電車が着いていた。この駅には時間調整の為、10分間停車する。
「ね、アスカ君。今日はまだ時間はたっぷりある。少し冒険をしてみないかい?」
「冒険ですか?」
すっかり気を許したカヲルに、アスカは首を傾げて尋ねた。
・・・不思議だな。今まで私って人見知りする方だとばかり思っていたけど。
人付合いが苦手だなんて、普段のアスカを知る人が聞いても本気になどしないだろう。 積極的で華やかな、はきはきしたリーダー。誰とでも仲良くなる、開放的で朗らかな 性格。誰もが皆そう思ってる。でも本当は人見知りをして怯えてる事が多いのだ。
・・・表の性格は被ったお面。
・・・シンに迷惑かけたくないから。シンに面倒と思われたくないから。
・・・今まで気に留めていなかったけれど、本当に可愛い子だな。
カヲルの方も、このしっかりしていそうでありながら、何処か頼りなげな所のある 少女に惹かれている自分を意識していた。
・・・この僕が自分の内緒ごとの一つに誘ってしまうなんて。何故だろう。
「ああ、いつも乗る特急の向こうのホームに、各駅のディーゼルが停めてあるだろ。」
「ああ、鈍行の・・・。斜め白線の列車ね。」
「どうだい、あれに乗って帰ってみないかい。君の駅はどこ?」
「あつみ台。」
「ああ、それならちょうど90分だ。何か今日は用事にかかる?」
アスカはかぶりを振った。
「じゃあ、決まり。いつもと違う線路の上を走るのも楽しいよ。僕は一つ前の『杜の町』 なんだ。そこまで一緒に帰ろうよ。」
「はい。」
素直な笑顔がカヲルを喜ばせる。なんて可愛く笑うんだろう、この子は。
ちょっと違う帰り道、シンジと喧嘩した日に。それも良いかなと思ってしまう。
一緒に帰るちょっと変わった上級生。シンジとは全然違う感じの男の人。
でも、何か懐かしい感じがする。・・・一体、何なのだろう。こんな感じは。
こめどころ
城山の展望台から街を見下ろす。たいした高さではないのに見晴しは抜群だ。津比女川 の流し込んで来た砂が形成した平地にポッカリと緑に包まれたこの城山ある。昔は海から の絶好の目印になって、青森とか丸森とか呼ばれていたそうだ。この平坦な景色の中に は、こんな単純なものも大事な目印になる。単純だという事がむしろ大切なのだろう。
ここでシンジはカオルに女の子の心理について色々な事を聞いた。そして最後にこう言わ れた。シンジに取ってはほっとする反面、厳しい点もあった。
「いいんじゃない? アスカちゃんとの間に生まれる新しい緊張関係っていうのも。」
「最初ッから拒絶されちゃ、話になりませんけどね。」
「そのことなんだけど、彼女には貴方を振ったという感覚はないとおもうわよ。 貴方自身も、振られた絶望だ、っていう悲愴感もないでしょう。」
・・・まあ確かにまだ何も言ってないけど。
その通りなので肯くしかなかった。
この際とぼけてしまえば?と言うのがカオルさんの提案だ。結局この方法が一番好いのだ
ろう。今までのアスカとの関係を守り、告白はなかった事にする。カオルさんに言わせれ
ば、少女は変化を望み乍ら、それを怖れていると言う事なのだ。ゆっくりとした気づかな
い程の小さな変化を積み重ねていくしかない。
「だけど分かっておいて、この方法は君たちがゴールするまでに、誰か強力なライバルが
現れた時は、アスカちゃんを連れていかれてしまう事だってあるってことよ。
少女はね、この人って決めてれば確固たるもんだけど、決まってない娘ってふわふわした
行灯クラゲみたいなもんよ。」
「その比喩はちょっと・・・」
そう言いながらも、アスカの頼り無いふわふわした部分をシンジは知っているだけに、
とても不安な気分になった。だいたいそういう所が彼女になければ自分がこんなに想い
悩む事だってなかったのだ。
この前塾の帰りにあの子のポシェットから顔を覗かせていた煙草の箱。
アスカのこと、何でも知っていると思っていたのに。ショックだった、いつの間に。
誰がそんな事を君に教えたの。
誰と吸っているの、どこでそんなことをしてるの。
僕の知らない男の影がアスカに散らついているような気がしたんだ。
変な妄想が次々と湧き出して来る。悪友達の話していたことが浮んで来る。
最初の男の吸ってた煙草を吸うんだ、女っていうのは、とか。
真面目な子ほど乱れ出すと凄いんだ、免疫がないからな、とか。
ばかばかしい!皆だって女の子と付き合った事なんかない癖に。
わかっているのに狼狽える。僕の愚かな心。
アスカが誰か僕以外の男と親し気に話すなんて、嫌だ。
その男の手がアスカに触れたりして、アスカがそれを喜んでいるなんて、嫌だ。
君はその男に何を呟くの、頬を耳に寄せて。
その男は君に何を囁くの、君の耳に掛かる髪を掻き揚げて。
・・・しかし今の自分にそれ以外の手段は残されていない。
僕が告白しようとした事を本当はアスカは気づいていたかも知れないからだ。
その上で手を振り払って駆けて行ったのだとすれば、無理押しすれば彼女の唇から出る
答は『ごめんなさいシンジ。』という、決定的な言葉でしかないからだ。
その事が恐ろしい。
その事が前へ出る彼の足を躊躇わせた。
「じゃあ、帰りましょうか。」
「ええ。少し楽になった気がします。」
すっとカオルの影がシンジと重なった。冷たい感触。
ちゅっ。
「えっ?」
「あ、あの、・・・その、講演料よ、いいわよね。」
初めて触れた異性の唇。自分でも意識していない行動だったのか、慌てている様。
でも照れ隠しに言った、カオルのその言葉の方が、今のシンジにはうれしかった。
「あの・・・アスカちゃんには内緒にしてね。私ったらだめね。」
こうこつと自分の頭を叩いている。
「あの、カオルさん。」
「は、はいっ!」
「ありがとうございます。僕なんかの為に。」
「い、いや、こんなの、あの、弟が小さい頃しょぼんとしてた時とだぶっちゃって。」
苦笑いをする。
そうか、このシンジ君には、弟のあの頃のイメージが付きまとってる。
だからあたしはこの子の事が気になるのかも知れない。
素直な目をして、どこまでも自分にくっついて来た、昔の弟の事を思い出すのね。
そう思って、カオルは納得した。
こととんこととんこととん・・・
規則正しいゆっくりしたハミングが眠気をさそう。
案に相違して鈍行列車は意外と混んでいた。アスカとカヲルは少し暑いのを我慢して 乗降口の両側に背中を持たせかけて立っていた。特急は一気に山を貫いていくけれど、 この列車は海辺の方から迂回していくのだ。家並みが続く。山から川沿いに下っては 人口が増えていく。昔はこの先に大きな町があったのだ。水面の隆起で今は海に浸か っている。線路はその前で曲って、その頃町にすんでいた人々が作った町に滑り込む。
「しずみがおか〜、静海岡、静海岡〜〜玉野行きは7番線から14時27分発・・」
アナウンスが流れ、列車の座席に座っていた人達は殆どが降りてしまった。
「さあ、どこに座ってもいいよ。アスカちゃん。」
その一つにアスカが座ると、カヲルは座席のペダルをふんでひっくり返し、向い合せ のボックスシートに仕立て、アスカの正面に座った。
「ああ、やっと座れたね、アスカちゃん。」
「その、アスカちゃんて言うの・・・ちょっと。」
「おや、シンジ君は、君のことをアスカちゃんて呼んでいるんじゃないのかい?」
自分の顔が火照ったのを感じながら、
「そんなこと、ないです。昔はアーちゃんて呼んでたけど、今はちゃんとアスカって 呼び捨てにしてくれてるし。」
そんな事を口走ってしまう方がよほど恥ずかしいと、言ってしまってから思う。
「じゃあ、君はなんて呼んでるの。」
「最初はシンって呼ぼうねって・・・でも結局シンちゃんとか、シンジって。」
顔をあげて一生懸命言うが、増々ぼろが出たような気がする。
「・・・で、でも学校の中ではちゃんとシンって呼べるようになったんですっ。」
正面にカヲルのニコニコ顔があって、その途端アスカは恥ずかしさに俯いてしまった。 顔で鼓動が打たれている気がした。
・・・あたし、なんでこんな事をッ。ムキになって、ばかっ。
この車両の中には2人だけだ。
アスカは、白いつば広の制帽を取ると、隣の座席に鞄と一緒に置いた。
列車は、いつもの特急の何分の一かの速度で森の中を通り過ぎていく。
木々の隙間から差し込む光が、列車の床を縞模様になってぱらぱらと通り過ぎていく。
特急では一瞬のまたたきで、見る事のかなわないものがここでは見る事ができる。
窓の外を覗き込むと、家々の庭先で人のやっている事を見届ける事ができる。
シーツを干しているお母さん。干された物が白くはためいてる。
犬と走っている男の子。釣竿とバケツをもっている。
自転車で何か運んでいる人。
庭先でスイカを食べている子供達。
屋根にのぼっている人。魚を干している人。
ビルの中で仕事をしている人達。
郵便配達の自転車。
小学生が小さい子順に並んで歩いてる。先頭の6年生の真剣な顔。
見事な夏ミカンの木。梨畑、桃畑。
宅配便の人がトラックから降りて来た。大きな荷物。
ファミリーマートで立ち読みをしているひとたち。
電車と並行して走る車。その窓から子供が手を振っている。
各々の家に、各々の生活があって・・・各々の人達が動いている。
それを見ていたアスカは、何かとても優しい気持ちになっていた。
「あ・・・」
まるであたしとシンジのように、肩を並べて歩いている高校生。手を繋いで。
きっと照れてるんだ。繋いだ手が身体から大きくはなれてる。
ガ−ー−ーッと鉄橋を渡る。川に中に立って釣をする人達が見える。
「ほら、アスカ君、ここからは海辺を走るんだ。」
「わああー、綺麗〜。」
午後の日射しを浴びて輝く海。昔のオレンジ色に染まった海ではない。真っ青な
本当に美しい海だ。白い波飛沫が目に染み込む。
先ほどの眼鏡をかけると、しばらくしたら真っ黒に替わった。偏光レンズは夏の
必需品。色素の薄い目には日本の日射しはきつすぎるらしい。
防砂林の松林。
遺伝子改良して排気ガスにも強くなったのだが、今はもう電気自動車の時代。
今度はそれが静かすぎて気づかず自己が多発している。スタート速度が早いのも
ちょっと問題らしい。黄色や赤の車が砂浜に沿って一杯並んでいる。
ビーチパラソルも花盛り。恋人達がオイルを塗りあったりしている。
「さっきの高校生の2人といい、そういうのばっかり目についちゃうなあ・・・
勉強頑張らなきゃいけない時なのに。あたしってちょっと欲求不満なのかなあ。」
車窓に何時の間にか貼付いてみていたアスカ。
思わず呟いて、ねえシンちゃん、と振り返った所にはカヲルのうたた寝している顔が
あった。
「そっか。今日はシンジと一緒なんじゃないんだ。カヲルさんと一緒なんだ。」
かたたん・・・かたたん・・・かたたん・・・
単調なリズム。まるであたしとシンジみたいに。でも今日はバラバラ。別の場所を 2人とも別の人と移動中だ。
・・・なんか、寂しいなあ。
「寂しいよ−。」
と、小声で呼んでみた。心の奥できゅん、となにかが固まった。
小さい頃シンちゃんと遊んだ、イソギンチャクが水を吐き出した時みたいに。
きゅっと、すぼまった。
きっとあんなものが、あたしの心の奥にあるんだ。
アスカは溜息をついた。唯一の相手が寝てしまったら、電車の中で一人ぼっちだ。
シンジと一緒だったら、きっと喜んで走り回ってみせただろうに。
はしゃぎ過ぎて、シンジにしかられたかも知れない。でも、今日はひとりぼっちだ。
一人は嫌だ。
一人じゃ何もできないもの。
シンちゃんの馬鹿・・・あたしの・・・・馬鹿。
夏の日射し(3)2002 summer/ komedokoro