一番美しいと二人は知っている。ひとしきりその事を話した。
「あたしのママはこのあたりで育ったから、真如堂の事はよく聞かされたわ。
聞いてたとおりの場所だった。」
「うん。確かに子供にはいい遊び場だよね。夏には小さなお祭りもやっていたよ。
地蔵盆って言ってたかな。小さな子供達だけが集まって歌うたったり御菓子もらったりしてた。」
「そういう時は呼んで貰ったりするんだけど、基本的に遊び友達がいなかったせいもあるみたい。
母もあたしと同じような容貌だったそうだから。いつもお堂の池の辺りにいたって。
それで、お坊さんが濡れるからって縁側の下で遊ぶのを許してくれたから、
雨の日でもここで遊べたんだって。お坊さんに遊んでもらったこともあったって。」
「それって、見た目が違うから仲間はずれにされたとか、そういうこと?」
「外見が違うと小さな子供って排他的だから。この街は観光の外人は多いけど住んでる人は少ないものね。
ママのお父さん、つまり私のお祖父ちゃんはドイツの人だったの。
大学で知り合ったお祖母ちゃんとお祖父ちゃんはここを出てアメリカに渡り、ママが生まれたらしいわ。
その後お祖父ちゃんは5年程して亡くなってお祖母ちゃんとママはまたここに帰って来たの。
ママはこの街の子供グループに馴染めなくて、それで真如堂の縁の下で遊んでいたのよ。」
「でもね」 急に声のトーンを上げたアスカに驚いて、俯いていたシンジは顔を上げた。
「そのままでいる様なママじゃなかったわ。
なんて言ってもこのアスカ惣流ラングレーの母親ですもん。小学校も中学も高校も、全部トップで出た。
この坂の下にある大学の研究所でパパと出会ってアメリカに渡ってあたしが生まれたのよ。」
そう言いながらアスカは雪見障子を持ち上げる。
下半分のガラス戸から小さな庭が見わたせる。竹林と石庭がなかなか見事だ。
「そのあと、ママはドイツの研究所に移ったので、あたしもそこで暫く過ごしたわけ。」
「ドイツにも。」
シンジはそう言ったがアスカの様子を見て口を閉じた。
「これは、かなり有名な庭らしいわよ。
確かに雪が降れば降ったなりに、雨は雨なりに晴れれば時刻を刻んで景色をかえる。
あたしも、この庭とても気に入ってるんだ。」
「確かに綺麗だと思うよ。」
「綺麗なだけじゃないわ。どんな状況でもそれにもっとも適した姿を見せるから素晴らしいのよ。
人はそうはいかないでしょ。
うろたえたり戸惑ったりして見苦しい振る舞いをして悔やむことが多いもの。」
アスカの瞳は輝きに溢れ、頬はうっすらと上気していた。
こんなに熱心に激しく語る女の子を見るのは初めてだった。それだけじゃない、男だって。
自分はどうだ、そんな風にこの庭を見た感動を語れるだろうか。人に伝えられるだろうか。
何より、人に伝えたい想いを自分は持っているだろうか。シンジは目の眩む思いで少女を見た。
「あたし、どんなことでも悔やみたくないの。」
何故、君はここにいる?
シンジはアスカの語る話の一つ一つに肯いている自分に気が付いた。
話してくれるエピソードの一つ一つにその場にいたかのような臨揚感があった。
街で軒から落ちる氷の塊から人をかばった。それはシンジにしてみれば当たり前の行為。
それが誰であろうと、子供でも年寄りでも女性でも大人でも関係ない、反射的な行為だった。
人を選んだわけではない。
だが、ここにいる少女に、何故自分はこんなに特別な感情を抱くのか。
この子を助けることが出来たことが嬉しく、運命のように感じるのはなぜか。
人は、常に意識している事にしか、反射的に身体を動かすことは出来ない。
躊躇いが身体の自由を奪う。躊躇いがいつもならすぐ言えると思っていた事を遮る。
声を奪い口を動かせない。
繰り返し、認識し続けている強い思い、反射的に動くまでに鍛えた身体。
それがあって初めて思い通りに身体は動く。
この子を助けたのは偶然だが偶然とは思いたくなかった。
僕はこの子から目が離れない。その声をもっと聞いていたい。
このアスカという子の思いを。その心を知りたい。
そうだ、惹かれているのかもしれない。僕はこの人に。
そしてアスカもまた自分を訝かしんでいた。
何故こんな自分の心の水底深くに沈めていたことを、初対面の少年に話しているのかと。
知ってもらいたいのか、自分の思っていたことを。出会うためにここに来たような想い。
アスカの祖母が入ってきて、二人の前に先ほどシンジが持ってきた菓子を置き、茶を入れ始めた。
「ゆっくりしておいき。
川端道喜の菱葩。なかなか手に入らないお菓子や。」
「はあ、不調法でさっぱり分かりませんが、喜んでいただけてよかったです。」
アスカの祖母がゆっくりと茶を入れ始めた。
雁ケ音の馥郁とした香りが部屋に広がる。ゆったりとした時間を茶の香りが支えている。
急須に蓋をせずに入れるせいだろうか。
お茶の良さだけは分かった。それでシンジは深々と頭を下げてゆっくりと茶を啜った。
「ああ、旨い。」
「そうどすか、うれしおす。」
「ありがとう、お祖母ちゃん。美味しいわ。」
いつもより少しぬるく感じるお茶は、香りだけがあって苦味を感じさせない雁ヶ音独特の味わい。
「碇君、茎茶が好きなんだ。」
「どれがいいお茶って僕には分からないけど、茎茶は旨いなって思うよ。」
「雁ヶ音は今では煎茶の茎茶全部を指すんやけどな、昔は玉露の茎だけをそう呼んだもんや。
このお店のんはな、昔ながらのもんやなぁ。それで贔屓にしとります。」
「あら、じゃあお祖母ちゃん奮発してくれたのね。」
「アスカ、そういう事をお客さんの前で言うもんやおへん。」
「あら、ごめんなさい。」
「では、せっかくやから、頂いたお菓子を呼ばれまひょか。」
目を細めて、菱葩(ひしはなびら)餅を頂く。
「この菓子はな、初釜に使われるもんなんや。牛蒡の蜜漬けと西京味噌を僅かに混ぜた白餡つこうてなあ。
元々は宮中で正月の節句に使われていたものを、下々も使うようになったものなんよ。
今でも作っているとは聞いてましたけど、こうして目の前にあるとほんとうに懐かしわなあ。」
「お祖父さんとの思い出とかもあるの?この綺麗な可愛い御菓子に。」
「ええ、ええ。あの頃はまだそういう習慣が残ってましたからな。
元々初釜の席でお祖父さんとは知りおうたんよ。」
「じゃあ、思い出のお菓子なのね。このお菓子、上品で可愛らしくて、素敵よね。」
アスカの祖母はしっかりと肯いた。少女と少年も少し神妙な顔になってその菓子を頂いた。
祖母にとっての特別な菓子。それがまるで自分達にとってもそうであるような気がした。
一時間ほど二人は、時にアスカの祖母を交え楽しく語らった。
「じゃあ、僕はもう失礼しないと。」
「え、まだいいじゃない。」
「アスカ、初めて来ていただいたお客さんをお引止めしたらあかん。次と言う機会もあるんやし。」
「はぁい。」
余りにもがっかりした孫娘の様子に祖母は苦笑し、ぜひ近いうちにお越しやすと言わざるを得なかった。
「男はんにこんなおねだりして、恥ずかしおすえ。アスカ。」
「いえっ。」
思わずシンジも応えていた。
「僕も、ぜひ。また。」
「ほんとに?」
俯いていた少女がぱっと顔を上げる。
「うん。」
「じゃあ、アシタッ」
乗り出すようにして大声で言った途端。
「アスカ!」
祖母に釘を刺され、少女はたちまち萎れる。
「はぁい。」
「僕らの部活、27日で終わりなんだ。だから。」
「クリスマスに会えないのは残念だけど、それでもいいわ。」
「じゃ、迎えに来るよ。」
「うん、待ってる。」
シンジを門で見送った後、玄関に戻りながら祖母は孫娘が寂しかったことに気づいた。
どんなに研究所の職員が良くしてくれていたとしても、同じ年頃の仲間がいるわけではない。
学校には通わせていると聞いているが、多分アスカ以外は全て監視を兼ねた存在なのではないか。
肉親の愛情に恵まれなかったアスカが、今はまた友情にも飢えているのだと。
例えこの地にいる間だけでも、仲間と呼べる相手が出来ることはアスカの心には欠かせない事だろう。
真面目でしっかりした少年は自分から見てもアスカを託すにふさわしいと思えたのだった。
「まあ、ここは一つ物分りのええ婆になりまひょか。」
孫娘は知ってか知らずか、ご機嫌で雪のかかった南天の木から雪を払い落としていた。
雪の思い Two of us #1 2006-02-07 komedokoro