猫。
脊椎動物・哺乳類・食肉目・ネコ科・ネコ属・イエネコ類
気まぐれで我侭だとよく評される。
人に媚びないところがいいと言う人もいるが、それはただ彼等の都合に合致していないというだけで、場合によっては媚びもする。
ただ、自由な存在だというのは間違いではないだろう。
犬を『友達』『家族』とするならば、猫は『ルームメイト』『同居人』となるのだろうか。
ウチには一匹、猫がいる。
「リツコ、いる〜?」
「その台詞は部屋に入る前か、広い部屋で本人を探す時に使うものよ」
扉をくぐりながら投げた言葉に、冷静な指摘が返ってくる。
確かに元より広い部屋ではない。
扉を開ければ直ぐ正面に部屋の主がいるのだから。
その主が、眼鏡を外して書類と一緒に机に置きながら顔を上げた。
「内線するなりインターフォン押すなりノックするなりできないの?」
眉を潜めながら言ってきた彼女に向け、ミサトは両手を合わせて頭を下げる。
「えへへ……ゴメンゴメン」
言っても無駄だと思ったのか、ふっと息をついてリツコは先を促した。
「それで、何かあったの?」
「あのさ、たまには一緒に帰らない?」
「また唐突ね」
それだけではないのだろうと予測を立てながら、驚いたように目を見開く。
「忙しいの?」
「今はそれほどでもないわね」
「じゃ、どう?」
期待するように目を輝かせながら尋ねたミサトに、リツコは首を縦に振った。
「そうね。急ぎの案件もないし、付き合うわ」
言いながら端末の電源を落とし、立ち上がる。
その返事に機嫌をよくしたのか、ミサトの顔に笑顔が浮かぶ。
「話がわかるぅ〜」
「ちょっと待ってくれる?」
「おっけ〜」
机の上のマグカップを自動洗浄機にセットするリツコを置いて、一人先にドアへ向かうミサト。
気が変わらないうちに、と言わんばかりに行動を急いでいるようにも見える。
その様子を横目に、やはり何かを感じながらもリツコは内線電話を取り上げた。
「マヤ、今日はこれで先にあがらせてもらうわ」
<あ、はい。解りました>
「何かあったら連絡、お願いね」
<了解です。お疲れ様でした>
受話器を置き、振り返る。
ミサトが入り口で開いた扉の傍で待ち構えるように立つ。
「もういいの?」
「ええ、行きましょうか」
部屋を出て扉にロックをかける。
『不在』の文字とともに赤く光るランプを確認して、二人は並んで歩き出した。
「何かあったの? 何かやけにうずうずしてるみたいだけど」
「それが今日さぁ、アスカったら――」
その問いかけに、待ってましたとばかりにミサトは振り返り。
誰かに聞いて欲しくて仕方がなかったという様子を全身で表しながら今朝の出来事を話し始めた。
「ん〜っ…ふぅ」
テラスへ出る窓の傍でぺたりと床に腰をおろし、日の光を全身に浴びて伸びをする少女。
反る体の動きに合わせて、光を受けた飴色の髪が金色に輝きながら肩を流れ落ちていく。
そのままテラスを見やると、物干し竿に揺れる真っ白なシーツの動きを目で追い始めた。
次第に目だけで追うのではなく、動きに合わせて頭も揺れ始める。
(……アンタ、飛びつくつもりじゃないでしょうね)
それらの様子に猫を連想させられ、少し冷めてしまったコーヒーを片手にミサトは思わずそんなことを考えた。
一瞬彼女のお尻から伸びた尻尾がゆらゆらと左右に揺れているのが見えた気がして。
そのあまりの似合いぶりに思わず噴き出してしまいそうになり、慌てて持っていたカップをテーブルに置いて堪える。
しかし、背後で観察しているミサトの様子になどまるで気付く様子もなく彼女は風に靡くシーツを見つめ続け……。
(ん?)
そこにきてようやく彼女のその視線が追いかけているのがシーツの動きではないらしい事に気付いた。
(あぁ、そっちね)
シーツに映る影。
屈み込んで足元の籠から洗濯物を取り上げては頭上に掲げる度に、シーツにひらひらと新しい影が舞い始める。
彼女はその動きと、シーツの下から覗いている脚の姿を追っているらしい。
一旦目に付いたらずっとその動きを追い続ける。
猫の場合は狩猟本能からくるものなのだろうけれども、彼女の場合は何と言えばいいものか。
いや、ある意味きっちりと『狩猟』かもしれない。
シーツの向こうでせわしなく動く人物が『獲物』。
実際に口に出して指摘したならば毛を逆立たせて抗議してくるに違いない。
考えているうちに、彼女の髪を留める赤い二つの飾りが猫の耳に見えてきてしまい、また一人口元を抑えて耐える。
じゃれつく機会を伺っている子猫にも見えてしまう辺りはミサトの贔屓目なのだろうか。
ぴこぴこと動く頭の上の猫の耳と、ふりふりと揺れるお尻から伸びた尻尾のイメージを重ねたまま、緩む頬もそのままに彼女の後姿を眺める。
後ろから抱きしめて頬擦りしながら頭を撫で回したい衝動に駆られるのを我慢して。
そんな事を言えば、猫好きの友人は『犬じゃないんだから…』と呆れられるのだろうけれども。
いささか問題とする点がずれているような気もするが、十中八九そうであろう。
と、彼女の頭の上で耳がぴくりと動いた気がして、ミサトは反射的に視線をテレビへ向けた。
次の瞬間、ぱっと振り返る彼女。
こちらをじっと見つめる視線に、さも今気付いたかのようにテレビから再び彼女へと顔を向ける。
「何? どしたの?」
「……なんでもないわ」
「何よ、歯切れ悪いわねぇ……気になるじゃない」
警戒するようにじっと様子を伺うその様子すら、先程までのイメージのせいで猫にしか見えない。
訝しげな表情で彼女を見つめ返す事ができた自分にミサトは内心賛辞を送る。
テーブルに隠れて、こっそりと痙攣していた腹筋は流石にどうしようもなかったのだが。
ともあれ、ここで感付かれれば恐らく逃げられてしまう。
こんなに楽しい観察をみすみすふいにしてしまうなんていうもったいない事は彼女には出来なかった。
興味のない振りをして、彼女がまたこちらから意識を別のものへ向けるのを待つしかない。
しかし、一旦警戒されるとそれが中々難しいのも事実。
むしろ、完全に無関心を装えばいいのかもしれないが、今度は目の前のこの少女の好奇心を刺激してしまう恐れがある。
「いや、あの…アスカ?」
「何よ」
「えとね、私の顔に何かついてるのかなぁ〜って…」
「…なんか企んでるでしょ?」
疑い深いと言っては彼女に失礼かもしれないが、変に鋭いというか、警戒が強い。
ミサトに色々と前歴があるので仕方ないと言えば仕方ないのだが、生憎当の本人にその自覚はない。
必死に取り繕ってみるが、やはりじっとこちらを見つめたまま彼女の警戒が解かれる気配はなかった。
絶対に何か企んでる、と言わんばかりに。
確かに、企んでいるといえば確かにそのとおりだったので、ミサトの頭にも今ひとつ説得力のある言葉が浮かばない。
(そういえば猫って真正面から目を合わせるのって敵対行動だったかしら)
そんなことを考えながら途方に暮れていると、窓の向こう、彼女の後ろから天の助けがやってくるのが視界の端に映った。
視線は彼女に固定したまま、やって来るのを待つ。
ミサトを見つめたまま、彼女は背後に気付く様子はない。
そろそろミサトも顔の筋肉と腹筋が限界に近づいてきていた。
彼女の目の前で爆笑などしてしまおうものなら、激しい追及とご機嫌取りの為の出費は免れない。
表向き、彼女へ対して当惑した様子を見せながら、内心切実に天の助けの到着を待つ。
「……二人して何やってるの?」
「きゃぁぁぁぁぁっっ!」
「うわっ……」
真後ろからそう声をかけられて、アスカが文字通り飛び上がる。
その姿もまた、猫に見えてしまってしょうがない。
とうとう我慢の限界を超え、ミサトはテーブルに突っ伏して顔の筋肉と腹筋を開放した。
リビングに笑い声が響き渡る。
開いている窓からその声が勢いよく飛び出していき、近くの木に止まっていた鳥が一斉に驚いて飛び立つ。
「ねぇ……ミサトさん、どうしたの?」
暫し呆然とした後、彼が彼女の肩を叩いて尋ねる。
「うっさいっ!」
同様に呆けたようにミサトを見ていた彼女は、その手をぱしんと叩き落とした。
ミサトにはもはやそれも猫パンチにしか見えない。
更にトーンの上がった笑い声に、彼女は立ち上がると顔を真っ赤にしながらずんずんとやってきた。
ミサトの正面に立って、テーブルに両手を叩きつける。
「アンタ、最初っから見てたわね……!」
先程までのミサトの行動に感づいたらしい。
低い呟き。
彼女の行動の一つ一つがもう猫にしか見えないミサトには、それも猫の威嚇する時のものに聞こえてしまう。
テーブルに手をついてこちらを睨みつけている姿も、毛を逆立たせて背中を丸める猫のソレに重なってしまう。
「な、なんの、こと、かしらぁ〜」
完全にツボに嵌って収まりのつかない笑いの合間に、なんとか途切れ途切れに惚けてみせる。
当然と言うか、やはりそれで誤魔化せる訳がなく。
今見た事は忘れろ、と言いたげに顔を赤くして、アスカはただひたすら睨みつけてきた。
真後ろに原因が立っているせいで、それ以上は追求も要求も言葉に出せないらしい。
言えば間違いなく後ろに立つ彼が何があったのか尋ねてくるであろう事は想像に難くない。
「誤魔化すんじゃないわよ…!」
我慢も限界に達したのか、実力行使に移ろうと手を伸ばしかけたその両肩に後ろから手が乗せられた。
「ミサトさんも悪気があるわけじゃないんだから」
テーブルを挟んで身を乗り出しかけていた体がひょいとばかりに引き起こされ。
彼女は一瞬何が起こったのか解らないようにきょとんとした表情を浮かべた。
首根っこを掴まれて持ち上げられた猫。
彼女の足はしっかりと床についてはいる。
しかし、掴まれた両肩を僅かに竦めて両手を下ろしたその姿は、ぷらーんとぶら下がっている猫を今のミサトに連想させるには十分過ぎて。
とどめだった。
(もうダメ……! 誰か助けてぇ〜!)
もはや声も出ない。
腹筋どころか、体全体が痙攣を起こしているようにすら思える程の笑いに、とうとう身体が椅子からずり落ちて床にへたり込む。
今日が彼の家事担当日でよかった、と思いながら。
そうでなければ掃除もまだ終わっておらず、只でさえむせている状態で埃を吸い込んでいたに違いない。
テーブルの陰に隠れて二人の――特にアスカの――姿が見えなくなった事で、若干の落ち着きを取り戻す。
肺が酸素を求めて喘ぎ、床に手をついて粗い息を吐く。
頭上から聞こえてくる声からすると、アスカが彼に訴えかけている真っ最中。
テーブルの下から見える彼女の足は彼の方を向いている。
彼の直ぐ傍で爪先立ちになっているところを見ると、伸び上がって掴みかかるようにしながら訴えているのだろう。
「人の行動後ろからこっそり見て笑ってんのよ!?」
「人間観察はミサトさんの癖と言うか、趣味みたいなモノなんだから今更言っても仕方ないって」
何気に酷い事を言われているような気もしたが、とりあえず彼女の矛先が完全に彼に向いているらしい事にほっとする。
と同時に、彼らの足を見て悪戯心が湧きあがった。
爪先立ちになっている彼女の足と、向き合っている彼の足。
彼女は彼に訴える事に気を取られているし、彼もそれを宥めるのに気を取られている。
自分の姿は幸いテーブルの影になって見えていないとなれば……やることは一つ。
こっそりと携帯電話を取り出し、テーブルの下に潜り込むようにしてミサトは二人の足にカメラを向けた。
(んふふふふ……。コレだけ見た人は何してるのか誤解するかもねぇ〜)
強制的に鳴るシャッター音が思いのほか大きく響いたのに慌て、急いで画像を保存し、ポケットに突っ込む。
次の瞬間、ばさりと目の前に飴色の滝。
「何隠れてんのよ!」
「うひゃぁ!」
バタバタとテーブルの下から這い出し、椅子の背に捕まって身構える。
同じく身を起こし、腰に手を当てて仁王立ちで睨んでくるアスカ。
先程の撮影には気付かなかったらしい。
「だって、アスカが怖いんだもん」
「ホラ見なさい! カケラも反省の色なんてないじゃない!」
びしりとミサトを指差しながら彼を振り返る。
「だからミサトさんに悪気はないんだってば。ただの癖なんだから」
苦笑する彼に地団駄を踏まんばかりの様子でぎりぎりと歯を食いしばり、再び睨んできたその表情におずおすとミサトは口を開いた。
「ゴ、ゴメンちょ」
「ぬぁぁぁぁぁ〜っ!」
「ミサトさん……」
頭を掻き毟って本当に地団駄を踏み始めた彼女。
諦めたように溜息を吐いて頭を振る彼。
(な、何故…?)
結局……ご機嫌取りの出費が必要となり。
彼女は戦利品を意気揚揚と持ち、買い物に行くという彼の後について出て行ってしまった。
その姿が尻尾をピンと立てて飼い主の後ろをついて歩く猫に見えて、ミサトがまた噴き出してしまったのは言うまでもない。
「――って事があってさぁ……帰ってからのことを考えるとコワいのよね」
車の中。
ミサトは助手席に座る友人、リツコに今朝の出来事を話して聞かせていた。
恐らくは彼女に見せたのだろう。
『帰ってきたら覚悟しなさいよ』というメールの内容が表示された携帯電話がホルダに立てられている。
「貴女、家主でしょうに」
「なんか猫のイメージが消えなくってね。……夜に化けてでそうじゃない?」
「寝首をかかれるって言いたいのなら、それは自業自得ね」
「だからその……この後一緒にウチに来てくれない? シンちゃんに言ってご飯は用意してもらうから、ね?」
信号で止まった隙に振り返り、一気に捲し立てながら両手を合わせ頭を下げて拝み倒すミサト。
「珍しく一緒に帰ろうなんて言い出すから何事かと思えば……まぁいいわ」
「ありがとぉ〜。恩に着るわ」
少々呆れ気味に応じたリツコに、ミサトは涙を流さんばかりに喜んだ。
要は仕事が終わった後に携帯電話に届いていたメールの内容を見て、慌てて緩衝役を頼みに来た、ということなのだろう。
車に乗った後という状態にまで持ち込んでから話を切り出した辺り、確信犯ではある。
「でも、私が付いていった程度でアスカの態度が変わるかしら」
「大丈夫! 人の目があるってだけで行動は多少抑えられるわ!
それにリツコならアスカも一目置いてるし、猫の扱いにも慣れて……っとと」
思わず口が滑ったと頭を掻く。
猫だ猫だと彼女の事を話した事は黙っておいてくれと言ってきたミサトに、リツコはいくらか呆れ気味に了承の返事を返した。
「ホント、懐まで痛めたってのに振り出しに戻るなんてついてないわ……」
「だから、自業自得でしょう? アスカのプライドの高さを考えれば当然の事よ」
「そんな事言ったって……絶対リツコだってアレを見れば同じ事思うってば」
少し拗ねたように呟くミサトを横目でちらりと見やり、リツコはぽつりと呟く。
「もしかしたらアスカがメールしてきたのって、出掛けにまた笑われたのに気付いたからじゃないかも知れないわね」
「ほ……他に何かあったかしら……」
必死で思い出そうとステアリングに額をくっつけて考え込むミサト。
思い当たる事がないのか、それとも思い当たる事がありすぎるのか。
やれやれとばかりに溜息を吐き、リツコは自分の携帯電話を取り出すと何事か操作し、ミサトへと差し出す。
「これよ」
「……げ」
そこに表示される、少年のものらしき足と、その正面で爪先立ちになってる少女の足の画像。
今朝、彼女達が出かけた後にミサトが彼女に送信した画像がそこにあった。
「ね、ねぇ……もしかしてソレ、アスカに?」
「私は見せてないわよ。そもそも今日は会ってないもの」
「じ、じゃぁ誰が……」
「マヤに見せたらこの画像欲しいっていうから送ってあげたの。そこから流れたんじゃないかしら?」
「マぁヤぁ〜……なんて事してくれたのよぉ〜……」
崩れ落ちるようにステアリングに凭れ掛かる。
「ホラ、信号変わったわよ」
「うぅ〜……」
それも自業自得だとばかりに冷たくあしらうリツコに、少し涙ぐみながらミサトはアクセルを踏み込んだ。
やけにゆったりとした速度で進む車は、そのまま彼女の心境を表しているのか。
暫しの間を置いて、疲れたように再び口を開く。
「このところなんか私に対する視線が厳しいのよね……」
今になって反抗期かしら、と首を傾げる。
「甘えたいのと反発心と、その両方が気分次第で出てるのかもしれないわね。
元々あの子、毎月重いみたいだし……それも合わさって情緒不安定になってるだけかもしれないわ」
「それが猫っぽい原因ならそのうち落ち着くんでしょうけどねぇ……私に甘えてくる事がないってあたり、フクザツだわ……」
やれやれと頭を振った後、何かを思い出したようにぽんぽんとステアリングを叩く。
「そうそう、こないだ迎えに行った時にね、あの子、丁度男の子に告白されてたのよ。んでまぁ、殆ど無視するようにして断ってたんだけど、
そのあとその子がアスカの腕を掴んで引き止めようとして……」
「手痛いどころか、全身が痛むような事になった、と」
「そ、ブン投げられたの。ちょっと手荒だったし……まぁ自業自得っちゃ自業自得ではあったけど」
暫しの間。
「猫って不用意に触れられるの、嫌がるわね」
ぽつりと呟かれたリツコの言葉に、ミサトは頷きながら先を続ける。
「そのくせあの子ってば、こないだお風呂上りにシンちゃんに髪乾かすの手伝わせた上に梳いて貰ったりしてたのよ」
「グルーミング……?」
次第にリツコの思考もミサトの頭の中のイメージに染まってきたらしい。
すぐさま猫の行動に喩えてきた事に、嬉しそうな声が返る。
「そうソレ! ぱっと見『お嬢様と使用人』って感じだったんだけど、あの子ってばそのまま気持ちよさそうに寝ちゃってんの。
今思えばあれも猫っぽかったわ」
次第にテンションが上がってきたのか、声のトーンが上がるとともに速射砲のように言葉が次々に出てくる。
「その前なんて膝枕よ、膝枕! シンちゃんもされるがままだし! テレビ見る時に手近なところに丁度いい枕がなかったからって――」
「……もしかして、羨ましいの? 貴女」
「……」
ぴたりと言葉が止まる。
リツコが横目でちらりと見ると、ミサトはこれでもかというほどに唇を尖らせていた。
「……だって、そんな風に甘える相手、いないもの」
年甲斐もなく拗ねたように言うその姿に、リツコは深々と溜息を吐く。
「だからね、アスカが貴女に向ける視線が厳しいのは」
「なんでよぉ〜」
「当然でしょう? 自分のテリトリー、『所有物』に手を出そうとする相手なんだから」
「……ちょっと貸してくれる位いいじゃない」
「猫は手元に置いてる物に手を出されたら……まず警戒して動きをじっと見た挙句、伸ばしてきた手をぱしっと押さえるわ」
動きを交えて説明する彼女に、ミサトはうめくように声を上げて不満を表した。
「私もシンちゃんに髪梳いてもらったり膝枕してもらったりされたいぃ〜」
「貴女ね……自分の歳をもう少し考えたらどう?」
「……くっ…! ちょーっちジョーダンで言ったのに、マジになって返してきたわね……!」
「嘘おっしゃい。本気だったでしょう、今の」
と、そこでふと何かを思いついたようにミサトをまじまじと見つめる。
「言われてみれば……貴女も猫よね」
突然の喩えにミサトがぱっと振り返り、理解できなかったというように目を見開いてリツコを見つめる。
「ちょっと、前! 前!」
慌てて前方を指差すリツコに、あぁそうだったわね、と気の抜けた声を出しながら向き直る。
「私……猫かしら?」
「ええ、猫ね」
きっぱりと言いきるリツコに、少し期待したように笑顔を浮かべながら尋ねる。
「アメショとか?」
「……それはアメショに失礼だわ」
「なによぉ〜。それじゃなんだってのよ」
「チェシャ」
即答されたその猫の種類が思い浮かばなかったのだろう、ミサトは眉を潜めて困惑した表情を浮かべた。
「どんな猫だったかしら……?」
「不思議の国のアリス」
「あ、なるほど! …………」
どうやら自分で納得してしまったのがショックだったらしく、唐突に静かになる。
口元を抑えてくすくすと笑うリツコを横目で睨む。
やがて話題がシンジはやっぱり犬だの、何処の誰はこの動物に似ているというものに移っていく。
「『犬は人につく、猫は家につく』って言うけど、その点についてはアスカには当て嵌まらないわね」
その言葉にリツコが暫し考え込んだ。
「……ちょっと見方を変えれば合ってるんじゃないかしら? それ」
「えぇ〜? アスカの家に対する拘りって人並みのプライバシーだとかインテリア的なものでしかなさそうよ?」
いくらなんでもそれは違うだろうと否定してきたミサトに、リツコは大袈裟に溜息を吐いた。
「ミサト。『家』って何?」
「何よ、急に……?」
「いいから」
「うーん……住む場所」
「別の言い方ができるでしょ? 貴女の好きそうな言い回し」
「私の好きそうなぁ〜?」
自分の部屋を建物を透かして見るように上を向く。
暫しの後、その手がぴくりと動いて顎から離れる。
「……あ!」
リツコがくすりと笑う。
「解った?」
「ええ、確かにそういう意味じゃ『家』だわ」
同じく、くすりと笑って。
「アレよね?」
「ええ」
呼吸を合わせるように一息ついて、同時に口を開く。
「「帰るところ」」
「おかえりなさい。……あ、リツコさんもいらっしゃい」
「お邪魔するわ。悪いわね、突然人数が増えて準備が大変だったでしょう?」
「大丈夫です。まだ仕込みの段階でしたから」
「はいこれ。とりあえず差し入れ」
「あ、すみません。有難うございます」
ミサトの視線がちらちらとテレビの音の響くリビングへ向けられる。
「あのー……シンちゃん? アスカはどこにいるのかなぁ〜……なんて」
小声で恐る恐る尋ねてきた彼女に、シンジが呆れたような表情を浮かべる。
「……やっぱり盾になってもらう為にリツコさん呼んだんですね」
「いやぁ〜……あははははは」
「それと、『猫の扱いに慣れてそうだから』だそうよ」
「ちょ、ちょっとリツコ、しぃ〜!」
そ知らぬ顔でそう言ったリツコへ向け人差し指を唇に当て、リビングを気にしながら慌てて小声で諌めるミサト。
そんな二人の様子に、つられて声を潜めるようにしてシンジが笑う。
「アスカならリビングにいると思いますよ。洗濯物の方をお願いしましたから」
「了解」
びしりと敬礼した後、リツコを盾にするようにしてこそこそとリビングへ向かうミサト。
相手は猫科とはいっても、彼女のイメージの中では今は虎。
ハンドガン一丁で武装した複数の兵士に突撃するのとは訳が違う、ということらしい。
「それじゃ僕はご飯作っちゃいますから。食事前に」
神妙な表情で振り返って頷くも、腰がひけてリツコの背中に張り付いているのでは様にならない。
その前を、服を掴まれたまま押し出されるように歩かされるリツコが困惑したように歩く。
やがてリビングの入り口に辿り付き……。
「あら……」
部屋に先に一歩踏み込んだリツコが小さく声を上げた。
「ん……?」
そこで立ち止まると、腕を組み、背中に隠れたままのミサトへ首だけを動かして振り返る。
指がちょいちょいと動き、見てみろとリビングの中を指し。
それを受けて、ミサトはそっとその背中から顔を出してリビングを覗き込んだ。
「あら……?」
そこに広がる光景に、台所でせっせと夕食を作っているシンジを振り返る。
このことを伝えようと口を開きかけ、鍋をかき混ぜながら優しげに微笑んでいる彼の横顔に思いとどまる。
再び振り返り、それを見下ろして肩を竦め。
「なんか、気が抜けちゃった」
「で、どうするの?」
「いいんじゃない? シャツとかばっかりみたいだし」
「そうじゃなくて……まぁいいわ。ともあれ、貴女が言ってた『猫』っていう表現、同意させてもらうわ」
「でしょ?」
ふっと息をつき、リツコと二人、顔を見合わせて苦笑する。
無言で頷きあい、携帯電話を取り出してカメラを向ける。
そこには、ソファーの上、洗濯物を下敷きにして丸くなって眠っている少女の姿。
たたみかけの少年のシャツを一枚、手に握り締めたまま。
ウチには一匹、猫がいる。