アスカは溜息をついた。唯一の相手が寝てしまったら、電車の中で一人ぼっちだ。
シンジと一緒だったら、きっと喜んで走り回ってみせただろうに。
はしゃぎ過ぎて、シンジにしかられたかも知れない。でも、今日はひとりぼっちだ。
一人は嫌だ。
一人じゃ何もできないもの。
シンちゃんの馬鹿・・・あたしの・・・・馬鹿。
こめどころ
明るい日射しの中を、喜んで駆け回っているのは、あたし?
砂浜が広がっている。
・・・ああ、これはずっと前にパパとママと3人で海へ来た時の記憶だ。
3年生か4年生だったかな。あの年から、家族で出かけた事はない。
夏休みが終るとパパは忙しくて遠くの町に仕事でいってしまって、家には帰って
来れなくなった。いつか仕事が終ったら家に戻って来るといっていたのに、パパ
は帰って来ない。
本当は離婚してたんだって、気が付いたのは何年かしてからだった。
その頃には、そう知っても、ああ、そうなのかとしか思えなかった。でも離婚して
からママも仕事に行くようになったから、あたしは家で一人だけになった。町には
友達がいなかった。幼稚園の頃の友達なんて今さら遊べる訳がない。
だから、あたしはシンちゃんのママと遊んでもらった。お料理や、お裁縫を教えて
もらった。あたしのママは何も言わなかったけど、ある時シンジのママと一緒に作
った小さな怪獣のマスコット人形をあげたことがあった。ママはとても喜んでくれ
た。あたしも幸せだった。
「それでねー、母さん聞いてよ、近所の奥さんと遊んでくるのはいいんだけど裁縫 とか、料理とか教えられてくるのよ。この間も貧乏臭い人形を作って来て、あげる って言って、渡してくるのよアスカが。勘弁して欲しいのよねー、会社であんなの 見られたら『家庭的なんですねー』って皮肉言われちゃうわ。キャリアウーマンも ここまでか〜ってな感じよね。」
深夜のおばあちゃんとの電話。目なんか永久に覚めなければ良かったのよ。
その人形を少女はゴミの袋の中で見つけた。
綺麗に洗ったけどどうしても生ゴミの匂いが消えないような気がした。怪獣の人形。
一緒に作った御人形はシンジのパパのキーホルダーに未だに掛かっている。
・・・赤いゴジラ、あたしのは何処にやったっけ。
・・・もうずっとずっと何年も前の話だから憶えてないわ。
頬に冷たい感触があって、アスカは悲鳴を上げて飛び起きた。
「わきゃうっ!」
「面白い悲鳴だね。実にユニークだ。」
「えと、あ、あたし眠ってたっ?!」
「ウーン。15分くらいかな〜。可愛い寝顔だったよ。アスカ君。」
まじった。不覚。何か変な事言わなかったでしょうね、あたし。
事態を把握しようと急速回転するアスカの脳細胞。
「いっ、今のなんなんです?」
「これさ。」
カヲルさんの手にぶら下げられた冷凍ミカンの網袋。まだこんなもの売ってるんだ。
その上、旅行用のお茶まである。
「あの・・・もしかして。」
「ほら、君の分だ。」
その手の上には駅弁が二つあった。そりゃぁ午前中授業でまだ昼食をとっていない から、お腹は空いているけど。
「どっちがいいのかな?」
思わず見比べると、『鯛めしと蝦蛄のシンクロ』と『はまぐり姫と牛さん弁当』と 言う、かなりディープなネーミングの弁当だった。アスカは前者を選んだ。 先輩が選んで残った方でいいですって言うべきなのかな、とちらっと思ったが、 そういう事で決断に時間をかけるのは性にあわなかった。謙譲の美徳と、決断力の なさと異性への媚態とを、ごっちゃにするのは嫌だと思う。
・・・はまぐり姫にも興味はあるけどね。多分両方ともカヲルさんが一番美味しい
と思ってるのを選んできてくれたんだろうし。
でも、・・・シンジとだったら両方並べて摘み合いができるのにな。
「その牛肉こっちによこしなさいよ。」
「それはこっちの主菜だよ。じゃそっちのシャコをくれよ。」
「あ−、2匹もとった。5匹しか入ってないのにい!」
「ア−ちゃん、一番大きい肉とったんだよっ!」
「じゃあ、せめてはまぐり一個よこしなさいよ。」
「ええー、はまぐりまで?2つしかないのに・・しょうがないな、ほら。」
「そのかわりさ、鯛飯分けてあげる。ほらほら、半分あげるから。」
「そんなに食べきれないよう。」
「何いってんのよ、男の子でしょっ!このくらい軽い軽いっ。」
駅弁を開きながら思わずニコニコしていたアスカにカヲルがまた声をかける。
「そんなにお腹が空いてた?ホントに嬉しそうな顏してくれるから嬉しいよ。」
・・・そんなに嬉しそうな顏してたかな・・・シンジのこと思い出して。
もぎもぎと、お弁当を並んで食べている。デートにしたって変な感じだ。
カヲルさんてホントに変な人。何か、昔の思い出の中にまで出て来そうな感じ
がする。警戒心を抱かせないような優しい感じ。誰かに似てるんだわ、と思う。
海面のきらきらした照り返しを見ながら、御飯を口に運ぶ。カヲルの食べ方は、
綺麗で上品な感じだった。箸の先の方しか濡れていない。
・・・、シンジのうちで御飯を食べていく事があると、シンジのママはいつも
箸の持ち方とか、椀の持ち方とかに煩かったな。何時の間にかすっかり身に付
いて何も言われなくなったけど、こういう場面で役に立つとは思わなかったな。
「カヲルさんて、京都と所縁がありますか?」
「うちは、もともと京都で長く商売をやっていたらしいよ。今はもう何の関係も
ないけれどね。父の子供の頃にはまだ屋敷が残っていて、やたらに広い板の間とか、
屋根裏部屋の大福帳とか、残ってたらしいや。今はもう全部無くなってしまった。
火事でね・・・」
そうか、とアスカは思う。シンジのママに動きが似てるんだ。
・・・ユイママは京都に実家があるって言っていたものな。
単調な浜辺の景色。松林と砂浜が何処までも続く。前世紀に作られた防波堤など
は全て海中に没してしまったので今は全国何処でも自然海岸が多くなっていると
いう。山の砂防ダム等もあらかた崩壊したので砂の流出が再び始まり、砂浜はどん
どん大きくなっている。本来の自然のままにして、荒れる部分には人間は住まな
い。それで莫大なお金を社会に還元できるとアスカは学校で習った事がある。
又、効率の良い最新鋭の機械を最初から導入するしかなかったのでそれが逆に
単価を押さえ、輸出の競争力を飛躍的に伸ばした。古い機械が海の底になければ
その機械をできるだけ使おうと誰でも考えてしまっただろう。0が良かったのだ。
人口が前世紀よりかなり減リ、人間を大事にしなければたちどころに会社から人
がいなくなってしまうからこそ、できたことだったのも確かだ。
一旦行政が破たんしていた間に支出構造が実勢を元にしたものに改まったせいも
ある。さらに地方自治を余儀無くされ、その間にしっかりとした地方組織ができ
たせいもある。ひどい災害だったようだけれど、それをてこにして世の中は変わ
ったのだ。人間は逞しい。
そんな事を一度考えてから次に自分を鑑みた時、自分の卑小さにため息がでる。
小さな事から逃れられず、うじうじ悩んだり怒ったりしている。今日だって。
・・・ようするにあたしは、シンジから逃げ出した挙げ句に変な嫉妬をして、
面当てに良く知らない男の子と旅に出て同じ電車に乗り駅弁を食べているのだ。
海はあんなにきらきらしていて、青く美しいのに。海は・・・
突然、アスカはバッと立ち上がった。思い立ったらやらずにいられない娘だ。
「カヲルさん、次の駅で降りて海で泳ぎましょう!あの海で泳がなきゃ水泳部の 名が廃ります!」
「いいけど・・・随分唐突な子だなぁ。それも何かの縁だろうからね。」
海辺に立つと、カヲルはいきなり制服を脱ぎ捨てた。
水泳部独特の立派な逞しいからだが現れて、アスカはさすがにどきどきする。
ポイッと、ズボンを捨てると下には競泳用のパンツをはいていた。
「ちょっと視察してくるよ。コンディションを見ないとねえ。」
この辺は大抵何処でもずっと遠浅の海になっている。300mくらい先まで
いっても、まだ膝くらいしか水がこない。幸い今は大潮ではないから50m
位でカヲルの腰くらいまでの深さになった。そこから少年は泳ぎ始めた。
素晴らしいスピードで波を切ってぐんぐん沖合に進んでいく。見る間に
500mのブイについて、そこによじ登りアスカに向かって手を振った。
アスカが手を振り返すと、カヲルは再び飛び込み、あっという間に戻って来た。
「うん、絶好の海水浴日和だね。温度も温か過ぎず冷た過ぎずで心地いい。」
「じゃあ、早速泳がなくちゃ。」
「だけど・・・何処で着替えるつもりなんだ、アスカちゃんは。」
「あ・・・ああそうかっ・・・、ここは・・・」
そんな事は全く失念して行動を起こしてしまった。やれやれ、あたしって。 きょろきょろと周りを見回すが、この浜には海の家は出ていなかった。浜の 反対側の国道沿いにあるようだった。
「そうか、整備のいい浜だと思ったら、多分ここはそこのリゾートホテルの プライベートビーチなんだよ。ちょっとホテルへいって尋ねてみよう。」
「ホ、ホテル?」
通常の高校生は立派なホテルなどに出向く用事などない。アスカも同様で、 なんとなく気後れする。
「つまみだされたり、しませんか?」
「お客さまは金を落としてくれるんだ。そんな事する訳無いだろう? まあ、しんぱいないよ。」
カヲルは、アスカが畳んでおいたシャツを身体に羽織るとさっさと歩き出した。
残りのシャツとズボン、そしてバックルで縛ったテキストを抱え、自分の鞄を
手にとると、アスカはその後を慌てて追った。
浜辺からの段々を登ってホテルの中庭に出ると、芝生とプールがあり、年輩の人
たちがくつろいでいた。さすがにここでは注目を浴びる。さっそうと髪をなびかせ
ながら先を行くカヲルの後を、学生カバンとシャツとズボンを抱えて付いていく
セーラー服の女の子。しかも県内では有名な付属高校の生徒である。
「君はここで待っていて、いいね。」
「ええ。」
そう言うと、カヲルは縛り上げたテキストの束から小さなバッグを取り出して行っ
てしまった。ホテルの喫茶ラウンジの椅子に腰掛ける。やって来たウエイトレスの
お姉さんが注文を取るついでに気を利かせて紙袋をくれた。礼をいってカヲルの服
をしまう。
ジュースを飲み終らないうちにカヲルはもどって来た。
「時間貸しの部屋を一つ借りたよ。シャワーやバスも付いているからゆっくり できる。泳いだ後で女の子はそのまま帰れないから良かったね。」
「あ、あのっ、借り賃幾らだったんですか、あたしの分、払いますっ。」
「いいのさ。親父のクレジットで支払ったから。」
「でも、高いんでしょう、こういう所。そういう訳には行かないわ。」
「そうだなあ・・・君も気が済まないだろうし。じゃあ、一つ僕のいう事を聞いて くれるって約束してくれたら払わせてあげよう。」
「公序良俗に反しない事ならいいわよ。」
「よし、決定だ。じゃあ5千円貰おう。」
「うっ、5千円ですか・・・・。」
ダラダラと脂汗を流す。お財布の中には四千円しか入っていない。
「あ、あの・・・明日まで貸していただけますか・・・。」
プッとカヲルが噴き出す。だからいいって言ったのにと笑いながら立ち上がった。
「じゃあ、僕との約束を果たしてもらうよ。こっちへおいで。」
ホテルの奥は専門店が並んでいて、その中に有名なブランドの水着がおいてある 店があった。
「ここで水着を選んで。折角プライベートビーチで遊ぶんだ。美しい娘は華麗な 水着を切る義務があると思うよ。」
「で、でもここって・・・上下別れた水着しかないじゃないの!」
「今どき若い娘が学校外ではスクール水着ってことはないだろう?」
「で、でもっ、でもっ!」
今までそんな水着を着た事がない。とんでもない事を約束してしまった。でもお金 を借りている立場では強い事言えないし・・・悩むアスカ、楽しそうに見ている カヲル。
「じゃあ、お姉さん、彼女に似合いそうな水着見繕って。」
「はいはい。これなんか如何でしょうね。色も白いし綺麗な髪だし。目の色も素敵 だし。こんなお嬢様には何を着せてもお似合いですわ〜。」
大喜びの売り子のお姉さん。これだけの美少女の見立てをするなれば力が入る。 結局、真っ赤なセミビキニの水着を選ばされてしまった。つばヒロの畳める白い 帽子と、ビーチサンダルまで。カヲルは浜辺で羽織るアロハみたいなものを。
「ねえねえ、貴方の彼氏かっこいいわねえ、ハンサムだしお金持ちだし。絶対に 逃がしちゃだめよ〜。」
そう言われて『学校の只の先輩です!』と叫びたかったがそういう訳にも行かない。
だが、その台詞はアスカにカヲルのことを異性として意識付けてしまった事は間違い
なかった。生まれて初めて、人目と太陽に曝されるお腹と腰が、カヲルにも見られて
いる事が恥ずかしくて仕方ないが、くねくね歩けばよけいみっともないのがわかって
いたのでしゃきっと胸を張って、意地でも堂々と歩いた。
思わずカヲルは目を見張った。ここら辺で、こういうメンタリティーの子に会えると
は思わなかった。今度はカヲルがエスコートさせて頂くと言う感じでアスカと海岸へ
向かったのだった。鞄からゴムキャップとゴーグルを取り出して身につける、ボート
用の桟橋から、ほぼ完璧な姿勢で海中に飛び込んだ。
プールとは違う青い青い海がアスカの目の前に展開した。真っ白な砂が波に揉まれ、
いったりきたりゆれている。海草が揺らめき、カニが砂地の上をはいまわっている。
小さな魚が砂の上に穴をほって、頭を出したり入れたりしている。細かな魚が目の
前をブルーの集団になって通り過ぎた。夏の間だけ暖海水に乗ってやってくるウミ
スズメの群れ。手を振ってカヲルに教える。何時の間にか手にしている水中カメラ
で、一生懸命その群れを撮ろうとしているカヲル。子供みたいに夢中になっちゃっ
て、おかしな人、と微笑んでしまう。遊びながら流していくと、何時の間にか沖の
ブイにたどり着いていた。ブイに腰を降ろして揺れながら色々な事を話した。
毎日3km4kmを泳ぐ水泳部員にとっては、浜辺までは楽しいくらいの距離。でも
カヲルとアスカではたどり着くまでのタイムがまるで違う。カヲルはまるで水掻き
でもついているかのようにすべるように泳ぐ。アスカも、地区大会で優勝した事も
ある選手だが、中四国大会でベストをだすような選手とはこれだけの差があるのか
と唖然とした。泳ぎのコツを教えられたりして頭をからっぽにして夢中で遊んだ。
こんな事何年ぶりだろう。こんなに楽しかったのも何年ぶりだろう。
うちに帰りたくない程楽しい時間。小さい頃は毎日そうだったのに何時頃から一体
そうでなくなったんだろう。大きくなってしまったからだろうか。シンジのうちか
ら帰りたくなくて泣いて困らせた事も合ったよね。アスカは何年も前のことを少し
ずつ思い出した。
波打ち際でお城を作りたくなった。空に赤味が挿しているのに。夢中で作っていたら
自分のカッターシャツを肩にかけてくれた。
「肩が焼けると痛いからね。夕方の紫外線はきついから。」
学校のプールと波打ち際ではやはり紫外線の量が随分違うらしい。
「もっと早く気が付いてればUVガードを買ってあげられたんだけどごめんよ。 姉さんにいつもいわれてるのに、こんな時は気が付かないなんて僕もまだまだだね。」
「私も・・・忘れてましたし。」
小さな声で応えた、女の子らしく。それから1時間程遊んで2人は部屋に戻った。
こんな扱われ方をされたら、だれだって女の子らしく振る舞わなければならなくなっ
てしまう。そんな事だけでも女の子は嬉しいんだなと自分が吃驚するような事を思う。
「僕が先に浴びさせてもらうよ。女の子がバスを使っている時に部屋にいる訳に行か ないからね。」
「それもお姉さんの躾ですか?」
ちょっと軽口を叩いた。カヲルは『まあねぇ。』と頭を掻きながら浴室に入った。
「ああ−、良く遊んだなあ。」
部屋には大きなベッドがひとつ。そこで思いきり伸びをしてからごろんとうつ伏せに
なった。ホテルの気遣いか、大きなタオルでベッドは覆われていて、濡れた身体や、
砂を気にしなくていい。電車を降りる時ウザウザしていた気持ちは綺麗になくなった。
きっと青い色の中に溶けてしまったんだね。カヲルさんのおかげだな。こんなにいい
人だなんて知らなかった。これからもお友達でいてくれるかな。
カヲルがズボンをはいて浴室から出て来たのはそれから10分足らずしてからだった。
カッターはアスカに貸したままだったのをすっかり忘れていた。
そこで彼が目にしたのはピンクのショートビキニの少女が濡れた金髪を解いたままで
ベッドで眠り込んでいる姿だった。どきんと心臓が波打ったような気がしてカヲルは
われ知らず顔を赤く染めた。それほどアスカの寝顔は清らかで愛らしかったのだ。
自分のカッターの前をはだけたまま、すう、すうと微かな寝息を立てている。思わず
微笑んでしまう。妹っていたら、こんな感じなのかな。
その中で、ぽってりと濃いピンクの艶のある唇が、キスをして欲しがっているみたい
に見えた。
「アスカ君は・・ちょっと無防備すぎるな。悪い奴だったらここで・・ここで。」
じっとアスカの顔を暫く見下ろしていた。ダメよ、という姉の声が聞こえた気がした。
ぶんぶんと頭を振る。噂に相違して意外と純情少年のカヲルだった。女の子が苦手と
言うのは案外本当のことなのかも知れない。手の掛かる姉がいるので女の子のして欲
しいことをよく知っていて、あしらいが上手いと言う事だけだったかもしれない。
いや、もしかしたら、姉さんが怖いだけだったのかも知れないが。
「シンジ君、君は自分のお姫様をもっとしっかり守らなくちゃね。」
悪戯心でさっき買った水中カメラで少し日に焼けて、上気したようにバラ色になった 顔を一枚撮った。それからアスカを起こした。アスカはまだ眠かったらしく目を擦り ながら浴室に入っていった。
「まったくもう、女子ってやつは・・・」
カヲルはカッターを羽織ると自分のテキストと小さなバッグを持ってロビーに降りて いった。カッターからアスカの甘い匂いがした。外はもうすっかり陽が落ち、仄明るい 程度だった。漁船の漁火が水平線に並んでいる。夜がやってくる境目の時間。海に向か って立ち上がったカヲルの耳に、キキキキキ・・・・と疳高い蝉の声が響いた。
30分以上待ってから、漸くアスカがエレベーターからロビーに姿を現した。
「すっ、すいません!」
「随分掛かったんだね。どうしたの?」
「髪や何かを洗ってお風呂に入ったら、そのまま寝ちゃって溺れかけて、着替えて飛び 出そうとしたら鞄を忘れて、しかもキーも部屋の中で、ボーイさんに開けてもらって、 閉めたら今度はスリッパのままで、またキーがなくて・・・」
必死で言い訳するアスカをカヲルは両手で抑えた。
笑いが込み上げて来た。我慢しようと必死で押さえたが思い切り噴き出してしまった。
「ぷあーっはははははは!あはははははは、はははははは!」
2人は静かなプラットホームに並んで立っていた。
少し高台にあるこの路線からは、街が見渡せる。アスカの方をちらちら伺うカヲル。
「あのぅ−。アスカ・・・さん?」
「ひどいです。あんなに笑うなんて。」
「いや、悪かったよ。ホントにおかしかったもので。姉も結構なドジだけど君も同じ タイプだと思った途端に・・・くくく。」
「ああ、また笑うッ!」
アスカはホントに怒った顔をして、鞄を揺らすと、どん、とカヲルの腰にぶつけた。
「こら、いたた、中四国が誇る国体候補選手の腰だよ。傷を付けないでくれ。」
「しらないっ、あなたなんか100mプールのまん中で溺れちゃえばいいのよっ。」
「やや、ごめんよ。僕の周りはどうしてこうお姫様ばかりなんだ。君のシンジ君は こういう時どうやって謝るんだい?」
「『あたしのシンジ』なんかじゃありませんてば!でもあいつならこういう時は。」
・・・そうだな。あいつならどうしてくれるかなあ。
「こういうときはねぇ・・・」
色々な思い出、優しい、温かい思い出が数限り無く浮んで来る。
シンちゃんと喧嘩して、あたしが、シンちゃんにぶつけようとして投げた石が犬に
あたって吠えつかれて、あいつはあたしをジャングルジムに上げて自分が噛まれた事。
でも泣いているあたしにあいつは謝ってくれた。喧嘩をしたから怖い目に合わせちゃ
ったって。
遠くの公園にいって、帰り道で迷って泣き出したあたしを引っ張って交番にいって、
無事に帰って来た事。あの時もこれから誘う時は先に自分で行ってみてからにするって
約束してくれたな。
機嫌の悪いあたしには、いつも肉マンやぜんざいや甘酒をくれたこと。あたしって、
結構食べ物であやされてるわよね。ふふっ。今でも結構おごらせてるわね。
あいつが壊した人形を次の日の朝までに縫い直してくれて学校は休んだ事。
何かで拗ねて、シンちゃんのうちに家出した時、一緒に寝てくれて、ずっと頭をなで
ていてくれたこと。幾つの時だったかなあ。
・・・すっかり忘れてたぁ・・・忘れたりしちゃいけない事だったよね。
何時の話だか忘れてしまったけど、今でもきっと同じ事を言ってくれる。シンジなら。
「いつも優しくしてくれるの。シンジは・・・カヲルさん。」
「そうか・・・いい友達だったんだね・・・」
「だったんじゃないわ。・・・今だって、これからだって。ずっと。」
アスカはそこまで言って、今日のシンジの情けない顔を思い出し、声を途切らせた。
「なのにあたしは・・いつもあいつに何か不満があって意地悪をしちゃうの。
今日だって、あいつの言いたかった事、ホントは・・ホントは・・・」
潤んだ目に色々な灯りが映えて、万華鏡のように輝いた。
「言いたい事わかってたの。」
『あつみ、あつみ台〜、あつみ台あつみ台〜。』
「ほらっ、アスカ君、おりないとだめだよ。」
「あ!もう?わあっ、おりまーすぅっ!」
「バスじゃないんだから、早く降りてッ!」
転がり降りた2人。ぜいぜいと息を付く。危ない所だった。ここで乗り過ごしたら 戻ってくる電車がない。
「え、あっ、カヲルさん、何でカヲルさんがここにいるんですか?」
「え?ああ、そういえば何でここにいるんだろう。あああ〜しまったああぁぁぁ〜。」
意外とうっかり者でもあるらしいカヲル。一つ手前の駅で一緒に降りてしまった。
しかたない、タクシーで帰ろうと思ったのだがあつみ台は有名なタクシー難所である。
まずもともとこの駅を拠点とする配属車が少ない上に、団地が近いので近距離客が多く
稼ぎにならないのでタクシーが余り寄り付かないのである。前の電車の客がタクシー
に乗り切らないうちに次の電車が来てしまう。バスは7時8時と6、7時台に集中して
おり、後は2時間に一本と言う荒っぽさである。団地中央行きは、五分程度前に出た
ばかりであった。
2人は途方にくれた。家に歩いて帰るなと母親とシンジにうるさく言われているアスカ。
お金はあるけどタクシーが来ないのではどうしようもないカヲル。
アスカが鞄から小さな地図を取り出してカヲルの家の位置を確認する。
「ね、ここからこの通りを抜けるとすぐに南松葉丘に出るんです。」
「なるほど、これだと5kmくらいかな。じゃあそうさせてもらおうかな。」
アスカをカヲルが家まで送る替わりに、アスカの自転車を借りて隣街まで帰ると言う
作戦である。2人は満足してニコニコしあった。その様子はちょうど明日のデートの
約束をした後、笑い合っている恋人同士のように見えた。それを物陰から見ていたの
がシンジ。アスカが帰って来ないと例によってアスカママから電話があり、駅に張込
む事にしたのだ。思わず身を竦めて2人をやり過ごした。アスカに続いてカヲルが現
れた時、哀れなシンジの鼓動は止りそうだった。よりによってプレイボーイの噂名高
い3年生の渚カヲルだ。カオルさんの弟とは言っても、アスカが付き合っているのが
・・・あの人だったら、僕なんかかないっこない。かないっこないじゃないか。
顔をよせ合って何かをしきりと話している2人。美しい横顔が2つ並んでいて、金色
と薄い茶色の髪が2人の周囲をより際立たせる。
君の付き合ってる奴って・・・君の好きな人って・・・カヲルさんだったの?
アスカとカヲルは並んで歩き出した。どうやら家まで送っていくらしい。
あそこは僕の位置だ。アスカがそこに他の男をいれるなんて。怒り、悲しみとも違う、
暗い、ネバネバする思いに、気が変になりそうだった。嫌になる。
そしてこれが嫉妬と言う感情なのだと言う事に、シンジは直ぐに気づいたのだった。
夏の日射し(4)2002 02-08-17/ komedokoro
次回予告
アスカの前を遮るシンジ。湿って、シャンプーの香りがするアスカの髪。
アスカは素直になれるのか。揺れる心の行く末はどちらの方向へ向かうのか。
「折角、あなたのこと、思い出したのに。」