2 あたしのいる標(しるし)

 朝の食事が終ると座布団を折り曲げて枕にし、寝転がるのはいつものこと。
はしたない格好でも、レイと2人きりなら別段問題なし。涼しいのが一番だ。
昔のあたしだったらこんな涼しさでも暑い暑いとシンジに文句ばかり言ってただろう。
別段我慢強くなったわけじゃない。
この家は、開け放したガラス窓と、縁側から緑の濃い庭を通していい風が入ってくるのよ。
ブラとショーツなんて格好でいれば、レイが広げた屋根まで届く葦簾(ヨシズ)の日陰で十分涼しい。
大きめのタオルをレイがお腹に載せてくれた。

葦簾の隙間から覗く青い空と真っ白な雲。
みんみん蝉の鳴き声が遠く近くに聞こえる。やっぱり都心の薄汚れた空とは違うわね。
シーツの向こう側にある百日紅と立葵の緑が揺れてる。その風景は毎年繰り返される見慣れた景色。
あの立葵の株はレイがどこからか貰ってきて植えた。ここに植えた最初の夏から見事に咲き誇った。

 そう、ここに住んだのは駅裏の切り断った台地にあり、遥かに海を望め見晴らしが良かったからよ。
始めに言った様に、ひどい場所だったけど、ずっと遠くを見ながら暮らしたかったのかもね。
そうよ、過ぎた戦争のことは忘れたかった、遠くを見ていれば現実はどこかへ逃げていくもの。
自分の身に起こったことや、仲間たちがどうなったかとか、思い出したくもなかった。逃げたかった。
あたし一人だけが生き残った。置いてけぼりにされたような気がした。あたし一人だけが。

壁のひびに漆喰を塗り込み、床板を張り直し、ペンキだらけになって壁を真っ白に塗りなおした。
コンクリート製の安っぽい屋根瓦は少し数を足して、こっちはオレンジ色に塗ってみた。
庭に生い茂っていた笹藪も、外側をぐるりと取り囲んでいた分厚いススキの茂みも刈り取った。
周囲を先に切り取って数回にわたって少しずつ火をつける。それを繰り返すと藪は綺麗になった。
詰まった排水路の腐った泥と落ち葉を掬い上げて捨て、雨どいも掃除し、折れたパイプを交換した。
ほったらかしにしていた大家が覗きに来た。

「おお、こりゃなかなか見事なもんじゃないか。あんた、こういうこと経験あるのかね。」

「大学の頃に部室の修理や塗装をやった事があるんです。」

口から出任せの嘘。
ドイツ軍に新兵として所属していた頃、こういった宿舎造営の真似事をさんざんやらされただけよ。
他の家の塗り替えとか、修理と草刈もやってくれたら1年間家賃をただにしてくれると言いだした。
もちろん配電とか内装とか専門業者が必要な所は大家がお金を出すのよ。
でも全部任せるよりはあたしがやった方が随分安上がりになるのは確かだわよね。

「喜んでお引き受けいたしますっ。」

思わず軍隊用語丸出しで答えちゃった。
大家が帰った後では小躍りし、あの夏は8軒の家を全部塗り替え、掃除し、草を刈ったんだっけ。
身体を動かすのは楽しい。家が生き返っていくのを見るのは嬉しいことだった。
その上、月2万円の家賃がただになる。
あの頃やる事もなくて、ただごろごろしていたあたしには願っても無いことだった。

 補修の大工とか配線工や水道屋と、日取りや作業日程を相談し、ペンキ缶と格闘した日々。
大変だったけど、屋根の草むしりさえ楽しい作業だった。大家と連絡を取り、見積もりや段取りを整えた。
作業が始った。ぽたぽたと汗が髪の生え際からこめかみを伝わって塗り終わった屋根に落ちる。
日が高い時はそれさえ出て来ない。水分はすぐに蒸発し、塩が生え際に白く残っていく。

日が沈んで仕事が終れば、ペール缶に釘で穴を一杯開けたのを枝にぶら下げる。
這わせたホースからペール缶に水を落とし、たらいの上に立って全裸でシャワーを浴び、髪を洗う。
誰もいない台地の住宅だからできること。そこを風が抜ければ最高の気分だった。
そのままの格好で頭からタオルを被り、縁側で胡坐をかいて、ぽっかりと空に浮いた月を眺めた。
たまにビールなんかも飲んでみた。
ミサトのビール好きには呆れていたけどこんなに美味しいものだったのか。
他の家の畳を取り替えたついでに、できばえに感心した大家が畳も入れ替えてくれた。
イグサの清潔な薫りの中、月に照らされたあたしの身体はてらてらと青く光っている。

アスカイラスト

ここにはいない。だぁれもいない。

ここにはあたしの裸を眺める視線もないし、あたしを欲しがる男もいない。
一人しか存在しない場所では、女には女としての価値は無い。
戦いのさなか、シンジにとって女としてのあたしは無価値だったのよね。
当たり前のことじゃない。
そんなこととっくに知っていたわよ。

ああ、たった一人でいる事の何て清々しい事か。
闇の中、ガスとアーク灯に煙って浮かぶ街を見下ろす。

でもあの時、あたしは本当は何を考えていただろう。どうして欲しかったんだろう。
あいつに求めていたものは何だったのだろう。
まだまだ昼間は暑いけれど、もうすぐ9月も終る。
夜には冷えた風が抜けていくようになった。
全身裸のままではもう涼しすぎるのかもしれないけれど、皮膚の下の身体が妙に熱を篭らせている。
身体が冷え切って人の温もりが欲しい?そんな事があるなんて事を初めて感じた夜。
もう、誰もいないのだと思った。居なくなってしまえとばかり思っていたのに。
誰でもいい。誰かにいて欲しいと、そう思った。

「お願い、誰か。誰かここに来て。」

自分だけにか聞こえない声で。
あたしは自分で思っていた以上に弱い人間だったのかもしれないわね。

溜息をつくなんて。

 8軒の元兵舎はいつの間にか新しい平屋(6・4版半・土間3)20軒以上に増えていった。
周辺にもぽつぽつと家が建ち始め、小さな街の様相になった。
あたしの借家は古いけど(8・6・土間4半、濡れ縁・風呂場スペース・前庭16坪)の広さ。
裏庭はそのまま以前の軍資材置き場の原っぱに繋がっていて井戸や林もある。

知り合った奴と、意気投合し、同居した事もあった。一ヶ月と続かなくてみんな出て行ったけどね。
続かなかったのは何故なんだろう。あたしの我侭?相手の身勝手?どうでもいいや、しょうがない。
こういうタチなんだから今更治せないわよ。どうしても男手が必要なほど困ってはいないわけだし。

町内集会と称してご近所同士で酒盛りをすることもあった。
春の桜。梅や桃梨、夏の花火と簗(やな)場、秋の紅葉と山菜。冬の月見。
町内で肴を持ち寄り騒いだり、その場で取れた魚やキノコを焼いたり、豚汁を作ったりした。
熱を出したときに面倒を見てもらった事もある。
「お互い様だから。」と皆は言ってくれた。今まで知らなかった人の心の形というもの。
その形を次第に自分も憶えていく。親切は親切でしか返すことは出来ないというこの国の人の心。
そういう人に囲まれての、気ままで、思うままな生活が次第に気に入っていった。

生まれて初めて、あたしは誰の監視下にもなく、自由に生きていると感じた。
死ぬ自由、生きる自由、勝手に生きていていい自由。自由と放縦を取り違えるななんて説教のない世界。
店が出来、風呂屋が出来、初期の住人は次第に入れ替わりながらも、人が増えていった。
いつの間にやら街でも古株の方になっていた。寄り合いで上席に座らされて意見を求められる。
人が増え、それと共に世間常識とやらにも従って暮らすようになるあたし。余り勝手もできなくなった。
急斜面の草原をくねくねと伝って降りていた踏み分け道が、いつの間にか駅までの階段になっていた。

 その街で、あいも変わらずたいていは一人だけで食う分には、カツカツでも何とか生活をしていた訳。
それはそれで楽しく、不相応な欲がなければ、心静かな毎日が送れたわけ。
ま、あたしはちょっとばかり見栄っ張りで強欲で我ままだから、最初のうちは結構しんどかったけどね。
でも、世捨て人気分も悪くないじゃない?
生きる意欲をなくしたわけじゃない。結構その日その日は忙しいものだったし。

何故あたし一人が、あの日浜辺に倒れていたのかは相変わらず分からなかったが、無理に解明する必要もない。
確かにいたはずのシンジは、あたしの幻覚だったのだろうかという疑問が残っているだけ。
答えを求めていたわけじゃないのに、いつまでもその事が頭から離れなかっただけ。
周りにいた人は皆いなくなっていて、あたしだけが取り残されていたのは何故なのか。
なぜ?何故あたしだけが残されたのか?
何故あたしを皆は置いていったのか。何故そんなことにこうも拘ってしまうのか。
そんな事を考えてる日もあったけど、次第にどうでもよくなった。最初っから数に入ってなかったんだと。
あたしは常に取り残される存在でしかないんだと。そういうもんなんだと思っちゃえば苦しくなかったわ。

 あたしは皆が自分を捨てたように、今までのあたしを捨てようと思った。
何も考えないで暮らせるって素敵な事よね。
そうすれば、そのうち、その事が気にならない自分になれるかもしれない。
自分でも信じられないほど感傷的な思い付きだった。だけどそれがあたしの自らへの贖罪だったのかも。
忘れた頃に、願っていたものになっていた。
だけどそのことに、もう自分は気づかない。そんな童話をどこかで読んだことがあったな。

だけど、感傷は別にしてこの世界を行きぬいていくためには『元気すぎるあたし』は都合が良かった。
日常はそのまま変わらない。生きるためにすべき事はたいてい単純な事なんだ。
身に付いた格闘技術とか射撃の腕とか、そんな特殊技能は捨てようとしても捨てられるもんじゃないし。
のたうつ様な思いも、消えることはない。でも思い出しさえしなければいいんだ。

 そんな事を思うあたしの横を、この世界が始ってから生まれた子供達が集団で走っていく。
決してお行儀のいい、つやつやの子供達じゃない。手も足も真っ黒にして、手縫いの半ズボンと汚れた
ランニングシャツ、ぺらぺらのスカートを着た子供達だ。
でもあの頃の子供達よりずっと幸せそうだと思えた。
誰のペットでもない。何かを強制されたりもしない。大人は生きることで精一杯で子供に構っていられない。
だから子供達は本来の姿のまま野生の馬か何かのように、本来の姿を保っている。
お世辞にも行儀はよくないし、耳の裏や爪は真っ黒だ。
だけど大声を出すりっぱな声帯と、野山を駆け回るための、丈夫な手足と肺と心臓を持っている。
夕方になれば遠くから聞こえる歌声。子供達の掟をきちんと守っている。
大人の目を盗む卑劣さを誰も持ち合わせてはいない、まともな人間の子供達だ。

あたしに出来たのは精々手を広げてそこに起こる事象をあるがまま自然に受けとめると言う事。
突っぱねないという事。無理をしようとしないこと。できる事だけを淡々とこなしていく。
近所で畑を耕しているお祖母さんのように、もくもくと、何も主張せずに日々を暮らすこと。
子供達のように、太陽と世界が自分のためにあると信じてる。そういうこと。

一応女の子なんだから、と衣服と身体だけは綺麗に保った。一応年頃の娘ですもの。
そうして僅かな買物の時、崖下の駅でぶらつくいていると、街角で時々仕事の口がかかった。
蕎麦屋のお運びさんを暫くやらないかとか、売り子を手伝ってくれないかとか。
いくらだ姉ちゃん?なんて聞いてくる馬鹿は蹴り飛ばす!
引き受けて気が乗れば何日か手伝うだけの事。
どこでも人手不足だったし、看板娘がいれば競争が有利になるってことね。

「かけ3、天ぷら2、かきあげ2、お願いしまーす!」

「はいよっ!かけ3天2かき2ッ!」

「アスカちゃんお茶!」

「混雑時は自分で取ってねー。」

「ここ下げてくれよ。」

「混雑時は自分で下げて頂戴ッ!」

「煙草くれ、ショップ2つ。」

「表に自動販売機あるからオネガイッ。」

「おいこれ注文と違うぞ。」

「混雑時は――黙って出されたモン食ってなさいっ!」

あははは。ごめんっ!それでも繁盛してんのはあたしが可愛いからよねっ。
何、面白いからですって!あたしが間違えるとみんな笑うのよ。ひどいもんだわっ。

電信柱の電気工事とか、簡単な電子回路の保守点検ができる人募集なんていうのもあったけど、
女の子じゃ危険な工事には使ってもらえないし、電子回路なんてものにはもう関わりたくなかった。
それでも、うっかりテレビを分解修理したのが話題になって、その店を逃げるように辞めた事もあった。
今はその程度の技術者も少いから、引っ張りだこなのよ。でも、そういう事もうしたくないの。
何がきっかけになるかわからないでしょ。大人の都合で引きずり回されるのはもう願い下げ。
どこの誰かと詮索されなければ、それだけで十分。

 一人でも生きていける。それは当たり前のこと。人間は一人で生きていけないなんて嘘っぱち。
弱くたってそれを武器にして生きていける。
寂しいなんて誰かに依存するための口実に過ぎない。
そうよ。人はひとりで生まれて来るんだもの。自分の力で生きていくすべを見つけられる。
生きていれば、誰かの心に留まれる。誰かの目の中に映ったあたしが記憶に留まるかもしれない。
この世界に、あたしがいたという記憶を。
誰の想いにも残らない。この世界にいたあたしを、誰も憶えていてくれないのはイヤ。

だから、そうして時が過ぎて行く。
この街にあたしが生きていた、あたしがいた標を残しながら。

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Author: こめどころさん
初出: 2005/11/23