彼女は目を開けた。もう少し寝た方がよかったかもしれない。仮眠とはいえ、30分も眠っていないではないか。傍らの眼鏡をかけ、よろよろと立ち上がった娘は、壁にかかった鏡にちらりと視線を投げる。鏡の中の顔を見て、実にみっともない顔をしている、と彼女は鼻で笑った。
惣流・アスカ・ラングレーは、大きな欠伸をして背筋をぐっと伸ばした。髪はぼさぼさで化粧っ気もまるでなく、肌はがさがさである。小学校低学年の時から必需品の眼鏡はレンズが厚くなっていくばかりで、裸眼では知人の判別すらつかない。せめてボーイフレンドでもいればそれなりに身なりにかまったのであろうが、彼女は過去に一人も男友達などいなかった。しかしアスカの素材は悪くはない。いや寧ろ良質なのである。師である赤木リツコなどは研究室の温泉旅行で彼女の裸身を見て、「あら、もったいない」と呟いたほどだ。もっともそれなのに愛弟子である、アスカを美しく変身させようとしたりしないのは、何故だろうか。オールドミスの領域に差しかかったリツコが、同性にしか愛情を抱かないという噂はやはり噂でしかないという証明なのだろう。赤木研究室の赤木教授と愛弟子のアスカは、ともに男性に興味を持たないということだけは真実だったが、それは二人とも出逢いがなかっただけだ。
壮志科学者であるリツコもアスカも、二人とも早くに親を失い苦学して今の位置にたどり着いている。恋愛どころではなかったというのが実際だったのかもしれない。
アスカは首をかしげた。部屋の中に靄がかかっているように見える。その時点で、度の強い眼鏡が指紋だらけになっていることにようやく気がついた。仮眠を取る前は疲れで目がかすんでいるものだと思い込んでいたのだ。ティッシュで汚れを拭き、改めて眼鏡をかけて周囲を見渡した。よく見える。何日もレンズを拭いていなかったのだからそれは当然だろう。
赤木研究室が仮眠用にしている部屋は実に殺風景だ。もともとはサロン的に使っていたのだが、ある理由で使用者が激減しずっと倉庫として使用されてきたのだ。それを仮眠室にしたのが研究室を持ったばかりのリツコであった。もう数年前のことになるが、それでもこの場所を利用するのは彼女一人だ。何故なら、みんなこの部屋が不気味だったからである。
ここは、出る、という噂で大学内でも有名な部屋なのだ。いや、噂だけではない。実際にこの部屋で3人の人間が死んでいるのだ。その一人が、リツコの母で著名な教授であった赤木ナオコ博士だったのである。リツコが平気な顔でこの部屋で仮眠できるのは、やはり親子だから怖くないのか、それともそういう怪奇現象にまるで興味がないのか。おそらくその両方だろうというのが周囲の結論である。ともあれ、リツコは周りの目を気にすることなく、平気でその部屋を仮眠用に使った。そこの利用者が二人に増えたのは、アスカが研究室に入ったからだ。
アスカの場合は心霊現象の類を信じていなかったからである。もし霊的なものがこの世にあるならば、とっくの昔に両親と会えているはずだ。それが彼女の根拠だった。だから3人もの人がそこで死んだと聞かされても何ら動じることもなく、仮眠にその部屋を使用したのである。周囲は「あの変人だから…」という軽蔑気味の言葉で済まされた。友人を作らず、研究にだけにしか興味を示さない、不細工で変な外人だ。そんな陰口をアスカは気にしなかった。
確かにその通りだからだ。
彼女は首のあたりを撫でたが、それは無意識の癖である。あの痣は数ヶ月で消え、そこには何の痕跡も残っていない。しかし包帯を外した時に鏡に映った、自分の細く白い首に残った母の指の痕をいつまでも忘れることができない。あの時はただ気持ちが悪いだけで、何故母親に首を絞められているのか理解できなかった。たった5歳の時に経験したそのことが、彼女の性格を形作ってしまったのだろう。
人は死ぬものだ。だから愛することも愛されることも不要で、他人が死ぬことにも無関心である。ただ死にたくなかった。一度死にかけただけに、生への執着が強すぎるように思う。そういう自分の性格は自覚していた。だからこそ必死に勉強し、特待生として今この場にいるのだ。自分ひとりでも生活できるように人よりも優秀な頭脳を生きるために使う。労働者になれば人との交わりが避けられないからだ。
しかし何故、異性に、いや同性にも恋愛感情を抱かないのか、彼女自身わからなかった。運命の人を待っているのか。いや、そんな思考すらアスカは持っていない。どうして身なりにかまわないのかも、自分でわかっていないのだ。
ただそうでないといけない、という強迫観念のようなものに突き動かされていたことは事実だった。
それはすべて、これから起こる不思議な現象のためだと、知っていたのは神様だけだったかもしれない。
アスカはまた欠伸をして、そのまま首を捻った。
黒板の隅に書かれた文字を見たからだ。黒板は元からこの部屋にあったもので、団欒室の掲示板であり、伝言板として使われていた。今は二人が計算や化学式をメモ的に使用しているだけだ。だからその黒板の文字は、当然二人のうちのどちらかが書いたものでないといけない。
ところが、その字は明らかに男文字だ。となれば、自分が寝ている間に誰かが入ってきたことになる。アスカは扉の鍵を見たが、つまみの方向は“開”を示している。それは彼女自身が入室時に鍵を閉めてなかったのだから当たり前だ。しかし、誰が入ってきたのか。
アスカは文章を睨みつけたが意味がわからない。文章自体は簡単だが、目的が見えないのだ。誰が誰に向けて書いたものなのだろう。この伝言は。
“3時間待った。もう限界だ。先に帰るぞ。(六)”
その簡単な伝言はアスカの頭を悩ませた。
この伝言を書いた男がここかどこかで3時間誰かを待った。そしてもう辛抱できずに先に帰ったわけだ。最後の(六)というのは書いた男のサインだろう。内容的には伝言板にありがちのものだ。だが、その男は誰に向って書いたのか。
私?と、アスカは自分を指さす。
友人はいないし、思い出すだけの人間の中に“六”の字のつく男など一人もいない。20年余の人生の中で六のつく姓は、六倉、六嶋、六原と3人しか記憶になかった。それらはすべて今ここに現れるような人間ではない。
だが、アスカにはどこかで六のつく名前を見たような記憶があった。どこで見たのだろうか。
アスカはしばらく考え、そして考えるのをやめた。別に誰でもいい。どうでもいいことだ。
彼女はチョークを手にして、伝言の下に手早く書いたのである。
“どこの誰か知りませんが、誰に対して書いたのですか?”
そして、アスカはSALと書き加えた。アスカとも惣流とも書きたくなかったからだ。彼女は自分の文章を眺め、大きく一度頷くと、チョークを置いて部屋を出て行った。
これが始まりだった。
翌日、眠気を催したアスカは研究室から仮眠室に移動した。リツコは東京の学会に行き、この数日は留守なので、仮眠室はアスカの天下だった。
毎日計算に明け暮れ、睡眠時間は3~4時間もとれればいい方だ。おそらく大学周りで女子が住む下宿の中で最安値のその部屋で、彼女は睡魔を撃退できる限界まで計算と検算を繰り返す。皮肉な話だ。アスカはリツコの好意で電子計算機を借りている。炊飯器ほどの大きさのずんぐりとした機器を使って、その計算機を小さくするための計算をする。その機器は計算機というよりもまるでスーパーマーケットのレジスターのように見える。数字のキーも押しているのではなく、叩いているといった方が正しい。だから夜中にそれを使うときはできるだけ音をさせないようにゆっくりとキーを叩かないといけないわけだ。
電算機室に鎮座している日本では最高レベルという話のあのマシンを使えば、アスカの作業はかなりはかどるのだろうが、壁をぶち抜きクレーンを使って納入したあの超大型マシンをそうは簡単に動かせない。そもそもあの学舎自体が3代前にあたる電算機を設置するために建てられた鉄筋コンクリートの建物なのだから。古参の教授によれば、あれでも初代の機械に比べて半分以下の大きさになっているらしい。
リツコはよく苦笑していた。もし母親があんな死に方をせず健在であったなら、今頃掌に乗るような計算機になったいたことだろう。計算機だけではない。万博当時とほとんど変わっていない大きさの携帯用電話も今に胸ポケットに入るくらいにできるはずだ。
すべて母の死により20年遅れたと、リツコは断言している。それでもあと数年でそのレベルにまで持っていける。さらりと言ってのけるリツコの言葉を学生たちは半分疑いながらも、彼女の指示通りにがんばっている。そのために彼女の研究室は昼夜問わず稼動しているわけだ。ただし、午後10時に警備員に追い出されるまではの話だ。
アスカは後で束ねていた髪を解いた。眠るのだから束ねておいた方がいいはずなのだが、彼女はいつも解いてしまう。
その結果ざんばら髪になるのだが、誰に見せるわけでもなく気にしていない。
しかし、別のことが気になった。ふと黒板を見れば、昨日の文章はふたつとも消され、別の言葉が書かれていたのだ。
“ユイに決まってるではないか。そんなことも知らないとはお前はモグリだな。(六)”
それを読んで、アスカは頭に来た。こっちにはからかうなどという意識は微塵もなかったのだ。それがどうだ。この嘲るような文章に乱暴な筆跡。サインの六の字がアスカに向かって嘲笑しているようにも思えた。
そして、アスカは眠気を忘れて、鼻息も荒くチョークを手にしたのだ。
“ここにはユイという人はいません”
アスカは考えた。姓か名かわからないが、研究室には“ユイ”という言葉の入るものは確かに一人もいない。もしかするとニックネームかもしれないが、ここはこのまま突っぱねてやる。日頃、他人に向って干渉しないアスカが何故か意地になっていた。そして、彼女はさらに書き加えたのである。
“私はモグリではありません。研究員の一人です。あなたこそどこの誰?SAL”
そう、書いた彼女は満足したかのように鼻で笑うと、扉に歩いていった。そして鍵をしっかり閉め、ノブを何度も回し施錠を確認する。伝言を書いたものの寝ている間に見知らぬ人間に入ってこられてはかなわない。今回の出来事で用心する気になったようだ。どうせ1時間もせずに目を覚ますのだからと、アスカはソファーに横になる。日常的睡眠不足の彼女は数分も経たずに寝息をたてていた。
45分後、アスカは目を開け、手探りでかけた眼鏡越しに壁の時計を見て溜息を吐いた。もう少し寝ていたかったのだが予定より10分ほど早く目覚めてしまったのだ。しかし今さら数分間だけ眠る自信はない。今度はうんと熟睡してしまいそうな予感がするからだ。
「仕方がない。起きるとしますか」
眠気を残している自分を鼓舞するかのように独り言を漏らし、彼女は身体を起こした。そして、何とはなしに黒板を見て、はっと息を止めた。さっき書いた自分の伝言が消えている。
いや、それだけではない。そのかわりに、またあの男の文字がそこに。
「馬鹿なっ」
飛び起きたアスカは黒板に駆け寄った。
“人に名を訊ねる時は自分から名乗るものだ。この無礼者。(六)”
アスカは腕組みをして、沸き立つ怒りにこめかみをひくつかせながら男文字を睨んだ。怒りのあまり、どうやってこれを書いたのかという重大なことに気づかず、何と書き返してやろうかと考えている途中でそのことを思い出したのだ。
扉を見ると鍵はかかったままだ。合鍵か何かを持っていて、それで出入りしているのだろうか。そうに違いない。鍵を持っているのはリツコだけと聞いている。後は事務室と警備員だが、どうにも学生臭い文章だ。
彼女は首のあたりを撫でた。この癖は不安感に襲われると出てくるのだ。アスカは“出る”との噂を思い出したが、幽霊そのものを見ているわけでもない上に、この文章は妙に生き生きとしている。やはり、生きた誰かがここに侵入しているに違いない。彼女は溜息を吐くと、部屋を出る前にささっと殴り書きを残しておいた。
“ここは仮眠室よ。無断で入ってこないで下さい。SAL”
これでいい。また膨大な計算に取り組むために、アスカは研究室に戻った。その3時間後に再び仮眠室を覗いたが、黒板には先ほどの自分の文章があるだけ。幽霊なのか、合鍵を持つ変な男なのか知らないが、どうやらちょっかいはやめたようだ。それを見て、彼女はほっとしたような残念なような複雑な気持ちだった。
翌日、アスカは唖然とした。
いつもの時間に仮眠室に行くと、また黒板には新しい文章があったのだ。
“ここは団欒室だ。いくら俺が違う学部でも失礼だぞ。(六)”
アスカはその文章を手早く消した。そして、あまりに勢いが強すぎ、チョークの先が欠けるほどに書き殴る。
“確かに元はそうでしょうが…”
そう書いてから、彼女は考え直してもう一度消した。
“どこの学部?SAL”
満足したかのようにアスカは手をパンパンとはたく。これで正体が少しはわかるかもしれない。彼女は寝ずに待っていようと考えた。しかし、そのためにそれからの作業がきついということを考え、スケジュールを頭の中で思い描き、その結果慌てて仮眠室から出て行った。講義に出ないといけなかったのだ。すっかり忘れていたが、今ならまだ間に合う。
そして、人気がなくなった部屋の中で、いきなり黒板の文字が消えていった。まさに透明人間が消しているかのように文章の頭からさっと黒板消しを使ったようにである。さらに新たに書かれた文章にはチョーク特有のかりかりという音が少しも聞こえてこなかった。
“文学部だ。悪いか。(六)”
“まさか自分で小説とか書いてるんじゃないでしょうね。SAL”
これが講義から帰ってきたアスカの書いた返信だ。それに対する男の返事はない。明日は早めに仮眠室に来て、様子を窺ってやろう。そう決めたアスカはその分の計算をこなしておくために、その日はいつもより熱心に手を動かしたのである。
翌日。この奇妙な伝言を発見してから3日目である。アスカは信じられないものを目の当たりにした。
勝手に消える文字に、誰もいないのに浮かんでくる文章。
アスカは眼鏡を外してごしごしとテイッシュで拭いたが眼鏡の所為ではなく、一文字ずつきちんとした書き順で右から左に増えていく。小学校の図書室で読んだSF小説を思い出し、透明人間かと思ってしまう。彼女は大胆にも隠れていたソファーの後ろから飛び出し、黒板の前の空間に恐る恐る手を伸ばした。そこには何の手ごたえもなく、アスカは空気をかき回すように手を大きく動かしたが、やはり何も感じない。しかも彼女がそんな動きをしているというのに、文章はどんどん綴られていくのだ。
ようやくアスカは気がついた。書かれている文字のチョークが場所になく、音もせず、粉も舞っていないのだ。
“当然だ。俺が書かないで誰が書く。俺の小説は”
アスカは手を伸ばし、一番新しい文字の部分を指で消そうとした。するとどうだろう。文字は消え、粉も散り、指にチョークの色が移ったではないか。これはどういうことだろうか?アスカは息をすることも忘れ、文字を見つめた。
アスカが指で消してから文字は増えない。まるで黒板が何かを考えているかのように彼女には思えた。アスカはかすかに頷くと、チョークを取り上げ黒板に静かにあてる。
“あなたは誰?どこにいるの?”
少し震えた字になってしまった。その問いかけが書かれて数秒後、アスカの文章が勢いよく消される。明らかに黒板消しではなく、手のひらで乱暴に消された感じだ。しかし、大いに舞うはずのチョークの粉はまったく見えない。
これは幽霊の仕業などではないと、アスカは直感した。ここには存在しない、しかし生きている誰かと、この黒板を通して自分は交信しているのだ。突飛な考えだが、彼女にはそうとしか思えなかったのである。
“私は惣流・アスカ・ラングレー。あなたは?”
アスカはゆっくりと書いた。かりかりというチョークの音が響く。30秒ほど経過し、もう何も書かれないかと思い始めた頃、アスカの文字が消された。そして、新しい文字が現れてくる。
“俺はゲンドウという。まさか幽霊か。お前は”
“とんでもない。私は生きている。あなたも生きているんでしょう?”
こうして、二人の交信は始まった。黒板のスペースは限られているようで、場所を大きく外すと文字が見えないこともわかった。相手に文字が届く範囲は縦30cm、横60cmほどの黒板の左下隅のエリアだ。だからあまり長文のものは書けないので、二人は一定のルールを取り決めた。書き終わると最後に男は(六)、アスカはSALと書くことを。
“そこはどこ?SAL”
“だから団欒室だ。(六)”
よくもまぁ、団欒なんて難しい漢字をさらりと書くわね。ああ、文学部だっけ。
アスカは変な感心をした。
“あのね。どこの”
まで書いて、続いて“団欒室”と書こうとしたが慌てて路線変更する。漢字を間違って書いたら恥ずかしいからだ。彼女はその言葉を外した。
“あのね。どこのかって訊いてるの。SAL”
“第三新帝都大学に決まっているではないか。(六)”
いくらばかりかは予想していた返事だった。アスカは努めて冷静にチョークを動かしたが、やはりそれでも少し震えてしまった。
“偶然ね。私のいるところも第三新帝都大学なのよ。SAL”
“やっぱりな。何となくそんな気がした。(六)”
“私がいるのは1994年。あなたは?”
書いた後で、返事がないことをいぶかしんだアスカだったが、自分のミスに気がついて慌てて“SAL”と書き加える。書き加えた瞬間にアスカの言葉は消された。なるほど待たせてしまったようだと、アスカは苦笑する。
“1971年だ。ユイは信じないだろうな。(六)”
黒板の文字だけが時間を超越する。
当事者であるアスカ自身も理解できないが、現実に目の前に23年前の文字が浮かんでくるのだ。彼が1971年の人間だという証拠を要求しようかと心を掠めたが、アスカはそのことを書くのをやめた。不思議なことだが交信している相手は間違いなく23年前の人間だと確信できたのである。
“ユイって誰?SAL”
“同棲相手だ。(六)”
“へぇ、美人?SAL”
“宇宙一だ。(六)”
そうか、美人、ね。しかも宇宙一とは言ってくれる。
アスカは壁の鏡を見た。分厚い眼鏡で、もっさりとした格好の自分がそこにいる。しかしそんな不細工な自分でも相手には顔が見えない。彼女はほっとして返信した。
“ご馳走様。SAL”
“うむ。(六)”
それだけ書いて、向こうは沈黙してしまった。照れているのだと直感でき、アスカは吹き出してしまった。そして数秒間の沈黙の後、その文字が一瞬で消えた。そのように見えたくらい、一気に消されたのだ。その後、いつもよりも速いスピードで文字が浮かんできた。
“ところでそっちはどうだ?恋人”
と、書いて、23年前の男は“恋人”を慌てて消した。明らかに話題を恋愛から別のものに変えようとしているのが伝わってくる。どんな容貌をしているのかわからないが、案外照れ屋なのかもしれないと、アスカは微笑んだ。
“家族は元気か?(六)”
ああ、そう来たかと、アスカは苦笑した。元来、家族のことを話すのはアスカには苦痛だった。小中高と学校生活の中で必ず訊かれる話題だ。両親はおらず施設に住んでいると、口にするよりも名札か何かにそのことを明記して、見ればわかるようにしてくれればいいと、彼女はずっと思ってきていたのである。辛いという気持ちよりも、そうと知った時の自分を見る相手の目がたまらなかったのだ。
アスカはどう書こうか考えた。嘘を書こうかとも心をよぎったが、結局本当のことを書くことにする。相手と顔をつき合わせていないということが、彼女の心を軽くしたのだろう。
“私の両親は死んでいるの。私は一家心中の生き残り。SAL”
どう返してくるだろうか。私には空気など読めない。真っ直ぐにしか返せない人間だ。
アスカは首筋を撫でながら、彼の返信を待った。不安と後悔がないまぜになった感情に包まれようとした時、ゆっくりと文字が浮き出てきた。
“そうか。大変だったな。(六)”
六のサインが書かれてすぐに、アスカは黒板消しを使った。そして急いで書かないと伝わらないかのように、チョークを走らせる。
“信じてくれるの?SAL”
“うむ。信じるぞ。(六)”
“ありがとう。SAL”
アスカは少し涙ぐんでしまった。もしかすると言葉の上だけの信用なのかもしれない。しかし、彼は本心から信じてくれているようだ。何よりもそのしっかりとした文字が彼女にそう思わせたのである。
だからアスカは心中に到った経緯を書いてしまった。これまで自分から話したことは一度もないにも関わらずだ。友人と思っていた男に騙され、多額の借金を負った上に社会的な信用も失った。しかも騙した男ではなく、父親の方が詐欺罪に問われようとしたのである。そして両親は社会に絶望し、死を選んだ。
アスカの簡単な身の上話を聞いて(見て)、23年前に生きる男は彼女の一番欲しい答を返してくれた。
“なるほど、そうか。もっとも今、お前は生きているのだから問題ない。(六)”
生きていて、いい。
家族でたった一人生き残った彼女が一番望む言葉だ。だから、アスカは簡潔に素直な気持ちで書き記した。
“本当にありがとう。SAL”
今度はアスカの方が照れてしまい、慌てて文字を消して話を変えたのだ。
“ところでそこに誰かいる?SAL”
“おらん。俺が来るとみんな席を立つのだ。失敬なやつらだ。(六)”
相手はかなりむさくるしい男なのかもしれない。それなのに、彼は宇宙一の美人と同棲しているのだ。
アスカは少しばかり羨ましくなった。
“相手の人は?今どこ?SAL”
“研究室だ。毎日毎日計算機を相手に奮闘している。あのばあさんが離してくれんのだ。(六)”
その愚痴っぽい文章を読んで、アスカは微笑んでしまった。この男の恋人は、自分と同じような研究をしているに違いない。
“ばあさんはひどいのじゃない?SAL”
“ふん。赤木のばばあをばあさんと言って何が悪い。(六)”
それを読んで、アスカは息を呑んだ。
そうだ、1971年。1971年!あの年ではないか。
彼女は震える指で質問をした。彼と自分は同じ世界の時系列なのかどうかなど疑いもしていない。確認さえしていないが、そうに違いないと双方が思っている。
“今、何月何日?SAL”
“5月25日だ。そっちは?(六)”
アスカは慌てた。
何を伝えればいい?あれは5月に起きた事件だ。そもそも、5月の何日だったか。終わりの方だったのは記憶している。26?27?まさか25!ああ、もっとよく碑文を見ておけばよかった。犠牲者の中に彼の名前は?
碑文には犠牲者の名前も書かれていたのに、アスカはまったく記憶にとどめていなかった。少なくともリツコの母はあの時亡くなっているのだ。ユイという女性もその研究室にいるのだから、死んでいる可能性が高い。
どうする?何を書けば、彼はわかってくれる?とにかく危険を伝えないと。
アスカはチョークをぐっと摘んだ。
“私のいうことを信じて。嘘じゃないから。冗談でもない。OK?SAL”
急いで書いた文字が乱れている。返事はどうだ。信じてくれるのか?一家心中の生き残りだというようなとっぴなことでさえ彼は信じてくれたではないか。きっと信じてくれる。お願い、信じて!
アスカは黒板を凝視した。しかし、返事どころか、アスカの文すら消えない。彼女は壁の時計を見つめた。時計の針は4時30分少し前を示している。いつも研究室に戻っている時間だ。 昨日も講義が終わった4時45分の後に書いたものに返事がなかった。時を越えた交信は時間制限があるのだろうか。
返事がないのなら、あの事件のことを調べたい。確かあの惨劇は夕方に起きたはずだ。今日でなければ…、事件は1971年5月25日でなければいいのに!まさか今、彼は断末魔の苦しみに喘いでいるのではないか。
彼女はじりじりとしながら5時まで待ち、そして部屋を飛び出した。まずは碑文を見たい。リツコなら事件のことをよく知っているはずだが、彼女は明後日まで帰ってこないのだ。
碑文を読んで、それから…?図書館に行けば、新聞の縮小版か何かがあるはず。
そんなことを考えているうちにアスカは正面入り口に辿りついた。毎日横目で見ているだけの慰霊碑に彼女は縋りつくようにして、碑文を見た。まず真っ先に見たのは、日付である。
事件が起こったのは、5月26日。
「明日だ…。よかった…」
その安堵感はすぐに絶望感に取って代わられる。
アスカは首の周りを撫で、呆然と慰霊碑を見つめた。
犠牲者の名前が縦に並んでいる。
工学部教授 赤木ナオコ
工学部学生 碇ユイ
工学部学生 ……
工学部の学生の名前が七人続き、そして、最後にもう一人。
文学部学生 六分儀ゲンドウ
彼だ。絶対に彼に間違いない。あの男は、彼の時間であと一日しか生きられないのだ。それは23年後の今、歴史として残っている。歴史は変えられないのか?アスカは拳で碑を叩いた。
碑文はこう結ばれている。“学業最中、青春最中。革命という愚かな幻のために命を落とした、彼らに”
愚かだ。確かに愚かなことだ。アスカは怒りに胸が震えた。図書館で彼女はむさぼるように事件のことを調べた。碑文には名前の記載されてない女子学生(学籍簿から除名されたのだろう)がボンベのガスを漏らしてしまったのだ。過激派の恋人が持ち込んだ神経ガスを分析中のことだ。二人とも死んだために目的はわからないが、おそらく米軍から盗んだ神経ガスの類似品を大量生産しようと考えたのだろう。新聞にはそのように書かれていた。
神経ガスを漏らしてしまった部屋はあの建物の3階で研究室の真上だ。新聞によると、ゲンドウは逃げることもできたのに2つ隣の研究室に走っていったらしい。団欒室の近くにいた学生の証言だった。その学生は逃げろという悲鳴を聞いて、団欒室の隣にある階段を使い逃げ切れたのだ。しかしゲンドウは研究室で苦しむ恋人と赤木教授を抱え、ようやく団欒室まで逃れ、そこで力尽きた。
アスカは涙を浮かべながら、ノートに整理していく。どうすれば事件を防げるのか。ガスが漏れた時間は4時前のようだ。アスカとゲンドウが交信できる時間はどうやら3時半頃である。それは昨日の張り込みでわかった時間だ。サンプルは一つしかないのではっきりしないが、遅くとも3時にはすべてを準備しておく必要がある。
問題は何を準備するべきか、だ。
図書室を追い出されたアスカは仮眠室に一度戻った。黒板の文字に変化はない。23年前のここは団欒室なのだから、他の人間も利用しているはずだがどうしてアスカの文章に気がつかないのだろうか。おそらくあの六分儀ゲンドウという名の彼が、その部分を恋人との連絡ボードとして占拠しているのでだろう。他の部分にはいろいろなことが書かれていて、落書きもあれば、連絡、研究の議論用にも使われているに違いない。文学部の物書きと自称している変人がその部分を使っているのだから、何が書かれていても失笑するだけで放置しているのでは?
アスカはそうに決まっていると結論付けた。もしかすると突然連絡があるかもしれないと、アスカはその場を動けなかった。結局、10時過ぎに警備員に強制退去させられるまで、アスカは仮眠室に居続けたのである。
そして下宿に駆け戻った彼女は計画に熱中した。その最中、心を掠めるのは彼が明日あの黒板を見ないのではないかということだ。団欒室にいたことは間違いないようだが、あの黒板がもう二度と文字に時を超えさせないかもしれない。過去を干渉することを許さない、と。それならば、何故この3日間、チョークで書かれた文字は時をかけたのか。
信じるしかない。アスカはそう決めた。決め付けないと何もできないからだ。
アスカは新聞を思い出す。そこには犠牲者の写真が並んでいた。その中で赤木ナオコの顔には見覚えがあった。リツコの机の上に写真が飾られていたからだ。しかし、その他の犠牲者の顔を見るのは初めてだ。
宇宙一美しいという碇ユイ。確かに綺麗な人だ。自分と同い年の筈なのに、何故か年上に見える。落ち着いた雰囲気で、微笑みを浮かべていた。
その彼女に引きかえ、六分儀ゲンドウは無愛想な顔をしていた。その表情はあの文章にはよく似合っていたが、その容姿のアンバランスさからこの二人がどうして恋に落ちたのだろうかと考えてしまう。そんなことを思ってしまうくらいに、外見上は不似合いに見える二人だ。しかし、実際に二人は同棲していたのだ。新聞にも入籍間近だと書かれていた。だから悲劇の恋人たちとしてことさらに取り上げられたようだ。
アスカは燃えていた。眼鏡を拭き、鼻息も荒く、ノートに向った。
時計の針はすでに12時を越えている。5月26日。問題の事件の日付になった。
その時、アスカはようやく気がついた。赤木リツコ先生は学会の後、実家に戻ると漏らしていたが、あれは法事があるからか、墓参りをするのかいずれかだろう。ともあれ、母親のことに関することに違いない。リツコの話では中学生の時にあの事故が起きたらしい。
「でもこの研究が大成功しても、母さんは喜ぶかしらねぇ。きっと自分ならもっと早くできたのにって悔しがるかもしれない」
笑い話のように言ったリツコだったが、それは自分の心を代弁したのかもしれないのだ。研究の成功よりも母に生きていて欲しかった、という気持ちを。しかし、この時アスカは師の言葉を表面上でしか受け取っていなかった。
死んだものはどうしようもない。そういう自分の気持ちに囚われていたからだ。
ああ、自分は何と駄目な人間だったのだろう。
アスカは後悔し、そしてさらに決意を深めた。恩師のためにも、自分が何とかしないといけない。これは神が私に与えたもうたチャンスなのだ。アスカは黒板に書くべき言葉を…文章を練った。信じてもらうには、そして的確に情報を伝えるにはどう文章を綴ればいいか。警察を呼ぶ時間はないと思う。となれば、被害者が出ないように全員を避難させる事が先決ではないか。そして、それに気づいた犯人たちが変な真似をしないように考えないとならない。外に持ち出されたりして被害が大きくなってしまえば、元も子もない。
動いてくれるのはゲンドウただ一人だろう。しかし、たった1時間弱、文章でのみ語り合っただけだが、かなり激する部分がありそうな性格ではないかとアスカは思った。下手な情報を与えれば、何の解決にもならないような気がする。
何度も書いては消し、書いては消しを繰り返す。
首の周りが気持ち悪い。死というものが身近に感じられるからだろう。アスカはしきりに首を撫でながら、文章を考え続けたのである。結局徹夜になった。リツコに委託された計算機の電源はついに入れられなかったが、それは初めてのことだ。アスカはふらふらだったが、横になることができない。ここで眠ってしまい、過去に情報を伝えられなければすべてが台無しだからだ。
私はどうしてこんなに一生懸命になっているのだろうか。
居ても立ってもいられず、まだ6時過ぎにアスカは坂を上っていった。大学までの道のり、彼女はそんなことを考えていた。確かにあの事件を事前に察知できれば、被害者はいなくなるかもしれない。しかし騒動になれば、神経ガスのボンベを盗んだ連中は過激な行動に出るのではないか。あの当時の過激派は想像もつかないことをしてのけたという事実は、当時存在していないアスカも歴史として知っている。人間は追いつめられると、周りのものすべてを疑うようになる。誰かが悲鳴を上げて学舎から走っていくのを見れば、それが冗談であったとしても自分たちに関連したことでと曲解するだろう。
もっと早くに自分が気がついていればよかったのにと、アスカは唇を噛んだ。慰霊碑は毎日目にしていたではないか。しかも恩師の母という身近な人がその事件で命を落としているにも関わらずだ。いくら死というものに目をそらす癖があるとはいえ、今となれば後悔しきりだ。
前かがみになって一歩一歩踏みしめ、アスカは少し早足で歩いていく。すると壁面の町番表示がふと目に入った。新聞に書かれていたゲンドウとユイが住んでいたアパートの住所だ。このあたりに住んでいたのかと、アスカは足を止めて周囲を見渡す。小洒落たマンションなどの建物も増えてきているが、あちらこちらに古びたアパートも見える。二人が暮らしていたアパートもまだ残っているのだろうか。その日も帰ってくるはずの、愛し合う二人をその部屋は待っていた。二人もまさか二度と帰ることがないなどとは微塵も考えていなかったに違いない。あの事件の後、主のいなくなった部屋から家具や日用品は整理されてしまったはずだ。空っぽになった部屋のことを想像すると、胸が締め付けられる。その部屋に、思い出がいっぱいにつまったその部屋に、二人を帰してあげたい。
彼女は想いを強くし大きく頷くと、再び歩き出した。23年前の恋人たちの未来を築くために。
アスカは研究室には寄らず、仮眠室へと足を進めた。もしかすると黒板に何か変化があるかもしれないと気になったからだ。しかし、交信の法則が彼女の予想通りなのか、昨日最後にアスカが書いたままの状態である。
“私のいうことを信じて。嘘じゃないから。冗談でもない。OK?SAL”
アスカは頷くと、“SAL”を消して、書き加える。
“私のいうことを信じて。嘘じゃないから。冗談でもない。人の生死に関わること。そして時間がないの。SAL”
これでどう出てくれるか。物分りの悪い男だったらどうしよう。
アスカはノートを握り締めたまま、じっと黒板を見つめ続けた。しかし心はこんなに真剣なのに、身体は自己主張をしてくれる。睡魔の方はさすがに緊張している所為かひっこんでいるが、胃袋がきゅうっと鳴いた。そういえば昨日の昼から何も口にしていない。時間はまだ8時前だ。学生食堂の喫茶部へ行こうか、一旦外に出て何か買ってこようか。彼女は空腹を抑えるために二つの案を検討したが、もし今返事が来たらどうなるかということを考えると、とてもここを離れる気にはなれない。アスカは仮眠室に買い置きしてあるはずのカップラーメンを漁った。時々リツコにご馳走になるから、きっとどこかに置いてあるはずだ、と。ちらちらと黒板を確認しながら、古びたロッカーの中からカップラーメンを発見し、次にポットの湯を確認する。リツコの留守中ずっと入れっ放しのお湯だったが、まず問題ないだろうとカップラーメンに注いだ。そして胃袋はラーメンを歓迎し、自己主張を収めてくれた。食べ残しの汁を捨てに行くのも、小用をしに行くのも、全力疾走だ。工学部の朝は遅めだが、時々出くわす顔馴染みに奇妙な顔をされたがかまってなどいられない。周囲から見れば滑稽だろうが、アスカにとっては真剣そのものなのだ。
結局、彼女の予想通りの時間まで黒板との睨めっこは続いたのである。
3時30分、アスカの文字がいきなり消えた。
「はじまった!」
彼女は一声叫ぶと、ぎゅっとチョークを握り締めた。待ち時間の間に書くべきことは暗唱できている。
“わかった。(六)”
アスカは掌でざざっと文字を消す。黒板消しを使っている暇が惜しい。
“あと20分足らずで大事故が起きます。すぐにみんなをそれとなく避難させてください。SAL”
“事故?火事か?(六)”
“過激派がこの上の研究室に神経ガスのボンベを持ち込んでいて、それが漏れるの”
時を飛ぶスペースがこれだけしかないのが悔しい。アスカは右手で書きながら、左手で先の文を消していく。首の周りが気持ち悪く息苦しいが、両手はふさがっている。彼女はあえぎながら書き続けた。
“このままではみんな死んでしまう。あなたもユイさんも先生も”
“過激派は拳銃を持っています。警官を呼ぶ時間はありません”
“みんなが騒ぐと彼らは何をするかわかりません。まずは静かに外に避難を。SAL”
これで充分か。書き漏らしはないか。彼の返事はやや乱れた字で素早く書かれた。
“お前の歴史では俺たちはそれで死んでいるのだな。(六)”
時間が惜しい。アスカは殴り書いた。
“そうよ!でも死なないで!SAL”
“わかった。信じる。みなは死なせたりしない。感謝する(六)”
アスカの目に涙が溢れ続けている。眼鏡が曇って見えない。彼女は眼鏡をかなぐり捨て、黒板に顔をくっつけるようにして最後に一言だけ書いた。彼女にできることは、もう祈ることしかないのだから。
“生きて!SAL”
彼女のその文字は消えなかった。視力コンマ以下のアスカは自分のその文字を至近距離でじっと睨み続ける。彼女は首の違和感に苦しみながら、口の中で“生きて”と呟き続ける。おそらく彼はもう行動に移しているのだ。
歴史は変わるのだろうか。ああ、神様。
アスカは後悔した。神も仏も信じず、ずっと己一人の力を頼みに生きてきたのだが、こんなことなら信心しておけばよかった。
お願い、どこの神様でもいい。あの人たちを助けてあげて。
アスカは両手の指をしっかりと組み合わせ、床に跪き、祈り続けたのである。
そのままいくばくかの時間が過ぎたのだろうか。
アスカの耳に連打されるノックの音が聞こえてきた。鍵を閉めていたからだろう。咄嗟に彼女はどこかに飛ばした眼鏡をさがした。眼鏡がないと身動きがままならないからだ。その場に立ち上がったアスカは周りを見渡した。そして、ある部分を見て、息を飲んだ。
この部屋に別の人間がいた。白人の娘がこっちを見ている。さっぱりとしたシャツを着て、長い金髪は綺麗に整えられ、日頃アスカが羨んでいるような容姿の娘が。
それが鏡に映った自分だと理解できるまでにたっぷり30秒はかかっただろう。その時点で彼女は、眼鏡がなくても見えていることに気がついたのだ。そして仮眠室の光景がすっかり変わっていることにもようやく目がいった。ロッカーや仮眠用のソファーはなく、明らかに談笑用のテーブルセットや飲み物の自動販売機まである。
「こ、これって…。きゃっ!」
アスカはポケットで響いたものに驚き、文字通り飛び上がってしまった。見慣れぬシャツのポケットで蠢くそれは、彼女が見たこともないものである。恐る恐る取り出したその物体を彼女は凝視した。
これは…。
その時、彼女の頭の中で答が出た。自然に浮かんできたのである。これは携帯電話、だと。
アスカは慌てた。携帯電話というとトランシーバー並の大きさがあるはずだ。こういうものを小さくするために研究を重ねてきたのではないか。これが携帯電話のはずがない。
携帯電話と自分の頭が主張している物体を彼女は開いた。どうやら着信しているようだ。見慣れない液晶表示板にはカタカナでシンジと表示されている。彼女はおっかなびっくりと通話ボタンを押した。
途端に漏れてくる若い男性の声。聞いたこともない声だ。この時点までは。
“やっと出た。アスカ、いい加減にしてよ”
自分の名前を気安く呼ぶ声に、アスカは胸をドキドキさせながら携帯電話を話ができる位置に持ち上げる。
「もしもし。あの…どなた?」
“ええっ、ちょっとふざけないでよ…って、これアスカにかけたよね。押し間違えたかな、短縮”
青年の声は少しうろたえながらも明るい屈託のない調子だ。
「あの、私、アスカですけど。そちらは?」
“シンジ。アスカの言うところでは、馬鹿シンジ。これでいい?早く開けてよ”
「はい?」
“あのさ、電話代がもったいないよ。今、廊下にいるんだけど。僕とアスカの距離って3mも離れてないはずだよ”
アスカはノックされていた扉を凝視した。その向こう側にいる人からの電話なのだ。自分の容姿や部屋が様変わりしていることよりも、いや、23年前の歴史を変えようとしていたことでさえも、この時の彼女の頭の中から消えてしまっていた。彼女の意識は電話の主の方に向けられている。
この時既に、アスカの記憶が擦り替わりはじめていたのだ。
アスカは操り人形のようにギクシャクと動いて、扉の鍵を開けた。その瞬間、待っていたかのようにノブが回り、扉は大きく開け放たれた。そこに見えたのは背の高い青年の、見知らぬ笑顔だった。しかし、そう感じたのは一瞬で、すぐに見慣れた、そして大好きな笑顔だと彼女は認識した。
彼の名前はシンジ。私の恋人。私の心と身体はもう彼のもの。そして彼の心と身体もすべて私のもの。
アスカの記憶がどんどん塗り変わっていく。初めて逢ったはずの青年なのに、もう彼のすべてを彼女は知っていた。
青年はいきなりアスカにキスをしてきた。咄嗟に逃げようと思ったのは摩り替る前の彼女がまだ残っているからだが、それも行動までには進まなかった。何故なら彼女は自然に自分からも唇を求めていったのだから。
これがアスカのファーストキスであるはずだが、それもまた新しい記憶にすぐに塗り換わった。ファーストキスは中学2年の時の夏。その頃はまだ子供子供したキスだったが、今はもう違う。舌を絡めていったのはアスカの方だ。そんな技法などまったく知らないはずなのに、勝手に身体が動いている。彼の背中を抱きしめ、情熱的に青年の舌を貪る。そして彼女は己の下腹部にある兆候を認めた。そして無意識に肉体の記憶がフラッシュバックされる。
ああ、そうなんだ。私はもうバージンではない。彼は私を欲し、私も彼を求めたのだった。
驚く暇もなかった。まるで洪水のようにまったく未知の記憶がアスカの脳髄に収められていく。ただ、そんな記憶の奔流の中でもアスカは最新の記憶だけは何とか留めていた。
彼はどうなったのか。ここが仮眠室でなくなっているということは成功したのだろうか。それにしてもどうして自分の容姿や思い出まで変わってきているのだ。
アスカはもう何が何だかわからない状況であった。
唇を離した青年はにっこりと笑った。その笑顔にアスカはいつものようにうっとりとする。何万回見ても素晴らしい笑顔だと。幼稚園の時からずっと一緒なのだから。パパとママだって二人の仲を認めているのだし…。
考えがそこに到った時、アスカはわなわなと震えた。
パパと、ママ?い、生きているの?二人が。
新しい記憶の中の両親は確かに生きていた。しかし、アスカは確かめないではいられなかった。彼女は首を撫でながら、おずおずと問うた。
「ご、ごめん。パパとママは…」
必死の思いで口にした言葉はあっさりと肯定される。
「怒ってたよ、キョウコさん。朝ごはんくらい食べて出ろって。ハインツさんは笑って目玉焼き食べてた」
そうだった。今日は、アスカは午前7時前に家を飛び出していったのだ。8時に呼びにくるはずのシンジを置いてけぼりにして、何か大切な用があったからだ。しかしそれは何の用事だったのか…。それさえもおぼろげになっていく記憶に彼女は、必死で交信のことだけは留めようとした。まだ結果がわかっていないのだ。
「それからアスカ、その癖やめてよ。首撫でるの」
「え…」
アスカは慌てて首筋から手を下ろした。
「まだ5歳だったんだし、だいたいアスカが映画の真似して首絞めろって命令したんだろ。僕は父さんに痣が残るくらい殴られてさ。母さんにも。それにあの時約束した通りに、一生責任取ってるじゃないか」
ああ、そうだった。力の入れ方がわからずに手加減せずに首を絞められて、大騒ぎになったのだ。 アスカは新しく、そして懐かしい記憶に笑みを浮かべた。その笑顔を勘違いして、青年は慌てて話を変えた。何故ならこの話をするとアスカにいらぬ突っ込むを入れられてしまうからだ。賠償として昼ごはんを奢れとか、コーヒーをご馳走しろだとか。
「あ、それに連中呆れてたよ。アスカが団欒室をジャックしたって。おかげで僕がみんなから滅茶苦茶怒られたじゃないか」
ああ、確かにそうだ。自分はここでずっと朝から…。何をしてたんだっけ…?ああっ、駄目。忘れちゃ駄目。
どんどん塗り変わっていく記憶にアスカは驚愕した。
「あ、赤木先生は…」
「学長?学長は知らないけど、日向先生なら今日は参観日じゃないか。鬼の日向リツコ教授がいない間に惣流は怠けてるって、研究室の連中はおかんむりだよ。ソフトウェアの更新をしないといけないのに、俺たちに押し付けて自分はあそこに立てこもって何してるんだって」
日向リツコ。参観日。赤木、学長?歴史は変わっている。赤木教授は死ななかった。
では、あの人は?あの人の恋人は?
「おかげで僕が連中にサービスしないといけなかったんだよ。学食からAランチの宅配を8個もしてさ。おばちゃんに大笑いされちゃったよ。4往復したんだから。まあ、ノートパソコンの方は手伝わなくていいって言われたけど。僕が触るとOSが壊れるんだって。失礼だよね、まったく」
ノートパソコン?ノート?コンピュータの小型化も私たちの研究が実れば…。ああ、違う。もう小型化されて、もっと小さくされつつあるのだ。あの電算室はもう別の部屋になっている。クレーンで搬入しないといけなかったコンピュータなどもうすっかり過去の遺物なのだ。個人的なものだけでなく、歴史は大きく変わってしまっていた。
「あ、そうだ。父さんに頼まれてたんだっけ」
青年はポケットから小さなメモを出した。
「アスカが悪いんだよ。ここに入れてくれなかったから、さっさと済ませなかったんだ」
悪戯っぽく笑うと、青年は部屋に入り黒板に向った。そして、アスカが思いを込めて書いた“生きて!”という文字をあっさりと黒板消しで消し去ったのだ。一瞬、彼女はその行為を止めようとしたが、結局彼の動きを見守ることしかできなかった。
彼はメモに書かれた文字を黒板に写し始める。かりかりかりと乾いた音が耳に心地良い。父親の武骨な書体と違って、青年の字は最近の若者らしく丸みを帯びている。しかし、その文章は確かにあの男のものに違いなかった。
“こんな物語を君に用意した。どうだ、私の作家としての腕も相当なものだろう。(六)”
アスカの頬を涙が流れる。
そうか、すべてうまくいったのだ。その部分の記憶が加わっていく。彼は無謀にも自分で何とかしようと考えた。何故ならアスカが危惧したように、走って逃げたり叫び声を上げる学生が出てきたからだ。恋人に避難誘導を任せて、彼は一人で過激派学生のいる部屋に乗り込んだ。腕と足に銃弾を受けたが、結果的にガスボンベは漏らさせなかったのだ。手術の後、どうしてこの情報を得たのかと警察に厳しく問われたが、立ち聞きしたとの一点張りで警察を呼ばなかったことの説諭だけで済み、かくして、六分儀ゲンドウは大学の英雄となったのである。この後、彼は警察にスカウトされたが、心情的には反体制側の人間だと言い切った。それはそうだろう。もしユイの命を危うくしないのであれば、見て見ぬ振りをしていたかもしれない。
そして彼は惣流と言う名前の人間を捜し歩き、ようやくアスカの両親となる恋人たちを発見したのだ。珍しい姓と白人とのハーフであることが彼の助けになった。強引に彼らの友人となったゲンドウとユイの夫妻は、当然惣流家に一家心中という悲惨な未来を辿らせなかった。まさか、自分たちの息子が惣流家の長女と恋仲になるとまでは予想もしなかったが。長女。そうだ、アスカには二人の弟までいる。高校まで施設から通った彼女が、分厚い眼鏡で見て見ぬ振りをしていたが内心羨ましくて仕方がなかった、幸福に見える家庭。彼女はそんな家庭でずっと暮らしてきている。
見たことのないはずの二人の弟の名前も、顔も、性格や癖もすべてわかる。取っ組み合いで喧嘩をした子供の頃の記憶さえ、しっかりと甦っていた。
「どうしたの、アスカ?」
恋人の涙を見て、青年は不安げに問いかけた。その問いには答えず、アスカは涙を指で拭うと、彼の手からチョークをつまみ取る。
もうすぐ、完璧に記憶が塗り変わる。その時、彼女の記憶の中に前の歴史の出来事はすべて包み隠されてしまうのだ。この奇蹟を覚えているのは、23年前に見知らぬ未来の娘から驚くべき事件を知らされたゲンドウとその妻だけになる。初めての子供を孕んだ惣流家の夫婦に「実は…」とゲンドウは事実を告げたが、大笑いされてしまった。ただ、生まれてきたのが友人の話通りに女の子で、その名前を“アスカ”と名付けたのは、友人に敬意を表したのか、本当はこの荒唐無稽な話を信じてくれたのか、ゲンドウにはわからない。彼にわかっているのは、息子を“シンジ”と命名した理由だけだ。信じがたい話を信じたために未来を得ることができた。それに未来の娘も(本当にそうなりそうなのだが)、身の上話を信じてくれたと喜んでくれたではないか。だから妻と語らって、“シンジ”にした。その息子と、彼が5歳の時に同時に引っ越した隣家の娘には、この事は何も伝えていない。もし変なことを言い、歴史が変わってしまえばと、そのことをゲンドウは恐れたからだ。もっとも教えたとしても絵空事だと笑って済まされるに違いないだろうが。
そこまでは知らないアスカは、記憶が残っている間に急いでチョークを走らせた。
“最高よ。ありがとう。SAL”
「これ、おじ様に知らせて」
「え?そんなの自分で言いなよ。わけわかんないよ、父さんもアスカも。何、伝言ごっこしてるのさ。それにSALって何だよ。アスカがそんなサインしたことある?アスカはいつもただの“アスカ”じゃないか。ああ、そうだ。何が作家としての腕、だよ。全然売れないくせにさ。うちは母さんの収入でなんとかやっていってるようなもんだよ」
彼がぼやいている間に、アスカの新しい記憶のピースはすべて填った。そして彼女はシンジへと向き直り、、いつものように彼の前に仁王立ちしたのである。
「うっさいわね、おじ様の小説は何冊も出版されてるし根府川賞の最終選考にも残ったことあんじゃない。自分に生産性ないくせに、がたがた文句言うんじゃないわよ!」
「文句って…。でも、変だよ、今日のアスカ。妙におとなしかったりしてたし」
「はぁ?どこの誰がよ。変なこと言うんじゃないわよ。誕生日のプレゼントあげないわよ」
「え、いや、あの、下さい」
困り果てたような恋人の表情を見て、アスカは悪戯っぽく目を輝かす。あと10日ほどで彼の誕生日が来る。また半年だけ彼の方がお兄さんになる日がやって来るのだ。今年はどうしようかといろいろ考えていたが、今はからかってやろうと彼女は口を開いた。
「ふふん、今年は特別にアタシをプレゼントしちゃうっ」
「えっ、それ、去年もらったじゃないか。首にリボンつけて、僕がうっかり引っ張ったら首絞まっちゃってラブホで大騒動…」
「こらっ、ここをどこだと思ってんのよ」
アスカは廊下に身を乗り出したが、廊下には人気はない。しかし人気がないからこそ、声はけっこう響くものだ。青年は、彼女に叱責されたので少しばかり声を潜めて喋り続けた。いささか古びた内装の廊下は恋人たちの会話をどこかに吸い取っているように感じる。
「どうせアスカのことだから毎年それで済まそうって考えてるんだろ。まったく、やになっちゃうよ。自分の誕生日には指輪とか強請るくせに」
「じゃ、アンタも首にリボンつければ?」
「い・や・だ。そんなことしたらアスカのことだから僕を奴隷にするんだろ。首輪とかも用意されそうな気がする」
「ちっ、読まれたか。思い切りそのリボンを引っ張ってやろうと思ったのに」
「勘弁してよ。だから謝ってるじゃないか。去年のは事故なんだし」
「ふぅ~ん、事故ねぇ。じゃこの前のは何よ。思い切り首絞めしてくれたじゃない」
「あ、あれはっ」
大声で反論しそうになり、青年は思い切り声を潜めた。さすがに房事を語るに普通の声では支障がある。
「のっかってたアスカがとんでもない声出すんだもん。口を塞ごうとしただけだろ。それをアスカが急に姿勢変えたから手が首に入っちゃったんじゃないか」
「ふんっ、死ぬかと思ったわよ」
「うん、確かに死ぬって叫んでたよね。何度もさ」
「馬鹿っ!」
悪戯っぽく言う彼の腹に一撃しようとしたアスカだったが、彼女の動きには慣れきっている青年は軽く身をかわす。舌打ちした彼女は攻撃をあきらめて、大袈裟に肩を落とした。
「アタシはアンタに首を絞め続けられる運命なのよ。ああ、儚いわよねぇ」
アスカはわざとらしく首をさすった。その首を撫でるという行為はもはや癖ではなく、恋人へのアピールにすぎない。ちょっかいともからかいともとれるその動きを見て、青年は膨れっ面になり、いきなり彼女の首筋にキスをした。
「こらっ」
「ねぇ、今日、だめ?」
「どうしよっかなぁ。まあ、リッちゃんお休みだし、インストールさえ終らせたら、夜は予定入ってないけどさ…」
即答せずにアスカはわざとはぐらかし気味に誘いに乗る。それを聞いて青年はにこりと笑った。
「それに安全日だよね、確か」
「馬鹿シンジ!このエッチ!変態!赤ちゃんできたらどうすんのよ」
「結婚したらいいじゃないか」
「だめ。ちゃんと新婚旅行に行って…、あ、もちろん結婚式が先よ。それから赤ちゃん」
「異議なし。父さん風に言うと、問題ない」
傍の人間が聞いたら赤面し呆れかえりそうなことを言い合いながら、二人は団欒室から出て行った。
「まあ、プレゼントは学食のスペシャルランチでもいいよ。うん」
「くわっ、アンタ、アタシの愛情をその程度のもので……」
声高に言い合う二人の喋り声とリズミカルな靴音はだんだん小さくなっていく。楽しげに恋人と去っていった娘の記憶の中に、その彼を彼女へともたらす事になった過去との交信は今や欠片も残っていない。
あの出来事でこの部屋に残されたのは、黒板の伝言だけとなったのである。そのチョークで書かれた文字も次第にかすれ、そしていつしか完全に消えてしまった。
終