夏の日射し 9

こめどころ

 並木が続いているとは言え、全速力で駆け抜けてきたら、身体が燃え上がる様だ。
いつもより、1本遅い列車に駆け込んだ。今日も朝から酷く暑い上に走って来た為、 シンジはカッターシャツが肌に貼付く程汗をかいていた。もしこれが都会の通勤電車 だったら、周囲を迷惑そうな顔が取り巻いた事だろう。しかし、この特急列車の席は よほどの事が無い限り立っているのはいつも一車両にせいぜい2、30人だ。車両の 半分が座席指定シートで残り半分が横がけのベンチシートになっている。その昇降口 で、シンジは弾ませた息を整える。駅を列車が出れば、そこには緑色の水田地帯が、 どこまでも広がっている。緑の水田は、その横を歩くと青い空が鏡のように写ってい る。その緑と青を思い出すと心が次第に落ち着いていくのだった。

なんで僕は逃げ出したんだ。何故僕が逃げなければならなかったんだ。

今になってそんな事を思っても駅は遥か後方だった。あの公園にアスカと渚カヲルを 置き去りにしてきてしまった。アスカはどうしただろう。カヲルさんを怒りに任せて 酷い目に合わせたが、大丈夫だったろうか。馬鹿な!喧嘩の相手を心配してどうする んだ。だがもし酷い怪我であれば、アスカは好むと好まざるとに関わらず、あいつの 面倒を見なければならないではないか。あの、あの写真。あれは一体何だったんだ。
思い出す度に真っ黒な嫉妬が溢れだし、凶暴な感情と衝動がアスカを憎んですらいる 感覚を思い起こさせる。あの瞬間背筋を走った伶俐な刃物のような凶悪な心。あれは 僕の本性?アスカに手を上げてしまった。あの頬の感触と音。絶望的な思い。赤い頬。 悲鳴のように自分を呼んだ声。こんな事はあり得ないと何故言えなかったのか。何故 彼女を信じられなかったのか。それは、それはっ。

「自分が、僕自身が、アスカにもっとも望んでいる事だからだ。その汚い欲望を知っ ているからこそ、カヲルさんとアスカの事をそういう目で怖れて見てしまうんだ。」

頭を、ドアの窓ガラスに押し付けてぎゅっと目をつぶる。拳がそのステンレスの扉を 叩く。呼吸が苦しい。心の中で悲鳴をあげるように叫んだ。

「アスカを失いたく無いっ、・・・アスカを。」

なまじ、一度自分の腕でアスカを抱き締め、胸にかき抱き、熱いキスを交わしたから。 アスカを自分のものだと信じたから。だから苦しい。アスカを自分の物だと信じ た心が、悲鳴を上げ、真っ黒な憎しみを吐き出している。

アスカが憎い。こんなに!君を思ってるのに苦しませる、おまえが憎い。

「おまえ・・・こんなふうに呼ぶんだ。アスカの事。」

不思議な気がした。アスカにはあんたとか呼ばれても、自分はずっと君と呼んで来た。
自分の中で昨夜の抱擁が何かを変えたのだ。アスカを独占し自分だけのの物になった のだと自分が思い込んでしまったのだ。だからあんなに腹が立ったのだ。
よくテレビに出てくる薄っぺらなチンピラの様に。

「もう『俺の女』気取りか、碇っ。」

そうだ、アスカは僕の女だ、と口の中で呟いて苦笑した。
何が俺の女だ。目に焼き付いたアスカの上気した頬と胸元まで開いたカッターシャツ 姿の写真。もうとっくにあいつは、カヲルさんとそういう関係だったんじゃないか。
なら、何故僕の事を受け入れた振りなんかしたんだ。カヲルさんとはそういう仲じゃ ないなんて言わなければ、僕はあの時身を引こうとしていたのに。

あんな関係なのが、親に知れたら困るじゃないか。当たり前だろ。
そうだ、僕の口を塞いでおく為に。

「全く自分てもんがわかってないのよね、シンジの馬鹿は。」

アスカの嘲笑とカヲルの嘲笑が一緒になって聞こえたように思った。限り無く思いが マイナスの思考連鎖に落ち込んでいく。その場にしゃがみ込んで、シンジは歯を食い しばった。食いしばって、喉の奥から溢れてくる嗚咽を漏らさぬように耐えた。
カヲルが憎かった、あいつさえいなければと何度思ったことだろう。

「なんだぁ、やっと着いたのか。寝坊したァ?待ちくたびれて先に乗らせてもらった。
ああもうあつみ台を出た所だ。わかったわかった。学園前で降りて待っててやるよ。」

周囲に何人かいる同じ学校の下級生が心配気にこちらを眺めているのがわかった。
ぴーと音がした。何処かで誰かが傍若無人に携帯をかけている。

「え?いいものってなんだよ。泣いてる美少女?お前も好きだなあ。金髪の?ホント かよ。こんな田舎にか?」

ぎくっと顔をあげると、車両の端に立った旅行姿の学生が大声で話している。金髪の 美少女と言って思い浮ぶのはアスカしかいない。第一この辺一帯に彼女以外金髪の女 の子なんかいない。アスカが、駅で泣いてるって?車両が減速を始めホームが見えて 来た。停車した途端に、ホームに飛び出して反対側のホームに向かい、階段を駆け上 がっていた。しかし戻りの列車はまだ40分程はやって来ない。シンジは焦り、焦燥 の余り何回も駅のベンチを殴りつけた。

カヲルは痛みにじっと耐えていた。シンジに蹴られた跡はいつまでも身体中の力を奪 うように疼き続けた。背中がジリジリと熱く日に焦がされている。

「一体何をしてるんだ。僕は・・・」

冷静になればなる程、自分のした事が信じられない。結果的に自分はアスカを陥れて シンジとの中を裂き、そしてアスカの混乱に乗じて彼女を奪おうと言う魂胆をもって いたのだ。もし、肋骨が折れていなければ、アスカをあのまま走り去らせはしなかっ たろう。シンジを失うかも知れないと言う怖れで一杯になっていたあの子に、絶望的 な展開を信じ込ませることなど雑作もない事だったろう。

「シンジはもう君を2度と信じはしない。もし戻っても君を抱く度に僕に抱かれてい る君を思い起こす。シンジ君の中の君は永遠に穢れてしまったんだ。それは誰のせい でもない、君自身の迂闊さのせいだ。」

真っ青になったアスカは唇を震わせながらおびえたように叫ぶんだ。

「うそ!うそよ!シンジは信じてくれるもの。あたしを見捨てたりしないもの。」

「君の言い訳も聴かずに、君を殴り倒して逃げた彼がかい?甘いよ。アスカ君。」

「興奮してたから。本当の事を知ればきっと。」

「だから君は甘いと言うんだ。本当の事なんか誰が知りたがってると言うんだい。」

酷薄な笑みを浮かべ、僕はアスカ君の顎を片手でひねりながらせせら笑う。

「もし、シンジ君が君を許しても、君の評判はどうなっているか分かるかい?君は僕 の女であったにもかかわらずシンジとも付き合っていたふしだらな娘と言われ続ける だろう。シンジ君はそんな娘を掴んだ間抜けな男と言う事になる。あざけ笑われる。 君はこの上シンジくんにそんな屈辱を味あわせるつもりかい。」

どんなに性意識が乱れたと言ってもそれは公衆便所を選ぶようなもの。まともな男な ら、変な女を選ぼうはずもない。そんな事は今も昔も変わりはしない。当たり前の事 だ。誰が使い古しの女と一緒になりたいものか。分かるはずがないと舌を出していて も、世間には確実に知れている。

愛が有れば、好き同士なら関係ないと言うがそんな女相手にそもそも愛が成立すると 信じている方がどうかしているのだ。まして君は、未だに残る偏見、他所者を忌み嫌 う本能化した日本人の偏見。外人、外人だ。白人には、無条件に卑屈になり、混血児 や韓国や中国人と見るや急に威丈高になる愚かしさ。その対象じゃないか。

元々君自身は、そんな差別の対象として合の子、紅い髪と言われ続けて来たんじゃな いのか。最初、何の為に親は君を遠くの附属小学校に入れたのか。それまで君に友達 と言える子がいたのか?思い出すがいい。シンジ君がいなくなれば再び君はあの風に 曝される。今度は悪い噂も一緒だ。さぞ凄絶な事になるだろう。大っぴらに好奇の性 の対象として服を透かされた姿を誰もに想像される娘として軽んじられるのだ。

あの写真をちょっと落としたらどうなる?君はもう僕のものになるしかないんだ。 僕の所へ戻ってくるしかないんだ。

そう囁くだけでいい。それだけで2人はもう、元に戻れなくなる。
純真に相手を思っていればいる程その絶望は深い。アスカは怯み、シンジは疑う事を 止められない。シンジもまた男なら、アスカに対して汚れた欲望を持っていない訳が ない。それが彼の猜疑心の源動力となるのだ。

シンジの目の前にはカヲルに抱かれたアスカの白い肢体の蠢く様が、あらゆる痴態が 繰り広げられる。それもまた男の、人を愛する心の一面なのだから。そしてアスカも また、シンジを愛するが故にシンジの猜疑の目が自分を嬲る事に耐えられない。それ が自分の迂闊さから出たこと故、シンジに強く出る事も、積極的に言い訳する事もで きず、追い縋る事もできず。ままならぬままにシンジとの距離が開いていく。アスカ の生娘らしい愚かな誇りがおそらくシンジに何もかもを打ち明ける事を怯えさせ、躊 躇わせ、結果的に少年に全てを肯定させてしまう。

そこで、僕はシンジの目の前でアスカの、無理矢理にでも、抱擁と口付けを奪う。
いや誰かの目に触れさえすればよいのだ。校内にあっという間に噂が溢れる。
それだけでいい。彼女があきらめて投げやりになりさえすれば全ては僕のものだ。
彼女が救いを求める路は全て塞がれて、僕に向かってしか路は開いていない。

「僕は追えなかった。だが・・・遅かれ早かれこのまま行けばあの2人はお終いだ。
僕はたぶんアスカを手に入れる。
あの娘は僕のものになる。ふふ・・ふふふふ、あははははは!」

何処までが自分の思考なのか、何処からが悪夢だったのか。笑いながらも目が回って 吐き気がした。
自分の醜い心が何度も何度もアスカをシンジから奪い取ってむごく抱き締め、陵辱 している妄想を呼んだ。違う。・・・こんな事を望んでいたんじゃない。この考えは 僕の想いとは違う。もっと純粋なものだったはずなのに。何処ですり変わったんだ!
これが僕の本性なのか、呪われた父親の血か。
母を無理矢理自分の物にして僕らを産み落とさせた、他人の血の上に喜びを見い出す 男の血が、僕にこんな酷い事をさせ、それを喜ばせるのか。

細い銀色の髪に指を突っ込むと、カヲルはうめき声を上げ深く膝の間に頭を落とした。
肋骨の痛みはますますひどくなり吐き気がする。もう目を開いているのも億劫だった。
初めて好きになった子の破滅を願うとは。僕は・・・一体何だ。なんて奴なんだ。

苦渋に満ちたカヲルの呻きに驚いた小鳥達が一斉に雑木林に向かって飛んだ。

 呆然としたままアスカは駅前の噴水の縁に腰を降ろしていた。朝方の高揚した気持 ちが別世界の事のように思える。涙は止まったが、乱れた髪と涙の跡がそのままだ。
周囲を出勤途上の勤め人達が奇異の目を向け、振り返りながら駅に消えていった。
この町の人達は小さい頃からアスカを知っている。同じ頃出来上がって、同じ頃転居 して来た人達だ。名前は知らなくても、なんとなく顔を見知っている。目立つ風貌の アスカなら尚の事だった。それでも泣いているアスカに声をかけた人はいなかった。
例え心配であっても互いのプライバシーを優先する。それは、この沿線では唯一この 町だけが持つ都会的なルールであったかもしれない。
アスカにしてみれば、声を掛けられなかった事は返って救いだった。どうしたと尋ね られて応えられるような事ではない。駅の真正面には交番があった為ヒマなちんぴら 風の連中もちょっかいを出しては来なかった。図書館が開くのを待っている、浪人の 幾人かがチラチラとこちらを見ているだけだ。駅の時計は既に9時を指し始めていた。

「これから・・・どうしよう。」

アスカは見るとは無しに鞄を眺めていた。学校へ行くつもりはとうに失せていた。
といって、どうするあてもない。だがここにいつまでもいる訳には行かない。カヲル がもしやって来るような事がれば、今度こそは走って逃げなければならないのだ。
家に帰って、そこに閉じこもっているか。だがそこにカヲルが待ち構えていたら?
ぶるるっと身体に震えが走った。今朝のカヲルは異常だった。あんなことができる人 だとは到底思えなかった。あの人もまた何か別の物に突き動かされているように思え た。それを、自分が導いたというのか。

「・・・あたしの、せいなの?」

自分の心が分からない。何故あんなにふらふらとしていたのだろう。カヲルさんを素 敵だと思ったり、シンジを誰よりも愛おしいと思ったりするんだろう。自分はもしか したら異常に多情な人間なんだろうか。普通女の子は誰かを好きになったらもう夢中 で、その人しか目に入らなくなると聞いていたのに、あたしは違う。今のカヲルさん は怖いし嫌いだけれど、朝迎えに来てくれたカヲルさんの事は決して嫌だと思ってい なかった。昨日だってそう。一日付き合ってくれた優しい先輩にあたしは抱き締めら れて、もう少しでキスを許す所だった。シンジとキスしたのはもしかしたら偶然の成 り行きだったのかも知れない。昔の事を思い出して激情と懐かしさに思わずシンジを 求めただけなのだろうか。あたしは気の多い、はしたない女なのだろうか。それが、 シンジやカヲルさんに、隙になって見えて、気の有るそぶりに見えたのだとすれば。

その事が恐ろしい。カヲルは昨日までは真面目で優しい先輩だった。そんな人が一晩 で、ああも変わるものなのだろうか。アスカは必死で逃げ込む先を考えた。そして、 携帯電話の番号を押した。出た相手に安堵の溜息をついた。

「とにかく、そこにそのままいてはいけないわ。交番の3軒横に『らんぶる』という 店が有るでしょう。そう、喫茶店よ。その奥の席に座っていなさい。すぐ行くわ。」

「はい。早く来て、下さいね、おねがい。」

安心の余り涙がまたバラバラと零れた。しっかりしなくちゃと思う程止まらなくなる。
声が震えて、思わず再びしゃくりあげてしまう。

「大丈夫、5分で行く。よく電話できたわね。もう少しよ、頑張って。」

電話が切れた。ハ−ッと溜息をつくと全身の力が抜けて立っていられない程の疲労を 感じた。全身の筋肉が強ばっていたのにやっと気づく。アスカはふらふらと立ち上が るとロータリーを渡った。地面がぐらぐらと揺れているようだ。こんなに追い詰めら れていたのだろうか。強い夏の日射しが容赦なく照りつけ、白いつばひろの制帽の照 り返しが眩しいくらいに輝いている。指示された喫茶店のドアをやっとの思いで押し 開けようとした時だった。後ろから肩を掴まれた。ひっと悲鳴を上げながら振り返る とヘルメットを外した中から見知った顔が現れた。

「・・・カオルさん!」

「どうしたの、惣流さん。真っ青な顔をして。気分が悪いの?」

声が出ないままかぶりを振る。カオルの汗ばんだ額と顔が怪訝そうに歪んだ。いつも 学校で見かける、快活な、みんなの中心で花のように咲いている、朗らかで天真爛漫 なアスカとは余りにも違い過ぎる。

「カヲルを知らない?今朝早く出ていったのだけれど。シンジ君は?」

「シンジは、先に行ったんだと思います。カヲルさんとは途中で別れました。」

さすがに実の姉に、事実そのままを伝える事は憚られた。

「今朝の様子ではあなたに迷惑をかけているのではないかと思って来てみたの。
何も問題は、変わった様子はなかったかしら?」

「けさ・・・たしかに渚さん、様子がおかしかったとおもいます。」

そう答えるのがやっとだった。そしてその場から離れようとする。

「私、人と待ち合わせしてますから・・・」

「待って。この時間に誰と待ち合わせをしようというの。学校はどうするの。」

「放っておいて下さいっ!」

思わず大きな声で叫ぶ。伸ばしかけていたカオルの手が引き戻された。

「あ・・・済みません。迎えが来るんです。この中で待っていないと。」

「そう、じゃあ、私も一緒に入るわ。」

「そ、それは駄目ですっ。お願いですから行って下さい。カオルさんには関係ない事 なんですからっ。」

関係ない訳はなかった。だが今すぐは、この人の顔を見ているのはつらい。
逆恨みとわかっているけれど、カオルがシンジと行動を共にしていたのも今回の件の 切っ掛けになったのだから。だがそんな事を今さら言ってみても仕方がない。ただ、 アスカはカオルの顔を見ているのが、どうにも辛かったのだ。

カオルの方もまた、弟がこの少女になんらかの、肉体的なものではないにせよ何らか の被害を与えた事を感じ取ってはいたのだが、それだけに無理強いできなかった。

「じゃあ、一つだけ教えて。カヲルは何処にいるの。何処で別れたの。」

「この坂を、路なりにずっと上がっていった先、大きな楠のある十字路を右に曲がっ た先、左側に有る、林の中の児童公園です。そこで。」

多分怪我をしていたカヲルだが、恐ろしくてとても戻れなかった。カオルさんが行っ てくれるなら助かる、とアスカは思った。この時間までにここにやって来ないのは、 動けなくなっているのかも知れない。シンジのお母さんと見に行こうとは思っていた が、行かずに済むならその方がいい。

「わかったわ、ありがとう。」

唇を噛んで、カオルは歩道の脇に止めたバイクに戻った。ヘルメットを被り直すと、 エンジン音を響かせて、坂を登っていった。それとすれ違うように駅前のロータリー に、蒼いFWが入って来た。その車を見て、アスカは思わず走り寄った。歩道に乗り 上げるように停まった車から、シンジの母が転がりでて、アスカを抱き締めた。
アスカが声は上げて泣いた。それをユイはしっかりと抱き締め、先ずは充分に感情を 流させてやってから、ゆっくりこの子達の身に起った事を聞こうと思っていた。

浮ついた気持ちでなく、真剣に考えたことはなかった。ただ好きならそれが愛だと、 アスカはずっと思っていた。ただ甘くて楽しくお姫様のように振る舞えばいいと。
だが自分が今、何を一番怖れているか。それを考えたらやっと一つの答が出て来た。
それがまだ手遅れになっていないと言う保証はない。
自分は、もう、あいつにとってどうでもいい、軽蔑すべき女かも知れない。間に合う かどうかわからないけれど、あいつに心から謝ろう。あいつに謝った事なんかなかっ たけど、今度はあたしが謝ろう。シンジに、辛い思いをさせたあたしが。

その頃、シンジは戻りの車中で足踏みをしながら駅が見えてくるのを待っていた。
駅前にまだアスカがいてくれる事を祈り、自分の取った行動を恥じていた。
2回、アスカを裏切った。あの子を信じきれずに疑った。僕は自分の感情に惑わされ る事があっても、アスカの気持ちを先に考えた事がない。だからカッとなると、まず 自分を傷つけたアスカが憎くなる。爆発してアスカを責める。僕がアスカを愛してる という気持ちは、アスカから何か見返りが有ると思っている。千円入れたら千円返っ て来る事を求め、それを当然と思っている、さもしい愛情だ。やっとそれがわかった。 その事が恥ずかしい。

同じ頃、公園のカヲルは自分をよぶ姉の声に俯いていたベンチから顔を上げた。
彼の姉は、弟のシャツに付いている靴跡と零れた血、腫れ上がった顔や地面の争った跡を 見て、自分の嫌な予感がおそらく適中してしまった事、それを止められなかった事を 苦々しく思った。自分の思慮が足りなかったと考えた。
弟も姉を見て、自分がなんと愚かだったのかという事に、改めて唇を噛んだ。
薄っぺらな衝動にかられただけの愛が受け入れられるはずはなかったのだ。
悔やんでも悔やみ切れない。自分の初恋は姉に宣言されるまでもなく終ったのだ。

ごん、とヘルメットがカヲルの頭にヒットした。

「さあ、かぶんなさい。とっとと帰るんでしょ。」

「・・・胸が痛い。」

「失恋したから?いい薬よ。最近天狗になってたからね。」

「いや、肋骨折れたかも・・・」

「馬鹿ねえ。シンジ君強かったんだ。」

「不意打ちだったんだ。いきなり木刀か何かで殴りつけられて。」

「木刀だったら死んじゃってるわよ。ほら言い訳してないで、後ろに乗りなさい。」

「ほんとだって、あいつ猾かったんだよ。」

「はいはい、そうね。人の彼女に手を出すからよ。」

「昨日までは彼女じゃなかったんだ。」

「じゃあ、出遅れた訳ね。残念でした。次回は頑張りなさい。」

カヲルは苦笑する。どうにもこの姉にはかなわない。
バイクは、音を立てて回転し、家に向かって発進した。カヲルは姉の長い髪の背中に 顔を押し当てたまま、腰に手を回してしっかり掴まった。昔から喧嘩に負けると姉に おぶわれて家に帰ったような気がする。あの頃自分はちびで、カオルちゃんに頼って ばっかりだったな。今回もまた、か。

公園に転がったままのシンジの竹刀入れが、誰にも顧みられずにそのまま強い日射し に曝されていた。
空には朝から巨大な積乱雲が積み上がっていた。激しい上昇気流がその中で逆巻いて いる。地上で起った全ての禍事を吸い上げるようにして、巨大な形を真っ青な空に描 いて行くのだった。夏の日射しがその雲を、目に眩しく輝くように真っ白に照り上げ ていた。

駅にたどり着いた少年は、その辺を見回した後、どこかに電話をかけた。何か叫び声 を上げ、猛然と家に向かって坂を駆け上がって行く。
蝉が賑やかに鳴き始め、ジリジリと照りつける日射しが、逃げ水を作ってゆらめき始 めていた。

夏の日射し(9)2002-10-5/komedokoro つづく

Author: こめどころさん
初出: 2002/10/07
再掲載: 2005/10/31