雲の流れが早い。さっきまで良く晴れていた空に何時の間にか黒い雲がどんどん
押し寄せて来ている。月がまるで雲の川の中を遡って進んで行くようだ。風が次第
に強くなって、シンジとアスカの髪を乱す。
2人は広い萩の野原の中に向かい合って座っていた。ざあざあと萩の葉が風にあお
られて潮騒のように鳴っている。真っ白な白萩の花が、焔が燃え立つようにふたりの
背景になって揺らめいている。アスカのセーラーの襟がはためく。2人の視線は、
互いを離さずにずっと見つめあっていた。
こめどころ
「・・・シンちゃん、今日、あたしに何か言いたい事があったんでしょ。」
どきん!とシンジの胸が跳ね上がった。頭の下で組んでいた手を解いて、アスカの方に
半身を向け直し起き上がる。アスカは片方の腕を枕にして伏したまま、片手を動かし、
また萩の花を摘んだ。それをくるくると弄びながら、シンジを見上げている。
いつもシンジの傍にいた目が今日もそこにあった。白い月の光を宿した青い目。
その目がいつもより大きく見えた。
そうだ。シンジにはこの子にどうしても伝えたい事があった。
失敗して、この子は逃げ出して・・カオル先輩はとぼけてしまえばいいと言ってたけど。
アスカは全部に気がついてるんだろうか。僕の心の中の事まで。シンジはいたたまれない
気持ちになり、見つめあっていた目を逸らせてしまう。
「今だったら、あたし逃げないよ。聞いてあげる、どんなことでも。日射しも無いし、 静かだよ。2人っきりだし、誰も来ない。ねえ、話して。」
何時になく優しく甘いアスカの声にシンジは何も応えなかった。応えられなかったのだ。
アスカは、ずっと待つつもりになっていた。アスカが求めている答を言ってくれるまで。
シンジなら、応えてくれる、と疑いもしていなかった。今日、シンジから逃げ出してから
ずっと揺れていた心。今は何故か凪の海の様に静かにシンジを待つつもりになっている。
色々な事があった今日一日。それがアスカのシンジへの認識を大分変わらせたようだ。
「・・・いいわ、言ってくれるまであたし待っててあげる。」
そういって身を起こすと、膝をそろえて座りなおした。制服のスカートがその周りを丸 く取り巻いていている。シンジも身を起こし、剣道をやる人間の習慣通り真直ぐに正座 をしてアスカに相対する。
「そのまえに、僕・・・アスカに謝らなくちゃいけないんだ。」
シンジはアスカが思いもよらなかった言葉を口にした。
「僕は今日、凄く身勝手な事をアスカにしようとしてたんだ。アスカが困るのわかって いて、自分の言いたい事だけを言って、自己満足しようとしてたんだ。」
それはアスカが行ってしまってから、シンジがずっと思っていた事だった。
「今思うと、とても我が侭勝手だったんじゃないかって思う。ごめん。」
「ごめんて・・・シンジはそれでいいの?もうあたしに言う事は済んじゃったの?」
やっと聴くつもりになれたのにな・・・そうかぁ、もうだめなのか。
シンジ・・・あたしに何を言ってくれるつもりだったんだろう。
たぶん・・・多分今あたしが言って欲しいと思ってること・・だよね?
でも、あたしはあの時、迷って、困ったと思ってしまった。だから?
だからもうシンジは、あたしのこといらなくなっちゃったっていうのね。
「うん・・・さんざん今日一日中考えたんだ。さっきも・・・だから・・」
「シンジは、あたしの事・・・」
「うん?」
「あたしのこと・・・あたしとの事・・・今まで通りでいいって。」
アスカは萩の枝のまん中あたりをつまむと
・・・もう、決めてしまったのね。
一気に引きこそぐ。真っ白な萩の花がぼろぼろとアスカの手の中に零れて溢れた。
悲しみと、僅かばかりの怒り、自省、そんなものが一緒になって零れ落ちた。
「ずっと、今まで通りでいいんだよね。」
シンジは迷った。どう答えるべきなんだろうか。そうだ、と言えば自分とアスカは
このまま。でもアスカはもしかしたら、いやきっとカヲルさんの所へ行ってしまう。
じゃあ、思いきって昼下がりの告白をつづけたら、いったい僕らはどうなるだろう。
シンジはそうしたいと思った。告白してしまおうと。そうすれば、もしかしたら
アスカは受け入れてくれるんじゃないだろうか。でも、うん、と言えば少なくとも
今まで通りの、親友同士でいられる。アスカはその事は絶対拒まないだろう。例え
カヲルさんと付き合っていても僕らは友達だ。明日の朝は、笑って迎えにいける。
いつもの顔で笑顔で僕を見てくれる。そのほうが、そのほうが僕は。
『−ごめんシンジ、あたし好きな人がいるの。』
もしそんな答が帰って来たらもう僕らは2度と一緒にいられなくなる。それよりは。
ずっと、一番近くを並行して触れそうになったり離れそうになったりしながら走って
来た、2本の青と赤の直線が、決して触れあわないままもつれていく。こんな複雑な
軌跡を描きながらなぜ絡み合わないのか不思議に思える程。
アスカの、女の子の眼差しの本当の意味が、初(うぶ)な高校2年生には届かない。
・・・そうさ、アスカだってきっとそれを望んでる。だってアスカはカヲルさんと、
「・・・さっきは、ごめん。無理やり抱きしめたりして。変な事叫んで。」
「変な事って、なによ。」
「アスカは僕のものだって・・・カヲルさんには渡さないって。君が誰とつきあって も、僕がとやかく言うことじゃなかったものね。」
恋人同士なんだから。・・・自分で思ったこの言葉がシンジを決定的に打ちのめす。
アスカは自分の身体がすうっと冷たくなったのを感じた。まるで大きな犬にいきなり
吠えかかられたあの時のように、身体から血の気が引いた。
蒼白な顔色はシンジには分らなかった。月はすっかり雲に覆われ、先程までの明るい
月は2人を照らしていなかったから。
「シンジは、・・・それでいいのね。
あたしがカヲルさんとおつき合いしてもいいのね。そうすればいいって言うのね。」
そうか、アスカは僕が怒ったと思ってるんだ。カヲルさんと黙って付き合っていた
から、それで僕が怒ってるって。だから僕に許して欲しいんだ。自分がカヲルさん
とつきあって・・・抱き合ったり日常のようにキスしたりしてるとこを見られたし、
そうだよね。カヲルさんと付き合ってるのに僕が今さら告白したって迷惑なだけだ。
自分の身体。熱く熱を持って震えてる。まるで大きな試合の前のようだ。
初めて新人戦に出て、興奮して、目の前が揺れるような興奮だった。あの時のよう。
竹刀を持っているのかいないのかも分からない程、上がっていた。
僕にもう少しだけ勇気があったら・・・
アスカを毎日僕が抱きしめて毎日アスカに口付けをして、大切にして暮らせたのに。
あは、この土壇場になってもこんないやらしい事しか考えられないなんて。アスカ
がカヲルさんを選ぶのも当たり前だよな。せめて最後はかっこ付けて、笑おう。
「僕は、やきもち妬いたんだ。ずっとアスカが自分の傍にいてくれるもんだとばかり、 そう思い込んでたから。でもそんなの僕の勝手な思い込みだよな。現に君はカヲルさん という彼氏がいた訳で。 大丈夫、誰にも言ったりしないから。母さん達にも。僕も 協力するよ、上手く言って欲しいもんな。幸せになって欲しいもんな。」
・・・嘘付け!嘘付け! 僕は嘘つきだ。・・・胸が痛い。胸が痛いよ、アスカ。
・・・シンジの馬鹿!、シンジの馬鹿! 待ってるのに、あたし待ってるのにっ!
何か言ってよ、何か言いなさいよっ!
ぽつん、と雨が頬に触れた。大粒の雨が周囲に音を立て始めた。バラバラッと雨がばら 撒かれたように通り過ぎたと思った途端、ごおっとうなりを上げて突風が吹き抜けてい った。熱い熱風が吹き抜けた後から、更に強い風が木々や周囲の萩の茂みを掻き上げる ような激しさで吹き付ける。そこに見る間に雨粒が混じり始めた。
びしびしと叩き付けるような雨。その雨の中でアスカは座り込んだまま呆然としている。
こんな事を聴く為にここに留まったんじゃない。こんなのならずっと何処までも何処ま
でも走っていって、シンジからきっぱり逃げ切ってしまえば良かった。そういう思いが
少女の身体に満ちて小刻みに震えさせてさえている。
嘘を告げた少年と、自分がここで何をしていたのか分からない程うろたえた少女は、雨
の中で困惑しきったまま相手を見つめるしかなかった。真っ暗な萩の茂みが、周囲で激
しく波打ち、雨は次第に土砂降りに変わっていく。地面には大きな水たまりができて、
アスカの制服とシンジのTシャツとズボンは跳ね上がった土で泥だらけになっていった。
それでも彼等は動かなかった。そして少しずつうなだれていく2人の頭。
全身が雨に打たれ、髪が2人の額や頬に貼付いている。ひっきりなしに雨水が顔を流れ
落ち、目を開けているのが辛い程だ。口を開かないと息ができない程の雨、胸に吸い込
んでしまったのか、アスカが咳き込んだ。それを切っ掛けにしてシンジが立ち上がった。
ずぶ濡れのままシンジは黙ってTシャツを脱ぐと、広げてアスカの頭の上に差し掛ける
ように広げて置く。それを女の子が両手でひさしのように持ち上げると一息つく空間が
でき、目をこするとやっと視野が開けた。目の前にシンジの足が見えて、上を見上げる。
シンジの顔がそこにあった。不安げな少女の顔。その顔を見てシンジはできるだけ優し
く言った。
「あーちゃん、行こ。風邪ひかせたら君のママに怒られちゃうよ。」
こんな事が前にもあった。2人は同時に思い出した。
「あーちゃん、行こ。風邪ひかせたらあーちゃんのママに怒られちゃうよ。」
「やだっ。まだお祭り終ってないもん。」
「ほら、みんなも急いで帰ろうとしてるし、夜店もたたみ始めてるでしょ。」
「いやっ。まだだもん、まだちょっとしか遊んでなもの。」

三つ編みをイヤイヤしながらしゃがみ込んでしまう。
「しょうがないじゃない雨なんだから。酷くなったら家に帰れなくなっちゃうじゃない か。金魚とったし、くじ引きもしたし、林檎飴も、やきそばもたべたじゃない。」
「あんたは、お祭り、嫌いだから分からないのよっ。ずっと楽しみにしてたし、浴衣も 新しいの買ったのに。」
しゃがみこんでいる少女は、うずくまったスズメの雛のようだ。チーチーと頼り無げ に鳴く。黄色い鼻緒の下駄に泥が跳ねている。そうやっているうちに、雨は見る見る 激しくなり、大きな銀杏の木の下にもぼたぼたと大きな雨の塊が落ちて来た。シンジ は何とかアスカを引っ張ってお水汲み場の屋根の下に入った。
「僕だって、ずっと楽しみにしてたよ、お祭り。今年こそは射的や輪投げで、賞品を 取りたかったな。いつもアーちゃんは取るのに僕は取れなかったし、金魚ももう一回 やりたかったな。」
シンジは、またしゃがみ込んでしまったアスカをあきらめたように隣に立って軒から 視界を遮ってしまうような雨を眺めた。
「・・・ごめんね。あたしが引っ張り回してたから、シンちゃんはまだ何もやってな かったもんね。このまま終っちゃったらシンちゃんは何もやらないで終っちゃうね。」
少年は顔を上げた。そして、赤い髪の女の子の前にしゃがみ込んだ。
「あーちゃん、もしかして僕がまだ何もしてないって思ったから帰らないって言って るの。僕に悪いと思って?」
「そ・・・そんなことないわよ。あたしだって射的や輪投げがしたいし、形抜きもし たいもの。」
「形抜きって、いっつもあーちゃんは『うぎゃあっ』ってイライラして壊しちゃうじゃ ない。僕が時間掛け過ぎるって怒るじゃない。」
「だって、あんたのがいつも一番でさ、おじさんも誉めてくれるし、賞品ももらえるし あたし今年は、あのおじさんのもってた大きなぬいぐるみが欲しかったな。」
少年が顔を覗き込むと少女は顔を隠すように膝に顔を埋めてしまう。
「あんたがほめられるの見てるの好きなんだもん。いつもはどんくさいから。」
「ひどいなあ。」
「事実でしょ。」
「・・・ぼく、がんばるよ。学校でも。」
「・・・この金魚・・・シンちゃんにあげる。」
アスカの手がのびて、小さなビニール袋に入れた真っ赤な金魚をシンジに手渡した。
すぐ紙を破ってしまうシンジに比べて、アスカはいつもちゃんと既定の3匹をすくって
一番元気のいい真っ赤な金魚を毎年取る。それはちゃんと惣流家の水槽で飼われていて
遊びに行く度に、シンジのからかわれる絶好のネタになるのだ。
「ありがとう。大事に飼うよ。」
そのまま2人はじっと待ち続けた。雨が止まないかな、もうちょっとお祭りの灯りの中
にいられないかなと思いながら。風が吹き込む度若水に向かって雨が吹き込んでくる。
冷たく激しい雨が、横殴りに通り過ぎる。そのたびにアスカは悲鳴をあげる。雷が鳴り、
人々が走り回っている影が見える。まだ開いていた夜店の人達が商品に慌ててカバーを
かけている。人気が無くなった夜店の列に灯りだけが参道に並んで点っている。少女は
その景色を降り込む雨の中で眺めていた。雨が小降りになり、シンジの両親が心配して
2人を迎えにやってくるまで。
「シンジ、お前だけ何でびしょ濡れなんだ?」
シンジの父が不思議そうに言った。
「良かったわね、アスカ。」
アスカの母は、家に帰ってその話を聞くと、娘にそういって笑いかけた。
「あたしも、もう少し若ければなあ!」
『そういえば・・・あの夏からシンジは剣道を始めたんじゃなかったかしら。』
『そうだ、あの時から僕は剣道を始めたんだっけ。』
「いま・・・昔、雨が降った時のこと、思い出してた。」
「ああ、お祭りの時の・・・」
「あのときも、あんたはあたしを若水台の陰にしゃがませたまま、そうやってシャツの 前を広げて、かさになってたのよね。だからあたしは殆ど濡れなかったのにあんただけ ずぶ濡れになってたのよ。」
「男の子が雨に濡れたくらいでそうそう寝込む事はないからね。アスカはすぐに熱出し たじゃないか。威張ってる割には弱かったからね。冬もよく喘息で寝込んでたし。」
「今はもうそんな事無いのよ。水泳部なんだし、すっかり喘息もなおってるのよ。」
そんなことわかってるさ。とシンジは思う。第一もうずぶ濡れだもんな。
「なのに何でそうやってあたしの事を庇うの?なぜ毎日あたしを迎えに来てくれるの?
一緒の塾に通って、遅くなるとあたしを送ってくれたりするの?
あたし馬鹿だから鈍感だから、シンジがそうやってくれるのは、当たり前なんだって思
ってた。昔からそうだから、ママに頼まれてるから、シンジはあたしのものだから、そ
うしてくれってるんだって、ずっとそう思ってたの。
でも、でも、もしかしたら違うんじゃないかって、今日初めて思ったの。それまでわか
んなかった。今日、カヲルさんと初めて一緒に帰って、楽しかったのに、優しくしても
らったのに、あんたの事ばかり思い出しちゃうの。
どうして?あたしはどうしてそんなふうにシンジの事を感じちゃうの?」
シンジは圧倒された。アスカが何を尋ねているのか良く分からなかった。
でも『カヲルさんとは今日初めて一緒に帰った』『あんたの事ばかり思い出しちゃう』
という部分だけはしっかり耳に残った。その言葉だけに勇気づけられて思いが迸った。
「僕は、僕はアスカの事大好きだから。自分より、ずっとアスカの事が大事だから。」
思わず口が動いていた。そうだ、僕はきっと自分で思っているよりも前からアスカの事 が大好きだったんだ。
「じゃあ、あたしは? あたしの気持ちは・・・」
「僕がアスカの事を好きなのはわかってる?この好きって言うのは小さい頃の好きとは 違うんだよ。僕がアスカを好きって言う気持ちは・・・」
「う・・・うん、わかるよ・・・わかってると思う。」
「例えば、きみのこと、さっきみたいに抱きしめたくなったり、物凄く嫉妬したり、
無茶苦茶にしたくなったりする事もあるんだよ。いけないと思うけど、そうなんだ。」
シンジは、もう自分の思っている事全てをアスカにぶつけようと思った。そうだ、もう 迷う必要なんか無いんだ。全部をぶつける、それが一番大事な事だったんだ。良く見せ ようとか、恥ずかしいとか思うからどんどん歪んでいっちゃうんだ。
「アスカを思い出すと、どうしようもない時だってあるんだ。身体が熱くなってすごく 苦しいんだ。叫び出したくなるくらいなんだ。君をすっかり自分だけのものにしたいっ て、そんな風に思っちゃうんだ。」
「それって・・・あたしが欲しいって事・・・だよね。でもあたしはまだそこまでは いってないみたい。シンジの事、いつも傍にいて、一緒にいいて欲しくて。あたしの、 あたしだけのシンジでいて欲しいって思うの。カヲルさんと一緒に帰ったのも、本当は シンジがお姉さんと一緒に城山に行ったって聞いて、どうしてかわからなかったけど、 凄く悔しくて、カオルさんの事大っ嫌いと思って、泣きそうになって・・それで。」
胸がどきどきする。シンジが自分のことを欲しいと言ってる。知識としては知っていた
事。男の子は女の子にそういう欲望を持つ。いやらしいんだ、とその時は思ったのに、
今シンジに言われてみると、この恥ずかしがりで、鈍くて内気な少年が精一杯の勇気を
奮い起こして言ってくれた自分を欲しいと言う言葉。自分だけのものにさせて
と言う少年の言葉は、ひどく嬉しいものに感じられ、うっとりと陶酔しそうなほどの甘
い囁きに聞こえてしまう。アスカは自分で話しながらどんどん自分が自分の心を解析し
てていくのをはっこりと意識していた。そうよ・・あたしはあの時、
「カオルさんにはっきり嫉妬してたの、物凄く妬きもちやいたの、あたしのシンジに 手を出さないでって思ったの。城山に何しに行くのって、あたし・・・あたしも・・・ あたしもシンジが好き!あたしのシンジでいて欲しいの!ずっと、ずっとよっ!」
気が昂って熱い涙が溢れているのが、髪から流れてくる雨水の中でもはっきりわかった。
これがアスカのシンジの告白に対する答。シンジは、アスカの生まれたばかりの思いを
初めて知り、暫く何も言えないほど嬉しかった。暫くの間、2人はいても立ってもいら
れない程、落ち着きがなかった。
激情をぶつけあった告白。初めて知った相手の正直な心。怒濤のような自分の想い。
「アスカ・・・僕だって。いつまでも君と一緒にいたい。ずっと。ありがとう。」
「シンジ。これでいい?あなたの事が好きなの、だから、だからあたしの事嫌いになら ないで。お願い。もういらないなんて、言わないでね、お願いだから。」
「馬鹿だな。僕がアスカの事嫌いになんかなる訳無いじゃない。」
「だって、だってさっきは、あたしが話を聞くっていってるのに、もういいって。」
目を片手でふきながらしゃくりあげてしまう。目の前にしゃがみ込んだシンジの顔があ る。その顔にむかって、声がかすれそうになりながら言う。
「もういいって、言った。あたしなんか、もういらないって言いかけてたもん。」
濡れた顔でも、アスカの瞳に見る見る涙が溢れて零れていくのがわかる。慌てる。
この世の何よりもアスカに泣かれるのに弱いシンジだった。
「そんなことないよ。少し気弱になりかけてたんだ。アスカはカヲルさんの事がきっと 大好きなんだろうって、もうおつきあいしてて、僕には黙ってて欲しいだけなんだろう って。日常のようにキスして抱き合ってるんだろうなって。だから・・僕はせめて友達 のままでいられるようにって・・・」
「あんた、馬っ鹿じゃあないのっ!あたしとカヲルさんはそんなんじゃないってば。」
(一生懸命守ったもの。・・・危なかったけど)
「信じるよ、ぼく。」
(信じなきゃ。アスカは嘘なんか言わない、言わないと思う。)
「あったりまえよ。やってもいない事をした事にされたらたまんないわ。」
「それで・・・行こうか、アスカ。ホントに君、風邪を引いちゃうよ。」
その言葉を全く無視して少女は続けて言う。
いつもは何ごともポンポンと言葉を返してくる女の子がまるで脅えたように
ひっそりと自分の目をゆっくりと見上げながら。
「ねえ、シンジ。あたし達今、好きって言いあったとこよね。」
「う、うん。」
アスカの目は、ずっと昔、夜遅くまで遊んでいて帰り道が分からなくなり、泣き出し そうになった時、あの時のような目だった。
僕ら・・・今、道に迷っている所なのかも知れない。そうシンジは思った。
「・・・ね、ねえシンちゃん。遊びや冗談じゃあないよね。」
「当たり前じゃないか。どうして?」
「ほら小学校のとき嘘ごっこが流行ったじゃない。アレで傷付いた子が結構いたの。」
「そうだっけ。でも、僕の言った事、本当だよ。君が好きだ。」
「じゃ、じゃあね・・・あんたが、あたしの事が好きだって言う証拠を見せて。」
そういうとアスカは目を瞑った。差し掛けていたシンジのシャツを降ろし、再び顔全部
が、身体中が雨に打たれるのもかまわずに、シンジに向かって顔を向けたままに。
シンジに聞こえてしまうんじゃないかと思う程、痛い程、動悸が激しくなって。
「ア、アスカ・・・(いいの?)」
少年は少女が震えながらかすかに肯いたのを目にする。
アスカの肩を引き寄せ、憧れて止まなかった少女の唇にそのまま自分の唇を押し当てた。
挟むように。冷たくひえた感触。すると女の子の唇が、かすかに丸く輪のようになったよ
うな気がした。アスカの唇が柔らかくうごめき、内側の粘膜が温かくシンジを迎えた。そ
こに、自分の内側の柔らかい所もあわせる。何回も角度を変え、貪るようにお互いの唇を
合わせる。細い腕が、自分の背中に回って、ぎゅっと抱き締められた。シンジは自分が裸
なのを恥じながら、アスカの肩と腰を抱きしめた。濡れそぼった制服が抱きしめあう2人
に力で絞られたように、温かい水が下腹から腿の方に流れていった。その感触が大層官能
的で、ふたりはそれに刺激されたように更に身体を押し付けあった。
最初のくちびるは信じられない程柔らかく、小鳥のように唇を交わすだけのもの。その後
は、まるで少しずつ漏れ出していた可燃物が気化して火がついたように、一気に爆発した
かのように激しいものになっていく。こんなに相手を欲していた事を、身体が2人の心に
教えこもうとでもしているかのように、歯止めが効かない。
幾度も繰り返し繰り返し互いをむさぼる。
「ん・・・あ。」
「あ、はあ。・・む・・」
2人は唇を離すと、荒れた息を整える。ひざまずき、上体を合わせたままの姿勢でアスカ
はシンジの胸に縋り付いている。シンジはアスカの頭を抱えるようにして、その頭頂部に
頬を押し当てその濡れた髪の香りを感じていた。清潔なシャンプーと微かな海の香り。
アスカは夢見心地のなかでシンジの胸に頬を押し当てていた。濡れた、冷たい肌だったが
頬を押し当てている場所は次第に温かくなっていった。それが嬉しくなって胸に回した手
にさらに力を込める。その手は向こう側に届かない。中学に入学した頃には私の方が背が
高かったのに。
「キス・・・しちゃった。・・・シンジと。」
「アスカと・・・キスしたんだね、僕。」
「うれしい?どんな感じ?」
「なんか・・・身体が熱くて胸が痛いよ。もっと抱きしめたい、もっとキスしたい。」
「男の子って、欲深いのね。でも・・・でもあたしも、もっとしたい。・・して・・」
濡れた、潤んだ瞳が青く揺れている。自分を見上げる上気した顔。押さえきれない喘ぎ。
シンジは、アスカの言葉に従って少女を乱暴な程にかき抱く。2人は長い事キスをして
から、再び元の姿勢に戻る。熱にうかされたような想いに引きずり込まれていく。
熱い息がお互いの顔に掛かる。その息がさらに竜巻きのように2人の意識を高く飛ばす。
こんな事があるなんて、こんな想いに捕われるなんて。いったいこんな想いが何処に隠
れていたのだろう。
「あたし、この場所が好き。シンジの、この胸のとこ・・・」
「アスカの息が、わかるよ。はあはあって・・・」
「シンだって、そんなに息弾ませてるじゃない。人の事、言えないわよ。」
「あ、あははは。あははは。」
「うふっ、ふふふっ、あはは。」
キスをすれば納まるかと思っていた身体に点った火は交わせば交わす程、2人の中で燃
え盛り、その火焔が身体中から噴き出してくる程だった。
こんなに雨に打たれているのに身体が熱くてしかたがない。身体中の細胞が歓喜に震え、
2人の身体からは、湯気が白く立ち上っている。余りの自分の身体の中で燃え盛るもの
の猛々しさに、2人は顔を見合わせる。笑った。笑わないとこのままシンジはアスカを
襲ってしまいそうだったし、アスカは自分が訳の分からない事を叫びだしそうな衝動を
感じていたから。
周囲は土砂降りの雨なのに、そんな事は全然気にならなかった。忘れていた。
それだけ、豪雨の中で2人は互いの唇と身体の感触にだけ集中していたのかも知れない。
何回目かわからないが、ふと身体を離した時顔をみあわせて2人は再び屈託なく笑った。
こんどは幸福感が湧き出して停めらなくなったのだ。笑いながらアスカはシンジの胸に、
その唇を当て強く吸った。シンジもアスカのうなじに強くキスをした。互いの身体に刻
みつけた自分の跡。それを見て2人はやっと満足し2、3回、唇をあわせると、肩と腰
に手を回しながら家に向かった。
ここからだとシンジの家が近い。
できたての恋人達は雨も気にせず、ゆっくり歩いていき、シンジの家の玄関を開けた。
「ただいまーっ!」
「おじゃましまーすっ。」
ユイが転がるように出て来た。2人の肩を抱き合った濡れねずみの姿を見ると、笑いな がら大きなバスタオルを何枚も持って走り出て来た。アスカは、抱えられるようにして バスルームへ連れていかれ、シンジは玄関で靴を濡らすなとかゲンドウに怒鳴られつつ パンツとズボンを剥がされた。そのままタオルでざっと身体を拭くと、タオルを持って 2階の自室へシンジは丸出しのまま追いやられた。
「おい、シンジ。その胸はなんだ。」
シンジは胸元を見て真っ赤になった。隠しようもない程、くっきりとアスカの唇の跡が 赤く印されている。
「こっ、これは。・・・あの、アスカが・・・」
「ふん、問題なかろう。さすがは儂の息子だ。よくやった。」
「そ、それでいいの?」
「なんだ。赤飯でも炊いて欲しいのか。」
ゲンドウがにやりと笑いかける。
「と、とんでもないよ!」
どたばたと階段を駆け上がって行った。
同じ頃、腕まくりをしたユイはアスカを湯槽に漬けていた。その赤金の長い髪を掻きあ げ、タオルでくるんでやろうとして、まっ赤なキスマークをその白いうなじに発見して いた。
「あらァ、ここに良いものを発見っ。」
指でツンツンと突く。途端にアスカの顔が火を噴く。
「あっ、そ、それはっ、あのっ。」
にんまりと楽しそうに笑ったユイは、目元までお湯に沈んだアスカをそれ以上は追求し なかったが、大変満足そうな表情を浮かべたのだった。
暫くするとユイから連絡を貰ったキョウコが娘の服などを持って駆け付けて来た。
「アスカは?、アスカは何処?」
「さっきお風呂に入った後、シンジの部屋で遊んでるわ。」
「じゃあ、すぐに着替えて、帰ります。御迷惑を・・・」
ユイはそれを遮って言う。
「今日のところは野暮は無しですわ。シンジの服を借りて着てるから大丈夫ですし。」
「え?野暮って。アスカとシンジ君がですか。」
「ええ、見てるほうが顔が綻んじゃう。用意ができてますから夕食とっていってね。」
豪華な料理がテーブルに並んでいた。冷蔵庫がからっぽになる程の量だったが別にかま わないだろう。今夜はお祝いなのだ。母娘は和解するだろうし、アスカとシンジとって も、大きな進展のあった日なのだから。
「夜分にお邪魔いたします、碇さん。」
「うん、惣流さん。くつろいでくれ。うちとあんたのとこは親戚みたいなものだ。」
そして付け加える。
「じき、本当に親戚になるかもしれん。」
にやりと笑いかける。
「あなた、幾ら何でも気が早すぎますわ。」
強ばるキョウコを尻目に、ユイがころころと笑った。
すぽんっ!
ゲンドウがビールの栓を抜いた。
アスカとシンジは、部屋の窓を開け放ち、ベランダに向かって並んで腰を降ろしていた。 先ほどまでの激しい雨はすっかり上がり、雨で洗われたようなすみ切った夜空が2人の 目の前に広がっている。アスカの小さな頭はシンジの肩の横に寄り掛かり、丁寧にかけ られたドライヤーの後の髪とリンスの香りがシンジを安心させる。良く知っているアスカ の薫り。それにに気がつくと、自然にアスカを探してしまう薫り。辛い時も、哀しい時も いつもあった薫りだった。その薫りが、今日、ずっと自分の手の中にいてくれると約束し てくれた。まだ幼い恋だとわかっていたけれど、自分がこれを絶対に手放さないことが、 シンジには良くわかっていた。
「ねえ、・・・シン?」
「なに?」
「あたしたち、こうなるように決められてたのかな。」
快活な運命論者であるアスカらしい言葉だなとシンジは思った。
「さあ?・・・でも・・・」
「なあに?」
「少なくとも、今日僕は自分の勇気で君を手に入れたんだと思う。」
「君に告白したのも、君にキスしたのも、最後は自分の決断だから。竦んだままだった ら、君は決して僕の隣には座っていなかったろうから・・・」
「そうだね。あたし・・・あきらめないで良かった。」
シンジの少女は、頭を肩に悪戯っぽく擦り付ける。
「あそこで、あんな時によく頑張れたと思うなぁ。」
アスカの頭に手をまわし、その柔らかい髪に指を入れる。ふわふわさらさらとした、 不思議な心地よさ。そうされているアスカも陶酔したように目を閉じる。
「こんな、馬鹿みたいにプライドばっかり高い人が。」
「ふふふ、僕みたいな意気地なしが。」
「明日の朝、また迎えにいくよ。」
「ううん、明日の朝だけは駅で待ち合わせしたいの。学校の駅で。」
「ええ?どうして?」
「どうしても。電車降りたホームの、階段下のベンチにいるからね。」
そう言って、恋人はほくそ笑んだ。なにか企んでいるんだろうな、と少年は思った。
夏の日射し(6)2002-09-07/ komedokoro