夏の雲は白く輝く。
強く眩しいその日射しの残酷さが激しければ激しい程に。
その想いは吹き上げる乱流となって逆巻く。
そしてその全ては崩れ落ちる雨となって地上を叩く。

全てを潤す恵みとなって。

夏の日射し 10

こめどころ

「ただいまっ!母さん、アスカは何処ッ!」

あわただしく走り込んできた足音が聞こえた途端、玄関のドアが大きく開きシンジが 大声で叫ぶ声が聞こえた。やれやれ、と言った様子でユイは立ち上がった。居間から 出た途端に、息子にぶつかりそうになった。

「あああもう、凄い熱気ね。冷たいシャワーでも浴びて来たらどうなの。」

「母さん、アスカは、アスカは何処?」

「別段とって食う訳でも何でもないわよ。そんな汗みどろの臭い格好でアスカちゃんに会うつもり なの。先ず身体をきれいにしてからよ。」

「急いでるのにっ!」

思わずドン!と足を踏みならして怒鳴った。ユイはそれにたいしてきっぱり言った。

「最初から急ぐ必要がなかったら良かったのに。ええ?」

それを聞いて少年は廊下に鞄を叩き付けるように置くと、シャツをむしり取るようにしてどすどす と脱衣場に入った。ユイは呟く。

「どうだろ、あの反抗的な態度。年々亭主に似て来るな。」

ズボンと下着を脱衣籠に乱暴に投げ込むと、女の子の制服が目に入った。泥が何ケ所もついたアスカ の制服だ。カヲルに突き飛ばされた時以上に汚れている。あれからさらに何かあったのか。気が狂い そうな程心配になる、と同時に置き去りにしたのは他ならぬ自分だ、と思う。唇を血が出る程噛み締 め、シャワーのカランを思いきり捻ると痛い程の勢いで冷たい水が身体を叩く。ボディーシャンプー を頭からぶっかけ、身体中をガシャガシャと擦り、一気に洗い流す。燃えるようだった身体が、冷水 で幾らか冷えていくが、心の滾りは全く変わらない。考えに上がるのはアスカの事だけだった。
まるで気狂いだ。と自嘲しバスタオルで一気に身体を拭き上げた。棚からパンツとシャツを出して、 コットンのズボンをはいた。居間側の出口から、髪を拭きながら出る。

「母さん、アスカはっ!」

「落ち着いて座りなさい、今来るわ。」

とんとん、と茶の間側の襖が叩かれ、すっと開いた。僕の黒いジーンズ黒灰のTシャツを着たアスカ が俯いて入って来た。そして立ったまま僕の目をちらっと見、深く頭を下げた。ジーンズの裾は折ら れているし、Tシャツの袖は肘まである。アスカってこんなに小さかったかな、と思いながら見る。

「し・・・シンジ君。・・あ・・あの。ごめんなさいっ。あた・・あたし・・・あの。」

「アスカちゃん、それは後でいいのよ。とにかくお座りなさい。」

母さんがそう言うと、アスカはそのまま絨毯の上にぺたんと正座して、軽く手を握ったまま下を向い ている。そのまま口を開こうともせず、ほどけたままの髪がそこにある。僕は呆然としたまま、その 膝とすれすれの位置に、やっぱりぺたんと座った。まだ拭き終っていない髪から、ズボンとシャツに ぽたんぽたんと水滴が垂れた。

「ごめんなさいなんて・・・そんなの、僕の言う事じゃないか。」

「シンジはそう言うと思った。でも・・・あたしが馬鹿だっったから・・・シンちゃんを、傷つけて ・・・馬鹿だから、裏切るような事して。ごめんなさい!ごめんなさい!今さらこんな事言えないと 思うけど、許してくれなくても良いから謝らせて。御免なさい!」

「まッ、待ってよ。アスカは何を謝ってるの?僕を裏切ったと思うから謝っているの?それとも、僕 が傷付いたとおもって謝っているの?」

「ウッ、うっ、ら切って、なんかいないけど。でも、心で、は裏切ったと同じ、だもの。」

ひっくひっくと、声を詰まらせて、泣きじゃくりながら言うアスカの言葉は、何を言っているのか、 辛うじて聞き取れただけだった。どう言う意味で言っているのかが分からない。僕だって、アスカを 裏切った。信じられなかった。いや信じなかったんだ。今でも、疑っている。
その上、妄想と現実をごっちゃにして、酷く責めたり、ひっぱたいたりまでしたんだ。
アスカよりも僕が彼女に謝らなきゃいけない事がいっぱい有るんだ。

「・・・君の事・・・裏切ってたのは僕の方だ。」

母さんは気を利かせたのかキッチンの方へ行ってしまっている。居間には今僕とアスカだけだ。

「好きだ好きだと思っていたけど。今日わかったんだ。本当に君の事をどう思ってたのか。」

少女の肩がびくっと、誰にでも分かる程に震えた。
きっとシンジは。いや!いや!いやだようっ!
あたしの事嫌いだって言われたらどうしよう、あたしっ!あたしっ!
あたしを待たないで、行ってしまった。あの写真を見られた。
シンジはあたしの事、もう他の男の物だって思ってるから。
汚されたと思ってるから、もう、『いらない』んだ。

「おねがい・・・わかってるから。それを、ここで言わないで・・・ね?」

「僕は君の事をずっと、その、汚したいとずっと思ってたんだ。だからカヲルさんの事があった時、 僕は自分の、うすぎたない妄想と同じものを君に当てはめてしまったんだ。」

シンジは其れを無視して話を続けた。今言わないと言えなくなると思ったからだ。

え・・・? 予想外のシンジの言葉にアスカはたじろいだ。

「僕は、僕は恥ずかしい。僕がずっと好きだ好きだと思っていた気持ちは、君を、君を・・」

シンジ・・・あたしに何を謝ろうとしてるの。卑怯なのはいい加減すぎたのは、だらしなかったのは、 あたしなんだよ。あたしがあんまり隙だらけだったからこんな事になったんだよ。
あたし、あなたに赦してもらえるような娘じゃないんだよ。

「当然いつでも見返りが有るからと思って君を好きだなんて言ってたんだ。僕はさもしい、情けない 奴だったんだ。君がきっと応えてくれるって都合よく考えてアスカをっ!・・・身体を、求めてただ けだったんじゃ、ないかと・・・」

消え入るように声が小さくなる。

「そんなことない!悪いのはあたしだものっ。あたし、あたし、もうシンちゃんに嫌いだって言われ てもしょうがないって思ってたんだよ。」

アスカは顔を上げて髪を振って、真っ赤な顔で叫んだ。

「僕も、君に見限られて、だからカヲルさんに取られちゃったとしても自分が悪いんだって、でも!
でも、アスカの事取られて、そのままでなんか居られなくて。そんなになっても君を自分の物にした くてそう言ってただけで、アスカとカヲルさんの事を認められないのは、ただ、自分ができなかった 事を君がカヲルさんとしてる事が許せないって思っただけで。信じるとか信じないと言う以前に僕は うじうじ自分の不潔な欲望で君を欲しがってただけでっ!」

激しく、自分の腿を叩いてシンジはかすれた声で告白した。自分の汚い気持ちを。
カヲルに抱かれているアスカの姿が、何回も目の前に浮かんで、気が違いそうに苦しいのだった。

「僕は、僕には君を愛する資格なんてないんだッ!こんな事になってもまだ、僕は君がカヲルに抱か れている所を想像して興奮したりしてるんだ。だから苦しいんだっ。僕が汚れた心を持っているから 苦しいんだ。馬鹿なんだ!」

ああ!とアスカは思う。
あたしは、こんなに愛されてたのに。なんて軽薄だったんだろう。
男の子が女の子を抱きたいと思う気持ちは愛してくれてるなら当たり前に付きまとうものなんだって、 保健の先生が教えてくれたもの。ただそれを暴走させないようにするのが男の子の誠意なんだって、 聞いていたもの。あたし、その事でシンちゃんを不潔だなんて思わないよ。
何て言えばシンジを苦しませないで済むんだろう。恥でもなんでも全部話さなきゃいけないんだ。
取り繕いながら話しても、シンジを苦しめるだけだもの。やっと・・・決心がついた。

「シンちゃん。」

アスカは静かに口を開いた。

「もし、シンちゃんがそんなに苦しいなら、あたしがあなただけの物だって、証明してあげる。
・・・だけど・・・その前にちゃんと言っておきたい事が有るの。」

2人は見詰め合う。2人の間には、時間も空間もない。ただお互いがいるだけだった。
全ての事は忘れさられ、背景も何も消え互いの声と身体しか見えなかった。瞳と唇だけが互いを繋ぐ 光になっていた。音も消え、お互いの息遣いしか聞こえない。

「あたし、怖かったの。あなたが、あたしに何を言おうとしてるのか、何となくわかってたの。 だから、あの時駅まで走って逃げた。あなたが、もしかしたら追い掛けて来てくれるかもと言う気持 ちもあった。だけどカヲルさんに、あなたがカオルお姉さんと一緒に城山に行ったと聞いて、物凄く 悔しくて、哀しくて・・・焼きもちやいたの。嫉妬したの。大嫌いって。」

顔から火がでる程恥ずかしい、自分の心の告白。
それは他ならない、シンジを愛している事の告白であったから。

「だから・・・面当てにカヲルさんと帰ってやるって思ったの。悔しがらせるとかそんなんじゃなく て、あなたにも妬きもちを焼いて欲しかっただけだったの。ううん、もしかしたら嫉妬してる自分に さえ嘘をつきたかった。シンジなんかいなくても平気だもんって。嫉妬じゃなくてカヲルさんが素敵 だから、誘われてついていくんだって。・・・本当に綺麗な人だなって揺れた気持ちも、あったかも しれない。ううん、きっとあったの。」

シンジがあっけに取られた顔をした。アスカの心が3重4重に別れていて、バラバラに動いてたなん て、想像した事もなかった。自分の単純さに比べてどうだ。そうか、そんなふうに女の子は思うのか。
僕に妬きもちやいてくれたの。それって、僕の事、好きって事だよね。でも、カヲルさんの事も素敵 だって思ったのか。当たり前だよな。あの人は僕らから見てもかっこいいもの。カヲルさんじゃなか ったら、僕だってそんなにうろたえなかったかも知れない。アスカと本当にお似合いなくらい、あの 人がはまったから、僕は情けなく潰れちゃったんだよ、アスカ。

アスカはシンジがぽかんとしているように見えたので、きっと呆れてしまったのだと思った。
そんなに自分がだらしなく、シンジから他の男の人に気を奪われるなんて思ってもいなかったろうな と思ったのだ。

「カヲルさんは話が上手で、あたしの気持ちをそらさなかったの。いつの間にか仲良く話し込んで心 を開いてしまったの。でも、それが嫌じゃないの。何もかも知って欲しい気持ちになって自分で開い てしまったようなそんな感じだった。」

シンジは改めて嫉妬した。まるでその開かれたアスカの心が、アスカがカヲルの前で衣服を脱いで、 身体を開いたように思えたから。シンジは我知らず怖い顔になっていた。またさっき恥じたばかりの 黒い気持ちが湧き上っていた。アスカはシンジが怖い顔になっていくのに耐えた。ここを話しておか ないと、きっと今の自分の気持ちが伝わらないと思ったからだ。

僕が長い事掛かってアスカとの間に作って来たものと同じものをカヲルさんは一度に・・・。
僕はそれだけでも負けたんだ。アスカと過ごして来た時間に頼り掛かって、ただ待っていただけだっ たから。アスカに自分の事を懸命に伝えようとしていなかったから。
血を吐くような思い。

「・・・それで・・・カヲルさんに君は・・・抱かれてしま・・・」

「違う!違う違う!あたしはカヲルさんにあなたに持っている気持ちと同じものを感じてしまっただ けだよ。誓ってそんな事はなかった!信じて! あたしは、シンジと同じだと思う度に、シンジの事 思い出してもっと辛い気持ちになってた。あたしじゃなくて、カオルさんに相談を持ちかけたあなた が悔しくて・・・情けなくて。」

「僕と・・・同じだったんだ。アスカ・・・。」

こくん・・・とアスカが頷いた。

「うじうじしてる自分がとても嫌だった。シンジの事思い出してる癖に、カヲルさんと一緒にいて楽 しそうに振る舞ってる自分は嘘の自分だと思った。だから・・・抱かれたりしてない、信じて!」

シンジの目を真直ぐに見た。その青い目が、嘘なんかついていないと必死に訴えていた。

「カヲルさんに頼んだの。海で泳ごうって。思い付いて、いきなり頼んだのに付き合ってくれた。」

そう、あたしが自分の気持ちを、穢れた嫉妬心を洗い流してきちんと純粋な心にしておきたいと願い、 まともなアスカになってあなたとちゃんとしたいってそれだけを思っていた。カヲルさんは優しかっ た。シンジがあたしにしてくれるように優しかった。だからあたしはまるでシンジといるような気持 ちになって、シンジのことを思い出し、カヲルさんにあなたの事を重ねて見ている事ができた。何の 心配もせずシンジと一緒にいて遊んでいるような気持ちになっていたの。そうやって、他所の男の人 と一緒にいる事の罪悪感をごまかしてたの。あたしは・・・あたしは・・・シンジ以外の人と居たく なかったから。でもその結果は。あたしは取り返しのつかない所に追い込まれる所だった。 着替えをするだけだと思っていたけれど、もしカヲルさんが、最初から今朝みたいな気持ちでいたら あたし・・・きっと・・・シンジを裏切る事になってた。そうしたいと思ってはいなかったけど。

「カヲルさんに・・・無理矢理にだったとしても、抱かれていたかも知れなかった。そうなっても、 不思議じゃなかった。つまらない意地と嫉妬の為にずっと心の其処にあった思いに気がつかないまま 取り返しがつかない事を、其処に追い込まれて、何も気づかないままカヲルさんのものになっていた かもしれなかった。もしそうなっていたら、幾らあなたがあとから追い掛けてくれてもカヲルさんの ものになっていたら、あたしは・・・もう、あなたと言葉なんか交わせなかったと思う。」

シンジはその告白をきいて本当に背筋が凍りそうだった。身体中に冷や汗が流れた。危ない所だっ たのだ。自分はすんでの所でこのかけがえのない大切な娘を失いかけたのだ。ほんの少しだけ勇気 がなかったが為に。時間の流れを無意味に見のがしていたが故に。その反動のように身体の本当の 奥底から凶暴な怒りが湧き上がってくる。誰に対しての怒りか知れない本能からの衝動だったのか。

「シンジに見られていたのを知った時、本当は一体どうしようって狼狽え切っていたの。だから強気 に出たり逃げ出したりして・・・だって・・・だってあんたを裏切りかけた事にやっと気が付きかけ ていたからなの。あなたを見た瞬間身が竦んでしまった。怖かった、自分のした事が。」

アスカは自分が真っ青な顔で話している事に気づいていただろうか。
それ以上にシンジが真っ青に殆ど白くなる程になって、その額に血管が浮かび上がっていた事に。

「シンジッ!何するのっ!」

ユイの鋭い声が響いた瞬間、アスカは激しい痛みを頬に感じ、もんどりうって後ろのソファに後頭部 をぶつけていた。ガシャーンと瀬戸物のポットやソーサーが砕ける音。

「こ、この馬鹿ッ!」

シンジは思わずアスカを再び殴っていた。今度は拳を握っていた。思い切り殴ることは反射的に最後 の瞬間に避けてはいたが、アスカの頬は真っ赤になり、叩かれた所を手で押さえている。シンジの荒 れた息遣いがはあはあとアスカに聞こえている。シンジはアスカの髪をわしづかみにすると、さらに もう一度手を上げた。アスカは目をつぶったまま、罪を受け入れる罪人のように無抵抗にしなだれて いる。ぶるぶると震えるシンジの手。その手が白い少女の喉に掛かるか、こめかみを殴りつけるかと 思われた。

「シンジ、だめっ!」

次の瞬間、ユイがシンジの腕に縋り付くように、押しとどめて身体ごとぶつかった。シンジは、上体 を起こし、母親を軽々と振払って立ち上がった。アスカはかたく目をつぶって衝撃を待ったが、案に 相違して自分に与えられたのは、息も詰まるような抱擁だった。片膝を付いて中腰になったシンジに、 アスカは半ば持ち上げられるように強く強く抱き締められていた。

「アスカ・・・っ、アスカぁ・・・」

何が・・・起こったんだろう。頬が・・・濡れた。シンジの涙が?

「シンジ・・・ごめん・・・ね。ごめん、ごめんね。」

抱き締められながら、自分の目蓋からも熱い涙が、止めどなく溢れた。頼もしい抱擁に包まれながら、 辛うじて言ったその言葉が、引き金を引いたように激しい嗚咽が喉から溢れた。

「うっ、ううっ、あふ、ああーーん、あああーん!ごめんなさい!シンジごめんなさぁいっ!」

まるで子供の頃みたいにアスカは声を挙げて泣いた。シンジも嗚咽を繰り返したまま、更に強くアスカ を抱き締めていた。昨夜と同じような展開だったが、話している内容はずっと真剣な事だった。
見栄も衒いもなく、自分の心の中を包まず全て曝け出した2人は今度こそ本当に抱き締めあう事ができ たと感じていた。本当の心の其処からの涙を流していた。雰囲気に流されたのではない、互いを理解で きたと感じる嬉しさと、もしかしたら陥っていたかも知れない、恐ろしい陥穽に陥らずに済んだ喜び。
やっとお互いを捕まえた安心感。
溶けていく。身体中のわだかまりが溶けていき、また再び構成し直されていく。真に同じ物に自分達は なっていく。あーちゃんと。しんちゃんと。本当に愛する人と。
シンジの姿が潤んだ涙の向こうに見える。アスカの青い瞳が風に揺れた水面のように震えている。

「もう、2度と僕から離れちゃ駄目だ。・・・アスカ。」

「うん。・・・うん。約束する。ずっとずっと・・・しんちゃん・・・シンジ。」

 床から身を起こしたユイは抱き合って泣いている子供達を見て苦笑しながらもホッと息を吐いた。
アスカから全てを聞いた時、ユイはシンジに全てを話すよう、アスカに言った。アスカはおびえ、大き な瞳を見開いて首を振ったが、結局自分から全てを話し切った。それでよかったのだ。彼女の息子は、 彼女が思っていた以上にこの可憐な少女を深く愛し、その弱さを含めて全てを受け入れる事ができた。
其れ許りか、自分の弱さまでも飲み込んだ。その男らしさにユイは胸が熱くなった。アスカもきっとそ うなのが、女としてよくわかったのだった。2人はもう大丈夫だ。もう互いを疑う事もないだろう。
自分達の子供は、こんな危ない試練も何とか乗り越えた。その嬉しさと安心感から、ユイは少し自分ま でも涙をこぼした。やれやれ、こんな事とは知らず、ゲンドウさんもキョウコも会社で『大事な仕事』 をしているんだろうなあ、と思い、頭の中でゲンドウの尻を蹴り上げた。

 この町は緑の被覆率が高く、小鳥も多い。朝早くから小鳥のお喋りに悩ませられる人は多い。
「自然な目覚め」にもそれなりの忍耐は必要だ。

朝起きたら、シャワーを浴びる。
いつの頃からか、アスカの習慣。特に夏の朝は夜の間にかいた寝汗を流さずにいられない。

「つけた瞬間はフルーツの"甘く爽やか"な香り。それが徐々にふんわりと甘い香りに変わり 大人っぽいイメージへと変わっていく、あなたに恋の予感を運んできてくれる、天使のような フレグランスです・・・か。 」

シャワールームから上がって鏡の前に立った少女は、小さな箱を取り出してそれに書かれてい る文字を読み上げた。ふたを外しくんくんと嗅いでみる。爽やかな薫りの中に微かに甘いもの が残るような気がした。昨日も夜遅かった母は妙に上機嫌で、香水会社に勤めている友人が あなた、可愛いお嬢さんがいたわよね。これ今度新発売のハイティーン向けのオードトワレだ から、モニターやってもらってと頼まれて来たんだそうだ。まだ日本中で何人も使っていない 香りだというのがアスカのプライドと好奇心を刺激した。そしてほんの少し虚栄心。あとは。

キョウコはもう長く香水を使っている経験から、なかなか上品でそれでいて年頃の少女の活発 さにも似合ういい香りだと評価した。それでアスカも興味を持ったのだ。
よく冷房の効いた自分の部屋にもどり、ゆっくりと髪にドライヤーをかけた。身体の汗が落ち 着いたところで下着をつける。母に教わった場所にシュッと吹き掛ける。ショーツの両方の腰 骨の位置。両脇のブラの線。後ろの髪を掻き上げてそこに左右の奥に各々ひと吹き。手首に吹 き付けて両方の手首を擦りあわせるとそれをさらに耳の後ろと胸元に軽く擦る。
自分では香っているのかどうかすぐに分からない。そのくらいがいい。身体の周りに微かな香 りのヴェールを被るようなつもりが一番いい。特に若い娘にはもっと輝くものがあるのだから と、キョウコはアスカに言った。

鏡の前でくるりと回った。素敵な少女がそこにいた。アスカは満足してにっこり笑った。

髪を結わき、食事が終って制服に着替えても今朝はたっぷり時間があった。

「ママ、あたしもう行くから。」

「あら、随分早いのね。」

「時間余ったから、ゆっくり行く。涼しいし。」

「珍しい事ね。」

キョウコが笑う。少しその笑いは堪えられている。

「汗をかかずに駅までいけるでしょ。」

そう言いながら、外に出るまだひんやりとした空気がここちよい。少女の足は一定の方向に すぐ定まった。

そうだ・・・階段の下なら、何処でもいいのかも知れない。

唐突に思い付いた。思い付いたらやってみなければ気が済まない娘である。早足になったかと 思うと、次は駆け足になっていた。
だから。

「いってきまーす。今日は部活ないから1時過ぎには帰って来るよ。」

少年の声が聞こえた。シンジの家はアスカのところより更に高台に突き出た場所に建っている。
下の道路から階段を15段登った所にある。この階段でよく遊んだものだ。
シンジは駆け降りて来て、そこにいつもと違うものを見つけた。金色の髪の少女が、街路樹脇の 柵に寄り掛かって、シンジを見上げている。
びっくりした目のまま、少年は階段を駆け降りる。扉を開ける。

「おはようッ! シンジッ。」

「あ、ああ。おはよう・・・アスカ。」

つ、と立ち上がった少女は少年の腕を取ると満足げにぎゅっとしがみついた。

「へへ・・・っ。シンジの腕って、思ったより太くなってたんだね。」

「チョ、ちょっと、アスカぁ。・・・あ、あれ?」

「うん?」

「なんか・・・いい匂いがしたような気がしたんだけど。」

「そう?」

「そ、それに、君が僕を迎えに来るなんて・・・珍しいね。」

「気、気紛れだもの・・・」

「で、でも、迎えに来てもらうって、凄く嬉しいもんなんだね。」

「まあね。ドア開けた時にあんたがいると、・・・嬉しかったよ。ずっと。」

2人して俯いている様子はまるで小学生のカップルだ。

「さあ、いきましょっ。今日はさ、部活があるから待ってて頂戴よ。」

「だって、きょうは水曜日で部活はお休みじゃなかった?」

「来週の日曜日に西高との対抗戦があるのよっ。あんたたちもでしょっ。」

「あれは、合同練習じゃあなかった?」

「あんたバッカじゃないの?歴代それが対抗戦になってるって、部長に聞かなかった?」

「そうだったっけ・・・頑張れっとは言われたけど・・・」

溜息を付く。だけど。

こいつの傍で・・・ずっとこうやって、世話をやきたいな・・・迷惑じゃなかったら・・・

暫く黙ったまま歩き続けた、駅前に付くと、ちょうど列車がホームへ入って来た所だった。

「あっ、やばっ!」

「走るわよっ!シンジッ!」

「遅れるなよ、アスカッ!」

だあーーっと走り出した2人の姿は駅への雑踏に吸い込まれていく。
真っ白なシャツ姿の人々の眩しさの中にすぐに紛れていった。
最後に金と黒の頭が並んで動いていくのが、見えた。

夏の日射し(10)2002-10-15 / komedokoro

Author: こめどころさん
初出: 2002/10/15
再掲載: 2005/10/31