さて、こうなったらもうあたしだってふらふら暮らしてはいられなくなった。
仕事をあれこれ選んではいられないけど、機械関係の仕事だけはやっぱり蕁麻疹が出そうで駄目。
それを抜いて、稼ぎのいい仕事と言ったら、都心部の接客業しか選択肢は残っていなかった。
レイのお腹が、周囲に隠しようも無く大きくなる頃にはいっぱしのホステスに成り上がっていた。
結構な高級店でNo.1とか2とか。稼ぎになることは何でもやったし、結構駆け引きもうまいもんだ。
軍で習った事で役に立ったのは結局この論理的思考くらいだったのかしらね。
客――酔っ払った男が喜ぶ事なんて決まっているんだもの。ま、意識上は下水掃除に近いかな。
金はどんどん貯まった。他所の店からの引き抜きにも金になるなら応じた。
高級外車とか宝石とか、そんなモノには全く興味なかったから全部現金で。
その頃のあたし、店の側にしたら結構阿漕な姉さんだったかな。
ま、それも今となっては荒稼ぎのいい思い出よ。お金の為なら、えんやこらって何でもやったわ。
どうせバックにいるのはどこかの大金持ちかその筋だろうし、良心は全然痛まなかった。
産み月が近づいた。レイは編み物ばかりしている。あの表情は、紛れも無いお母さんの顔だなぁ.
あたしは仕事が終って帰って来るたびに、レイのお腹に聴診器を当てて心臓の鼓動を聴く。
「これは勤めている店でお医者のお客にいい事してあげて巻き上げて来たのよ。」
得意そうに言ったらレイは目を丸くしてから大笑いしたわ。大満足。
自分のお腹に当て、そして当てたところをそのままにしてあたしに渡してくれた。
おそるおそる耳に聴診器を差し込んで、レイの丸くなった下腹部を見つめる。
「これ?」
レイはにっこり微笑んで肯いた。
潮の流れるような、ザーという雑音の向こう側で確かに拍動の音が聞こえた。
これが、あたしたちの子供の心臓の音。この小さな速い拍動。
畳を換えて、土壁を塗りなおして、板張り部分を磨きなおした。
6月、レイは見事に男の子を産み落としてくれた。
近所の人たちは父親は誰だとか、そういうことは一切詮索してこなかったわ。
「父親?あたしに決まってんじゃないさっ!」
「違ぇねえ。アスカ姐さんなら女の子孕ませるくらいお茶のこさいさいだぁな!」
湧き起こる爆笑の渦。貧しい中から皆が持ち寄ってくれた赤ちゃん用品に、あたしは涙が止まらなかった。
子供を取り上げてくれた助産婦さんが、何もしないうちに勝手に出てきたと言って、またみんなを笑わせた。
「こーんな細っこい腰してるくせに、たいしたもんだよぅ、レイさんは。」
そうは言っても、レイはこの子を6時間以上かかって産んだのだ。
あたしはその間、まるで男親のように頭を抱えて縁側で待っていただけ。
お湯を沸かしたり、布を運んだり、レイを近くで励ましたりしてくれたのは、みんな近所のおばさんたちだった。
あたしが顔を出したのは最後の最後、産道から頭が出るくらいになってから。
やっと覚悟が決まって修羅場にような産室に入って、レイの手を握る事ができた。
頑張れ、頑張れ、と枕元で呪文を唱えていただけだったのよ。ほんっと、情けなかったわね、あの時は。
「アスカ。」
「おい、レイさんが呼んでるよ、アスカちゃん。」
ばたばたとみんなの輪の中からレイの枕元に駆け寄った。
赤ん坊は静かに寝ている。生まれたての、まだ半透明な鼻の頭に汗。
こんな小さな指先にもっと小さな爪が付いている。ちっちゃなシンジ。
「なに、レイ。」
レイの白い顔が、何時もより一層白い。出産の苦しみで、頬や目蓋に点々と内出血の後がある。
これが、母親の顔。あれだけの辛い思いをして子を産んでも、笑顔を見せる事ができる強さ。
シンジを愛し、それゆえにシンジもまた人を愛するようになる。
シンジを育むこの世界の全てをあたし自身が愛する。どこまでも広がる、シンジのための世界なんだ。
「赤ちゃん、産まれたわ。」
「そうよ、あんたが生んだのよ。ありがとうね。」
「あなたの子よ。」
「あんたとあたしの子よ。そしてシンジの。」
「うれしい。そう言ってくれると。」
「何言ってんのよ。それはあたしの台詞よ。」
「キス、してくれる?」
「もちろん。」
風を遮るために置かれた衝立の陰で、あたし達は抱きしめあい口付けを交わした。
同志の口付け。
温かく、優しい身体の感触。あたしもまた、母親の元に戻る事ができたんだと感じた。
このシンジの忘れ形見を、二人で立派に育て上げるんだと誓った。
幼稚園にシンジが入ってから、また生活はすっかり変わった。
いままでは、3人で勝手気ままに暮らしていた。海に行きたくなれば海に行く。
何かおいしい物が食べたくなればそれを買って食べた。
遠くまでドライブをしたら翌日は店を休んでみんなで昼過ぎまで寝こけた。
まるで、一家揃ってトムソーヤーとかハックルベルフィンみたいな生活。
幼稚園はそうは行かない。あたし達皆で変わらないと、子供だってリズムを合わせられないでしょう?
レイはいつもいいお母さんだ。
父母会にも毎回しっかり出席して、何か細かい作業を夜遅くまでやっていることもある。
あたしだって、運動会の準備や父兄参加競技では頑張ったわよ。
まぁもちろん一番頑張ったのは打ち上げパーティーだったなんてレイには言われちゃったけど。
「なにそれ?」
「今度のお遊戯で使うお面。TVで人気のキャラクターなんだって。」
「ああ、知ってる。
何か黒ネコのスーパーマンなのよね。お客さんから聞いたことあるわ。カラオケで歌う人もいるから。」
「あたし見たことない。」
「幼稚園児の母親としては、それはまずいんじゃないの? 園児と話、合わないでしょ。」
「朝7時からやってるんだって、でもその時間は朝ご飯だから。御飯の最中にTVつけれないでしょ?」
「あ、そうか、困ったわね。シンジはどうしてるのかしら。」
「幼稚園で絵本見て知ってるみたい。」
結局、朝ご飯の時間を30分遅らせてTVを見る事になったりして。世間付き合いというのは結構大変なことだ。
お店の方も結構うまくやっていたんだけど、いろいろあって店を変わることにした。
銀座の一番店は女同士の激烈な競争や、蹴落としあいがあった。
みんなで仲良くやって男どもから毟るだけ毟ればいいのにと思うんだけどそういうもんでは済まないらしい。
それもゲーム感覚でやっていれば楽しかったけど、次第に社会が安定して桁外れの金持ちが増えてきた。
その客の奪い合いが始って、店の雰囲気が随分変わって行った。またそれを煽る奴がいるわけ。
お店に入る金はさほど変わるわけじゃないんだから、高い酒と時間か確保できればいいと思うんだけど。
女王だとか一番とかこだわる奴ってどこの世界にもいるんだわ。あたしもエヴァに乗ってた頃はそうだった。
客からのプレゼントとかが、洒落じゃすまないものになっていく。マンションのキーとか、高級外車とか。
結婚しないかとか、囲われないかとか。それをきっぱり断る事は店の暗黙のルール上できないようになったりする。
うまく手のひらで転がして操ってもっと店に利益をってこと。
そうなれば身体を張らなきゃいけない場面も増えていくじゃない。
あたしをはめようとした事件があって、そいつ等をぶちのめした時、辞め時だなと思った。
それであたしは今の店に移った。もう数年たつ。
小金持ちの気のよいお客や、優しいママと楽しくやっている。
次の子供ができる事は無い訳だし、ちょうど中堅サラリーマンくらいの暮らしがは向いているみたい。
そこそこの収入とそこそこの暮らし。たぶん、シンジと暮らしていたらこんな感じの生活だったんじゃないかな。
レイは、そのことについては何も言わなかった。言われるとも思わなかったけど。
今でも時々あたしにはわからない物を見ているわ、あの子。
レイは、現実の他に、もっと人には見えない、触れられない高みにあるものと繋がっているんじゃないかな。
もしかして、シンジにあたしの事、報告したりしてんじゃないでしょうね。
それは、あたしのようなただの人間には理解できないものだろうし、問いただそうとも思わない。
それで、いいんだ。
それはレイの個性みたいなものなんだと思ってる。
いいんだ、シンジはきっとあたし達を見守っていてくれてる事が判ってるから。
あたしは、この生を、人としてただ懸命に生きていくだけ。それでいいんだよね。
それが、あたしがこの世界に生まれてきた意味なんだと思う。
小さなシンジは、だんだんあたしとシンジに似てくるような気がする。不思議なことにレイにも似ていると感じる。
レイはシンジのママのクローンだとも聞いたし、他にも何か秘密があるのかもしれないけど、まぁいいわ。
それは、いつかシンジと再開した時に尋ねよう。白状しなかったら拷問よ!
見た目は日本人そのものだけど、次世代ではあたしそっくりのキンパツヘキガンの子供が生まれてくるかもね。
もし、母を見習って早婚だったら、碇の血はどんどん繁栄することだろう。
嫁いで来た子には子供を5人は産んでもらうとしよう。
多分、金髪碧眼の孫娘は、あたしそっくりのどうしようもないお転婆娘。
なまじ成績も良く、運動もできるから生意気な子になるんでしょうね。
そして、優しいけど気弱で、いざという時には馬鹿力を出すような男の子を好きになったりするのよ。
うーん、逆にシンジに似て、淑やかな子だったりするかもしれないな。
夢は尽きないわね。同じ空を見ていても、その日の風によって違うように。
あの、全てが終わって砂浜にたった一人で立ち尽くした日から、随分たった。
横に居るとばかり思っていたシンジが居なかったり。誰もいない砂浜に随分長く居た事とか。
水平線と思しき辺りから、波とはまた違う低い轟きが、地を伝うようにあたしの身体の奥で共鳴している。
その音以外何もカモメの叫び声とか、風の音とか、風に吹かれた草の音とか。
そんなものが聞こえていることにやっと気づいたこと。
夜になると、浜のそこここに、小さな焚き火が点々と篝る(かがる)のが見えたこととか。
お盆の迎え火という習慣を――ミサトに教えられた日本の習慣、を思い出して、その火に向かって歩き出したこと。
その火の回りには魂が抜けたような人と、やけに前向きな、良く喋る人が混在していた。
崩れた商店から、食料とか下着とか服やザックとかをもらった。レジに借用書を書いて入れたけどどうなったのか。
そして、あの小さな赤ん坊が、もう幼稚園の年長に通ってるんだものな。結構生意気な事も言うし。
レイの方も、今は小さなシンジにへこまされるような事も多いとかぼやいてた。
あたしは今、あの14歳の頃だったら考えられないような生活をし、シンジとレイを守って暮らしている。
まぁ、やや変形ではあるが、あたし達は親友であり、夫婦とかそんなもの(何だろう)でもある。
世界も概ね平和だ。昔のような繁栄を日本や世界が取り戻すにはまだまだ時間が掛かるだろうけど、それもいい。
以前のようなあんな追いまくられるような日常じゃなくてもいいと思うから。
貧しくても、満ち足りている。
守るべき物が、はっきりとわかっていて、そのために何が必要かがわかっている。
自分のするべき事が明確で、揺らぎがない。あたしはそれが嬉しい。
お店で働き、寂しい男たちに一時の夢を与え、時には母親となり恋人となり、娘となって振舞う。
何かにこだわり続けている男を癒し、時には癒されたりもする。
家族をあたしは持つ事ができた。それがどんなにか素晴らしい事なのかを知っている。その幸せの配当を受け取っている。
いつかは、変わっていくのかもしれない。また人を隔てる壁がそそり立つ日が来るのかもしれない。
生きていく前提条件がばらばらに拡散して、他人と互いにわかりあう事が、困難な世界がやってくるかもしれない。
でもあたしとレイとシンジの世界は、今、時がゆっくりと流れ、平和で穏やかな凪のような時代が続いている。
それを守り続けたい。凪が終ればまた風が吹く。
その風に向かい合って立っていけるように子供を育てる。それがあたし達大人の仕事なんだから。
「ただいまーっ!」
幼稚園バスの窓から思い切り手を振って戻ってきたやんちゃ息子。いつまでもそのままでいて。
そんな願いをしたとき、あたしは思うのだ。
自分自身が、何故ここにいるのか。ここで何をしているのか。
それを語ることができ、語った意味を、はっきりわかってさえいれば。
そして皆が周囲の人間同士が愛し合っていさえすれば、この世界に向かって何も怖れることはないのだと。
その愛は世界平和とか世界を守るとか、ご大層なもんでなくていい。
自分のパートナーと、子供と、お隣のおばあちゃんを大事に思う心だ。
息子の友達――2丁目の弘樹くんと、5軒向こうの陽子ちゃんにおやつを振舞う心だ。
あたしを産んだ母も、こんな目であたしを見ていたに違いない。そういう世界を望んでいたと思う。
いずれ、親は自分の全てを子に遺して落葉する。その骸を苗床にして、子は現実を踏みしめて生きていく。
それは、母性の終わりであり、父性の終り。
シンジは、あたしにそれを理解するチャンスを、人を愛する素直な気持ちを経験するチャンスをくれたんだ。
欲しかったものを与えるこころ。貰えなかったものは与える事でやっと満足したんだと思う。
そして、待ち続ける。ただ待つだけではなくて、より素晴らしい世界であいつを待ち受けようと思うのだ。
いつかシンジが帰って来たら、あたしは手を広げて彼を迎えよう。
あたしが間に合わなければ、小さなシンジが。
それでも間に合わなければ、シンジの子供が。いつか必ず。あたしの血はシンジと再び会える事を信じる。
目がすっかり覚めたら、もう夕方だった。夏の陽射しはもう傾いて、遠くでヒグラシが鳴いている。
昼夜逆転の仕事だから、こんな時間に目が覚めるのは仕方ないのよね。いつ目覚めても、世界はあたしに優しい。
今日もレイと小さなシンジと歩く、夕凪の浜。
打ち寄せる波は風が止まるとき、微かなものにとその姿を変える。でもそれは止まったわけじゃない。
日常が同じことの繰り返しではなく螺旋を描き続けるのと同じように。同じ位置には戻ってこない。
潮溜まりの中の世界が、その度に違うようにこの世界も変わり続ける。
あたしの居る世界。シンジが居たかもしれない世界。レイだけが残った世界。シンジだけが生き抜いた世界。
どの世界が残ったにせよ、この世界に生きたものだけが勝者じゃない。
きっと隣り合わせの世界にどこかで繋がっているんじゃないかと思う。
その世界を支える岩礁は、遥か太古に生まれたものを礎(いしずえ)としてるのではないかしら。
一時も休みなく打ち寄せ、返す波。その波が生命の揺りかご。
水平線の向こうまで透き通った空である時も、静かな暗がりとなって雨が降っているように見える時も。
砂と貝殻と、小さな美しい小石が転がっている時も。
レイはしゃがみこんで、指先を濡らしている。小さなシンジは靴を脱いで波打ち際を慎重に歩いている。
その二人を眺めているあたし。
あたし達3人は、そうやって浜辺を歩いている。その3人を見ているもう一人のあたしの視点。
この静かで、穏やかな時間を。あたしはずっと望んでいたように思う。
でも、風がとまる時がある。単調な波のリズムの休息の時間。
その時、あたし達の所に、息をひそめ、微笑みながら戻ってきている、気配を感じる。
その時だけでいい。
あたし達はこの美しい海に、その鮮やかな海草が生い茂るシープールに、空に雲に。感じる。
待ち続けている人の気配。彼方を見上げる。子供を抱き上げ、その顔が少しでも見えるように、高く。
風がとまるとき。ああ、今日も。
あたしは、生きている。生きているよ。 ――シンジ。
komedokoro 21-Nov.-2005 風がとまるとき