4 人の有り様が人間を規定する

 レイが帰って来てから、暫くした頃。この世界とあたしに、レイが途惑っていた頃。

「ねえ、レイ。たまにはどこかへ行かない?」

「どこかって、どこに?」

「そうねえ、あんた自転車に乗れる?」

「乗ったことないわ。」

まだシンジが産まれていない頃。
ある日そんな会話のあと、唐突に駅前の自転車屋で中古の自転車を買った。
もちろん昔のような、華奢なサイクリング車ではない。牛乳を配達するような無骨な実用車だ。
荷台に座布団を縛り付ける。これでお尻の痛みは和らぐ。レイにとってはこの方が楽だろう。

あたしは、汗だくになりながらペダルを漕いだ。レイはあたしに掴まって荷台に座ってるだけ。
乗ったことないんじゃ仕方ないわね。
でも、自分のイメージ的には、この子との関係って、いつもこんなだったような気がする。
あたしが思いついて、レイを無理やり引きこんで、作戦でかっこいいとこを見せようとした挙句、
いつも見せ場を掻っ攫われていいとこなしで終るの。レイは待機してタイミングを冷静に計るだけ。

「ほら!曲がる時はちゃんと体重移動して!ああ!それじゃ偏りすぎっ、倒れちゃうっ!」

「もっとしっかりつかまらないと、ひっくりかえるわよっ!」

レイはさすがに運動神経はいい。そうよね、一応パイロットだったんだし当たり前よね。
最初の30分を過ぎると、ちゃんと負担無く漕げるようになった。
でも交代できないってのは結構キツイッ。

「ああもうっ!お尻も前も割れちゃいそう!」

「アスカ、下品。」

「じゃあ、何て言えばいいってのよっ!おヒップが痛うございます〜ってか?ちくしょー重いっ!」

レイの表情は、ここで何か提案したらあたしが怒り出すと思ってる顔だ。

「わたしの体重はたいした負荷になってない。自転車自体が重いの。」

「だって、この自転車なら丈夫だし、今後役に立つかもって思ったんだものっ。」

「手伝いましょうか。」

「どうやって。あんた乗れないんでしょ。」

「こうするの。」

レイはぴょんと飛び降りて荷台の後ろを持って、自転車を押し始めた。ぐんぐん坂道を上っていく。

「うわーっ、いいっ!早い早いっ。」

「ちゃんと前見ててっ!」

「もうすぐ坂がおわるっ!あと300mくらいよっ。」

「飛ばすわっ。」

さらに自転車はスピードを上げ、あたしは歓声を上げて楽しんだ。汗が乾き、お尻の痛みがどこかにふっとんだ。

「到着〜坂の頂きよっ!レイっ。」

「ええ、着いたわね。」

息を荒らげ、頭から水を被ったようになって、笑って言うレイの姿。あたしの中にあるレイのイメージが変わった。
何だ、こいつこんな表情だって出来んじゃないのよ。
いつも澄まして冷静ぶって、やな奴だと思ってたけど、こんな笑い顔もするんじゃないの。
あたし、レイのどこを見てたんだろう。一人で頑張って漕いで、ずるいずるいって思ってただけ?

「アスカ、ここ、水が湧いてる。」

坂の頂きと言っても、その横にはもっと高い山がそびえている。そこから降りてくる水が、湧き出ているのだ。
頂上から先は山を半周するまで平らで、古い砂防ダムが土砂に埋め尽くされて浅い沢のような状態になっていた。
レイはそこまで歩いていくと顔を洗い、手のひらですくって水を飲んでいる。

「だめだめ、そんなんじゃ楽しめないわよっ!」

あたしはざぶざぶと沢の流れを遡ってそこまで行き、腰につけていた水筒の水を捨てて、中に冷たい清水を
詰め直した。そしてそれを頭からバシャバシャと被った。

「あああ〜っ、気っ持ちいいっ!」

それを見たレイも早速同じ事を。
頭から被った清水で、あたし達は着ていたシャツまでずぶ濡れになった。
その格好が互いにおかしくて。おなかが痛くなるほど笑った。
あんなに笑ったのはシンジやミサトと仲良くやれてた頃以来だった。

(あの頃だって、レイとうまくやれたかもしれない。なんであたしは。)

「アスカったら、濡れ鼠。」

「レイこそっ。あーあ、ズボンまで濡らしちゃって!」

笑いながらズブ濡れで歩き出すと、開けた高台が前方に見えた。木を切り出したトロッコ基地の跡だ。
あたし達はその日、そこで昼食(ただの塩おにぎりだけどね。)を取って、シャツやズボンを乾かした。

仰向けにレイと並んで寝転がる。
ポカーンと、何も無い青い空。真上に向かって落ちていくような錯覚を覚えて怖いくらい。
青の向こうに黒が透けて見えたような気がする。
思わず四肢を伸ばして落下傘を開く前の自由落下の姿勢を取った。
その直後に虫のように丸まる。ずしんと体中を吸い上げるような開傘の衝撃はいつまでもやって来ない。
ああ、落下傘が開かないっ!姿勢を解き、目を見開くとそこは見渡す限りの森林の中。
そこで触れたレイの手を握り締めた。

「なに?」

「空から落ちてきたのよ。」

「ああ、――そうなの。」

微笑んだ顔の向こう側に、懐かしい顔があったような気がした。麦畑の中の一軒家で待ち続けた人の笑顔。
レイ、それでわかっちゃうの、あんた。

「ねえねえ、昨日ね、麦畑の真中でね、面白いことがあったんだよ。」

夢中で、まだ上着も脱ぎ終わっていないママに、飛びついて抱きついて、

「あらあら、まだママは、可愛いアスカちゃんの顔も良く見せてもらってないのよ。」

しぶしぶ手を放したあたしを抱きしめて、高く持ち上げるママ。

「アスカの匂いだわ。私のアスカの匂い。」

ふたりで抱きしめあったまま、長いソファに転げ込んで。手をつないだままママに向かって喋り捲って。
それをいつまでも聴いてくれたママ。一緒にお風呂に入って食事を一緒に作って一緒に食べて、
そして一緒にベッドに入った。夜のうちにママはまた研究所に戻っていく。
それを引き止める為に、手首同士を一生懸命マフラーで結びつけて。
――それでも決して次の朝にママの姿が横にあることは無いのだけれど。
――忙しいんだもの、しょうがないよね。そう思いながら、ママの匂いを求めて枕に顔を埋めた。

黒のランニングとショーツだけという、ちょっとはしたない格好で、たっぷり午睡をとった。
ふたりで手をつないで、並んだまま。目が醒めた時には、既に夕焼けも終わりかけていた。

街には随分遅く帰り着いた。駅前のラーメン屋で豚骨の背油がたっぷり入った奴を取った。

「あとビール一本っ!」

まずは一緒にビール。それを2人の前のコップに注ぐ。

「あんた相変わらず肉駄目?」

「ううん、なんでも食べれるわ。昔は色々理由があったの。」

「じゃあ、豪快にチャーシューたっぷり、葱もいっぱいでっ!オヤジ、お願いっ。」

「あいようっ。」

店主の威勢のいい返事が返ってきた。

「これこれ、この気風の良さ。これがないとラーメンのうまさって半減するわよね。」

「アスカらしい。」

「え、何が。ああ、」

レイはそんなあたしを見て、昔の明るく振舞っていただけのあたしを思い出したんだろう。

「空元気でも元気のうちよってね。ふふん。」

「ほんとにそうね。やっぱりアスカは今も昔も変わらない。お日様みたいな人ね。」

「な、なによ。まじ顔でお世辞言わないで。第一それってお世辞なの?」

「正直な気持ち。お世辞ってよくわからないけど嘘じゃない。」

ちょっと、そんな顔で見ないで。照れくさい。鼓動がハイピッチになっちゃうでしょ。

「きょ、今日は、後ろ押してくれたりで、ありがとうね。」

照れ隠しにビールを飲み干した。

「とても楽しかった。思い切ってやってみてよかった。嫌がられるかと思ってたの。」

「どうしてよ、いいに決まってんじゃん。」

そう言いながらふと思いついた。

「昔なら、あたしが頑張るんだから手を出さないでよっ、って言ってたわね、きっと。」

あたしにはあたしの生活圏があって、その中に踏み込んでくる奴には容赦なく吠え掛かっていた。
その生活圏は狭い。だからこそどうしても守らなければならなかったのだ。
ママに誇れる、あたしの唯一の。

それだけじゃない。自分が見つけた、自分だけが関心を持っていると思っていたシンジが気にしてた子。
凄く嫌だと思った。まるで子供みたいな感情の動きだと自分でも分かっていたけれど。
誰とだってうまくやっていけると、自分でも思っていたのよ。周囲の人間なんか欺くのはちょろいって。
賢くて優しい子だなんて思わせておけば、なんだって大目に見てくれることは判りきっていると。

それなのに初めて出会った同い年の、ただの平凡な子。
その子と触れた瞬間、あたしはむき出しのあたしを曝してしまったのがわかった。
シンジだけじゃない。
シンジが関心を持った、その当の女の子に対してだって感情を抑え切れなかった。

「はいよっ!背油たっぷりチャーシュー大盛葱トッピング麺2つ!」

目の前にドンと置かれた巨大な丼。凄い、チャーシューで麺が見えない。
ゆで卵とノリと白髭葱、シナチクとナルトとほうれん草が周囲を飾っている。
蝋燭を立てたら巨大バースデーラーメンみたい。

「食べよっ、レイ。」

「ええ。」

そう言いながらレイはあたしの丼にナルトと煮卵を入れてくれた。
急にわけもなく緩んだ涙腺を堪えて、ありがとう、と辛うじて言えた。

 サイクリングの日からあたし達はだんだん今までよりもっと一つの生活体として親密になって言った。
レイの考えがわかる。それはあたしが心を開いただけでも随分容易になったことだった。
あたし達2人の間に生じた不思議な調和。リズム。
そこに、お互いが存在しているという事を忘れていられるほどの自然さ。
今思えば、あの日を境に始った、あたし達の新しい関係。レイをわかりたいと思った心。

一緒に壁のペンキを塗ったり、草むしりをしたり。一緒に新装開店の風呂屋に行ったり。
町内の一斉整備とか、道路脇のどぶ攫いなんかにもいつも二人で一緒に出て、真っ黒になって働いた。
一緒に笑えるようになったのだ。

「2人は姉妹とか、親戚ってわけでもねえんだろ?」

親父さんたちが、一服しながら尋ねる。

「まぁ、親友ってとこかな。」

「天敵って言うんじゃない?」

「どっちが美人だと思う?」

「や、いずれがアヤメ、カキツバタってやつだなあ。
どっちにしろ老い先短いわしなんかにはいい目の保養さね。」

「あなたが死ぬ頃には。わたしたちも株別れしているかもしれない。」

「あんたはまた分けのわかんない事を。」

「こう言っちゃなんだが、レイさんは所謂不思議少女って奴だな、うん。」

「ありがとう。」

「レイ、それって変人とか言われてるのと同じ事なのよ。」

爆笑の渦。きょとんとしているレイがまたおかしいってさらに笑い声が高まる。

 町内の新住民ともすっかり溶け込んでいけるようになったのもその頃からだったな。
風呂屋は混浴でも、水道も電気もなくても、何でも手作りで済ます事が多くても、毎日が楽しい。
結構誰にでも2人が親友なんだということで認知されるようになった夏。
世界はまた変わり始めた。

毎日が楽しくてたまらない。暑く眩しい日射しが、あたしたちの時間を歌い上げる。

作業が終って、三々五々散っていく帰り道。あたし達はひときわ明るい星を見つけ、それを指差す。
まだ薄明かりが残る西の空。次第に暗がりが広がっていく夕間暮れ。
明るくはしゃいだ後の、終ってしまった今日。
振り返る時刻は、今日を乗り越えずっと前の日まであたしを連れ出す。
夕方の風景は特にそう。
高台から見晴らす水平線と雲の描く景色。
風が止まったままの、夕凪の時間は、時にあたしに懐かしい過去を思い起こさせる。
その想いは収斂し、最後に残るのは悔いのような思い。
あいつは確かにあそこにいたんだけれど。

――シンジ。あんた、あたしのことどうして連れて行かなかったの。

普段余り思い出さなくなったのに、その分思い出したときの寂寥感は深いものがある。
いつも楽しく暮らしている分、この世界で一人きりだという想いに囚われてしまうと浮かび上がれない。
昔と違って、そう見られるように装ってるわけじゃない。
本当に毎日は楽しかったし、レイとだってうまくやってる。なのに、それなのに、何故。

――レイは帰ってきたのよ。あんただって帰ってこられるはずなんじゃないの。

レイは、そんなあたしをずっと見ていたに違いない。あたしがそれに気づいた時も、気づかなかった時も。

 あっという間に、また冬が巡ってきた。ドイツにも冬があったけれど、日本の湿気の高い冬はまだ珍しい。
足跡をつけながら、頼まれていた仕事を終えて、暗い家路を歩いていく。わずかな街路灯を頼りに。

ドイツの方が厳しい寒さなのに日本のほうが辛いのは、防寒機能や設備がいい加減だからだ。
隙間風が通り抜け、温めた空気もすぐ抜けてしまう。分厚い漆喰壁を持つ北ヨーロッパの家とは違う。
以前のような電気の暖房はないし、灯油も高い。使うのはもっぱら薪や炭、もしくは練炭やコークス。
さらに貧しければ、タドンとか泥炭を壁に塗って乾かした物を使う。これはもっぱら子供たちの仕事で、
炭屋の裏庭で大勢の子供達が夏の間作っていた。炭や泥炭の粉を練って丸くし、ずらっと並べて干す。
これも結構コツのいる仕事で、不慣れな子が作ると割れてしまう。大きさをそろえるために木の枠の
中に押し込んで作るのだが、天候にも左右される。冬場の作業所はほんの少しの人数だけになるが、
夏と違ってひどく辛い作業なのは言うまでもない。夏に比べて歩合がいいので大人も混じっている。

そのタドンや練炭を売り歩くのも子供達の仕事。各自がお得意さんを持っていて、そこに運んで行くのだ。
これはさすがに中学生くらいの子供達の仕事だ。うちにもいつも同じ子が運んできてくれる。
雪の日も、雨の日も。大変でしょうと声を掛けるとその方が良く売れるから嬉しいと答えた。
まだ始めてから2年ほどだからお客が少ないので一生懸命サービスをします。宜しくお願いします。
そう頼まれて、その子からずっと買っている。

 今年も木枯らしが吹き出した頃、ショールに顔を包んで歩いていたのに、声をかけられた。

「今年から友達と一緒に住んでるのよ。その子寒がりだから少し大目に使うと思うわ。」

「うれしい。よろしくお願いします! 2人だったら煮炊きも増えますもんね。」

「まぁ、そうかな。」

「そうだ、今年は御餅の注文もとることにしたんです。いかがですか?」

「あら、お米屋さんのバイトも入れたわけね。効率いいじゃない。」

「ええ、お米とかお酒も。」

「頑張るわね。」

試しにお酒を注文したら、小さな小学生の女の子が届けに来てくれた。

「あら、あんたあの子の妹さんなの。」

こっくり肯く様子が可愛かった。話を聞くと女の子3人姉妹らしい。昔の親友がそうだったな。
お父さんは沖合いの海上炭鉱で働いているらしい。お母さんは病気で亡くなったそうだ。

「アスカって、意外と甘いのね。蜜柑なんか上げちゃって。」

「なによ。ちょっとくらいいいでしょ。」

「わたし、買い物に行くくらいしか楽しみがないのに。」

「たまたまよ、たまたま。メインは炭なんだから。」

このあたしとあろう者が、中途半端な同情なんかするもんですか。
募金とかは大嫌いだけど、働いている子供達を応援するのは別よ。あたしだって軍に育ててもらった。
それが後でパイロットとして養成する為にした事だったにせよ、あたしを無条件に可愛がってくれたのは、
あの軍兵舎の若い兵士たちだけだったのだ。
安給料の中から、クリスマスにあたしほどある大きなぬいぐるみを買ってくれた、気のいい兄貴たち。
名前も覚えていないけど、だからこそ本当に無償の愛情だったと今になって思い出してしまう。

「そんなこともあったのね。」

「急に思い出したわ。みんな、元気でいるといいなあ。」

「他所(よそ)の子にいい事をしてあげたから、ご褒美が来たのね。」

レイは多分あたしの感じている恥じらいとか後悔を慮ってそんな事を言ったのだろう。
だが、あの時のあたしは本当はもっと卑しい事を考えていたのだ。
なぜこんな性格に、あたしは歪んだのだろう。

――なんでそんなこと言うのよ。と、むしろレイを恨めしくさえ思った。

もし、シンジがここにいて、この卑しい性根を感じたら軽蔑されるに違いない。
あたしはもう、無償の人の善意とか、見返りのない親切を単純に信じられる娘ではなかった。
歳を取ったからとか、大人になったとか、そういうことじゃない。単に下卑ただけ。

 シンジがここにいたら、きっとこうすると思うときがある。
あいつはあたしから見ると不合理極まりない行動を取って、あたしを悩ませた。
例えば、間違った郵便が配達されてきた時、あたしなら戸口にあて先違いのメモを張って貼り付けておく。
もしくはポストに同じようにして投函するだろう。ところがあいつは自転車で行けるほどの距離なら、
自分で届けに行くのだ。善意が分かる人ならいいが、悪意に固まった人なら喜ばれるとは限らない。
ほかに何も無かったか尋ねられた挙句に、ここには一緒に品を送ったと書いてある。それはどうしたと
言われても、なかったものはなかったのだ。答えようがないのに、あそこのうちに盗まれたなんて悪評が
立つことすらある。そんなことはごめんだと思うが、実際にそういうタイプの人がいるのだ。

「だって、大事な手紙で一刻を争うかもだろ?」

「馬鹿、そんな大事な手紙なら書留速達とか、内容証明郵便とかにするでしょう。」

「あ、そうだね。」

「そうよ、時間の無駄じゃない。あんたは自分が満足したいだけなんじゃない?」

それでも、シンジはたいした手間じゃ無いからと、わざわざ届けに行って、転居した先を探し出して
やったりしていた。そんなのはもう趣味の世界よねとあたしは呆れてあざ笑ったっけ。
でもシンジは、極稀に感謝されて単純に喜んでいた。小学生みたい、と思っていたっけ。
拾ってきた猫に薬まで買って、傷を治し、ミルクを飲ませ、つききりで看病し。
あげくに勝手に出て行かれた日。
それでもあいつは満足げに頬笑んでいた。変なヤツ!としか思えなかった。

暫くあの子がやって来ない。
煮炊きの練炭が特に足りなくなっていないのは誰かが届けているんだろう。
炭屋さんのあの子暫く見かけないわね、とレイに話しかけた。

「あの子、もう来ないわ。うちの練炭は少し高すぎる。」

「え、どういうこと。」

「もう少し安いお店があるのよ。しかも質もいい。カロリーが高いって事ね。」

「少しくらい、いいじゃない。」

「知ってて売りつけてたのよ、アスカ。商売の人に甘く対応すればそういうことになるの。
お金があっても、ちゃんと確認しないと。いい物を廻してもいつもと同じ対応だったら売る方は
だんだんがっかりする物なの。いいもの廻してくれてありがとうと言えなくちゃいけないわ。
余り物や一ランク低い物を売りつけても判らないのは、相手の誠意に関心がないということだわ。
正直な商売屋さんでいてもらうためには、こっちも真剣に対応しないといけないの。」

「あたしが、あの子を悪い方に誘惑したって言うの?」

「はっきり言えば、その通りよ。」

「あんた、変わったわね。」

かなりムキになってあたしは言った。レイが悪くないのは判っていたけれど認めたくなかった。

「昔なら、タドンの価格なんて自分に関係ないと言ったと思うけど。」

「そうね、アスカの働いたお金じゃなかったら何も言わなかったと思うわ。」

一瞬、途惑った。レイが一生懸命やりくりしてるだなんて、思ったこともなかったのだ。

「そうか、ごめん。」

相談すればあたしが困ると思ったのね。そんな気遣いが出来るんだ、この子。
そのように心が育ったのか、もともとあったのにそれを出さないままでいたのか。
それはわからないけれど、炭屋の子にも、レイにも結局済まない事をしたんだと、ほろ苦い思いが残った。

使い終わった練炭を、七輪ごとひっくり返す。
円筒形の白い灰を炭用の小さなスコップで突き広げる。雪の上に広げると雪が融けやすくなる。
コークスガラも砕いて水溜りを埋めるのに使う。
蜜柑の皮は陰干しにして袋に詰め、身体を洗うのにも使う。米糠も洗顔や床や柱磨きに使う。
巡り巡って、何事も無駄が出ないように工夫されているのが日本の文化だ。
そうやって、知らない同士でも助け合っていけるんだ。
あたしはもう一つ、心の形を学んだ。人と人との距離。人が誠実に人と向かい合うということ。
人の有りようが人間を規定するということ。

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Author: こめどころさん
初出: 2005/11/23