御機嫌で風呂から上がって来たカヲルは、タオルを腰に巻いただけの格好で冷蔵庫を 漁り始めた。

「姉さん、何か冷たいものないのかい?麦茶が冷えてないよ。」

「野菜室に牛乳パックがあるでしょ。あなたが買っておくように言ってたやつよ。」

「ああ、そうだった、そうだった。」

1.5Lのパックを取る。一気に飲み始めて息をついた。

「ふう、旨い。」

「もう、いいのかしら。着替えたらちょっと仏間にいらっしゃい。」

「え?」

姉が仏間に来いと言う時は、何かしら叱責を受ける時に決まっていた。思い当たる事 といえば、今日遅くなった事しかない。いそいで自分の部屋で着替えると手櫛で髪を 掻き上げながら仏間に急いだ。こういう時に姉をさらに怒らせるのは得策ではない。
部屋に入って、どきりとした。仏壇が開いており、母の遺影がその前に降ろされてい る。これはかなり大事だった。姉の服も先ほどのラフな格好ではなく黒のワンピース 姿。正式の席で着るような奴だ。洗い晒しのジーンズと、太い横縞のシャツ姿だった が正座するしかない。

「薫。この写真とレシートについての釈明を聞きたいの。」

「そ、それは、今日2年生の後輩と一緒に海に行った時の。」

同時にクレジット控えがつい、とでる。

「ランジェリーショップで買い物までしてるし。」

「あ、あそこ、ランジェリーショップだったのか。た、只水着を買っただけです。
普通の店でした。変なところじゃありません。そのッ、写真のコの水着を。」

「この子が誰だか知っているの?」

「そ、惣流アスカさんです。」

「じゃあ、この子には碇君っていう彼氏がいる事を知っているのよね。知っていなが らホテルへ連れ込んだと言う事?」

慌てる。確かにそういう言い方でこられたら、言い訳のしようがなかった。

夏の日射し7

こめどころ

 カオルは怖い顔で弟を見つめていた。カヲルにはそれが『睨み付けた』かのように 感じられる。後ろめたいことは絶対にやっていないが、確かに疑い出せば切りがない だろう。

「こ、更衣室として借りただけです。女の子が着替えるのに場所が必要だったんだ。
彼女が着変える時は、僕は部屋の外にいました。ホントです。下のロビーにいました。
僕が着変える時は、彼女が外に、ああ、最後の時は疲れて寝込んでしまいましたけど その時も彼女が浴室に入るのと同時に僕はロビーで待っていました。その事はカウン ターの従業員がきっと見ていたと思います。」

必死で言い訳する。双児の姉なのに昔から頭が上がらないのはずっと何をやっても姉 にかなわなかったせいか、母が亡くなってから面倒を見られて来たせいか。家の使用 人は子供が相手だと言う事であからさまに手を抜いた。母が入院してからは一層酷く なった。父は東京の本宅で暮らしており京都には週末にやってくる。だがそれも母の 入院と共に足が遠のいた。金には困らなかったが、姉がいなかったら奥手のカヲルは まともに小中学校を卒業できなかったろう。

「多分そうだと思っていました。でも、決まった人のいる女の子をそんな所に。」

慌ててカヲルは姉の言葉を中腰になって遮った。少し不満そうな表情が浮んでいる。

「ちょっと待って。泳ぎたいって言い出したのは惣流さんの方なんだよ。彼女はね、 シンジ君が姉さんと城山に言ったって聞いてから様子がおかしくて、情緒不安定だっ たんだ。危うい感じだった。だから少し気分晴らしでもしてやろうと思ったんだ。」

そうだよ。そういう意味では姉さんの尻拭いじゃないかとカヲルは思ったが、余りに も責任転嫁が過ぎると思い、その事には触れなかった。大体、年頃の男女がホテルに 入ったら妄想を逞しくする向きもあるだろうけれど人目の多いリゾートホテルでもあ り制服姿でもあり、後ろめたい事は何もないとカヲルは思っていた。
だがその言葉を聞いて、姉は酷く怒った。声がやや甲高くなる。

「男の子はいいでしょうね。だけど相手は女の子よ。惣流さんは余りにも不用意だと 思うわ。附属の子が男女2人でホテルに入ったと言う噂が流れて特定されたら、誰が 一番傷付くと思うの?惣流さんが気がついていないなら、先輩であるあなたが気を回 してあげるべきではないの?」

「だから僕は同室に同時にはいないようにしてたよ。寝てしまったのは惣流さんがし た事で、僕には責任がない。ぼくはやるべき事はしたよ。」

その途端、カオルにひっぱたかれた。パシッと乾いた音がひびいた。

「なんて情けないやつ!女の子のせいにすると言う訳。あんたは悪くないのねっ。」

整った顔をしているから怒った顔が怖い。小さい頃からの刷り込みで首を竦めてしま う。竦めてしまうともう後は逆らえない。

「何ごとも口の端に登ったら事実として扱われると言う事が何故分からないの?惣流 さんとあなたが、一緒にホテルに入リ、数時間を過ごした。この事以外に世間に伝わ る事実はないわよ。その上で尾ひれがつくの。2人が不純な関係であると言う噂が。 そんな噂が田舎では致命傷になるの。ここは大都会ではないのよ。第一あなた、何故 惣流さんの寝姿を撮ったりしたの。これはもうSEXの後だと言われたらそうとしか見 えない写真よ。いったい何の為に撮ったの?」

「い、いや・・・つい可愛いかったから。」

溜息をつくカオル。悄気(しょげ)込む弟。

「ほら、結局そんな子供っぽい事しか考えていない。いい?この原版は必ず明日中に アスカさんに返す事。あなたは持っていてはいけません。何かあった時に疑われるの はあなたよ。身の潔白の為にも明日それを返して、きちんと謝る事!いいわねっ。」

「はい・・」

「全く大きな身体して、常識がないんだからっ!」

階段を俯いて登る。

「ああ、そう言われれば確かにまずい事だったなあ。自分達は潔癖なんだから恥じる 必要がないというのは、あくまでこっちの理屈で、悪意を持った人や興味本意の人が いればそれはどうしようもないんだものな。浜辺の反対側の浜茶屋まで行くべきだっ たかも知れない。保護者も第3者もいない2人きりというのはまずかったな。明日は アスカ君に会ってすぐに謝ろう。あの子は僕を疑いもしないでついて来ただけだ ったんだし、先輩が言う事を断わるのも、言い出しにくかったのかも知れない。」

部屋に戻ったカヲルは姉に言われた事はもっともだと思った。世間の噂と言うものの 怖さも良く知っているはずだったのに油断をしていたとも思った。さらに考えれば、 自分の心の中にあんな可愛い子にアドバンテージを取りたいと言う邪な考えはなかっ たか。無意識の中にそれがなかったと言い切れるか?
派手好きな自分の中に、あの子を見せびらかしたいと言う気持ちは? そして・・・ あのアスカの寝顔を見てしまった時のおののきにも似た気持ちは?あれが性欲という ものか。あの子をかき乱してずたずたにしたいような衝動。

「・・・あったかもしれない。さらにいえば、シンジ君との駆け引きと言う事も。」

苦笑する。女の子に対して劣情を感じるなんて初めての事だった。

「意外と権謀術数に長けた人間だったのかも知れないな、僕は。」

ただアスカを返す、別に自分のものではないが、その事にふと小さな抵抗感を持つ。

「いけないな、これは親父の血か? 他所の花を摘みたくなるなんて。」

姉は二言目には自分の事を奥手だ奥手だと言っていた事がある。中1まではちびだっ たし、口も重くて地味な大人しい子供だった。
するすると背が伸びて足が早くなると 自分は変わった。趣味も嗜好も面白い程変わった。女の子が急に纏わりつくようにな ったが、そっちには全く興味がなかった。単に自分の周りが華やいだような気がして 楽しいと思うだけだった。映画を見にいこうとか、休みの日に会おうと言われても、 暇があれば付き合うといったところで、相手の思惑までは思い至らなかった。だから たまに勘違いした子に急になじられても理解できなかった。それがプレイボーイなど という風聞が立った事の実際だった。

「だけど、惣流アスカは違うみたいだ。」

写真を取り出して眺める。原版は返すけれど、これは取っておこうと思った。

「明日はあの自転車を返しにいくからまた会える。」

そう思ってベッドに寝転がるとアスカの写真を眺めた。魚の写真の間に何枚か水着姿 のアスカの写真がうつっている。躍動するアスカのポートレート。輝く笑顔。魅力的 な白い肢体。細くしなやかな腰。張り切った胸や腿の筋肉。そんなものが自分を魅惑 してやまない。自分の身体がその写真に反応し燃えているような、うずうずした妙な 感覚。抱きしめた時の肉体の感触、言葉や息吹き、その香り。切な気な瞳の揺れる色 と誘うような唇の形。まるで誘惑されたように引き付けられてしまった自分。そして 叱責された最後の写真。アスカを手に入れればこの表情が自分の胸の中に埋まるのか と思うと赤裸々な衝動が身体にみなぎる。こんな思いは初めてだった。

「好きってことか・・・」

カヲルは起き出すと、居間を通って勝手口のドアを開けた。雨は上がって月に雲が群 がっている。駐車場においたアスカの自転車が、水滴を輝かせていた。それを見て、 カヲルは自分のタオルを手に取り外に出た。そして一心に赤い自転車を磨き始めた。

「このまま引き下がったりできないな。少々汚い手を使ってでもあの子を僕のものに したい。第一碇シンジがあの子のことをそんなに好きかどうかも分からないじゃない か。シンジは何も言ってくれないってあの子も言っていたじゃないか。」

彼にしては珍しく、殆ど初めて誰か他人に執着していた。惣流アスカという娘に。

 朝日が登りはじめると島々の陰が真っ青な海の中に伸びていく。群青色の陰と日射 しが通り抜けると碧青の明るい海が広がっていき、浅く温かい海の育むものが、ゆっ くりとその日を送りはじめる。

白い鳥達が群れをなして島の上に輪を描いて翔ぶ。鳥の目覚めを待っていたかのよう に、沖合に出ていた漁船群が港に戻り、降ろした荷を買い求める人々が集まって来 る。疳高い鳥達の叫びが漁船を包むように追う。島をゆっくりと流れる日常という時 が覆っていく。その中で唯一激しい活動を見せる朝がやって来た。

カヲルは毎朝5時半に起きてランニングを始める。一汗かいてシャワーを浴びると、 いつもはこの後食事の席につく。カオルと2人で朝食を取り、高校へ向かうのだ。
しかし今日は先にアスカの家に自転車をおいていかねばならない。

「あつみ台には30分で着く。だが昨日のように迷う事もあるだろうから45分は見て おいた方がいいだろうな。あつみ台発の8:15までの特急は7:41が最後だ。その前 の6:50、7:02か、7:15、7:28のどれかには乗るだろう。彼女の家から駅まで 約15分だから、6:30にはアスカ君の家の前にいないとね。そうなると5:45には ここを出ないと。今日はランニングは休みにしてさっさと向かうとしようか。」

独り言を言いながら紫煙をたゆらせる。朝の煙草は格別旨いような気がする。姉は特 に煙草については何も言わないが、気がついているのいかもしれない。高校生になっ てからは、一歩もここに踏み込んだ事はないから、意外と向こうでも気を使ってくれ ているのかも知れない。もっともカオルの部屋には小学校時代から踏み入らせてもら えていないけれど。階下におりると、姉がもう起きだして食卓の上に食事の用意をし ていた。

「姉さんごめん。今朝は寄っていくとこがあるから。食事はいいや。」

「ああ、いいわよ。短縮だからお弁当はいらないし。抜きなら楽でいいわ。」

「ごめん、じゃあ行って来ます。」

「ん。学校でね」

 勝手口から出ていこうとしている弟。身長は180を越えたかも知れない。自分も背 の低いほうではない。167はある。だが、そのシルエットはあくまで細く弱々しい。 弟を守りたいとか、父に対する反発とかがあった。いわゆる庶子である自分達の立場 はどうしようもないものであるにせよ自分を取り巻くありとあらゆるシガラミを断ち 切りたかった。熱中した。高3にして剣道3段。居合い道2段は立派なものだ。熱中 の度合いが違った。剣道で言えば部の最高段位者である顧問の教師が大学を出て間も ない五段の取得者であったが、剣で有名な九州の大学、その剣道部に所属してレギュ ラーから外れた事のないその彼が彼女といい勝負で。普通は考えられない事だった。
まだ負けた事はないがあと1年高校があったらまける事もあったかも知れない。
カオルと言う少女はそのくらいの腕前であった。

「カヲル。あなた・・・」

「何? 姉さん。」

「意地になって何かをするのは愚よ。」

胸の中に跳ね上がったものがあった。この姉は人の心を読む。青ざめた顔になったの を、姉に気づかれたかと思った瞬間、姉の声が聞こえた。

「人のものを奪っても平静ではいられないわよ。私達の父親の事考えて御覧なさい。」

そんなことわかってる。だけど。物静かで、いつも何処か哀し気だった母の顔。
あの少女にそんな顔だけはさせない。第一あの子は誰のものと決まっていないと昨夜 言っていたではないか。

「姉さんには分からないよっ。男の気持ちなんかっ!」

叫ぶように言って、後ろ手にドアを叩き付けた。テキストを縛った束を荷台に括ると 一散に走り出した。振り返りもせずに胸の中で叫んだ。

無理やり奪う訳じゃない。あくまで僕自身をあの子が受け入れてくれれば問題はない じゃないか。はっきりしない恋人候補の幼馴染みなんかよりも。

アスカは何時になくうきうきと目が覚めた。昨日の事がまるで夢のようだった。
シンジに好きだと言ってもらえた事。キスまでしちゃった事。
土砂降りの中でのその情景を想像し、その瞬間を思い出すと、かーっと顔が赤らむの を押さえられない。思わず頬に手を当てると驚く程熱い。

「きゃーん、やだやだやだ。」

バフバフと大きな枕を殴りつけたあと、そこに顔を沈め、暫くしてから目だけを上げ て、きょろきょろと周りを見回した。時計を見ると既に6時を僅かに回っている。出 かけるまでに30分は必ず掛かる。今日は7:02の電車に乗りたかったから45分には うちをでなければならなかった。早い電車で駅に行って、階段下のベンチで声をかけ るのだ。先輩達から教わっていた、得恋した次の日の朝に彼をそこで出迎えて声をか ける附属高校でのおまじない。そうするとその彼と結ばれてゆくゆくは、と言う訳。

「これは本当みたいよ。そうやって結婚した先輩が何組もいるんだから。」

その話を昨年の合宿でしてくれた先輩はとくとくとしてそう言った。アスカはあんな 人目の多い所で声をかけて連れ立って歩けば、少なくともこの話を知っている人達の 間では公認の仲になるわけで、それがいい効果を産むのだろうと思った。この高校の 生徒は大抵中央の特定の大学へ、UNUniv.か新東京Univ.に進学する訳だから、中央で も付き合いが続いて、ゴールの可能性は高いだろうな、などと夢のない分析もした。 だが自分の事となれば・・・
思い出してくすくす笑いながら朝のシャワーを浴びてテキパキと準備をした。やはり 朝の早いキョウコが、起こさないうちに起きて来た愛娘を見て、にやにや笑いを浮か べる。昨夜はかなり碇夫妻に洗脳を受けたようだ。シンジ君ね、確かにいい子よね。
もはや親の方は既定路線として突っ走る構えのようだ。

「シンジ君と待ち合わせ?」

「ち、ちがうわよっ。先に行くんだもん。(今日だけだけど)」

シリアルにミルクを掛け、ぱくぱくと食べ終ると再度歯を磨き、身支度を整えると 6:40。予定より更に1本先の電車に乗れる。

「じゃあ、いってきますっ。ママも遅刻しないようにね。」

「はいはい。」

玄関のドアを閉めて、その下の門まで階段を駆け降りる。その目の前に赤い自転車 のハンドルに手をかけた、カヲルが佇んでいた。

「カ、カヲル先輩。」

「やあ、おはよう。自転車を返しに来たよ。夕方に来るのは大変だからね。」

「おはようございます。夏休みの暇な時にで・・よかったのに。」

優しい笑顔と輝く白い歯。こうして明るい所で見るとやはり素敵な人だなあと思う。

「ちょっと、渡したいものとかもあるし、行く先は同じだ。一緒に行こう。」

一瞬困ったなとも思ったが、断わる理由がない。シンジと昨晩急に恋人同志になった からとも言えないし。昨夜のカヲルとの事も同時に思い出してしまい頬が熱くなる。

『あたしの馬鹿ッ、何赤くなってるのよ。誤解されちゃう。』

「はい。」

実際には素直にこう言って、肯ずくしかなかった。2人は連れ立って、駅に向かって 歩き出した。その姿を窓から見ているキョウコ。

「あら?あの男の子、附属の学帽だけどシンジ君じゃないわね。誰かしら・・・」

早くもセミが鳴き始めた。今日の日射しもきつくなりそうだった。

夏の日射し(7)2002-09-15 / komedokoro

Author: こめどころさん
初出: 2002/09/17
再掲載: 2005/10/31