アスカに続きカヲルが駅舎から現れた時、哀れなシンジの鼓動は止りそうだった。
よりによって、プレイボーイとの噂名高い3年生の渚カヲルだ。カオルさんの弟とは 言っても、アスカが付き合っているのが・・・あの人だったら、僕なんかかないっこ ない。かないっこないじゃないか。
顔を寄せ合って何かをしきりと話している2人。美しい横顔が2つ並んでいて、金色 と薄い茶色の髪が2人の周囲をより際立たせる。

君の付き合ってる奴って・・・君の好きな人って・・・カヲルさんだったの?

アスカとカヲルは並んで歩き出した。どうやら家まで送っていくらしい。
あそこは僕の位置だ。アスカがそこに他の男をいれるなんて。怒り、悲しみとも違う、 暗い、ネバネバする思いに、気が変になりそうだった。自分でも嫌になる醜い想い。
そしてこれが嫉妬と言う感情なのだと言う事に、シンジは直ぐに気づいたのだった。

夏の日射し 5

こめどころ

 街灯の灯りが木々の間から差し込み、道に微妙な斑紋を描きながら揺れている。
街路樹は8種類の木が組み合わせられてその街路をそれぞれ魅惑的に演出している のだ。街灯も非常に高い位置のもの、通常の電信柱くらいのもの、低いもの、道自 体に、まるで星の海のように様々な色で埋め込まれているものと、種々ある。
それをさらに間接と直接の照明が効果的に演出している。坂の上から流れて来た水 が、歩道のような石段の上に音を立て、瀬になり淵になり流れていく。

「静かでいい街だね。街路樹も多いし、ちょっとした森のようだ。」

「いつも見なれてるから、そう良くも思えないですけどね。」

苦笑しながらアスカがかえす。この街は車がスピードを出せないように、ゆっくりと 道が蛇行し、ところどころ、僅かな階段が道を半分程塞いでいる。車用のまっすぐな 道は、住人が持っているカードによって開くゲートで塞がれている為、他所の車は入 って来れないようになっている。蛇行した道は木々が美しく配置され、ちょっとした 遊歩道か公園のようだ。その木の影が銀色の月の光を受け長く伸びている。色の薄い、 昔の写真のような夜の景色。お互いの家も微妙に角度や高さが付けられていてプライ バシーには大変配慮されているのだ。庭に出てパンツ一丁で水やりをしても、大抵全 く問題がない。普通の住宅団地は庭に出るのにいちいちちゃんとした格好に着替えな ければならない。これでは庭のある意味がない、という発想で作られたのだ。

「成る程なあ・・・全くこういう風に作ればいいんだよね。」

カヲルは一人納得し、ふんふんと頷いている。

「カヲルさんて、こういう事に興味があるんですか?」

「建築学に興味があるんだよ。こういう住宅地は昔一度はやったらしいんだが、地価 が高騰した際に返り見られなくなってしまったらしいよ。無駄と言えば無駄が多いか らね。公園より一軒でも多く家を立てたほうが、そりゃあ儲かるからね。」

「へんなの。それこそ長期的に見れば、こういう住宅街の環境や設備への投資が地価 を周囲より高く維持することに役立つのに。誰だってごみごみした所にある家とここ とを比べて同じ家があるならこっちに住むと思うけどな。ここの欠点は駅まで15分、 歩かなきゃいけないって事よね。でも普通の生活をしてる限りはバスも一杯あるし。」

「アスカ君は利発だね。そんな人が直感で物を語ったほうがよほど確かな時がある。」

「そ、そうかな。素人考えなんですけど。じゃあ大学もそっちの方へ進むんですか?」

「うん、そのつもりだよ。」

「へえ、もうしっかり決まってるんだ・・・あたしってだめだな。何がやりたいかっ てきかれて、何も応えられなくて詰まっちゃって・・・」

「2年生の夏休みなんてそんなもんだよ。」

・・・シンジはどうなんだろう。何か考えてるのかな。今度きいてみようかな。

まさかそのシンジがすぐ後ろから付いて来ているとは思いもしない。そのシンジは アスカがカヲルと言葉を交わす度にハラハラし嫉妬に身を焦がす情けないシンジだ。
この道は人をつけるには便利な道。隠れ場所には事欠かない。
そのシンジがどきんとする。アスカがカヲルの手を引くようにして雑木林に入った からだ。こんな夜中にと腹を立て素早く駆け寄ってつける。自分達もしょっちゅう 通っている道だけど、でも自分と知らない奴とじゃ条件が違う。

あの林を抜けると萩の群生している野原が広がっている。そこを抜けるとアスカの 家のすぐ近くだ。

「あ、こっちから行くとすぐ近くに出るんですよ。」

「へえ、こんな所抜けていくの。真っ暗じゃないか。シンジ君が心配する訳だ。」

「シンジと一緒じゃなきゃ通りませんよ。」

「随分たよりにされてるんだね、シンジ君は。」

「頼りい?そんなのになんか、なるのかしら。まあ、サイレンの代わりくらいには なるかもねー。」

未だに夜にここを通るのは本当は怖い。でもシンジの前で弱いとこを見せたくない と言う気持ちがいつもアスカに足をここに向けさせる。シンジは後ろにぴったりと 付いて歩く。場所によっては手も繋いでくれる。でも今日は暗いとこでも怖くない ところをちょっと自慢したいだけ?だよね。林の向こう側にある児童遊園の灯りが 差し込んで来るから目が慣れればそんなに真っ暗ではない。アッ、と思った時には 木の根にけつまずいていた。

「あっ!」

ぐいっと手を引っ張られた。そこを中心にしてぐるっと身体が回転したと思ったら、 カヲルの片腕の中に抱きかかえられていた。斜になったままの身体のバランスを取り 戻そうと、ばたばたと羽ばたくような格好でもがく。

「ちゃんと下も見ないとね。」

「はいっ! すみませんっ。もう、今日はなんか謝ってばかりだわっ。」

ああ、そう言えば前にもここで転びかけた事があったな。

「ああ、またあそこで転んで、アスカの馬鹿。」

5、6m後ろでシンジも呟いた。カヲルがスマートに助け上げたのを悔しいと思う。
自分が助けた時は、2人で重なり、アスカを抱きかかえるように尻餅をついたのだ。
強か打ち付けて痛い思いをしてるのに、アスカは「もっと上手に助けなさいよねっ」 とか言い放つとさっさと行ってしまったんだっけ。

「細いんだね。」

「え?」

「アスカ君は、歩いているのを見ていると大きく感じるけど、こうやって抱き締め ると、ほんとうに軽くて細い。繊細なのはどうやら心だけではないようだね。」

温かいアスカの身体が自分の腕の中に転がり込んで来た途端、その肌を薄い制服の 下に感じ、アスカの驚いた顔が、すぐ頬を寄せられる程近くにある。
カヲルは思わず少女を抱き締めてしまっていた。激情とも言っていいような込み上 げる思いは初めてで、カヲル自身も戸惑ってしまうような激しい衝動だった。

「・・・あ、あのっ。カヲルさん?」

「君の寝顔を今日は3回見てる。電車で一回、ホテルで一回、帰りの電車で一回。」

カーッと自分の顔が上気したのがわかった。
頭の後ろがジーンと痺れたような気がして、自分が初めての経験にのぼせているのを 意識した。

「そ、そんなの悪趣味ですっ。たとえ見たって女の子にそんな事を言うべきじゃ ありません。」

「それはそうなんだけど。」

脇に手を回したままカヲルが中腰にしゃがんだので、まだバランスの取れていない アスカは、カヲルにしがみついた格好のまま、足と胸に挟まれたような形になって しまう。何時の間にかカヲルの手は頭の後ろにあった。不安定な格好にされて少女 は思わずさらにしがみつく腕に力を込めてしまう。カヲルはその事でアスカも応じて くれているのだと、さらに次のステップにと背を押されてしまう。

「まだ・・・少し髪が湿ってるね。」

「ドライヤーを・・・急いでたから余りかけてる暇がなくて。」

児童公園から差し込む光の中にカヲルの顔が浮ぶ。綺麗な人、とアスカは思った。

「君は、可愛い人だ。シンジ君とは何か約束してるの?」

「約束? やくそくって・・・」

「だから、好きだって確認しあったとか、唇を交わしあったとかそういうことさ。」

アスカは何か、自分がうわごとを言っているような気持ちだった。実際その時の少女 の表情は恥ずかし気で、それでいて瞳も唇も誘うような潤いに満ちていた。
アスカ自身、このままカヲルさんのものになってしまうのかという気持ちをどこかに もっていた。その気持ちが急速に膨れ上がって他の心をどんどん押し退けていく。
自分の唇が誰かをを求めているように、自分の精神も誰かを求めていると思う。それ が、もしかしたらこの人なのかな、と思ってしまう。そう思うと増々顔が熱くなって しまう。
怖いとも思うし、反面うっとりとしている自分もいた。

「シンちゃんは・・・シンちゃんは何も言ってくれないもの。」

「じゃあ・・・いい?」

・・・どうすればいいんだろう。

震えるカヲルの声。カヲルの目が近付いて、アスカはそれにつれ目蓋を閉じかける。
その唇を受けそうになって・・・長い睫が頬に影を落としていく。
そう言う気持ちが確かにあって、そういう幻を確かに見ていたのだった。

・・・自分が怖くて逃げた癖に!

何処からか厳しい声がした。

・・・どきどきしながら逃げ出した癖に!
・・・今の言葉は自分への言い訳と、目の前の美しい男へのさもしい媚態だわ!

ほんとにいいのっ!

とっさにアスカの理性が叫んだ。はっと目が開いた。
意外な程冷静な、きっぱりした声が出せた。

「駄目っ。 離して、カヲルさんっ。」

カヲルも、はっとしたように手を緩めた。そのまま立ち上がるとアスカを手放した。
少年の方もかなり衝動に突き動かされていたのだ。自分のしていたことに赤面する。

「・・・ごめんよ。僕は一体何をしてたんだ。」

「転んだのを助けてくれたんですよ。行きましょ、もうすぐだから。」

殊更何気ないふうにアスカは言い、笑顔を先輩に向ける。
それで気まずい雰囲気にならずに済み、2人はほっとする。

 とっさに飛び出そうかと身構えていたシンジも動き出した。この哀れな少年は、彼 の思いを寄せている少女が抱き締められていても、それが喜んで抱き締めさせている のか、無理に抱き締められているのか、全く判断が付かなかった。目を伏せてしまっ たのでキスしたかどうかも分からなかった。多分あの状況からして、熱いキスが交わ されたんだろうと思い込んでしまった。そんな所を見たくなかったのだ。それにもし 好きあった2人がそうしている所に自分が飛び出していったら、余りにも自分が惨め になってしまうという怖れも少年の判断を狂わせてしまったのだ。頭の中でアスカが 他所の男に唇を許している場面が渦を巻いた。苦しい。苦しくてどうにかなってしま いそうだった。
それは、実際アスカの方にしたところで、最後に拒みはしたものの、そこまでの自分 は、本当にカヲルの事を拒絶していたのかと言えば、途中までは決してそうではなか ったわけで、自分自身の心を推し量りかねていた。
カヲルにしても、自分のとった今の行動は不可解なもので、可愛いとしか思っていな かった筈の後輩の娘に対しての行動が、自分の仕業とも思えないでいた。

ほどなく萩の野原に出た。ざわざわと夜風に揺らめく萩の群生。珍しい早生種の萩で 8月中咲き誇るこの萩は、気の特に早い株が、既にちらほらと咲き始めていた。それ がまるで、波打つような萩野原の中に浮んだ船の灯りのように揉まれている。美しい けれど儚くて、儚いけれど消える事もない。続けてやってくる仲間達の道標のように そこに踏み止まって輝いている小さな萩の花。1週間もすればここは文字どおり白萩 の花の海と化して、こんな風の日には花の海が逆巻く事になる。この中の道を花だら けになって花に包まれて歩くのがシンジとアスカの毎年の習慣だった。

「そう言えばそれだって、シンジと約束している事のひとつかもしれない。」

「何か言ったかい。」

カヲルが振り返った。この人は自分の思った事をあたしにはっきり伝えてくれた。
でもシンジは? あたしが言わせなかったんだけど、それは今日の話だ。いったい 今まで何年間一緒に居たと言うの? でもそれはあたしも同じ事だしシンジの事を そう言う目で見てたかどうか、と言われれば、シンジの今日起こした行動に触発さ れたから。その上その日のうちにカヲルさんの誘いに乗ってキスまでしそうになっ てるし、考えたら一緒にホテルの一室にまで入って。なんかあたしって、物凄く、 ふしだらな娘なんじゃないだろうか。ずっと、シンジの言葉に動揺してるの?

「ううん、なにも。」

ガレージのシャッターをがらがらと開け、中から赤い自転車をを引っ張り出した。
車がないところをみると、母は仕事から戻っていないらしい。何故かほっとする。

「この自転車です。」

「大きな自転車だね。27インチのサイクリング車じゃないか。」

「中学は附属鹿ノ子島中だったから自転車だったの。これは3年の時買った奴よ。 あたしのは赤でシンジのは黒いやつ。サドルを低くして無理に乗ってたわ。今工具 出しますからサドルを上げて下さい。そうすればカヲルさんも漕ぎやすいから。」

レンチで緩めサドルをギリギリまであげる。カヲルが跨がってみるとぴったりだ。

「うん、ちょうどいい。じゃあ、有り難く借りていくよ。」

「はい、たまに乗ってもらえれば自転車も喜びますから。」

「それじゃ。今日は楽しかった・・・また。」

応じて、また、と答えていいものかどうか分からなかったのでただ頷いた。
もう一度地図を確認する。手を振りながらカヲルは坂の向こうに消えていった。
少々迷っても30分もあれば着くだろう。
暫く見送った後、再びシャッターをがらがらと閉めると振り返った。
そこに、真っ黒な影になって少年が立っていた。
びくっと身体を震わせた後、誰かがわかって力が抜けた。

「あ、ああびっくりした。何よ、シンジじゃない。どこにいたのよ。」

「君こそ! 連絡も入れないで遅くなって、叔母さん心配してたよ。」

「えっ、ママ帰ってたの?」

時計を見るともう9時だった。随分のんびり歩いていたらしい。その事もシンジに とっては余り愉快な事ではなかった。自分がゆっくり歩こうと思っていても大抵は お腹が空いてるんだから早く歩いてなどと、ロマンの欠片もないのだ。

「不用意だよ。デートならデートって、遅くなる事言っておかなくちゃ。」

「変な事言わないでよ。誰もデートなんかしてない。今学校から帰って来たところ じゃない。少し寄り道をしただけよ。」

「僕と別れた後から今まで寄り道? 嘘付くなよ。今何時だと思ってるの!」

バン!と乱暴にアスカの頭の両側のシャッターに手を突いた。アスカの髪は湿って いて、シャンプーの香りがした。問いつめる声が震える程、いやらしい妄想が脳裏 に浮んでしまう。もしかしたら、もうアスカは・・・そう思うと堪らなくなって、 とうとう口にしてしまう。

「寄り道すると、シャンプーの香りがして、髪が濡れる訳。」

「・・・何が言いたいのよ。」

「さっきだって、抱き合って・・・キスしてたじゃないか。」

シンジのいつもの輝いている目が、暗く沈んでいる。

「 ! 覗き見、してたの。」

シンジは何も応えないで、そのままじっとアスカを見つめている。嫌な目で。
何故自分がそんな目でアスカを見なければならないのか、悔しくて涙が出そうに なるのだった。だがこの自分の情けない気持ちがアスカに分かるはずもない。
そう思うとシンジは増々辛いのだった。

「最低! そこどいてよっ。」

「いやだ。どかない。僕はアスカをこのままあいつになんかやらないっ。」

「カヲルさんは関係無いって言ってるでしょっ!」

「そう、やっぱりカヲルさんなんだ。」

「違うってばっ、うんっ!」

アスカは自分が抱きすくめられた事に気づいて慌てる。

「きゃっ! い、いや・・だっ・・・」

びくりとも動けない。シンジがこんなに強くなっていた事に初めて気づく。

「離さない。離すもんかっ。アスカは、アスカは僕のアスカだ。誰にもっ。」

「馬鹿っ。嫌だってばっ。あたしが誰のもんだっていうのよっ! 離せっ!」

思いきりシンジの顔に手を突いて、押し退ける。だがその手はシンジの顔に 強引に振払われた。

「あたしはあたしのもんよ、誰のもんでもないわっ!」

「あいつとはキスしてた癖に。しがみついてた癖にッ。」

「キスなんかしてないって!ほんとよっ。」

「きょ・・・今日は、ってこと。」

「今までも今日もない。あんたがそんな奴ならこれからは分からないけど。」

「それってどう言う意味さっ。」

「知らないわよっ!」

「待てよ。僕がアッちゃんを責めると、何故これからはキスするのさ。」

「自分で考えなさいよ!」

何時の間にかアスカが泣いているのに気づいた。それでシンジは酷く狼狽える。
何か泣かすような事をしただろうか。泣きたいのはこっちなのに、と。

「貴方の事、せっかく思い出したとおもったのに・・・」

涙を流しながら、次はもう一度怖い顔でどなった。

「折角、あんたのこと、思い出したのにっ!」

その時2人を強い光が包んだ。パパッとクラクションが鳴る。シンジが手を離すと、 アスカはさっと後ろを向いて俯いて顔を拭う。アスカの母親の車だった。
ガ−ーとシャッターが自動で開いていく。2人は身体を避けた。トレノレッドの、 赤いシトロエンがガレージに入っていく。アスカの母の華やかな巻き毛の金髪が笑っ ている。
バタム!降り立つと面白そうな顏が2人を見ていた。バツが悪いと言ったら無い。
家の目の前でわめき散らすような痴話げんかをして泣いたり怒ったりしている現場を 押さえられてしまったのだ。

「貴女達も随分大人になったものねえ。うん?シンジ君、アスカ?」

「そ、そんなんじゃありません。」

「そうよ。関係ないわよ。こいつと色恋沙汰なんて。」

「こっちこそっ!」

「ぬぁーんですってぇっ!」

たちまち角を突き合わせたような喧嘩が再開される。

「やめなさいっ!」

聞き覚えがあり過ぎる声。何時の間に、まさか・・というように2人は竦んだまま そちらを見た。シンジの母親であるユイが立っていた。
相当怒っているらしい・・・いや、間違いない。2人は震え上がった。

「貴女達の事は後。先ずアスカちゃん、こんな遅くまで、連絡も入れないで一体、 何処をほっつきあるいていたの? 先ずお母さまに謝るのが先でしょ。」

「ハ、ハイ・・・遅くなってすみませんでした。楽しくて電話をかけるのを忘れて いました。さっきシンちゃんに電話くらいかけろって怒られて、それでやっと思い 出したくらいだったの。ごめんなさい、ママ。」

俯いたまま詫びを入れる。きっと酷く怒られるだろうな、なんて言い訳しようか。
本当の事を言おうか。でもここで問いつめられたらシンジに何があったのか全部 きかれてしまう。それだけは避けたいのだった。強気には出たもののアスカの胸は ろうそくの頼り無い炎のように揺れ動き、時には風に拭かれたように消え掛かる。
もし聞かれたら、これから先シンジにどうやって顔をあわせればいいのか。
ママと2人になってから、と思う。相談・・してみようかな。

「貴女にしては珍しいわね、こういうことは。心配はした。たしかにね。でも考えた ら今日はたまたまうちにいたから大騒ぎしたけど、普通だったらまだ家に帰って無い 時間よ。あたしに怒る権利なんて無いわよね。ほったらかしの親だもん。そういうの は親って言えないわよね。スポンサーってだけだわ。」

豪奢な金髪をバサッと振りながらアスカの母親-キョウコ、はそう言った。
彼女にしてみれば、怒って、心配して捜しまわってくたくたになった挙げ句の自嘲の ようなものであったが、彼女の娘はそうは取らなかった。彼女の心も又混乱の極にあ った。シンジとカヲル、この2人の事で。それを相談したいと、無意識のうちにも、 少女はやはり母親に依存していたのだ。そんな時にこの台詞をきいてしまったのだ。

「え・・?」

「帰って来たならよし! まだ我が娘はあたしのことを飼い主としてだけは、認めて くれてるようだし、お目当ての御飯にしましょうか。いきましょ。あ、そうだ、ユイ とシンジ君も一緒にどう?引っ張り出しちゃったし、晩御飯まだなんでしょ?」

「ママ・・・ひどい。」

アスカはそう言い2、3歩後ずさった。そして踵をかえすと坂を駆け下っていった。
すぐに後をシンジが追った。ユイが怒鳴った。

「ぜったいつかまえて! うちに連れていってもいいからッ!」

「え、ええっ?な、何で。」

呆然としているキョウコ。大人しくて分別のあるいつも聞き分けの良いアスカの事を、 初めて理解できないと思ったのだ。

「しからなかったのに・・・あたし何か悪い事言った?」

「キョウコ。貴女とは子供挟んで長い付き合いだけど、今の台詞は13年間で最悪ね。
アーちゃんがあんなに不安そうにしてる時に突き放すような事を言うのはまずいわ。
あれじゃあ、もう親でも娘でも無いって、宣言したのと同じことよ。」

言われてみて初めてその事に気づく。許しの言葉のつもりだったのに。
しかってから、遅くなった理由をゆっくり聞いてやるべきだったのだ。あの子がただ 遅くまで家に帰って来ない訳は無いのだから。そういえば今日はシンジ君と一緒に帰 っていなかった。もっと早く気づくべきだったのだ。

「ユ、ユイ...私、どうしよう。」

「大丈夫。シンジがきっと連れ帰るわ。」

「でも、さっきまで喧嘩してたみたいだったし。」

「何とかなります。いざとなれば。2人は元気でいい子に育ってるんだから。」

「もしあの子に嫌われたら、わたし・・・」

「大丈夫よ。貴女は頑張って来たじゃないの。アーちゃんが大人になるまで、もう ひと踏ん張りよ。いつも言ってたじゃ無い。あたしのようないい女に育てるのが夢 なんだって。連絡を待ちましょ。」

シンジは萩の野原でアスカに追い付いた。中天の月が走り続けるアスカを銀色に照 らし出す。手を伸ばす。だがもう少しで追い付かない。手の影はもうアスカの背中 に映っているのに。昔みたいに髪の毛を引っ張ってしまえれば簡単なのに、それが もうできないのがもどかしかった。身体にもう少しで届かないのだ。
何で逃げるんだ。何故僕につかまってくれないんだ。そんな気持ち。
もうちょっと。もう少し・・・思わず大声で呼びかけた。

「アスカ、待ってッ!」

「いやっ!シンジもママも嫌いっ、大ッきらーいっ!」

泣き声のような悲鳴のようなアスカの声。瞬間、制服の襟に手が届いた。
ぐっと引っ張るとがくんとスピードが落ち、シンジの腕の中にアスカの身体が突っ 込んで来た。ガシン!2人の身体は激しく衝突し、2人は弾き飛ばされた。
アスカの後頭部がもろにシンジの顔面にヒットした。シンジは仰け反って倒れた。
突き飛ばされた形になったアスカも、つんのめって萩の花叢に倒れた。

「あっ、痛・・・ぅ。」

本当に今日は厄日なんじゃ無いだろうか。逃げたり、妬いたり、デートしたり・・
おまけに最後は全力疾走の追いかけっこだ。目をあげる。自分の周りが真っ白な萩 の花に包まれている。特に気の早い早生の株に突っ込んだらしかった。一旦首を上 げたが、その花の群れを見て気が抜けたようにまたぱったりと首を戻した。小さい 頃から見なれたこの花。花の鞭にしたり削ぎ取った花弁をまきちらしたり、糸を通 して遊んだものだ。そんな古風な遊びもユイママが教えてくれたんだった。糸に花 びらが次々と並んでいくのが嬉しかった。ひとつひとつ、またひとつひとつ。
そうやって作った飾り花をいやがるシンジに無理やりかけて。あの頃からあいつは あたしの命令には絶対服従だったのよ。そんな事が今さら何故嬉しいんだろうか。
大体今喧嘩の最中じゃ無かったのか。手を伸ばす。そうして白い花弁を摘んだ。

「あーーーあ。相変わらず足が早いね。」

どさっとアスカの横にシンジが転がり込んで来た。ぴったりした黒のTシャツ姿だ から、いつもと違った感じがする。仰向けに寝転がって空を見ている男の子。こん なにこいつって大きかったっけなあ。とアスカは思い、さっきまで喧嘩してたのに もうなんだかどうでも良くなってしまっていた。

「何か、追っかけてたらもうどうでもいいやって感じになっちゃったなあ。」

アスカが感じた通りの事をシンジが呟いたので、アスカは、ああ、と息をついた。
自分達はまだ殆ど離れた所にはいないと思えたのだ。
そうだ、妬く事とアスカを好きだと言う事とは全く違うことなんだ。シンジはそう 思って、何かとても気が楽になった。

「あたし達の喧嘩ってさ、いっつもそうだね。うやむやになっちゃうの。」

「アスカに謝られた事なんか一度も無いかもね。」

「ひどい、あたしだって謝った事くらい・・・えーと。」

「ほら、覚えが無い癖に。」

「あるわよ。シンジが凄く怒っちゃって、あたしがおろおろしながら謝った事が あったの憶えてるもの。そうしたら・・・あれ?おかしいな。」

「なに?」

「あなたが、ユイママにひっぱたかれたの・・・そんなことあったかなあ。」

「憶えて無いなあ。でも母さんに叩かれたなんて、1回か2回だったと思うよ。」

「あたし・・ママが欲しかったな。普通のママが。こんな時訳も聞かずにひっぱたく ような普通のママが欲しかったな。」

「アスカ・・・」

「うちのママはね、パパに負けたく無いの。だから一生懸命働いてる。あたしを立派 に育てあげられたらパパに勝った事になるんだって。何でそんなにいじ張るんだろ。 ごめんとか、間違ってたとか言えない性格なのよね。そんなんじゃ、一番大切な人を 失っても失うまで分からないんじゃないかと思う。離婚になってからもパパは何回も 尋ねて来てくれて、やり直そうって何回も言ってたわ。でもだめだったの。」

手を伸ばして、また一つ二つ萩の花を摘む。それをシンジの胸の上に並べる。

「だから、ママに取ってあたしは寂しい時に癒してくれる存在でしか無いの。寂しい 人が、金魚とか飼うのと同じ。あたしはずっとママの金魚だったのよ。それでもいい と思ってた。少なくともそれでもママはあたしの事愛してくれてるんだし。」

「そんな寂しい事言うなよ。アスカのママは君の事を金魚だなんて思ってないよ。只 言い方を間違えただけで。電話して来た時泣きそうな声だったよ。それに・・うちの 母さんもいるじゃないか。余り役に立たないけど、僕だって。」

「そうよね、あたしなんでも決めつけちゃう癖があるからな。それで失敗ばかりして るのに。なかなか癖って治らないのよね。
・・・シンちゃん、今日、あたしに何か言いたい事があったんでしょ。」

どきん!とシンジの胸が跳ね上がった。頭の下で組んでいた手を解いて、アスカの方 に半身を向けた。アスカは片方の腕を枕にして伏したまま、片手だけを動かしてまた 萩の花を摘んだ。そのあとそれをくるくると弄びながら、シンジを見上げている。
いつもシンジの傍にいた目が今日もそこにあった。白い月の光の中の青い目。

「何んだよ、やぶからぼうに。」

「今だったら、あたし逃げないよ。聞いてあげる、どんなことでも。日射しも無いし、 静かだよ。2人っきりだし、誰も来ない。ねえ、話して。」

「そんな、急に言われても・・・」

さっきまでシンジはアスカの不実を詰(なじ)るつもりでいたのだ。アスカの方も、 シンジが思った通りなのだと思い込んでしまう程、頑(かたくな)だった。だが今は 少年がどぎまぎしてしまうほど柔らかく優しい目で、じっと見つめている。
アスカは一体どうしたんだろう、今まで僕が知っていた何割かは男の子みたいな奴と はまるで違う。まるで僕を翻弄するのが楽しいみたいだ。シンジはそう思って、少し 悔しい気さえした。

・・・でも、こんな目で見つめられたら、断われっこないじゃないか。ずるいよ。

シンジはアスカがもう他の男のものになっていて、自分との事は関係ないと思ってい るじゃないかという、妄想とも怖れともつかない思いが朝霜の様に消えて行ってしま ったのを感じ、我が身の身勝手さに頭を抱えそうになった。

「男の子がじたばたしないの。いいわ、言ってくれるまであたし待っててあげる。」

 結局大分道に迷い、カヲルが家についたのは30分の予定を2倍も上回っていた。
欅の大木に周囲を囲まれた渚家。門を潜ると姉の小さな黄色のスクーターがガレージの まん中に停められている。ざわざわと大きな音を立てて欅の影が大きく揺れている。
庭のあちこちに、小枝ごと折れて落ちた葉が幾つも転がっている。
自転車をその横にとめていると、人の気配に気がついたのか台所口が開いた。

「カヲル?あんたなの?」

「そうだよ姉さん、遅くなってごめん。あつみ台で降りてしまったので友達に自転 車を貸してもらって帰ってきたんだ。」

「あつみ台で? また海から回って来たのね。一人で泳ぐのは危ないからって・・」

何かあった時、一人で泳いでいたら危険だからやめろというのがいつも姉の意見。
台所口に靴を脱ぎ、そのまま室内に入る。ソファにテキストを投げ込むと、反対側 に腰を降ろす。姉はどうやら夕食を温め直しているらしい。僅かな罪悪感。

「だから今日は2人で出かけたよ。水泳部の奴と。」

「ああ、それならいいんだけど。」

カオルは、Tシャツを着て、その上に肩から吊るしただけの、ラフな木綿の様な 黒と灰色の服を着ている。その細いシルエットは、カヲルが幼い頃から見て来た 自分の影だ。

「風呂湧いてる?」

「ええ、熱いうちに入ってくれるかな。あたしは今日から入れないから。」

「また生理?相変わらず不順だね。一度ちゃんとした医者に見てもらったほうが、 いいんじゃ無い?」

「ナマ言って無いの。入ろうとしてたら始っちゃってイライラしてんのよ。」

「僕に当たらないでくれよ、おネエ。」

おどけてそう言いながら浴室のドアを開けた。ズボンとカッターを脱ぐ。
ちょっと迷ってから洗濯機に全部を投げ入れた。ざばざばと湯を浴びる音がして、 ほどなく鼻歌が聞こえて来た。カオルは手早く温め直した菜を居間の机に出すと 浴室に入ってカヲルが脱ぎ捨てた洗濯機の中の物を分別する。脱ぎ散らかして、 そのままにする癖が抜けないカヲルに、とにかく脱いだものはここに全部入れろ と命じて、後で色物や何かを分ける事にしていた。鼻歌はいつもに増して抑揚が あり、どうやらお得意の指揮の真似までついているようだ。
外は増々風が強くなり、ごおっという唸りに家が細かく振動している。

「今日は随分機嫌がいいのねぇ。」

「姉さん、今日はいい事があったんだ。」

「あら、何なの?貴方がそんなに浮かれてるなんて。」

「それは内緒さ。」

ポケットを裏返す。紙屑が入っている。反対側からは小さな使い捨て電子カメラ まで。小さい頃色々なものを詰め込んで帰ってくるカヲルのポケットを返して、 たまに悲鳴なんかを上げながら、弟のポケットを探る母さんはいつも何処か楽し そうだった。

・・・こういうことだったのね、母さん。

微笑んでカメラに映っているものを見る。一瞬、顔が曇った。そこに写っている のは、真っ赤なセパレートの水着を着たアスカと、さかな達だった。そして最後 に写っているのはしどけなくベッドに横たわっているアスカのアップシーン。
髪が乱れ、顔が上気し、まるで情交の後のような写真だった。

・・・うそ。きっと水着が写ってないだけよね。そうよね。

はっとして紙屑の方を見る。くしゃくしゃに丸められたリゾートホテルの領収書 があった。利用者人数2のキングサイズべッドルーム。カオルの顔から血の気が 引いた。シンジの顔が浮かんで、手のひらを握りしめた。

夏の日射し(5)2002 summer/ komedokoro

Author: こめどころさん
初出: 2002/08/24
再掲載: 2005/10/31