こめどころ
弟が逃げるように行ってしまった後、朝食を取り終えると、カオルは一息ついた。朝の時間 はあわただしいのが嫌いなのでいつもゆっくりと過ごすようにしている。カヲルがランニング に行くにと同時に、庭で木刀の素振りを繰り返す。鋭い気合いが響くが雑木に囲まれた渚家の 庭の広さにも助けられて他の家の安眠を破る事はない。切っ先の速度を鍛える事に主眼を置い ている。先の先(せんのせん)を取れば相手に驚く事なしという考えがカオルの主義だった。 これは彼女の試合ぶりにも現れている。常に先手を取り相手がその場の主導を取ろうとする隙 を打つ。カオルの剣格なら迎えて打っても十分なのだが、相手に応じて動くという旧態依然と した剣は自分の喜びではない事がわかっていた。
『何をあせっているのかしら?』
自分に問う。
母が亡くなった時の最後の言葉は『カヲルをお願い。あの子だけが心配。』だった。必死で頑
張って来はしたが、今まで大過無くやって来れたのは僥倖に過ぎない事はわかっていた。高校
に入っていたのも良かったし、思い掛けなく父が認知してくれた事も幸いした。15歳にして
やっと認知してくれたのは、母の父に対する最後の願いだったのだろうとカオルは想像してい
た。見た目よりも、ずっと子供な所のある弟を抱えて家を守れた事も此の場所に2人だけで住
む事を許されたのも、最終的には父の恩恵だった。
カヲルは知らない父と母の間の事。それが私の性格をこうしたものにしたのだろうか。いや、 それはおそらく違う。渚 馨という一個人の性格形成の一部にはなっているだろうが、一緒に 育ったカヲルとですらこれだけ違うのだ。
早く一人前の大人として扱われるようになりたい。それこそがカオルの願いだった。そうなれ ば、もう父の庇護下で良い子を演じる必要性も無い。一刻も早く大人に。独立して生計を立て たい。自分はいても立ってもいられない様な、巣から羽ばたきたい衝動を常に押さえ付け生き て来たと思う。自由。それを押さえて来たのは弟の存在、世間の偏見、実際上の不都合、自分 なりの処世術的な計算、母の願いなどがあった。弟を頼まれたのだからという使命感だけで動 く程自分はお人好しでは無いし、かといって。
『まぁ処世的な計算だけで全てを切れる程冷酷でも無かった、というだけの事なのよね。』
といってこれも真実では無い。少女の心はカレイドスコープのようにくるくる回って留まる所 を知らない。これはカオル程の娘であっても変わることはない。元々人の心がそのように固定 したものではない。その日足先が右へ行くか左に行くかだけでも気分が変わったり、その朝誰 と最初にあったかで機嫌が変わったりする。そういう自分の変幻する心の動きを客観視できる のが取り柄かしらね、とカオルは思った。できたら弟と出逢った時のアスカの心が弟に対して 好意的であればいいのだけど。うーん、でもあいつが苦しむ時間はばっさりやられた方が短い のだけだけれど。
「頑張んなさい、弟。それなりにね。」
呟いて紅茶を飲み干す。出かける時間だ。自分の心がちくと痛んだのにも気付いていた。昨夜 言った事とは矛盾するのだが上手くいって欲しいと言う気持ちがあるのも事実だった。要は、 自分がアスカという少女を今一つ好きになれないでいるという事だった。あの子は人を好きに なる、心を開くという事を今一つ理解していないような気がする。弟扱いしている碇シンジの 告白を振り切って逃げた時、長い事一緒にいる友人の心すらわかっていないような少女の鈍さ ・・・本当はわかっていたにせよ、思いやりのなさ、自分の心優先という点、ふらふらと定ま っていない頼り無さに、カヲルを託せるような娘ではないと感じてしまったのだった。鞄を取 り上げて立ち上がった。
「カヲルが初めて好きになった子、か。嫉妬してんのかな、私。」
妙に気になる。駅前までいつも乗っていくスクーターのキーではなく、550ccのオートバイの キーを取り出した。既に着込んでいた制服を脱ぎ捨てると、着替えたカジュアルの上から繋ぎ を身につけ、アツミ台に向かってオートバイのハンドルを向けた。
アスカとカヲルは並んで駅への道を歩いている。
「困ったな。このままだと駅に着いても階段下で待っていられないじゃない。」
「何か昨日と雰囲気が違うな。昨日あんな事をしたから警戒されたんだろうか。夜思い返して いたら、だんだん腹が立って来たって事もあるからな、女の子は。」
姉の気分屋な部分にも随分振り回されてきた。それがこういう時に役に立ちそうだ。そう思い カヲルは思わずクスクスと笑った。アスカはそれに敏感に反応する。
「何がおかしいんです?」
「いや、君の事じゃない。姉の気分屋ぶりを急に思い出してね。」
「カヲル先輩だって十分気分屋ですよ。こんな朝早くから自転車をこいで女の子の家を訪ねる なんて。誤解しちゃう子だっていると思いますよ。」
「そうかな。誤解って何を誤解するのさ。」
「そ、そりゃあ・・・」
・・・一生懸命自転車を返しに来るなんて、誠実さとか、真面目さとかを売り込んでるみたい なものだし、もしかしたら自分の事特別に思ってくれてるのかなって思ったり・・・
「誰にでも・・・こうするんですか? 汚れた自転車をピカピカに磨いてくれたり。」
カヲルの顔を歩き出してから一度も見ようとしていない。それだけ自分の事を意識してくれて いるんだろうとカヲルは思う。実際、アスカの方もそう思っている。
・・・それだけあたしはカヲルさんを意識してるんだ。こんなのおかしい。あたしはシンジが。
「そうだ。これ返しておくよ。」
カヲルは児童公園の前でプリントアウトした写真の束をアスカに渡す。
「昨日、ホテルのベッドで寝てしまってる君を撮ってしまって。あんまり可愛かったから。」
「寝顔を?・・・やだ、なんですか、これ。」
無防備に投げ出された四肢。しどけなく乱れたカヲルのカッターシャツを身に纏って。
その写真はちょっとあざといH系のピンナップのようだった。アップの写真に至ってはまるで
裸体にカッターを羽織って上気した頬で気を失っているかのようにさえ見える。真っ赤に顔が
火照った。これ・・・こんな様子をカヲルさんに曝していたなんて。
「こんなに可愛い子を見た事はなかったんだ。だからつい・・・ごめんよ。」
「こんな格好でいたなんて。やだ・・・どうしよう。」
狼狽えて、どうすればいいのか分からない。こんな写真を誰かに見られたらもうここには住ん でいられない。学校にもいけない。ましてシンジに見られでもしたら。
「ごめん、これ原版だよ。確かに返すからね。」
「はい・・・」
アスカはそれをすぐに火の中に放り込みたかった。自分が襲われなかったのはカヲルさんが、
潔癖で誠実な人だったから、ただそれだけ。運がよかっただけなのだ。その事にあえて触れよ
うとは思わなかったが、カヲルが真面目な青年であった事に感謝せずにいられなかった。
そして何気なくしてしまったことが実は大変危険で、ふしだらと言われかねない行為であった
ことに思い至って青ざめる思いだった。
「先輩、済みませんでした。」
アスカは深々と頭を下げた。
「何で君が謝るのさ、いたずらしたは僕の方じゃないか。」
「ううん、あたし無防備すぎたと思います。ごめんなさい。」
「いや、確かに僕は・・・どきどきしたし、Hな事も考えたし、悪かったんだ。あんまり可愛 かったから、つい、撮っちゃったんだ。」
「あ・・・あたしなんか・・・」
「本当に・・・こんな可愛い子を僕のものにしたいって、そう思ったんだ。それだけしか、考 えていなかったみたいなんだ。」
「そんな・・・可愛くなんか。」
カヲルの言葉が繰り返される度、頭の中に霞が掛かったようになる。自分はどうしてしまった んだろう。カヲルの誠実な態度と魔法のような言葉が、アスカの正気を奪ってドキドキと心臓 を昂らかせている。
駄目よ、あんたはシンジが好きなんでしょ。しっかりしなさいよ!
[・・・僕にとって・・・」
「え・・?」
「どうやら、アスカ君は、たった一日で特別な存在になってしまったみたいで。」
「そんな・・・! 困ります!」
そういいながら頬は真っ赤だ。その言葉と態度の違いがカヲルを訝(いぶか)しがらせる。
「どうして?シンジ君は何も言ってくれないって昨日言ってたじゃないか。」
もしかしたら喜んでくれるかも知れないと思っていたカヲルの夢は崩れかけていた。
アスカは頭を振った。それに連れて豊かな髪が反対側に振られる。
「違うんです! 違うんです!」
恥ずかしさと上手く説明できないもどかしさに焦れる。娘らしい愚かしさが、その一途な否定 が少年の衝動に火をつけかねない事を、アスカにまだ認識させていない。
「君は・・・あれから、シンジ君と何かあったのかい。」
「あれから・・・シンジと色々あって・・・仲直りしたんです。(溶けるようなキスを)」
「それは、友達としてだろう? 彼はまた、僕の姉と出かけたように他の女の子に逃げるかも しれないんだよ。(あんな夜遅くにシンジ君と一体何があったって言うんだ。)」
朝日が一斉に森の中に差し込んで来る。その中に2人は互いの言葉に立ち尽くす。
少年は昨日と逆に自分が少女の心と身体に起った変化に惑い、それが自分の軽蔑していた嫉妬
と言う醜い感情と、それに刺激される劣情である事に困惑する。少女はほんの昨夜この少年に
抱かれて夢見心地で「はい」と言いかけていた事を思い出し、自分の矛盾にますます戸惑う。
それでも、今の自分はシンジが好きなのだ。好きだと・・・信じている。
「そんな・・・シンジの事あたし信じていますから。」
そう思う自分の心も信じているのだ。少女の心はその瞬間もふわふわと揺れている。
それに、そんな事言い出したら誰だって100%なんてことは。そう言いかけてどきりとする。
自分はどうだ。さっきから告白を聴いていると言うのは、カヲルさんにとっては、あたしが
揺らいでいて可能性があると言う事になるではないか。こんな所を誰かに見られて、シンジ
の耳に入っったら、その時あたしはどうやって言い訳するのだろう。
そんな当たり前の事に、アスカはやっと思い至った。
「すいませんっ! あたし先に行きますからっ。」
身を翻して駆け出そうとした所を後ろから抱きすくめられた。熱い息がアスカの首に掛かる。
その息が獣臭いような気がしてアスカはかすかに恐怖を感じた。
「惣流さん。」
抱きすくめた少女の髪に顔を埋めるようにして呼ぶ。ゾクッとした感情が少女にも少年にも 走った。ここから先はもう無い、と本能が告げている。
「だ、だめっ!はなしてっ。」
「頼むよ。逃げ出さないで話を聴いて。」
「こ、えを、大きな声を上げます。離して下さいっ。」
反射的にカヲルはアスカの口を塞いで公園に引き込んだ。雑木林の一角にあるこの児童公園
は、背の高い生け垣と低潅木に覆われて路側からは見通せない場所だ。抗うアスカだったが
男の力に逆らえず一気に奥まで引きずり込まれてしまった。恐怖に背筋が冷たくなり四肢が
強ばる。アスカの顔から血の気が引いて真っ青になっているのにやっとカヲルは気付いた。
今にも叫び出しそうなアスカに怯えて口を手で更に強く押さえた。アスカの手から写真の入っ
たファイルと学制鞄が落ちる。
「ううっ、むぐーーーっ!」
自分の唇が、いつの間にか少女の頬に触れている。熱い頬の感触、豊かな髪のえもいわれぬ 女らしい香り。我知らず身体がカッと熱くなった。必死で抗うアスカの身体を腕ごと抱きし め押さえ付けたまま、耳もとで囁く。
「何もしないっ。大丈夫だから、僕の話を聞いて。」
抱き直した拍子に、カヲルの指がアスカの胸を押さえた。少女の全身の毛が逆立った。思い 切り顔を振って、少年の手を外し叫んだ。身体が強ばって上手く動かない。足が竦む。
「い、いやあっ!」
悲鳴が、朝の住宅街に響いた。その後また直ぐに手で口を塞がれる。怖い!男の身体と力を、
心底、初めて怖いと想う。誰かッ!
そこに誰かが猛然と駆け付けて来た。シンジッ! 彼もまたいつもより早い列車に乗ろうと
早めに家を出たのだった。
「アスカに何をするッ!」
大声がしたと思った瞬間、カヲルの頭は猛烈な、灼熱のような痛み受け、それは身体を突き
抜け、走った。全身の力が抜けて少女から手を離し、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
そのまま俯いた顔を蹴り上げられアーチを描くように後ろに叩き付けられた。もんどりうっ
て転がった所を更に蹴り上げられた。爪先が丁度脇腹の肝臓に食い込んで激痛が走った。身
体から力が抜け、うずくまったまま、全身に震えが走る。何処かの骨が逝ったらしい。続け
て蹴りが来るのを、身を屈めて耐えようとする。全身に冷や汗と脂汗が流れ、痙攣するよう
に震えが来る。
「こいつっ、こいつっ!」
「だ、駄目エッ。それ以上やったら駄目っ!」
ガシガシと蹴りたくる。少女が攻撃者の右腕にしがみついて、必死に止めている。
「渚先輩なのっ。ふざけてたのよ、本気じゃ無かったっ!あたしが悲鳴を上げちゃっただけ なのっ!だから止めてっ!」
少女はそう叫んでシンジを止めた。カヲルを蹴り上げるシンジが怖かったせいもあった。先輩 に酷い事はできないと言う思いもあった。元はと言えば、昨日の自分が悪かったのだと言う、 さっき気がついたばかりの想いもあった。
「えっ!」
ぎらついた目でシンジは留めようとするアスカを振り返った。その目もまた獣の目だ。緑色の 混じったような、恐ろしい目。アスカは身体が一瞬竦んだのを感じながら、カヲルの口から垂 れた血をハンカチで拭き取ろうとしゃがみ込む。それを渚カヲルが乱暴に突きとばし、立ち上 がる。
「あっ!」
アスカはカヲルの思わぬ態度に地面に転がる。
「フッ、よくやってくれるじゃ無いか。もう『俺の女』気取りかい。碇っ。」
「アスカは、アスカは僕の・・・ぼくのもんだっ!あんたのじゃないっ!」
「昨日、君との間に何があったか知らないが、僕だって権利を主張していいと思うけどな。」
「あんたに何の権利がっ。」
そう言いながら、シンジの視線は地面に散らばった、カヲルが見ているものの先を辿って、 ファイルに行き着く。寝乱れたアスカのまるで裸にシャツを羽織っただけのような写真が そこにあった。
「え、あ、それ・・・。」
何か言い訳をしようとする間も無かった。シンジはキッと振り返ると、後ずさろうとした アスカの頬を思い切り引っぱ叩くと絶望の色を浮かべ、坂を駆け下っていった。
「シンジッ!」
追おうとして、そのファイルを拾う。風に飛ばされている画像もある。シンジを気にしながら も、それを集めるのが先になる。カヲルも一緒にそれを集める。
「ほら、これで全部だ。」
それをひったくるように受け取る。
「な、なんであんなことを。」
「僕は何も言って無い。権利があると言っただけだ。海に一緒にいったり写真を取るくらいの 仲ではある訳で。嘘じゃ無い。事実だ。」
「くっ。でもっ!」
「君がどう言おうと、僕は必ず君を自分のものにしたい。手段を問うてはいられんほどなんだ、 これが僕の本意。碇君のようにお子様の遊びで君を好きなんとは違う!」
「勝手よ!あたしの気持ちはどうなるのよっ!」
「君の気持ちはふらふら迷うてる。僕にもチャンスがあるはずだ。ホントに嫌なんだったら一緒 に歩いたりするん。昨夜一夜だけの激情ってことだってある。」
「・・・ほ、本気だもの!」
「君は今自分が一瞬言い淀んだのに気付いたはず。それが僕のチャンス。そう思うてる。」
カヲルはそう言うと煙草を取り出して火をつけた。そのままベンチに腰を降ろし息を鎮める。
興奮の余り京都のイントネーションが混じった。そんなことではいけない。碇君との落差を、
アピールしなければならない。
「う・・・結構煙がしみるもんだな。」
顔を歪ませるカヲル。
「あたし・・・先にいく。シンジを追わなくちゃ・・・」
「好きにするといい。だけど、アスカをひっぱたいていったくらいだ。もう信じてもらえる とは、思わない方がいいんじゃないかな。」
「それが、目的だったのねっ。」
アスカの目から涙の粒が飛び散る。くやしい。昨日の自分の愚かしさが悔やまれる。
「偶然だよ。最初から計画してた訳じゃ無い。昨日の写真を返そうとしていただけだ。
後の事は不可抗力、売り言葉に買い言葉だ。そんなに上手く仕組める訳ないだろう。
後は碇君の度量次第さ。実際僕なら君をひっぱたく前に確認したと思うけれどね。」
「あんたのたわごとを聞いてる暇なんか無いわっ!」
鞄にファイルを詰め込むと公園を飛び出した。結い上げた髪の片方が外れているのにも気付 かない。全速力で駅へのダラダラ坂を駆け下っていく。2回、石畳につまずいて転んだ。膝 をすりむき、頬にも痛みが走っている。ぶつけた脇腹が酷く痛む。が、そんな事に構っては いられなかった。
駅前広場にたどり着くと、7:28はもうでてしまっていた。40分の特急でいくしか無い。
学校は遅刻になる。シンジに言い訳をする時間すら無い。
自分の落ち度とは言え、朝の幸せな気持ちからの余りもの落差に、アスカはとうとう駅前に
佇んだまま、しくしくと泣き出した。出勤時間の雑踏の流れの中。汗と涙が混じりあい、泣
きじゃくるアスカの指間から零れた。
夏の日射し(8)2002-09-27 / komedokoro つづく