3 腐敗していく彫像

 そんなある日の事、赤い海に頭も落ち、腕も落とし、トルソーと化していたレイがひょっこり現れた。
夕方6時頃だったかしら。もう日の光が弱くなり始めていた頃。

 ふと縁側を見たら、人影があった。それがレイだと気づくのに暫くかかった。
静かにあのファーストが佇んでいた。
陽炎のようにゆらゆらと微かに人影が見えて、それが次第にはっきりとした輪郭を整えた。
レイじゃないの。どうしてここに。
さすがにあの時は驚いた。その場でひっくり返って尻餅つく。そのまま立てないでいた。
ごく当たり前のように縁側から家の中に上がりこんだレイ。中学の制服と黒いソックス。
金色の夕焼けの中、部屋の中に長い影を引いて確かに存在していた。
卓袱台の前に正座すると箸を取り、ボウルから勝手に素麺をつまみ上げ、つるつると食べた。

「薬味を入れない素麺は寂しいわ。」

レイはあの時、そんな間の抜けた事を呟き、緊張していたあたしは気抜けしたっけ。

「あ、あんた勝手に人んちに上がりこんで何言い出すのよっ。」

「ここに、あなたがいるのが見えた。だから寄ってみたらいきなり実体化してしまったの。」

何言ってんのよ、あんた。相変わらずエキセントリックな奴。(怨霊とかゴーストとかいう言葉が渦巻く。)
あたしは黙ってじっとしてさえいれば普通の女だと自負している。
だけどこいつはちょっと口を開いたら、いいえ、黙ってても間違いなく変わりもんのレッテルがべたべたと…

――止めた。ちょっとばかり自分と同類である事の証が多すぎる。

「それって、幽霊みたいな状態でいたってこと?」

「そうなのかもしれないわ。」

「かも知れないって、あんた自分のことでしょっ。」

見た目もちょっと変わったわね。髪も青くないし、目も真っ赤じゃない、明るい紅茶色の目。
やや色素は薄いけれど、見た目は普通の女だ。色を除けばあの頃のままだ。

「意識が朦朧としている時の責任を取れというの。」

「あんたは死んだとばかり思ってたわよ。」

レイはそのあと、生姜を摩り下ろして、一椀。さらにもう一椀茗荷を刻んで食べた。
あたしの分は、ほとんど無くなってしまったけど、そんな事はどうでもよかった。
少し変わっていても、間違いなくレイだったのよ。
手を合わせてレイがご馳走様、というのを聞くまであたしはずっと彼女を眺めていた。
うまく尋ねたい事がまとまらなかった。というか、現実感が湧いて来なかったってことね。

「良く食べたわね。」

「ずっと何も食べてなかったから。」

「幽霊がものを食べるはずも無いか。」

「そうね。でも実体化した途端お腹がすいてたまらなかったわ。」

レイは不思議でも何でもないという調子で応えた。

――死んでる間何をしてたのよ。何を見た? そんな事を取り留めなく話していた。

「もう、元の幽霊には戻れないわけ?」

「そうみたい。」

「この世に帰って来たってことなのね。」

「多分…」

「馬っ鹿じゃないの、何でさっさと戻ってこなかったのよ。」

「本当は、何回もここを通ったの。でも、あなたが迎えてくれるかどうか自信がなかった。」

あたしは意気地の無い事に、そう恥じらったような顔をして目を伏せたレイを、引き寄せ抱きしめた。
どうしたのか、両目から涙が溢れた。レイもあたしを抱きしめてくれた。その華奢な腕の感触が優しかった。
互いの体温。湿った、女の子特有の冷たい夏の肌。

『命令があったら死ぬの?』

『ええ。』

いつだったかの会話と、冷たい情感。
頬を打ったときの、手が痺れたような感覚を、手のひら自体が覚えている。
感情が溢れて、暫く何もいえなかったが、やっとの思いで声を絞り出した。

「む、迎えないわけないじゃないのっ、馬鹿なんだからっ!」

驚いた表情の中心に、脅えたようなレイの目があった。その頬が紅葉が散るように染まっていく。

「おかえりなさい。ファースト。」

「ただいま。セカンド。」

懐かしい、あの頃の呼び方。探り合っていた気持ちが溶けていく。嗚咽が互いの喉から小さく混じった。
肩の上に首を置いて抱きあった。隙間なく抱き合う存在感。
心の奥底。懐かしさの中に、本を読んでいる姿や、黒板を見つめている瞳とか、跳び箱を飛べた時の、
嬉しそうな表情とか、珍しく渡り廊下を走っていくレイの姿を思い出した。
なんだ、あたしレイのこと嫌いだって言ってたくせに、こんなにレイの姿を記憶してたんじゃない。
感情が一層高まって喉が詰まったようになる。

「これからは大変よ。生きていかなくちゃならないんだから。」

「わかってるわ。」

「家賃払って、食べ物を買うにはお金がいるのよ。もうネルフはないんだからね。」

「何か出来るかしら。私に。」

「そうか、あんたに何が出来るかな。」

「子守とか家事くらい。」

「それって一番難しいかも。料理をした事は?」

「無いわ。でも買い物に行くくらいならできると思う。他の事だって憶えるわ。」

 遠雷が聞こえて、ほんの10分ほど。次第に近づいてくる。
それがあたし達の涙声に混じったと思ったら、ばらばらと雨音が立ち、突風が吹き抜けた。
軒先の風鈴と洗濯物がばっと音を立ててはためき、その直後、大粒の激しい土砂降りになった。
あたし達は涙を肩先の服に擦りつけ立ち上がり、慌てて洗濯物をしまい、ガラス戸を閉めた。
吹きつける風と大粒の雨。ガラスががたがた揺れ、縁側の板の上で雨粒が煙るほどに踊り狂っている。
庭のひまわりやフェンスの朝顔が引きちぎれそうにしなっていた。

ガラスに吹きつける雨の中、差し向かいにぺったり座りこんだあたし達。
レイも相変わらず目の縁は赤いまま。
でもあたし達は暗い部屋の中、なんとか涙を引っ込めることができた。
やっとあの頃の仲間の一人を取り戻したのだ。

 そして、あの時の夏から、さらにもう丸4年が過ぎたのよね。

「あの時――あんたの泣き声なんて初めて聞いたわ。」

「アスカの目。紫色になってた。それを憶えてる。」

「あんな最中でも冷静に観察してたのね。いやな女。」

今でも、あたし達はそんな事を言いだし、笑みを浮かべる事がある。
あんなに嫌っていたレイなのに。たぶん、あっちにしたって同じ事だったろうに。
それなのにあたし達は不思議なくらいうまくやっていけた。
レイが、どこからか古い蚊帳を手に入れて来た。どういうわけか、この子って拾い物がうまいのよね。
穴の開いた部分を気長に繕うと十分使えるのがわかった。
その中で二人一緒に寝ていると、ずっと一つのカゴの中で暮らしてきたキリギリスのような気持ちになれる。
狭い空間を共有すると言う事は、肉体的共感を育成し、精神的共感も同調させる、とか心理学の教科書に
書いてあったのを思い出した。クラスメートや同窓生が特別な意識を共有しがちなのと同じなのかも。

好き嫌いに関わらず、あたし達は生死の境目を共にしたんだ。
レイもあたしも、シンジも皆共に生き、死んだ。どういうわけだか、またこの世に彷徨い出たけれど。
それが一番現実としてしっくり来る『事実』に違いなかった。
あたしはあの戦場で引き裂かれ、食い殺された。
そうだよ。
何故あたしはここに存在してるの。いったい何がそれを許したと言うの。
もしかしたら、この世の中に生きている生物全てが、崩壊と溶融と再生の赤い海を経験しているのだろうか。

「こんな所で、またタオル蹴飛ばしておへそ出してる。」

 うとうと、半分微睡んでいる意識の中。誰かの声が聞こえたような気がした。
気温はどんどん上がっていってるんだろう。ぷんと鼻につく草いきれ。
熱せられた土埃の薫りと、ちらちらと複雑な曲線で飛ぶ、アゲハチョウの軌跡。
庭と隣の裏庭に生えている百日紅と、辛夷と、スズ楡の大木。
その葉の隙間から細く葦簾に降り注ぐ陽光が、あたしの顔の上で踊っているのだろう。
閉じた目蓋の上で光の粒が揺れている。ああ、だから木の葉が揺れている夢を見たんだ。

暑いのか、それとも陽射しが煩いのかな。完全には寝付かれないままで横になっている。
お腹の上にタオルケットが掛けられた。誰…?

そうは言いつつ、いつの間にか熟睡していたようだ。
子供の甲高い笑い声に目が覚めた。でもまだ目は開けられない。
身体を動かすと汗ばんだ背中に風が当たって心地良い。大あくびをしてウエストをぼりぼりと掻いた。

「あ、アスカちゃんが起きたよ。」

「じゃあ、冷たいタオルを用意してあげて。」

「はーい!」

ひんやりとしたお絞りタオルが小さな手であたしの額と目を覆うように押し付けられた。

「気もちいい?」

「う〜、とってもね。」

「もーすぐお昼御飯だよ。今日はカレーライス。」

「夏の昼日中(ひるひなか)にカレーライス?」

「うん、僕カレー大好きだもん。」

「シンちゃんのリクエストかあ。」

起き上がって、溜息をつく。

「ああ、良く寝た!」

思い切り両手を挙げて伸びをした。
額の冷えたタオルで顔を拭った。汗ばんだ首筋と腕、シャツをめくり上げて脇腹と背中を拭いた。

「アスカ、どっかのおっさんみたいだ。」

「うるさい、あんたに言われたかないわよ、餓鬼んちょの癖に。」

つん、と額を突くと幼稚園児は簡単に後ろにころころと転がった。

「やったなっ!」

昔はこの程度ですぐに涙を一杯に目に貯めたもんだけど、今は元気に飛び掛って来る。
シンジを抱きかかえるように、今度はあたしが転がった。
甘いような、藁のような、土埃のような体臭。男の子の匂い。
今日も一杯幼稚園で遊んできた匂い。
そのまま足の裏で下腹を支えて両手を広げて、ぶーんと飛行機ごっこ。
軽い身体は自由に右左に振り回す事ができる。この子のお気に入りの遊び。
そしてぽーんと宙に放り投げ、それを見事にcatch。
キャーキャー叫ぶ甲高い歓声は幸せ一杯の暮らしの証だ。
ひとしきり遊ぶとまた二人とも汗まみれになってしまう。

「さあ御飯にするわ。2人とも水浴びてらっしゃい。」

「はーい!」

カレーの鍋の両手を布巾でつかんでレイが運んできた。いい香りと一緒に卓袱台に置かれる。
食欲をそそる安っぽいカレーの薫りが、シンジとあたしを庭の片隅に置かれたゴムプールに飛び込ませる。
水道の蛇口を捻ってホースの先端を相手に向けた方が勝ち。服のまんまでひとしきり水を掛け合う。
シンジの服を脱がせる。縁側で捕まえてバスタオルで全身をくるみ、全身をふいてやる。
裸んぼうのままシンジは席についてしまう。少しくらいの水気は古い畳だからいいけどね。
まあ、どっちにしろ、あたしが髪を拭き終わって着替え終わるまでカレーにはありつけないんだからね。

「ママのカレーって美味しいね。」

「口の中が空っぽになってからしゃべりなさい。」

「アスカだって同じじゃん。」

そんなやり取りをレイは微笑んで聞き流す。ナスとトマト、僅かな鶏肉が入ったカレー。
酢漬けのきゅうりとベビーコーンと茗荷がよく合う。ピクルスなんだけどちょっと違う。

「さあ、早く食べちゃって頂戴。すぐにお友達が誘いに来るわよ!」

「今日はどこ行くの?シンジ。」

「今日はね、峻ちゃんの見つけたムシの木に行くんだ。いろんな虫がいるんだって。」

「へえ、それってどの辺にあるの。」

「まだ聞いてない。じゅうよーなきみつじこうなんだってさ。アスカ、きみつじこうって何?」

「内緒だって事よ。男同士の約束ってことね。」

「ママにも?」

「そりゃそうよ。ママは女でしょ。」

シンジは本当に困った顔をした。可愛いったら無い。

 そんな風に一日は過ぎていく。店が非番の日は夜遅くまでレイと語り明かすこともある。
灯りを落として、月明かりの中にシンジの寝顔を見ながら。蚊取り線香がたなびく。

大体なんでレイはママであたしはアスカって呼び捨てなのよ。
これはあたしの目下一番の不満なんだけどしょうがない。第一母親って言うのは普通一人だ。
シンジに本当の事を教えたって混乱するだけだろうし。
今んとこ社会通念ってモノに従ってた方が何かと…あたしも丸くなったなぁ。
そりゃあ、子供だって自分がどっちのお腹から出てきたかくらいはわかるわ、というのがレイの意見だ。
確かに私よりレイの方が母親としての座りはいいけどさぁ。
まあ、今の世界は正式に結婚してるカップルは少ないし、『インパクト』以降片親が戻らない所も多い。
その分シンジに父親の事を問い詰められる事も無いし。

小さなシンジは、あたしの前にいつもいたシンジとそっくりだった。
レイから生まれてきたのに、ここまで似るもんだろうか。

「あなたは覚えてないって言うけど、わたし達、この世界の人間すべては一度初原に戻ったの。
その時、わたしと碇くんだけがこの世の中に溶け残っていた。
身体は融合し、全ての記憶や感情がひとつになった。完全な世界と言っても良かったかもしれない。」

そうレイに聞いたことも、あたしの気に入らなかった。
何故、あたしだけがその集合から離れていたのだろう。
シンジはあたしとは一つに溶け合っていない。あたしを知りたいとはあいつは思わなかったのだろうか。
そんな不満、あるいは疑い、根っ子のところでは不信感みたいな物が澱の様にあたしの奥底に沈殿していく。

もう死んじゃった奴にそんな事思ったってしかたがない。
しかたがないと思うんだけど、――多分シンジの死を、あたしは納得出来ていないんだろうと思う。

だから、いつまでもいつまでも、不実な男の事を思いだすように、納得できない苛立ちが降り積もる。
降り積もって腐敗して、発酵して、ぶくぶくとメタンの泡になってあたしを腐らせる。
それがまるで、たまにできる吹き出物みたいに、あたしを悩ませているのかもしれない。

コウシテアタシハ腐ッテイク。

腐敗していく彫像。既にあたしは人ではないものなのかもしれない。
だから一緒になれなかったの?
濡れた頬に、涙の香りはしない。
置き捨てられた存在。ただひたすら、待ち続けているしかない存在。

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Author: こめどころさん
初出: 2005/11/23