シンジは悶々としながら一夜を過ごした。
アスカが帰ってしまう。
ドイツ行きの片道のチケット。
ドイツは、シンジにとっては余りにも遠い。
当たり前だと思っていた日常というものが、こんなにも脆いものだったなんて。
アスカの部屋で、なにやら物音がする。
荷造りをしているんだ。
シンジは寝返りを打つが、目が冴えて眠れない。
そうこうしているうちに夜は明けた。睡眠不足だったが、シンジは朝食を作り始めた。
アスカはどすどすと部屋と居間を行き来している。
シンジの目は、そんなアスカの一挙手一足投に釘付けになっている。
その視線を感じて、アスカがシンジに向き直った。
「何よ!」
「あ、アスカ、あのさ・・・何をしてるの?」
「あんたに関係ないでしょ!」
「やっぱり、関係、ないかな」
気弱に視線をさまよわせながらシンジが呟く。
「聞きたいの?」
アスカの表情は険悪なまま。
シンジは、思わず肯いた。
「アタシはね、ドイツに帰るの!」
「そうなんだ・・・」
「何だ、あんた、知ってたの?」
「いや、その、チケットが・・・」
アスカが激昂する。
「何よ!見たのね!アタシに勝手に!信じられない!」
「だって、その・・・」
「もういい!朝食も要らない!アタシは今日は一日、準備するから学校へも行かない!あんたはとっとと登校すれば!」
追い立てられるように、シンジは学校に出たけれど。
マナから話し掛けられても、トウジやケンスケにじゃれつかれても、シンジの気持ちは沈んだまま。
家に帰っても、アスカにはとりつく島もない。
そして、来ないで欲しいと願ったその日はあっという間にやってきた。
「じゃあね、シンジ。荷物は別に送ってもらうから。あんたには手間掛けさせないわ」
「あ、アスカ・・・」
「・・・皆に、そうね、マナやファーストにも、よろしく言っといて」
「どうしてそういうことを言うの」
少し俯いたアスカだったけれど、キッと顔を上げた。
「だって・・・このままじゃ、嫌な女だと思われたままじゃない!」
「え?」
「嫌なの!あんたに、嫌な女と思われたまま、行っちゃうなんて!」
それだけ言うと、アスカはそっぽを向いた。
何か、言わなきゃ!何か!
心は逸ったけれど、言葉が出ない。
アスカが遠い。
手を伸ばせば、そこに居るのに。
「さよなら、シンジ」
伸ばそうとしたシンジの手をするりと抜けて、アスカはそのままタクシーに乗り込んだ。
一歩追いすがろうとしたシンジを置いて、タクシーは走り去った。
夏の太陽が道路を炙っている。
タクシーのウインドウは、空の青さを映すばかり。後部座席の様子は伺えない。
シンジは立ち尽くしたまま。
車は陽炎の彼方に溶け込むように消えた。
アスカが居なくなったシンジの生活は、何かぽっかりと穴があいたようだった。
家に帰っても、一人きり。
ミサトさんは忙しいようで、ここのところ2、3日に一度くらいしか帰ってこない。
しかし、よく考えてみれば、今までだってそうだったのだ。
アスカの部屋を開ける。
そこには物言わぬ、すっかり梱包されたアスカの荷物があるだけ。
襖を閉める。
あの時、僕は何と言えばよかったんだろう。
アスカがドイツに帰国したことは、すぐにクラス中に知れるところとなった。
気が重かったけれど、律儀なシンジは、マナを校舎の屋上に誘い出すと、アスカの言葉を伝えた。
「アスカが、マナによろしく、って」
「ふうん、諦めたってことでしょ、それ」
「何の事だよ」
「もう、鈍感なんだから。つ・ま・り、私とシンジ君の恋路の邪魔者は居なくなった、ってこと!」
「恋路って・・・悪いけど、そんな気持ちには・・・」
マナは一転、シンジににじり寄ると、上目遣いの瞳に涙を溜めて、不安そうに尋ねる。
「私じゃ、駄目なの?」
どくん。
シンジの心臓が大きく脈を打った。
「虫のいい話なのは判っているの。だけど・・・」
マナの髪の香りが鼻腔をくすぐる。
制服の胸元がわずかにたわんで、白いふくらみの裾野が目に入る。
免疫の無いシンジの脳は、勝気なクラスメートが垣間見せた媚態にとろけてしまう。
彼の手は、煩悩の命ずるがまま、ふらふらと彼女の肩を抱こうとした。
何か、言わなきゃ。
何を?
そうだ。
あの時、僕は、何を言いたかったんだろう。
唐突に、あの光景が蘇る。
マナのそれと同じ、アスカの小さな肩。
そっぽを向いた、悲しげな横顔。
きっと、それは、凄く単純な事だったんだ・・・
「ごめん」
シンジは、苦労して煩悩を振り払った。
「本当に、ごめん。だけど、やっぱり・・・」
マナは顔を伏せた。
「ごめん・・・」
「・・・いいわ、でも、いつか、必ず・・・シンジを振り向かせてやるから!」
涙で濡れた顔を上げたマナは、それだけ言うと、小走りに去っていった。
「あ~あ、女の子を泣かせちゃって」
「ほんま、モテる男は辛いのお」
給水塔の陰から声がした。ケンスケとトウジだった。
「ショックだったのね、彼女」
そのまた後ろから、レイの声。
「盗み聞きしてたのか!」
「人聞きが悪いな、元々俺達が居るところに来るから、出るに出られなくなっちゃっただけじゃないか」
「せや。綾波がそのまま行こうとするから、止めるん必死やったんやで」
「どうして行ってはいけなかったの?」
「いきなりラブシーンが始まってもうたら、困ってまうやろが!」
「私は困らないわ」
「困るんは綾波やないわい、その、何や、愛し合う二人の決定的瞬間をやなあ・・・」
「決定的瞬間か・・・」
違う情景を想像したシンジが地面を見詰める。
「どうした、シンジ、やっぱり惣流のことが気になるのか」
力なく、シンジが頷く。
「女々しい奴っちゃな、相変わらず」
トウジがシンジを煽る。
「あなたの気持ちを見つけたのね」
レイの言葉に、シンジがはっとして顔を上げた。
「ドーンといったらんかい、ドーンと!」
「だって、もう、アスカは・・・」
「追いかけて行けばいいじゃんか。ドイツまでさ」
「そんなお金、ないんだ。全然、足りないんだ」
「いいか、シンジ、航空チケットなんて、定価、あってないようなもんだから。やりようでどうにでもなるさ」
「銭カネの問題やったら、悔やみ切れんやろ。ワシはあかんけど、足らんかったら、ケンスケがどうとでもしてくれるわい」
「そんな無茶言うなよ、でもさ、できる限りのことはしてやるよ」
「ケンスケ、トウジ・・・ありがとう。とりあえずお金はかき集めてみたんだけど」
「ふん、そんくらいあれば何とかなりそうやな」
「本当に?」
「まずパスポート取らないと話にならないな。持ってないよね」
シンジは首を振る。
「実は、僕、本籍地とか、そういうことも良く判ってないんだ」
「まずはそこだよな・・・」
NERVの司令官、碇ゲンドウは、つい先日も副司令官、冬月にやり込められていた。
「お前も父親としての自覚を持たなきゃならんぞ」
元来が教育者でもある冬月は、この点に関してだけはなかなか手厳しい。
「忙しいのは判る。だが、結局お前は、親としての役割を部下の葛城君達に押し付けているだけだ」
「葛城君を見ろ。忙しいのは彼女も同じだ。だが、彼女は、立派に保護者としての務めを果たしているじゃないか」
・・・お前、子供いないくせに。
そう考えつつも、珍しく凹んでしまったゲンドウは早速書店で、『正しい息子の育て方』なる本を買い求め、執務室でこっそりページを繰っていた。
ふむ。要するに、親たるもの、息子の自主性を尊重しつつ、陰でサポートにまわるべし、か。
明晰なるゲンドウの頭脳は、たちまちにしてその書籍の言わんとするところを深く刻み込んだ。
その立派な保護者であるはずの葛城ミサトは、自ら撒いた種が原因で、自宅に帰りづらい日々が続いていた。今日も今日とて、リツコを巻き込んで、居酒屋でクダを巻いていた。
「アスカもああだし、シンジ君も煮え切らないから、思い切ってやってみたんだけどねえ」
「アスカの帰国の話?」
「うん、一度ドイツに戻さなきゃならないってのは本当。でもちょっとした手続きだけだから、2、3日で済む話だったのよ」
「親権の話?」
「ついでだし、アスカにもいい薬だから、向こうさんには事情を話して、アスカの頭が冷えるまで、ちょっと預かっててもらうって話だった筈なのに、情が移っちゃったみたい。『うちの娘は日本には戻りたくないって言ってます』ですって。アスカが意地張ってるのも判らないくせに、まるで本物の母親気取りなんだから」
「というか、法的には本当の親はあちらさんなんでしょ」
「へいへい、その通りよ。どうせあたしは保護者失格よお」
「父さん、話があるんだ」
執務室にやってきた、いつになく思いつめたシンジからの言葉に、ゲンドウは緊張する。
・・・来た来た来たあ!
ここだ!
ここで父親としての自覚を示すのだ!
失われた時間を取り戻すのだ!
ゲンドウは我知らず、ごくりと唾を飲み込んだ。
「実は、ドイツに行きたいんだ」
・・・ふむ。可愛い子には旅をさせろ、だったな。宜しい。
「ふっ、問題ない」
「それで・・・パスポートなんだけど、僕だけじゃ取れそうにないから」
・・・ふむ。その程度の話か。ここで父親の偉大さを見せておくのも、息子の成長には役立つはずだ。
「ふっ、問題ない」
「?」
「お前は知らんかも知れんが、NERVのIDカードは、パスポート以上の価値をもっている。NERVは超国家組織だからな、NERVのIDカード、特にお前のそれには、事実上外交官並みの特権が付与されているのだ」
「じゃあ、ヴィザとかの発給は」
「うむ、必要ない」
「ありがとう、父さん!」
「礼を言われる筋合いはない」
・・・しまった、また言ってしまった。
大体、これでは、私自身、シンジに何もしてやれていないではないか。
シンジが意気揚揚と去ってからも、人知れず思い悩んでいたゲンドウだったが、何かを思いついたらしく、インターホンを手に取った。ダイヤルをプッシュしようとして、ふとその指を止めた。
・・・さすがに、この期に及んで葛城君には頼めんな。
「ケンスケ、パスポートは要らないって!これがパスポートの代わりになるんだって!」
「へえ、さすがNERVだなあ」
ケンスケはシンジのIDカードをためつすがめつする。
「ほな一緒に行くで。一応、調べとったったからの」
シンジ達は早速、旅行代理店に向かい、ベルリンへの直行便を予約した。
「え、ルフトハンザがこんなに安くなるの?もっとボロいエアラインになるかと思ってたんだけど」
窓口の女性も首を捻っている。
「普通はこんなに安くならないんですけどね。このIDを照会にかけたら、軒並み条件が良くなって」
「ま、儲けたっちゅうこっちゃ。さあ、これから忙しなるで!」
「ありがとう、ケンスケ!トウジ!」
シンジは、期待と不安で高揚しながらも、初めての渡航準備に没頭することになった。
日向と青葉は、ジオフロントの食堂で、肩を並べて遅い夕食を摂っている。
「ドイツ支部に話を通そうとしたんだけどさ、向こう、担当が替わっててさ、えらく苦労したよ」
青葉が珍しく愚痴をこぼした。
「お前、ドイツ語喋れたっけ?」
日向がまぜっかえす。
「だから、結局メールにしたんだけどね、伝わってないんじゃないかと不安でさ」
「そんなに大事な指示なの?」
「いや、シンジ君がちょっとドイツに行くみたいだから、便宜を図ってやってくれって、碇司令が」
「ふうん、碇司令が、ね。珍しいこともあるもんだ」
「せめて空港まで迎えに来てやってくれって。迷子になると困るからね」
「ドイツ支部から? まるで子供の扱いじゃないか」
「向こうにも暇な保安部員くらいは居るだろ。ついでに、俺からも因果を含めておいたから」
「因果って?」
「アスカにうまく会わせてやってよ、ってさ」
「シンジ、惣流によろしくな」
「あほう、連れて帰ってくるんとちゃうんかい!」
「はは、連れて帰って来れるかどうかは判らないけど、きちんと思いは伝えてくるよ」
「よう言うた!その意気や!」
親友たちに背中を押されて、シンジはリュックサック一つの軽装で空港のゲートをくぐった。
ここからは一人だ。頑張らなきゃ。
ごく短期間で渡航準備を整えた忙しさと達成感から、いつになくポジティブでハイな思考になっていることに、シンジ自身は気付いていなかった。
時間を若干遡ったNERVドイツ支部保安情報部の部長室。
「おい、ヴァイキー、本部から緊急指令だよ。3日後、VIPがこっちに来るから空港まで迎えに行け、だって」
佐官級の階級章を肩に着用した男が、部長用の大きな机の向こうで書類をひらひらさせながら言った。
ヴァイキーと呼ばれた大尉は、直立不動のまま、それに答えた。
「は。それで、どの程度の警護を行えばよろしいでしょうか」
佐官級の男、ハンセン大佐は、この堅物の大尉を前に、ちょっと悪戯心を出した。警備を行え、という指示は特になかったけれど、まあ、ドイツ支部としても、放っておくわけにはいかないだろう。なにしろあの碇司令の息子なんだから。
「聞いて驚くな、なんと相手は、あのサードチルドレンなんだと。当然、警護レベルはクラスAだ」
「な・・・それを、3日後、ですか」
大尉は身を固くした。無理難題、とはこういうことを言う。
警護レベルクラスAというのは、国家元首級の扱いで、通常は1ヶ月以上前からの準備を行う。NERV単独で行える話ではないので、どう考えても時間が足りない。無理だ。
「碇司令からの特命でね。リソースの配分は君に全部任せる。NERVドイツ支部保安情報部長の名前でやってくれていいよ」
碇司令の特命、という時点で、大尉は改めて背筋をピンと張り詰めて、姿勢を正した。
想像を越える上位からの命令である。上司であるハンセン大佐にも逆らう権限はない。
しかもその上司は自分に全てを任せる、と言ってくれている。
ならば。
部下としてはやれるだけのことを全力で行うしかない。
やってやろうじゃないか!
たった3日で、完璧にやってのけてやろうじゃないか!
ドイツ人が、警護というものをどう考えているか、NERV本部に見せつけてやろうじゃないか!
「たのむよ、ああ、到着便は、これだから」
ヴァイキーことマイケル・ヴァイカート大尉は、あまり気乗りのしなさそうな上司から紙片を受け取った。
大尉のいつもの無表情の裏側に、悲壮な決意が燃え盛っていることに、大佐は気付かなかった。
ヴァイカート大尉が出て行ってから、ハンセン大佐は、本部からのメールを読み返した。必要以上に大仰な言い回しで要点がさっぱり掴めないが、MAGIの照会の結果を見ても、公式依頼である事は間違いない。
それにしても『セカンドチルドレンに対する謁見の機会の提供につき貴職の最大限の配慮を賜らんことを願う』だって?
本部は一体何を考えているのやら。何か含みがあるのか。
「ねえ、フロイライン・ペッシュ、これ、どういう意味だと思う?」
ハンセン大佐は、傍らでタイピングをしていた秘書のドロ・ペッシュに声をかけた。
「状況をよく把握していないんですけど、要するに、武勲に輝くNERVのエース、サードチルドレンが、一足先にドイツに帰国したセカンドチルドレンを追いかけて来る、というわけですよね、それを正式にサポートせよ、ということですから」
「そう。で、セカンドチルドレンは、国籍と保護者の関係を整理に帰国してる・・・」
「そうか!」
ハンセン大佐の頭の中で、ジグソーパズルのピースが繋がった。
「王子様がお姫様を迎えに来る、って話みたいですね」
ペッシュもその思いつきを肯定した。
彼女がさっきまで、どこかの国のベタなラブロマンスの翻訳をこっそり読んでいて、ただでさえ夢見がちだった彼女の心理状態に影響を及ぼしていたことなど、大佐の知るところではない。
「碇司令はサードチルドレンの父親だから・・・こりゃ大変だ!」
さっきはヴァイカート大尉をからかうつもりで、できっこないクラスAの警護を命じたけれど、その判断は間違っていなかった。
「それなら、アレだな、堅物のヴァイキーだけじゃ、荷が重いな。すまんが、フロイライン・ペッシュ、君もうまく手伝ってやってくれ。人手と金に糸目はつけるな」
「はい、かしこまりました」
「何、礼砲を撃てる部隊が居ない?何だ、それは。職務怠慢じゃないのか!国境警備隊からでもいいからかき集めろ。何なら空軍に輸送させてもいい!NERVからの緊急指示だと言え!」
「GSG9は展開完了。ターゲットの乗機を一度、イスタンブールに降ろして、護衛部隊を送り込みます!」
「急げ!時間との勝負だ!」
「空中給油部隊は展開済みです。トルコ空軍、イタリア空軍との調整次第では、こちらから護衛戦闘機を出します」
「ねえ、このドレスなんて、素敵だと思わない」
「いいの、ドロ? 仕事中なんでしょ」
「これも仕事なのよ。お金に糸目をつけなくていいから、お姫様にぴったりの、世界最高のドレスをあつらえるの」
ドロ・ペッシュは、友人のデザイナーを伴って、ベルリン最高のブティックで手当たり次第に衣装を出させていた。
「まあ、すごい!お金に糸目をつけないなんて。どこのお姫様なの?」
「世界の救世主よ、大きな声では言えないけど」
ドロは、1着1着が彼女の年収に匹敵する衣装の海に囲まれて、有頂天になっていた。
「ああ、時間がないのが残念よね。せめて3ヶ月あれば、どんな素敵な衣装だって自由になるのに!」
「サイズはどうやって合わせるのよ」
「詳細なデータはあるから。これだけ詳しいデータがあれば、本人がいなくったって、どうにでもなるの。なにしろ、世界最高のコンピュータが支援してくれるんですもの!」
目をハートの形にとろかせたドロ・ペッシュは、最高の衣装をとっかえひっかえ、人生最高の時間を過ごしていた。
「大統領、ドイツの動きがあわただしいです。内務省直轄のエリート部隊、GSG9が緊急展開してます。他にも、全軍で通常と異なる動きがあります。ドイツ空軍からは緊急の領空通過許可を求められています」
「何をするつもりだ?」
「どうやら、その・・・信じられないんですが、何でも、NERV本部のサードチルドレンと、ドイツ支部のセカンドチルドレンの婚礼をベルリンで行うつもりらしくて」
「奴等の頭の中は、中世に逆戻りでもしたのか?」
「しかし、ドイツ人は総力を挙げて準備中です。しかも、2、3日中の話のようで・・・ずっと秘匿してたんですね、完全にノーマークでした」
「何だと?」
大統領は秘書官をぎろりと睨んだ。
「おい、これは由々しき問題だぞ、ドイツ人に出し抜かれるなんて!」
「せ、政治の問題ではありませんし」
しどろもどろになる秘書官。
「いや、それほど大事な祝い事から私を外すというのは、ヨーロッパの結束なぞどうでもいいという意思表示と見なす!」
大統領は拳を固めた。
「そ、そこまでは多分、考えてないかと」
大統領の剣幕に押された秘書官は、一歩後ずさった。
「いや、ドイツ人のことだ、きっと何か裏があるはずだ。抜け駆けは許さん!そうだ、よし、空軍大臣を呼べ!パトルイユ・ド・フランスだ。パトルイユ・ド・フランスを出せ!それから、ワシもベルリンに乗り込むぞ!」
激昂した大統領は、フランス空軍の至宝に出動を命じたのであった。
「そもそも何でこんなに情報が遅いんだ?MI6は何をしてたんだ?」
「申し訳ありません、首相。NERV相手だと、どうしても限界が」
首相と呼ばれた男は渋面を作る。
「NERVにも困ったもんだな、何でこんな無茶な、慌しいスケジュールにするかな」
「あえて、我々の忠誠心を試そうとしているのかも」
「あいつらなら、やりかねないからなあ」
彼は碇ゲンドウの、サングラスの奥の冷たい瞳を思い出して怖気をふるった。
「フランスは大統領自らが出向く他、空軍のアクロバット・チームを出して式典に華を添えるつもりらしいです」
「完全に出遅れたな。この世界では、我々はただでさえ、影が薄いし」
「NERVのモットーはブラウニングですし、必ずしも無視されてるわけでは・・・」
「それが何だ!わが国にはNERVの支部どころか、MAGIすら置いてもらえていないじゃないか!」
「ここでわが国の存在感を示すには・・・」
「うむ、やはり女王陛下のお出ましを願うしかないか」
「長官、ベルギーからです。駐機スポットに割り込ませろと言ってます。国王陛下の乗機だそうで」
「駄目です、もう捌き切れません!オランダ、スペイン、ルクセンブルクの割り当てが宙に浮いてます!このままでは・・・」
「うはははははは!まだまだまだああ!そんなことでどうする!弱音を吐くなあ、弱音を!」
「しかし、長官、もう物理的に無理です!周辺空港を含めて駐機スポットは全部埋まってしまっています!」
「馬鹿者!無ければ空けて見せろ!世界に冠たる我がドイツ!不可能などない!今だ、今こそグロース・ドイッチュラントの威信を、世界に示すときなのだ!」
シンジを乗せたルフトハンザ機は、予定に無かったトルコのアタチュルク国際空港に着陸するという。
英語とドイツ語のアナウンスがあったけれど、シンジの英語力では、それ以上の内容は理解できなかった。
シンジはそういうものか、と思う。確かに、国内線でも、天候が悪いときには別の空港に降りることがあるということは聞いていたし、ましてやこいつは国際線なんだから。
時差と緊張から、一睡もできなかったシンジは、無理やりそう思い込むことにした。
これ以上厄介事を抱え込みたくない。さっきの機内食を配られたときの失態を思い出して、耳が燃えるように熱くなった。
彼は、ただでさえ狭苦しい、エコノミーのシートで膝を抱えるように丸まり、顔を埋めた。
アタチュルク国際空港に着陸したとたん、シンジ一人を残して、乗客全員が出て行ってしまった。
高速バスがサービスエリアでトイレ休憩をとるみたいなものなのかな。
一度飛行機を降りてしまうと、戻ってくる自信が無いので、シンジはそのまま機内に留まった。
心細かった。このまま、実は別の飛行機に乗り換えなきゃならないんだったらどうしよう。ああ、神様。学校に戻ったら、真面目に英語の勉強をします。もし大学に行けるんだったら、第二外国語はドイツ語にします。だから・・・
だが、乗客は戻ってこなかった。
シンジの祈った神様は、きっと7つ眼のお面をつけていたのだろう。
代わりに乗り込んできたのは、迷彩服に短機関銃をぶらさげた兵隊と、背広を着てはいるが、やけに肩幅の広い男たちだった。
「君が碇シンジか?」
兵隊達の指揮官らしい、背広の大男が、日焼けした顔をにこりともさせずに、たどたどしい日本語で尋ねる。側の兵士たちはシンジを値踏みするように、頭の天辺から爪先までじろじろ見詰めている。
シンジはもう生きた心地がしない。がくんがくんと首を振ると、NERVのIDカードを差し出した。
「荷物はどこだ」
シンジはあわてて、荷物棚を示す。
荷物棚のリュックの中には替えの下着しか入っていない。
迷彩服の兵隊が伸び上がってシンジのリュックを取り出し、中を見て、かぶりを振った。指揮官が舌打ちをした。
殺される!
きっと彼らは武装強盗なんだ!
金目の物がなかったから、きっと僕は殺されてしまうんだ!
だが、次の質問は意外なものだった。
「靴のサイズは?」
アスカは、ドイツ内務省の所属を名乗る怪しげな男たちの訪問を受け、わけもわからないうちに、リムジンに乗せられて、どこかへ連行されつつあるところだった。
一応、親やNERV側とも話がついているらしく、ドイツ支部へも電話を入れてみたけれど、彼らの言うことに従え、という指示だった。
アタシったら、売り飛ばされちゃったのかな。
アタシに何をするつもりだろう・・・
人体実験かしら。
A-10神経接続とか、NERVの技術を立証できる人間はそんなに多くないし。
それならばまだいいけど、もっと嫌なことかも。
あんなこととか、こんなこととかされちゃったり。
嫌だ嫌だ嫌だ!
ああ、こんなことになるんだったら。
もっと正直に生きていればよかった。
せめて、好きな男にあげちゃっていれば良かった。
あんなことになったまま、汚されて死ぬのは嫌ぁ!
窓の外を景色が流れていく。
アスカの両サイドには屈強な黒服。
ここで暴れても、アスカには勝ち目は無い。
よしんば、この場から逃げおおせたとしても、ここはドイツ。親もNERVも力になってくれない以上、もうアスカが頼るべき誰も思い当らない。
故郷に帰って、こんなに孤独を感じるなんて、皮肉なものね。
アスカの目の前が暗くなる。
アスカはつい、一人の男の名前を唱えた。
アスカのピンチの時には、必ずその姿を見せる、頼りない、だけど無敵のヒーロー。
彼なら、きっとなんとかしてくれるはず。
しかし、その呟きを耳にした黒服の男が、にやりと笑ったように、アスカには見えた。
「よう、遅かったじゃないか」
男は、殺風景な部屋に追い詰められていた。壁の高いところで換気扇が頼りなげに回っている。
「いや、間に合ったよ、我々はね。ボンド中佐」
部屋の、一つしかない入り口を背に、完全武装の兵士を伴った高官が拳銃を手に迫っていた。
「MAGIを過小評価しすぎたな。君の行動は全て筒抜けだった」
ボンド中佐は肩を竦めた。
「なるほど。知ってるか、東洋の言い回しで、釈迦の手、というのがあるそうだ」
「釈迦か。MAGIの手はそれより広いかもしれんぞ」
沈黙の後。
「俺をどうするつもりだ」
今度は、高官の方が肩を竦めた。
「ラウンジに来て欲しい。生憎女性はいないから、着替える必要はないよ」
「えらく気の利かないご招待だな」
「・・・もう知ってしまったんだろ」
「ああ、こいつは壮大な茶番だ」
高官が笑い出した。嘲りではなく、自嘲気味の、くぐもった笑い声。
「なあ中佐、これを君の上司のMに報告したところで、君達はどうする? 今更女王を呼び戻すか?」
「・・・と言って、俺を放っておくことはリスク管理上、許容できないと」
その高官は、満足げに頷くと、拳銃を仕舞った。
「その通りだ。事が終わったら帰国してもらって構わないから、あと数時間だけ、一緒に居てくれればいいんだ」
中佐はようやく緊張を解いて、苦笑いを返す。
「なるほど。喉も渇いてきたことだし、ご招待を受けない理由もなさそうだな」
「よろしい。本物のドイツビールが如何なるものか、君に教えてあげよう」
高官は、気取った仕草で出口を示した。
「秘密を、いや、正気を共有する者同士、一緒に中継を観ようじゃないか。世界で一番手間の掛かかった、王子様のプロポーズをさ」
シンジを乗せたルフトハンザ機は、無事、ベルリン国際空港に着陸した。
シンジはエコノミークラスの狭苦しいシートから、ファーストクラスに移され、何かの制服らしい、きらびやかな礼装に着替えさせられていた。金糸を大量に使った、やけに高価そうなものだった。
何か、勘違いしている。
誰かと僕を取り違えている。
でも、もうどうにもならない。地上に着いたら、素直に謝って、誤解を解かなきゃ大変なことになりそうだ。
ああ、アスカ。
アスカに会いたいだけなのに、どうしてこんなことになっちゃうんだろう。
そうだ、アスカだ。
ああ、アスカに会いたい。
僕はアスカに会いたいだけなんだ!
アスカは、ベルリン国際空港の貴賓室で、女性の武官に、ドレスに着替えさせられていた。サイズは気味が悪いほどぴったりだった。スタイリストが3人がかりでアスカの髪を梳く。
・・・きっと、私は、何かの生贄にでもされてしまうんだ!
・・・無理やり、好色な年寄りの慰みものにでもされてしまうんだ!
アスカの想像はダークな方面に転がり落ちていく。
「何よ、これ! 一体アタシをどうするつもりなのよ!」
「フロイライン、口をお慎み下さい、あなたは、我々ドイツの誇りなのですから」
「???」
シンジがタラップに立ったとたん、砲声が鳴り響いた。
「ひっ」とシンジがかがみこもうとするのを、ぴったりとシンジの脇に立った、礼装の兵士が支えた。
「礼砲です、ご心配なく」
礼砲だけではなかった。
シンジの頭上を、3色のスモークを曳いた小型ジェット機の密集編隊が、轟音と共に鮮やかに飛びすぎていく。
整列した兵隊たちが、指揮官の号令下、一糸乱れぬ動きで、銃を捧げ持った。
金のモールで飾り立てられたフル編成の軍楽隊が演奏を始めた。
テレビで見たことのある、ヨーロッパ各国の首脳の実物が、自分を見てタラップの下でにこやかに拍手をしている。
それを遠巻きにした、カメラの放列。
シンジには、自分自身の・・・血の気が引いた音が聞こえた。
酸欠状態の金魚のように、口をパクパクさせて、隣の兵士に尋ねる。
「これ、もしかして、あの、まさか・・・僕の・・・歓迎式典・・・なんですか?」
「その通りです」
兵士は顔を動かさずに応じた。
「背筋を伸ばして、堂々としていてください。・・・我々ドイツの名誉がかかっているのです」
たどたどしい日本語で、だが、真剣な口調で、その兵士は言った。
シンジは覚悟を決めた。
礼装に身を固めた少年が、その両脇に兵士を従え、タラップを降りる。
その顔色はやや青ざめてはいたけれど、足取りはしっかりしていた。
彼は、タラップの端でぐるりと歓迎の列を見やると、今までの険しい顔つきから一転、心底驚いたように、口を大きく開けた。
そして、次の瞬間、兵士の制止を振り切って、力強く、信じられないほど力強く、駆け出した。
赤いじゅうたんの向こうで、白いドレスを着た、栗色の長い髪の少女が、女性武官にかしずかれて立っていた。
その姿は、陽炎に揺れ、まるで幻想のように美しかった。
少女は、礼装に身を固めた少年が、両脇に兵士を従えつつ、タラップを降りてくるのを見詰めていた。
彼女には、状況が良く飲み込めていなかったが、その少年のきらびやかな出で立ちに、素直に、ただ、見とれていた。
少年がこちらを見た。
目と目が合った瞬間、少女は、心臓を鷲づかみにされたような衝撃を覚えた。
その刹那、彼女は手に持った花束を放り投げ、長いドレスの裾に、つまずきそうになりながら走り出した。
「アスカ!」
「シンジ!」
並み居る国家元首たちの丁度目の前で、二人はぶつかるように固く抱き合って、お互いに、人生で二度目のキスを交した。
緻密に組まれた式次第を乱すハプニングに、その場の空気が凍りついた。
・・・その静寂を破って、控えめな拍手の音がした。
女王陛下だ。
彼女は、目を細めてにっこり微笑み、この、幼いカップルを祝福した。
その拍手はいつしか列席者全員に広がり、遠慮がちだったそれは、ついには万雷の、という形容がぴったりの、心の底からの拍手の雨になった。
軍楽隊の指揮官は、奏者にウインクして、改めてボズ・スキャッグスの、『We're All Alone』の演奏を始めた。
カメラマン達は、ここぞとばかりに、重なり合ったままの二人にフラッシュを浴びせ掛けた。
ハンセン大佐はアスカの捨てた花束を拾いながら苦笑いを浮かべ、そして、気をつけをした状態で、石のように固まってしまったままの部下、ヴァイカート大尉に向けて親指を立てて見せた。
「あの時、言えなかったことを言うよ・・・アスカ、どこにも行かないで」
「アタシの唇を奪っておいて・・・順番が逆でしょ、このバカシンジ!」
ジオフロントの深夜の食堂のTVが、天気予報の画面から、いきなり国際中継に切り替わった。
夜食のカップラーメンをすすっていた日向達スタッフがふと顔を上げると、そこに、タラップを降りてくるシンジのアップが映し出されていた。
がたん。
青葉が立ち上がったのと、日向が椅子ごと転倒したのはほぼ同時だった。
画面には、駆け寄り抱き合うシンジとアスカの姿。
「おい、シゲル、お前、一体どんなメールを送ったんだよ!」
真っ青になった日向が、瞳孔を一杯に広げたまま固まってしまった同僚を小突く。
「あああ・・・・」
カメラはにこやかに拍手するヨーロッパ各国首脳のアップに切り替わった。
「俺は知らない!知らないぞ!・・・ただ、空港に迎えに来てくれ、って!」
そんな二人のやりとりをよそに、画面を食い入るように見詰めているのは伊吹マヤ。
「なんて素敵なの!シンジ君もアスカも!」
頭を抱えた青葉の向こうで、彼女は一人、夢見心地で目を潤ませていた。
「綺麗よ、綺麗よお、アスカ・・・」
おしまい